記事

【解説】柳条湖事件は関東軍の自作自演だった

外務省編纂「日本外交年表竝主要文書」下巻年表P.60(1931年分)
外務省編纂「日本外交年表竝主要文書」下巻年表P.60(1931年分)

 1931年9月18日夜、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で満鉄の線路が爆破された。これが柳条湖事件である。関東軍はこれを中国軍の仕業と発表して、自衛の名目を打ち立てて満洲事変を開始した。太平洋戦争が終るまで、帝国政府の公式見解では、柳条湖事件は中国軍の仕業であるとされていた。

 戦後、柳条湖事件は関東軍の自作自演であったことが明らかになった。外務省編纂「日本外交年表竝主要文書」にもこの史実が書かれている。この記事では、関東軍のこの自作自演を示す資料をいくつか紹介する。

構想段階

 満洲を日本のモノにするということは、昭和の初めの頃には既に陸軍の一部で構想されていた。朝鮮半島のように併合するか、或は形式だけでも「独立国家」とするかはまちまちであったが、例えば以下に挙げる資料には満洲侵略の意図が明確に記されている。

(1) 国運転回ノ根本国策タル満蒙問題解決案

(2) 「満蒙ニ於ケル占領地統治ニ関スル研究」ノ抜萃

(3) 科学的に満蒙対策を観る

(4) 欧洲戦史講話結論

(5) 満蒙問題私見

 どれも文章全体に侵略の意図が漲っているので、敢えて細かく抜粋引用する必要は無いだろう。しかし「満蒙問題私見」の下記の記述は特に有名かつ重要と思われるので、これだけは抜粋しておく。

謀略ニヨリ機会ヲ作製シ軍部主動トナリ国家ヲ強引スルコト必スシモ困難ニアラス

 上は満洲獲得の方法について、後に満洲事変を主導する関東軍参謀の石原莞爾が書いたものの一部である。

陰謀の噂

 事件翌日午前、奉天の林久治郎総領事は幣原喜重郎外相に対し、前日夜の柳条湖事件について

今次ノ事件ハ全ク軍部ノ計画的行動ニ出テタルモノト想像セラル

と連絡した。また同日午後、南満洲鉄道の内田康哉総裁も幣原外相宛に同事件につき

我軍今回ノ行動ハ予テ御話セシ予定計画ノ実現ト推定セラル

と連絡している(いづれも原文は「外務省記録 満洲事変 第一巻」に掲載)。

 関東軍の陰謀の噂は、決行前の1931年9月上旬には既に若槻禮次郎首相や幣原外相等にまで伝わっていた。この陰謀の疑惑を問い質された南次郎陸相は、関東軍へ自重を求める親展書を作成し、建川美次にこれを持たせて奉天へ派遣した。しかし、建川はぐるであった(「西園寺公と政局」第2巻 及び 後掲「満州事変はこうして計画された」)。

実行段階

 本節では、柳条湖事件実行段階の記述を含む当事者の証言をいくつか挙げる。資料が読み易いよう、ここで予め事件現場図と重要登場人物(階級・役職は柳条湖事件時点)を挙げておく。

柳条湖事件爆破地点
秦郁彦「昭和史の謎を追う(上)」(文春文庫)P.44より
石原莞爾

石原莞爾

中佐 関東軍参謀 柳条湖事件首謀者

板垣征四郎

板垣征四郎

大佐 関東軍参謀 柳条湖事件首謀者

花谷正

花谷正

少佐 関東軍司令部付(奉天特務機関)柳条湖事件共謀者

河本大作

河本大作

(予備役) 柳条湖事件協力者

建川美次

建川美次

少将 参謀本部第1部長 南陸相が奉天へ派遣した所謂「留め男」

今田新太郎

大尉 参謀本部付奉天駐在支那研究員 爆破実施担当 黄色方形爆薬42個用意 現場附近で爆破作業を監督

川島正

大尉 奉天駐在独立守備隊第2大隊第3中隊長 河本末守等に続いて戦闘開始 文官屯から南下し北大営へ突撃

河本末守

河本末守

中尉 川島の中隊に所属 現場で部下数人と共に爆破を担当

(1) 満州事変はこうして計画された

 歴史研究家の秦郁彦(当時大学生)は、事件当時謀略に関わっていた花谷正にインタビューをして謀略の全容を聞き出し、河出書房「別冊知性」1956年12月号に「満州事変はこうして計画された」と題して花谷の証言を掲載した。自作自演の全容解明に大きく貢献した重要証言である。その後三谷清(事件当時奉天憲兵隊長)・川島正に対してもヒアリングが行われ、その成果が日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部編「太平洋戦争への道」第1巻(朝日新聞社)第3編にて公表されると共に、花谷の証言はほぼ正確であったと確認された1

(2) 昭和史を縦走する

 秦は1979年にも事件の関係者にインタビューをした。そのときの記録がここに書かれている。インタビューを受けた人の中でも特に今野褜五郎は、現場で線路爆破に直接携わっており、非常に重要な回想を残している。

(3) 満洲事変の裏面史

 1941-1944年にかけて、歴史研究家の森克己が満洲事変の関係者50余人に対し、存命中は公表しないと約束した上でインタビューをして、メモに書留めた。これが1976年に「満洲事変の裏面史」として刊行された。事件直前に親展書を持って奉天へ派遣された建川美次は、この中で

満洲事変は九月二十七日の予定だった。

とし、9月18日に親展書を持って奉天に着いたときも

自分は挙事は二十七日だと思って来た。変更されたのは知らなかった。

と語っている。13時に奉天駅に着くと、花谷に迎えられ、板垣征四郎も交えて3人で話し合い、

「こういうわけで君らの事が半分曝れた。中央は止めよという。自分の意見は、うまくやれるならやれ、駄目なら止めた方がよかろう。」

と伝えたという。河本大作はインタビューの中で、1928年に自身で敢行した張作霖爆殺の内幕を打ち明けると共に、

此の事件後、自分の補助者として、石原中佐を関東軍に貰って来た。私はその頃から既に満洲事変の案を練って居ったのだ。

と述べている。また柳条湖事件についても、

十八日の柳条湖の爆破は、小倉の第十聯隊で私の部下だった、川島正大尉、当時虎石台の第三中隊長だったが、この川島大尉にやらせた。

と述べている。川島正は次のように述べている。

 挙事に関し、話があったのは花谷少佐からである。それは何時頃のことか覚えてるないが九月より以前の事だった。日記を見ればわかるだらう。何か起きた時にはやらなければならぬといふ漠然とした話があった。あやふやな者は除いて飽までやる人だけで決行することになつた。今田(張学良顧問補佐官今田新太即大尉)が石原の所へ行きやることになり、帰って来たか、その辺のことは明らかには覚えてゐない。日もはっきりしない。日記には記して置いた筈だが、今手許に日記はない。今田が小野正雄大尉を連れて私の官舍へやって来て、なるべく早くやらうといふ話があり、直ぐ出来るかといふ話になったが直ぐには出来ない。中隊の勤務の関係などにより、已に命令を出してあることは一寸中止するわけには行かないし、また部下にわからないやうに準備しなければならない。命令、勤務隊の行事などの関係で急いでやると反って事を破る恐れがある。そこで十八日となった。同日午後十時四十分奉天に着く上り列車が来る一寸前だから、恐らく十時二十分頃ではなかったかと思ふ。爆破の直後に列車が通つた。一体あの辺の線はカーブになってゐるが、大きなカーブだから一寸見ると一直線のやうに見える。だから爆破で線路の片側の一本だけが一米五〇位吹っ飛んだが下り坂ではあるし、ガタンガタンと通つてしまった。

 若しも彼の時車が顚覆すれば、鉄道警備の任務上負傷者を救ひ出すことから先きにしなければならない義務があるから、情勢が変る、敵兵営は突擊するどころではなくなってしまふ。顚覆しなかったのは天祐だった。爆薬は今田が持って来た。

 

  1. 秦郁彦「昭和史の謎を追う 上」(文藝春秋)50頁 []