記事
【解説】日本人の内地侵出と満蒙問題 ― I. 南満東蒙条約の強制性

概要
第1次世界大戦中、日本は中国に対華21ヶ条要求を発した。第1~5号から成るこの要求うち、満蒙に関するものが第2号要求である。1915年5月、日本は中国に最後通牒を突き付け、対華21ヶ条要求を受諾させた。その結果、第2号要求は南満洲及東部内蒙古に関する条約(南満東蒙条約)として日中間で締結された。これの第2条・第3条が、それぞれ日本人の土地商租権・内地1 雑居を南満洲と東部内蒙古で認めさせるものだった。「【解説】日本人の内地侵出と満蒙問題」の記事では、この第2条・第3条にまつわる満蒙問題を取り上げる。本稿では、対華21ヶ条要求の強制性と、南満東蒙条約の特に第3条によって中国が被った主権侵害について説明する。

対華21ヶ条要求の強制性――軍事威圧と最後通牒


第1次大戦中の1914年12月、
帝国政府ハ最近青島ノ陥落ニヨリ我ガ軍事行動略ボ終リヲ告ゲ帝国ノ威力新タニ海外ヲ圧スルモノアルト共ニ欧洲ノ戦局尚ホ酣ハニシテ遠東ヲ顧慮スルノ余裕ナキ今日ヲ以テ支那ニ対スル要求提出ノ好時機トナシ
(日本外交文書1914年第3冊7[569] 12月3日 在中国日置益公使より加藤高明外務大臣宛「中国ニ対スル要求提案ニ関スル意見上申ノ件」別紙「対支要求提出ニ関スル鄙見」)として、日本は所謂「対華21ヶ条要求」を作成し、外務省は1915年1月18日にこれを中国政府へ提出、2月から談判が始まった。この1914年12月3日の公信で日置公使は
我ガ要求ヲ貫徹センガ為ニ相当ノ引誘条件ト万一ノ場合ニ加フベキ威圧手段トニツキ特別ノ考慮ヲ加ヘ置カンコトヲ必要ナリト思考ス
とし、「威圧手段」の候補として
(一)山東出征中ノ軍隊ヲ現地ニ留メ我ガ威力ヲ示シ彼ヲシテ我レニ何等カノ野心アルヲ疑ハシムルコト
(二)革命党宗社党ヲ扇動シ袁政府顛覆ノ気勢ヲ示シテ之ヲ脅威スルコト
を挙げている。そしてこの(一)について、次のように述べている。
談判ノ進行ニ伴ヒ勢已ムヲ得ズシテ兵力ヲ動カシテ対手ヲ圧迫スルノ必要アルコトヲ予期シ今後青島ニ残留セラル可キ軍隊ハ単ニ「居据リ」ノ気勢ヲ示スノミナラズ万一ノ場合尚ホ進ンデ之ヲ動用シ例ヘバ津浦鉄道北段ヲ占領スル等ノ用意アランコトヲ要シ……
交渉開始から1ヶ月が過ぎた頃、加藤外相から日置公使宛に次のような電報が打たれた。
対支交渉現下ノ状況ニ就テ看ルニ此儘ニテハ貴官段々ノ御尽力ニモ拘ハラズ支那政府ヲシテ我最モ重要ナリトスル条項ニ対シ容易ニ承諾ノ意ヲ表セシムルノ見込殆ンド之ナキモノト思考セラルルニ付帝国政府ニ於テハ其当初ノ目的ヲ達センガ為ニハ支那ニ対シ別ニ威圧ノ方法ヲ執ルノ必要ヲ認メ目下其方法ヲ講究中ナリ差当リノ手段トシテハ満洲駐屯ノ師団交代ノ期ニ近キタルヲ幸ヒ後任師団ノ出発期ヲ速ヤメ現駐屯師団帰還ノ期ヲ当分不定ニ延長セシメ山東守備軍亦四月帰還ノ筈トナリ居レルモ是亦新守備軍ヲ派遣スルト同時ニ旧守備軍ノ出発ヲ延期シ事実山東省ニハ平時兵力ノ一師団以上ヲ駐屯セシメルコトトシ已デニ何レモ準備ニ取カヽルコトトナレリ又右ノ外北清駐屯軍ハ客年中減兵シタル次第ナル処之亦各国申合兵数以内迄ニ増員シ北京天津間ニ駐屯セシムルコトトシ又更ニ進ンデ鄭家屯ニ於ケル我駐屯兵ヲ増員シ場合ニヨリテハ新民屯ニモ出兵シ同時ニ吉長鉄道ヲ押収スルコトモ有効ナルベキカト思考シ目下何レモ詮議中ナリ…….
(日本外交文書1915年第3冊上巻4-1[222] 3月5日 加藤外務大臣より在中国日置公使宛(電報)第134号「中国ヲシテ我提案ヲ承諾セシムル為ノ威圧手段ニ付考慮中ナル旨内示ノ件」)
そして実際に軍事威圧が始まる。表向きには「日本はただ兵を交代している途中なだけなのに、これを支那の反日メディアが”軍事威圧”などと捏造報道するんだ」とか言って被害者ぶりながら、裏では明確に軍事威圧の目的を持って、交代予定の兵の引揚を延遷して中国在留の日本軍を増兵するのである。日本政府は最終的に、日本人居留民の引揚を準備し、日本の軍艦を中国沿岸に配置して、日本軍に臨戦態勢をとらせて「最後通牒」を5月7日に提出、日本側の要求を受諾させた。日本外交文書の1915年前掲巻から3月6日以降の関連記述を以下に抜粋する。
◆
[223] 3月6日 加藤外務大臣より在中国日置公使宛(電報)第138号「南満山東ヘノ派兵ヲ対中国交渉上威圧ノ目的ニ利用方訓令ノ件」
往電一三四号ニ関シ南満駐屯一ヶ師団及山東守備一個師団ハ来ル一六七日頃ヲ以テ同時ニ呉宇品等ヨリ出発スベシ右ハ前電通何レモ交代ノ為ナレドモ交渉上貴官ニ於テ然ルベク威圧ノ目的ニ利用セラルルヤウ致シタシ又北清駐屯軍約一千二百ヲ増員シ差当リ天津ニ送ルベキ内議アリ目下詮議中ナリ
[226] 3月8日 加藤外務大臣より在中国日置公使宛(電報)第141号「威圧手段執行前ニ於ケル我対中国交渉振ニ付訓令ノ件」
往電第一三四号ヲ以テ申進シ置キタル威圧ノ目的ニ供セラルベキ手段ノ中満洲駐屯及山東守備ノ軍隊ガ来ル一六七日頃出発スベキコト及該軍隊発動ノ理由ハ交代ノ為ナルモ同時ニ威圧ノ目的ニモ副ヒ得ベキモノナル事ハ往電第一三八号ヲ以テ申述ベ置キタルガ如シ其他ノ方法ニ付テハ目下何レモ詮議中ニ属シ外交上一切ノ手段ヲ尽クシタル上ニテ其実行ニ着手スル次第ナルニ付右ニ御承知アリタシ而シテ愈々此等詮議中ノ方法ヲ決行スル迄ニハ双方充分討議ヲ尽クシ向後折衝ノ経過ヲ看ルコト必要ト思考スルニ付貴官ハ是迄通リ着々交渉ヲ進メラルルヤウ致度第二号第二条第三条ニ関スル支那側ノ態度執拗ニシテ到底我主張ヲ容レシムルコト困難ナルニ於テハ右両条ハ後廻ハシトナシ順次席ヲ追ヒ第三号第四号ヨリ第五号ニ至ル迄篤ト論議ヲ尽クサルルヤウ致シタシ……
[233] 3月10日 加藤外務大臣より在奉天落合総領事宛(電報)第17号「我軍隊移動ニ関シ新聞紙掲載差止方指示ノ件」
帝国政府ハ目下進行中ノ対支交渉ノ関係モアリ差当リ交代期ニ在ル満洲駐屯師団及山東守備隊帰還ノ時期ヲ当分不定ニ延期シ多面後任師団ノ出発期ヲ繰上グルコトニ決定シ何レモ三月十六七日頃出発セシムコトニ取運ビタリ……
[240] 3月13日 在中国日置公使より加藤外務大臣宛(電報)第124号「曹次長来訪ノ上日本軍ノ山東満洲出動ニ関シ中国側ノ苦慮陳述ノ件」
本使ハ程能ク軍隊出動ニ関スル談話ハ成ルベク之ヲ避ケ兎モ角此際支那当局者ニ於テ今ヨリ三四回ノ会議ヲ以テ主義上提案全部ノ商議ヲ結了スルノ態度ヲ執ルニアラザレバ両国ノ為頗ル面白カラザル事態ヲ惹起サストモ限ラザルベク目下ノ場合最肝要ナルハ十分互譲ノ精神ヲ以テ速ニ談判ヲ結了スルニアル旨ヲ懇諭シ置ケリ我軍隊出動ノ報道ハ昨今支那政府ニ少カラザル不安ノ念ヲ与ヘタルモノノ如ク……
[262] 3月22日 在中国日置公使ヨリ加藤外務大臣宛(電報)第146号「日本軍ノ山東奉天ニ於ケル兵力増強ニ関シ説明方中国政府ヨリ要請ノ件」
三月二十二日陸外交総長ハ部員ヲ本使ノ許ニ遣ハシ別電第一四七号ノ公文ヲ手交スルト共ニ日本国ガ満洲山東両地方ヘ交替兵出動ノ義ニ関シテハ人心ノ動揺ヲ防グ為一時其延期ヲ諾セラルルカ若ハ本使ヨリ公文ヲ以テ今回ノ軍隊出動ハ交替ノ為ニ外ナラザル旨ヲ支那政府ヘ声明セラレタシトノ旨曩ニ曹次長ヲシテ懇談ニ及バシメ置キタル次第モアルニ拘ラズ(往電第一二四号参照)何等回答ヲモ与ヘズ直ニ実行ニ着手セラレタルハ頗ル遺憾トスル所ナル旨ヲ述ベ斯クナル上ハ速ニ中央政府ヨリ地方官憲ヘ説明ヲ与ヘ人心動揺ヲ防止スルノ絶対的必要ナルヲ認ムルニ付本日持参ノ公文ニ対シ日本軍隊出動シタルモ新旧部隊交替ノ為ナル旨ノ回答ヲ至急外交部ヘ寄セラレタシトノ懇請及尚右ノ次第ハ公文ニ書キ入レテハ自然角立ツ虞アルニ付特ニ人ヲ以テ説明スル次第ナリト申出デタリ就テハ右ニ対シテハ如何取計可然ヤ何分ノ義御電訓ヲ請フ
(別電)同日日置公使発加藤外務大臣宛電報第147号
3月22日在中国日置公使より加藤外務大臣宛(電報)「日本軍ノ兵力増強ニ関シ説明方要請ノ外交部公文」
済南ヨリノ電報ニ依レバ近頃坊子ニ日本歩兵五百余名砲兵騎兵各一隊到着シ又済南ニモ日本歩兵砲兵併セテ七百名到着シ尚大部隊アリ続イテ到着スベシト云フ又奉天来電ニ依レバ日本ハ奉天停車場ニ約三千余名ノ増員ヲ行ヒ又大連東港ニハ既ニ日本兵三千余名到着セリトノ趣ナリ査スルニ膠州湾戦争ハ既ニ解決シ膠済鉄道沿線ノ少数ノ軍隊スラ将ニ撤去方商議シツツアル際突如斯ル多数兵力ノ増加ヲ行ハレタルハ寔ニ疑訝ニ堪ヘズ殊ニ地方ハ安静ニシテ毫モ軍隊増加ノ必要ナキモノナリ依ッテ貴国ハ這次該両省ニ於テ畢竟何ガ故ニ兵力ヲ増加セラレタルヤ至急何分ノ義回答セラレタシ
[268] 3月24日 加藤外務大臣より在中国日置公使宛(電報)第179号「中国政府ヨリノ我軍隊出動ニ付説明方要請ニ対スル回答振ニ付回訓ノ件」
貴電第一四六号ニ関シ
貴官ハ単ニ口頭ヲ以テ支那当局ニ対シ今回ノ我軍隊出動ハ交代ノ目的ニ出デタルモノナルモ支那側ノ取締行届カザル為上海地方ニハ不穏ナル集会催サレ又本邦人暴行ヲ受ケタルヤノ情報モアリ又山東地方ニモ匪賊横行スルヤノ風説モアリ(本省宛林来電第三五号参照)且又近頃山東鉄道ニ対スル妨害頻々トシテ起リ加之往電第一七八号ノ如キ事件モアリ其他各地方ニ於テ諸般謡言続出我方ノ不安軽カラズ之レ畢竟支那側ニ於テ迅速ニ交渉ヲ纏ムルノ挙ニ出デザルニ職由スルモノニシテ談判円滑ニ結了シ従テ右等ノ謡言竝不穏ノ風潮消滅スルニ於テハ我ガ軍隊モ速ニ交替ヲ了スルコトヲ得ベキモ然ラズシテ以前談判モ其進行遅々トシテ多ク要領ヲ得ズ其間前記ノ如キ面白カラザル風潮已マザル形勢ナルニ於テハ或ハ我軍隊ノ交替モ予期ノ如ク速ニ完了スルヲ得ザルニ至ルナキヲ保セザル旨極メテ慎重ニ申入レ置カルベシ
尚今廿四日在本邦支那公使来省本国政府ノ訓令ニ基ク趣ニテ帝国政府ニ於テ支那ニ軍隊ヲ増派スル事ヲ見合ハセラレタキ旨申出タルニ付本大臣ハ同公使ニ対シ大体前顕ノ趣意ヲ申述ベ此際支那政府ニ於テハ大局ニ顧ミ速ニ日本ノ要求ニ応ジ交渉ヲ至急完了セシムル事極メテ必要ナルニ付其旨篤ト本国政府ニ申入ルル事然ルベキ旨申添ヘ置キタリ
[330] 4月17日 在中国日置公使より加藤外務大臣宛(電報)第201号「彼我民論ノ趣向ト我対支政策トニ鑑ミ最後ノ決心ヲ以テ具体的協定案ヲ押付クルノ方策ニ付上申ノ件」
惟フニ帝国政府ニ於テハ我民論ノ趨向ト対支政策ノ関係トニ鑑ミ飽ク迄我提案貫徹ヲ切望シ一方支那政府ニ於テモ亦同様自己ノ利害関係ニ顧ミ出来得ル限我要求ヲ排斥セント努メ現ニ満洲及山東ニ対スル我示威的出兵ニモ屈セス最後ノ(電文不明)ヲ持シテ譲ラザル姿ナルヲ以テ最早普通ノ折衝応馴ニ依リ我希望ヲ貫徹センコト到底覚束ナカルべキニ付此際細目ニ亘ル議論ハ之ヲ打切リ直ニ各号ニ対スル具体的協定案ヲ提出シ最後ノ決心ヲ示シテ之ヲ押付ケ急速解決ヲ図ルコト正ニ其時機ニアラズヤト思料ス
……
右協定案ハ本使ニ於テ閣下ヨリ御電示ニ接シ次第帝国政府最後ノ提議トシテ之ヲ陸総長ニ手交シ日ヲ限リテ回答ヲ求メ若シ萬一応諾セザル場合ニハ威力ヲ用テ強圧スルノ順序ニテ取運フコトニ致度シ
[367] 5月4日 在天津松平総領事より加藤外務大臣宛(電報)第23号「最後通牒提出ノ場合守備隊増員ノ必要ニ付稟申ノ件」
愈々最後通牒提出トモナラバ多少不穏ノ状態ヲ来タスコトヲ覚悟セザルベカラザル所目下当地駐屯ノ守備兵ハ万一ノ危険ニ際シ到底居留民ヲ保護スルニ十分ナル数ニアラザルヲ以テ愈々引揚ノ態度ヲ示サザルニ於テハ其以前ニ当地守備兵ヲ十分ニ増員セラルルコト居留民保護ノ見地ヨリ必要ト思ハル此辺ノ手配ハ既ニ御成案ノ義トハ信ズルモ為念卑見稟申ス
[369] 5月4日 在南京高橋領事より加藤外務大臣宛(電報)第13号「居留民引揚ニ関スル手筈ニ付報告竝請訓ノ件」
貴電第一号ニ関シ早速当地鎮江及蕪湖各所在留日本人ニ内示方取計置キタリ右ニ関シ鎮江蕪湖ノ両所ヘハ館員ヲ内派シタリ御承知置アリタシ又万一ノ場合各所在留日本人引揚ノタメ其ノ必要アリト認ムルトキハ本官限リ相当ナル汽船一隻上海迄借入レ方取計可然ヤ予メ何分ノ義御電訓ヲ請フ
[378] 5月5日 在奉天落合総領事より加藤外務大臣宛(電報)第42号「引揚実行ノ場合ニハ時間的余裕ヲ以テ訓令方稟申ノ件」
貴電第二五号ニ関シ当館管内遠隔ノ地ニ居住スルモノハ出来得ル限リ夫レトナク当地ヘ集ムルノ方法ヲ執リ特ニ新民府ヘハ警官ヲ特派シ追テ引揚ノ通達ニ接シタル場合ニハ直チニ当地迄引揚得ル様準備方内達取計ハシメ又撫順本渓湖地方ニモ附属地外居住者アルコト故此等ニ対シテモ準備方警務支署長ヲ通シ内命シ置キタリ又当奉天ニ於テハ居留民会及警察官ヲシテ準備方内達セシメタル処既ニ老幼婦女及荷物ヲ附属地方面ニ移転セシメタルモノモアリ軍隊側ノ意見ハ居留民ハ附属地内ニ纏ムルヲ要シ又城内婦女子ノ引揚ハ軍事行動ニ出ヅル数時間前ニ終ルヲ要ストノコトナルニ付一般居留民モ其心得ヲ以テ引揚ニ準備シ居レリ就テハ引揚ヲ要スル模様ナラバ十分ニ時間ノ余裕アル程度ニ於テ引揚方ノ御訓令相成様致度シ
[384] 5月6日 秋山軍務局長より坂田通商局長宛「支那沿岸ニ於ケル艦船ノ件」
大正四年五月六日
海軍省軍務局長 秋山真之
外務省通商局長 坂田重次郎殿
支那沿岸ニ向フベク命ゼラレタル艦艇左ノ通リニ有之候
揚子江附近 鹿島、三笠、常磐、日進、利根、駆逐艦十一隻
馬公附近 須磨、明石、対馬、音羽、秋津洲
新嘉坡 平戸
秦皇島附近 周防、相模、千代田、水雷艇四隻
青島附近 宇治、水雷艇四隻
右通報ス
[388] 5月6日 岡陸軍大臣より加藤外務大臣宛「朝鮮及満洲駐屯部隊応急準備令伝達ノ件」
満洲ニアル第十三第十七師団独立守備隊及朝鮮ニ在ル第九師団(師団司令部歩兵一聯隊騎兵野砲兵各一中隊ヲ除ク)ノ応急準備ヲ令セラル
[400] 5月7日 在中国日置公使より加藤外務大臣宛(電報)第254号「最後通牒ヲ陸外交総長ニ手交済ノ旨報告ノ件」
本使五月七日午後三時小幡高尾両書記官ヲ随ヘ陸総長ヲ往訪ノ上最後通牒ヲ手交セリ委細後電
[404] 5月8日 在中国日置公使より加藤外務大臣宛(電報)第259号「最後通牒ニ対スル中国側回答案訳文電送ノ件」
(五月九日接受)
本月七日午後支那政府ハ日本公使ノ手交セル日本政府ノ最後通牒一件及附加解釈七條ヲ受領セリ該通牒ノ末段ニ曰ク支那政府ヨリ五月九日午後六時迄ニ満足ナル回答アランコトヲ期待ス若シ期限ニ至リ満足ナル回答ヲ接到セザレハ日本政府ハ必要ト認ムル手段ヲ執ラント欲ス合セテ声明ストアリ
支那政府ハ東亜ノ和平ヲ維持スル為ニ起見シ日本国政府ヨリ四月二十六日提出セル修正案第五号中ノ五項ヲ除ク外第一号第二号第三号第四号ノ各項及第五号中ノ福建問題ニ関スル公文交換ノ件ハ四月二十六日提出ノ修正案ニ記載セル通竝日本政府ヨリ交附セラレタル最後通牒附加七條ノ解釈通リ直ニ応諾シ以テ中日間ノ有ラユル懸案ヲ顧慮シテ解決シ益々両国ノ親善ヲ鞏固ナラシメンコトヲ希フ即チ日本公使ハ期ヲ定メ外交部へ恵臨シ文字ノ修正ヲ行ヒ速ニ調印センコトヲ請フ(終リ)
◆
最後通牒で受諾させた第2号要求は「南満洲及東部内蒙古ニ関スル条約」となり、1915年5月25日に日中間で締結された。
中国側はこの条約の強制性を問題視しており、第1次世界大戦後のワシントン会議で条約の再審を求めている2 。
第2条・第3条は何故受入れ難かったか
第2号要求の第2条と第3条に対して、「最後通牒」が出されるまで中国側は強く抵抗した。第2条は南満洲で日本人に土地の商租を認めさせる要求であり、第3条は南満洲内地で日本人の居住・往来・営業の自由を認めさせる要求である。土地の「商租」は、南満東蒙条約の附属交換公文で
南満洲及東部内蒙古ニ関スル条約第二条ニ記載セル商租ノ文字ニハ三十箇年迄ノ長キ期限附ニテ且無条件ニテ更新シ得ヘキ租借ヲ含ムモノ
と定められている。外務大臣から在満各領事と分館主任宛に送られた文書には、
土地商租権ハ御承知ノ通リ其実質所有権ニ均シキ次第ニ付……
(日本外交文書1915年第2冊[805] 9月16日)と書かれている。
第2条も第3条も、現代なら多くの国でごく当り前に認められることを定めているに過ぎない。多くの国では、外国人でも地主と契約を交わせば土地を長期的に借りられるし、買い取れば所有することだってできる。居住・往来・営業(内地雑居)などというのは、もっとハードルの低いことだろう。それらを当時の中国が到底受け入れられないとしたことには、明確な理由がある。治外法権だ。日清戦争後に締結された日清通商航海条約第22条により、日本は中国での領事裁判権を有していた。対華要求交渉の中で中国側は
治外法権ヲ存シ内地雑居ヲ許スコトハ到底出来難キコト
(日本外交文書1915年第3冊上巻4-1[260] 3月10日 在中国日置公使より加藤外務大臣宛(電報)第143号「第十二回談判ニ於テ提案第二号第二条第三条ニ関スル我最後案ニ対シ先方ヨリ更ニ第二次修正案ヲ提議及撤回ノ経緯等報告ノ件」)という旨を繰返し主張している。軍事威圧が始まってからも、抵抗の強さは
満蒙問題商議ニ入リテヨリ以来殆ド一ヶ月ノ日子ヲ経過シ会議ヲ重ヌルコト十回ノ多キニ及ベリ然ルニ第二条第三条ノ論議ニ於テハ何時モ支那側ハ警察課税司法ノ三点ニ関スル法律条約主権等ノ関係ニ藉口シテ執拗ニ其主張ヲ抛棄セズ今回ノ修正案モ第四回目ノ修正案ニシテ而モ十分考慮ヲ加ヘタリト称スルニ拘ハラズ将又一面我増遣隊ノ陸続出動シツツアル今日尚満洲ニ於テ我臣民ノ雑居ヲ承認スルガ為此等我臣民ヲシテ全然支那ノ警察権課税権及司法権ニ服従セシメンコトヲ主張スルハ稍意外ノ感ナキニアラズ
(日本外交文書1915年前掲巻[265] 3月23日 在中国日置公使より加藤外務大臣宛(電報)第150号「第十三回談判ニ於テ第二号第二条第三条ニ関スル先方ノ修正案提出竝吉長鉄道問題協定済ニ付報告ノ件」)などと報告されている。
南満洲と東部内蒙古のような広大な領域で治外法権を纏った外国人に好き勝手動き回られたら、主権国家の存立にとって深刻な脅威になる。だからこそ中国は「商埠地」というものを設定していたのだ。商埠地には、「約開商埠地(租界)」と「自開商埠地」の2種類があった。前者は不平等条約によって治外法権付きで外国人に開放された区域である。後者は、中国の司法・警察に従うことを条件として3 中国政府が外国人向けに開放した区域である。当時満洲にあった商埠地は、全て自開商埠地だった4 。




19世紀後半の日本も、安政の不平等条約下で所謂列強諸国の治外法権を認めさせられ、開港場・開市場のある所5 に外国人居留地や遊歩規定を設定して、中国における「租界」と同様に、治外法権付きの外国人の活動を狭い区域に制限していた。対華21ヶ条要求のとき首相だった大隈重信は、1888~1889年に外務大臣として不平等条約改正に取組んでいたが、このとき大隈は、(基本的に前任者の方針を継承する形で)談判の方針として
内地開放と帝国裁判権の回収とは不可分の条件なるが故に如何なる外国と雖も治外法権を保有しながら内地居住の利益に均霑するを許さず
と主張した6 。そして日本は実際にこの方針に沿って、陸奥宗光外務大臣の下で治外法権の撤廃を達成、1899年に内地開放と同時に撤廃を施行した。最後まで治外法権と内地雑居の両立を許さなかったのである。対華21ヶ条要求で南満洲における治外法権と内地雑居の両立を中国に強いる16年前のことであった。


- 租借地でも鉄道附属地でもない領域のこと [↩]
- アジア歴史資料センター Ref.B10070092800、華盛頓会議経過 第二部 太平洋及極東ニ関スル問題/1922年/分割1(欧三_32)(外務省外交史料館)>P.297(PDF.156/200) [↩]
- この条件は蔑ろにされることが多かったようだ [↩]
- 吉川弘文館「二〇世紀満洲歴史事典」P.98 しょうふち【商埠地】 [↩]
- 長崎・函館・横浜・神戸・大阪・東京・新潟 [↩]
- 日本外交文書条約改正関係別冊経過概要第5章「大隈外務大臣時代」第1節「概説」P.228「談判の方針」 [↩]
- 編者注「1888年末現在の横浜地図 右側の茶色の部分が山下(関内)居留地、左側の薄茶色は山手居留地、黄色は日本人市街、橙色は公用地、緑色は緑地。正確な地図だが、SUGATAMI CHOとISEZAKI CHOはもう一つ左の道沿いでなければおかしい。The Japan Directory for the Year 1889, the Japan Gazette Office, Yokohama, 1889」 [↩]