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中国在留邦人の素行(20世紀戦前期)
「海外地邦人ノ言動ヨリ観タル国民教育資料(案)」
民間人を含む日本人の中国(満洲含む)での素行は、日本の治外法権1 と相俟って戦前・戦中の日中関係に甚大な影響を与えてきた。1940年5月に大本営陸軍部研究班が作成した極秘資料「海外地邦人ノ言動ヨリ観タル国民教育資料(案)」は、当時の中国在留邦人の素行について、以下のように報告している。
第一節 「在支那事変地邦人ノ現状」
三、中国人ニ対スル態度
今次事変勃発以来作戦地域内ニ進出セル邦人数ハ頓ニ増加セルガ此等邦人中ニハ東亜新秩序建設ノ為進ンデ中国人ト提携スルノ矜持ナキノミナラズ支那民族性ニ対スル認識ヲ欠キ徒ラニ誤レル優越感ニ基キ中国人ニ対シ侮蔑的行為ヲナシ其ノ反感ヲ買ヒアルモノ少ナカラズ
事例左ノ如シ一、邦人居留民ハ一般ニ支那人ノ欠点ノミヲ知リ其ノ長所ヲ知ラザルモノ多ク支那人相手ノ営業ニ於テ相手ヲ胡魔化シ暴利ヲ貪リ却ッテ之ヲ快トスルモノアリ
二、支那人ニモ上流ノ要人級アリ一般的ノ中流者アリ苦力ノ如キ下層者アリ又「インテリー」層ノ青年層アリテ同ジカラズ此等ニ対シテハ異ナル意義ニ於テ接セザルベカラザルニモ不拘多クノ邦人ハ一律ニ之ヲ取扱ヒ恰モ苦力ニ対スル如キ態度ヲ以テ接シアリ
三、在留邦人ニシテ其ノ使用人タル中国人或ハ苦力洋車夫等ヲ虐待スルノ所為ハ随所ニ散見スルトコロナリ而シテ邦人ハ之ヲ以テ勝者トシテ当然ナルガ如ク考ヘ而モ其ノ行為ヲ誇リ■ニ他ノ居留民ニ口外シ敢テ恥ヅルトコロナク平然タルモノアリ之ガ為支那一般民衆ニ悪感情ヲ起サシメ延イテ日本人将来ノ発展ヲ阻害スルノミナラズ国策遂行上一大障碍トナルベシ
四、商品ニ対シ不当ノ代価ヲ以テ購入セントシ或ハ言語ノ不通ニ基因シ彼等ニ暴行ヲ加フルモノアリ即チ日本人ノ買物ハ中国商人ノ言ヒ値ノ半額或ハ三分ノ一ヲ渡シテ物品ヲ持チ去ルモノアリ
又洋車ニ乗リ賃金ヲ支払ハザルモノ或ハ其ノ一部分ノミヲ支払フ不徳漢アリ五、邦人商社ニシテ顧客タル中国人ニ対シ極メテ不親切ナルモノアリ
六、在留邦人下層級者ノ中国人ニ対スル思想ナリト思惟セラルル事項次ノ如シ
- 「支那人ハ喰フヤ喰ハズダカラ殴ッテモ後デ金ヲヤレバ文句ハナイ又言葉ハ解ラヌシ殴ラナケレバ言フコトヲ聞カヌ」ト大言シアルヲ聞ク
- 支那人ノ国民性ヨリシテ彼等ヲ持チ上グルハ禁物ニシテ寧ロ之ヲ威圧スベキナリトノ観念ヲ有スルモノ多シ
- 支那服着用ノ憲兵ニ対シ故ナク暴行暴言等ノ行為ヲナスモノアルヨリ考察スルニ裏面ニ於ケル中国人虐待ノ件数ハ相当多キニ上ルベシ
之ヲ要スルニ一般在留邦人ハ徒ラニ戦勝国タル優越感ニ依リ皇軍ノ威力ヲ籍リテ中国良民ヲ侮蔑視シ自己ノ利益ノミニ没頭シ彼等ニ対シ不当ナル取扱ヲナシ為ニ精神的融和ヲ欠キ宣撫工作ヲ阻害スルコト大ナルモノアリ
四、服装態度及其ノ他
大陸ニ在留スル邦人ノ多クハ内地及朝鮮等ノ各地ヨリ集リタルモノニシテ帝国臣民タルノ矜持ニ乏シク相互ニ慎ミヲ忘レ所謂出稼的根性ニテ「旅ノ恥ハ掻キ捨テ」的ノ如キ考ヘ方ヲナシ其ノ服装態度ヲ紊スモノ多シ事変後渡支セルモノニ於テ特ニ然リ
事例左ノ如シ
- 支那人ニ借家賃ヲ払ハザルモノアリ
- 人夫及苦力ヲ使用シテ正当労銀ヲ支払ハザルモノアリ
- 列車内ニ於テ乗客満員ナルニモ不拘座席ヲ独占シテ横臥シアルモノ、車窓ヨリ足ヲ投ゲ出シ横臥シアルモノ、同席ノ支那人ニ対シ「臭イカラ去レ」ト謂フモノ等公徳心ニ欠クルモノアリ
[中略]
六、在留邦人ノ商業
在留邦人中個人的営利業者ノ大半ハ事変ノ本質ニ対スル自覚ナク一攫千金ヲ夢ミテ利己ノ為ニハ手段ヲ選バズ為ニ国策ノ遂行ヲ防害シアルコトハ既ニ之ヲ述ベシトコロナリ
其ノ状況左ノ如シ一、個人的営利業者ノ現地ニ於テナシツツアル商行為中特ニ悪辣ナルモノ若干ヲ例示セバ左ノ如シ
- 私腹ヲ肥サンガ為日本軍ノ名義ヲ以テ物資ヲ買集メ現地ノ物価ニ合セザル不当ノ代価ニ依リ営業スルモノアリ
- 同業者ニ先ダチ前線ニ進出シテ巨利ヲ得ンガ為卑劣ナル手段ヲ採ルモノアリ之ガ為甘言ヲ以テ軍需輸送中ニ便乗ヲ請ヒ甚ダシキハ夜間窃カニ車上ニ潜入スルモノアリ
- 物資欠乏ニ乗ジ巧ミニ物資ヲ買占メ巨利ヲ博セントスル者少ナカラズ例ヘバ煙草一函特価一円ナルモノヲ最初三円ニテ売リ次第ニ値上ゲシテ兵ノ煙草欠乏ニ乗ジ之ヲ六円ニ売却セルモノ又酒精ノ欠乏ニ乗ジ之ヲ一升六円乃至七円ニテ兵ニ売却セルモノアルガ如シ
- 中国人ニ対シテハ「取レルダケ取ル」的ノ卑劣ナル商業ヲナスモノアリ
- 邦人商人ノ一部及多クノ鮮人ハ其ノ裏面ニ於テ「モヒ」阿片等ヲ密売セルモノアリ
- 鮮人ノ商人ニシテ兵ヲ籠絡シテ酒保販売品ヲ安価ニ獲得シ之ヲ他ニ転売セルモノアリ
- 在留邦人中避難支那人ノ遺留財物、骨董等ヲ持出シ之ヲ転売セシモノアリ斯クノ如キ行為ハ特ニ半島人ニ多シ
- 邦人ノ商店ハ支那人商店ヨリ一般ニ物価高シ故ニ日本人中ニハ好ンデ支那商店ニテ購入スルモノアリ
二、営利会社等ニシテ国策的事業ナリト称セバ容易ニ軍隊ノ援護ヲ得ル如ク思惟シ私用ナルニモ不拘奥地ノ状況視察ト称シテ警戒兵ヲ要求シ来ルモノ又ハ軍用自動車等ニ依リ商品ノ輸送ヲ依託セントスルモノアリ
三、在留邦人多数ノ企図スル事業若シクハ商売ハ主ニ邦人ヲ相手トシ又ハ軍隊ニ寄生セントスルモノ大部ヲ占メ所謂友喰ノ状態ニ在リ
四、「邦品ハ粗悪ニシテ高価ナリ」トカ或ハ同一品ニシテ「支那人ノ店ハ安ク内地人ノ店ハ高シ」等ノ声ヲ聞クガ如キハ厳ニ戒心ヲ要スルトコロナリ又在住邦人ニ対スル売価ト支那人ニ対スル売価トニ差異アルヲ認ムルハ忌ハシキ行為ニシテ邦品進出ノ為ニモ将来障碍ヲ来ス虞アリ
五、現ニ軍隊等ニ出入ノ商人中中国人ハ誠心誠意物資ノ調達需要ニ応ジアルニ反シ邦人商人ノ一部ニ在リテハ誠意不十分ニシテ屡々言ヲ左右ニシテ之ガ実施不確実ナルモノアリテ寧ロ中国人ヲ利用スルヲ有利ナリト認メラルル場合少シトセズ
[中略]
八、日系官吏及大会社々員ノ行動
一、第一線ニ活躍シアル日系官吏又ハ会社員ノ下級者中ニハ職権ヲ濫用シテ詐欺、脅迫、横領等ノ行為ヲナスモノアリテ軍ノ宣伝、宣撫ニ悪影響ヲ及スモノアリ最近下級日系官吏中ニ相当多クノ犯罪非行者アルハ之ヲ立証スルモノナリ
二、政府高級日系官吏ニシテ深夜官庁用自動車ニテ料亭、「カフェー」等ヲ乗リ廻ルモノアリ
三、軍及特務機関、領事館等ノ日系官吏及雇傭人等ニシテ地位ヲ悪用スルモノアリ例ヘバ飲食店等ニ於テ便宜ヲ計ル等ト称シテ無銭飲食ヲナスモノ或ハ地位ヲ利用シテ規定以外ノ行動ヲ平気ニナシ閉店二十四時迄ヲ強イテ延長セシムルモノ等是ナリ
第二節 「在満洲邦人ノ現状」
日満民族間ニ於ケル相剋摩擦ノ状態ハ今ニ於テ禍根ヲ断ツニアラザレバ悔ヲ他日ニ貽スベキ重大問題ニシテ而モ其ノ罪ハ多ク日人側ニ在ルヲ看取セラレ又其ノ他ニ於テモ大陸ニ発展セントスル日本人トシテハ今後改善ヲ要スベキ幾多ノ欠陥アリ
其ノ二 「各階級層ヨリ観タル日満民族間ニ於ケル相剋状況」
一 官吏層ニ於ケル相剋
日人官吏ハ其ノ数多ク而モ各官庁各層ニ亘リ満洲国官吏ノ中核トシテ之ガ指導的立場タル関係上其ノ一挙手一投足ハ直チニ満人ニ反響シ治政ニ影響スルトコロ大ナルヲ以テ日人官吏タル者ハ須ク満洲国建国ノ精神ト其ノ特殊事情トヲ的確ニ把握シ満洲国独特ノ吏道ヲ身ヲ以テ実践スルヲ要ス
然ルニ大部ノ日人官吏ハ口ニ民族協和ノ国策遂行ヲ叫ブモ未ダ内地官吏ノ旧套ヲ脱シ得ズ是正ヲ要スルモノアリ而モ植民地官吏ノ弊害タル他民族ニ対スル優越感強烈ナル為意識無意識ノ裡ニ幾多ノ誤謬ヲ犯シ満人官吏以下一般満人トノ間ニ相剋ヲ生ジツツ在リ
而シテ日人官吏対満人官吏ノ相剋ハ主トシテ日人官吏ノ独断専行ト給与上ニ於ケル優遇並ニ満人官吏ニ対スル蔑視ノ傾向ニ対スル満系官吏ノ反感ニ基因ス
即チ日人官吏ノ独断専行ハ満人官吏ノ事務能率低位ナル為ノ不可避ノ場合ト満洲ノ伝統、慣習ヲ無視シテ観点的法学的ニ行政ノ運用ヲ強行スル場合トニ分タレ前者ノ場合ハ止ムヲ得ズトスルモ後者ノ場合ハ満人官吏ハ不満ヲ蔵シテ盲従シ又ハ逃避的ニ怠業シアリ特ニ地方行政ニ於テハ満人高級官吏ハ所謂「面子」問題トシテ深刻ナル不満ヲ抱懐スルニ至レル事例少ナカラズ又給与上ノ問題ニ関シテハ一般行政官吏間ニ於テハ概ネ止ムヲ得ズトシテ不満ヲ押ヘアルモ警察官ニ於テハ其ノ差著シク大ナルノミナラズ満人警察官ハ俸給ノミヲ以テ一家ノ生計ヲ維持シ得ザルモノ少ナカラザル状態ニシテ日人警察官ニ対スル反感及待遇改善ニ関スル要求相当熾烈ナルモノアリ尚満人官吏ニ対スル蔑視ガ相剋ノ因ヲナシアルハ茲ニ贅言ヲ要セザルベシ
之ヲ要スルニ満人官吏中一部好待遇ニ恵マレアルモノ以外ハ日人官吏ヲ信頼シアラズシテ表面的協調ヲ装ヒ阿諛シアルモ真意ハ所謂「没法子」トシテ沈黙シアルニ過ギズ之ガ為日人官吏少数ニシテ而モ日軍ノ駐屯ナキ地ニアリテハ日人官吏ニ対スル蔑視或ハ不服従甚ダシキハ暴行ニ出ヅル等ノ事例屡々惹起シアリ二、日人官吏対民衆ノ相剋
日人官吏対満人民衆トノ相剋ハ各種行政ノ新様式ニ対スル満人ノ無理解ナルト日人官吏ノ大部ガ若年ナル為民度低キ満人ニ対スル認識ヲ欠キ日人ヲ対象トスルニ近キ制度ヲ直チニ実施セントスルガ如キ傾向アルガ為一般満人ハ日人官吏ニ対シ相当不満ヲ抱キアルハ事実ニシテ之ガ為反満抗日団等ニ介入シ又ハ好意ヲ寄セタル幾多ノ事例アリ
特ニ直接的権力機関即チ警察官対民衆ノ関係ハ日人警察官ノ満人圧迫感ヲ伴ヒアリテ一般ニ良好ナラズ例エバ日満人ノ紛争ニ際シ日本人ノ非ヲ枉ゲテ満人ヲ叱責処罰スルガ如キ不当措置並ニ公衆ノ面前ニ於テ満人ヲ殴打スルガ如キコト少ナカラズシテ満人民衆ノ反感ヲ漸次挑発シアリ之ガ為満人官吏多キ地ニアリテハ之ト反対ノ現象多発ノ傾向ニアリ三、企業家対満人民衆ノ相剋
一般工業界ニ於テハ未ダ労資ノ対立所謂階級闘争ニ類スル相剋ハ少キモ日人従業員ハ満人従業員ヨリ資本家側視セラレアリ
両者従業員間ニ於ケル紛議等特ニ日人従業員ノ優越感満人蔑視ニ基ク支配者的態度乃至暴行ニ対スル反感アリテ階級闘争ヨリモ寧ロ民族闘争ノ色彩ヲ帯ビタル紛議ヲ惹起セル事例アリ
土木建築業ニ於テハ業者中ニ自己ノ利得ニ汲々トシテ甚ダシキハ苦力ニ支払フベキ労銀ヲ引下ゲ又ハ全然支払ヲナサザルガ如キ者アリ又現場ニ於ケル日人従業員ノ優越感ニ基ク粗暴ナル行為乃至言語不通ノ為ニ生ズル誤解等ニ依リ民族闘争的争議若クハ苦力ノ逃亡、日人従業員ニ対スル復仇的暴行等頻発シアリ四、日人商人対満人民衆ノ相剋
日人商人ハ特殊事業ヲ除キテハ満人ノ商業的手腕ノ優秀ニシテ而モ生活程度ノ低位ナル等ノ為対等ニアリテハ拮抗スルコト困難ナルヲ知レルコト竝ニ日本人ガ漸次満人商人ヨリ物品ヲ購入セントスル傾向アルコト等ニ基因シ満人ヲ圧迫セントスル気風アリ例ヘバ同業者結束シテ当局ニ満人ノ新営業不許可ヲ陳情スルガ如キ是ナリ又日人商人ハ満人顧客ニ対スル態度粗暴非礼ナルヲ以テ満人ハ極メテ感情ヲ害シアル状況ニアリ
五、開拓民ト満人民衆ノ相剋
由来日本人開拓民ノ入植ハ土龍山事件ニ於テ表示セラレタル如ク満人民衆ノ生活権ヲ脅威スル如クニ解セラレ一般ニハ之ヲ歓迎セザルトコロニシテ開拓民ニ対スル満人民衆ノ関心ハ相当鋭敏ナルモノアリ
然ルニ開拓民ニ対スル日本内地並ニ現地ニ於ケル教育ハ国策移民トシテ国士的気概ヲ注入セルタメ徒ニ自ラヲ高カラシムルト共ニ現住満人民族ヲ蔑視スル観念ト化シ殴打暴行甚ダシキハ殺害スルニ至ラシメ而モ之ガ集団的ナル為往々ニシテ満人ヲシテ圧迫迫害セラルルガ如キ感ヲ与フルモノアリ之ガ為開拓民ニ対シテ感情先鋭化シアル満人民衆ノ不安ハ増大シテ反日的感情ニ転化セル事例少ナカラズ而シテ日常生起スル開拓民対満人ノ紛議及暴行事件ハ多ク開拓民側ノ不法ニ端ヲ発シアルハ反省ヲ要スルトコロナリ六、一般日本人対満人ノ相剋
此処ニ一般日本人ト称スルハ各階層ヲ包括セル在満日本人ヲ意味シ之ガ対満人関係ハ如上ノ概略的分類ニ包含セラルルモノナレ共更ニ各階層ノ私生活面ニ於テ惹起スル満人トノ相剋ハ頗ル広汎ニ亘リ注意ヲ要スルモノアリ即チ家庭内ニ於テハ満人使用人ニ対スル侮蔑酷使、街頭ニアリテハ馬車夫、洋車夫トノ紛議、近隣居住者トノ対立及満人商人トノ紛議等々老若男女ヲ問ハズ満人トノ相剋ヲ露呈シアリテ之ガ事象ハ枚挙ニ遑ナキトコロナリ而モ之等日常不断ノ紛議ノ多クハ言語ノ不通ニ依ル双方ノ誤解及ビ「満人ノクセニ」トスル日本人ノ優越感ニ因ルモノ多ク往々ニシテ満人側ノ不法ニ因ルモノアリト雖モ日本人ノ不法ニ比シテ其ノ数極メテ寡少ナリ
……
こうした素行の原因として、この資料は
支那人ハ劣等国民ナリ戦敗国民ナリ無能ナル国民ナリ武器ヲ以テ叩キサヘスレバ極メテ容易ニ御シ得ル国民ナリトノ日本人ノ観念ハ遠ク日清戦争当時ヨリ培ハレアリ
(第三節 「日本国民性及支那民族性ノ検討」)と分析している。このことから、在留邦人のこうした振舞いは1940年頃に特有のことではなく、19世紀末から慢性化していたことが伺える。
現地人の建物・部屋を占拠
上海戦~南京攻略戦の後、避難していた現地人の物件が、不逞日人によって相次で占拠された。1937年~1939年11月にかけ参謀本部戦争指導課(戦争指導班)、その後1941年7月まで南京の支那派遣軍総司令部で働いた堀場一雄は、戦後に著した「支那事変戦争指導史」の中で下記のように述べている。
一旗組乃至利権屋の時勢に便乗し軍の権威を藉りて横行するの状は、識者の義憤を感ぜしむ。上海、南京主要街路に於ける日本人の占拠振りは横暴にして、所有者帰還せんとすれども解放せざるものあり。総軍当局は先づ南京より粛正を企図し、主要街路より日本人の後退を厳命すると共に、新政府の還都に先ち政府引当官衙及関係住宅を強制解放せしめ、以て首都たるの面目を回復せしむ。
……
【附】
利権屋を相手とする国策実践の努力は蠅を逐ふが如し。上海北四川路南京大街等に於ける日本人の支那店舗占有は甚しきものあり。聞くならく、曰く家賃を支払ありと。曰く是血の結晶なりと。其の家賃は無料に等しく低額なり。又血の結晶とは、彼等果して血を流したるや。今や砲声は遙か漢口の彼方に在り。彼等こそ軍の鮮血を穢すものならずや。南京の解放には、無頼の徒切込をなすと流言を放つ。予は断乎解放を推進せり。
第2次上海事変当時陸軍の嘱託として上海で情報分析をやっていた吉田東祐(本名: 鹿島宗二郎)は、著書「上海無辺」(17章「孤島上海」)で次のように述べている。
兵士達の中には中国人に対して長年養はれた軽侮感から中国人のものを略奪して恥としないものも出た。中にはどうして持ってきたのか血だらけの法幣をごっそりもってくる兵士さへあった。しかしこれらの略奪物も虹口の商人の悪らつなものにかかって忽ち二束三文の価値に評価され、価値の百分の一にも足らぬ商品と交換されてしまった。又日本人の中には虹口の家屋から中国人が逃げ出したのをよいことにして、その空家を無断で占拠してしまったものが多かった。彼等は後からほんとの持主が出て来ても家を明け渡さず、高い金をとって他に転売してしまったり、持主に返すにしても莫大な修繕費を取ったりした。中国人の物資移動の許可書をとったり、隠匿物資の摘発をやったりすることも日本人のよい金鉱の一つだった。日本軍占領地域に置いたまま取りに行けない中国人の物資を租界まで移動する許可書を取ってやればそれだけで巨万の謝礼が懐に飛び込む時代だった。かうした悪徳の金を積んだ「にはか成金」が毎夜のように歓楽に落す金は忽ち虹口にも租界に負けないブームタウンを造り上げた。
満洲国開拓地犯罪概要
1941年に満洲国最高検察庁が作成した「満洲国開拓地犯罪概要」では、
開拓民ノ増加ニツレ開拓民ニ要望シテ居ル綱領精神トハ全ク反シタ幾多ノ問題ガ開拓民ヲ中心トシテ発生シ、中ニハ犯罪トシテ刑法上ノ責任ヲ問ハルル不祥事モ惹起シ、而モ増加ノ傾向ニスラアルノテアル茲ニ於テ吾々ハ司法ノ分野ニ於テモ之レヲ一ツノ問題トシテ研究シ犯罪発生ノ原因ヲ探察シ犯罪ノ予防、防圧ニ資セネハナラナクナツタ
――(第1章「総論」)として、在満邦人による1939~1940年の犯罪が多く例示されている。犯罪はいつの時代も何処の国でもたくさんある。しかし、ここに挙げられている集団犯罪の多くは、暴力団やテロ組織でなく一般の開拓民や日本人官吏によるものだ。当時の在留邦人の素行を考察する上で参考にしない訳には行くまい。また、同章で
開拓民ハアル意味デハ特別待遇デ其ノ間ノ犯罪ハヨクヨクノコトデナケレバ警察沙汰ヤ裁判沙汰ニナラナイノデ私ノ手許ニ迄知レナイ所謂内済ノ案件ガ相当ニ多イモノト推定セザルヲ得ナイ。
――と説明されていることも見逃せない。
以下でこの資料に挙げられている例をピックアップしよう。まず、第7章冒頭における開拓地買収作業中の暴行事件についての記述を引用する。
康徳六年(昭和十四年)十二月二十五日頃鉄嶺県副県長古田伝一外八名ガ開拓団入植ノ為ノ土地買収ニ関シ職権濫用業務上横領等ノ嫌疑ニ因リ鉄嶺県警務科ニ於テ検挙セラレ、コレヲ受理シタル鉄嶺地方検察庁ニ於テ取調ノ必要上古田ヲ拘留スルヤ、一部日系官吏方面ヨリ「検察庁ハ国策ヲ知ラス且国策ノ遂行ヲ阻害スルモノナリ、開拓政策実行ノ為ノ土地買収ニ際シコレニ応セサルモノヲ暴行脅迫スルカ如キハ止ムヲ得サルコトナリ、コレヲ以テ犯罪トナシ検挙スルガ如キハ非常識モ甚シ」ト猛烈ナル非難ヲ加へタ
この事件については、同章第2節「具体的事例」で詳細が説明されている。気になったら資料のページを見に行かれたし。
次に第8章「満洲開拓青年義勇隊ノ犯罪」から事例をピックアップする。
昌図事件(1939年5月5~7日、奉天省昌図県)
この事件については原文が長くて分かり難いので、ここでは筆者の文章で説明する。

奉天省昌図県満井村紅頂山にあった開拓青年義勇隊昌図特別訓練所で、運動会の結果を巡って発生した乱闘事件。1938年に来満した第4・11・22中隊は自らを「先遣隊」と称し、1939年に来満した第11・13中隊に対し、新参者の癖に生意気であるとの不満を燻らせていた。1939年5月5日、訓練所で開催された運動会において1939年来満組が良い成績を収めたことにより、1938年渡満組の不満が爆発して乱闘が勃発、5月8日まで続いた。資料の記述を基にして、以下で状況をもう少し詳細に説明する。
(1) 運動会の競技で第13中隊の選手が第29中隊の選手を妨害したとして、第29中隊が第13中隊に謝罪を求めに赴いた所、却って殴られる結果となった。第4中隊の池田三郎は「斯中隊ハ先遣隊ヲ舐メテ馬鹿ニシテ居ルノダカラ、今後先遣隊ヲ甘ク見ナイ様ニ、今夜十三中隊へ殴込ミ幹部ヲ遣付ケロ、四中隊ニハ対店帰リノドウセ退所スル暴レ者十三名居ルカラ、退所スル序ニ其ノ者等ニ暴レサセルカラ、先遣隊ノ名誉ニカケテモ十三中隊ヲ遣付ケロ」として第29中隊に第13中隊襲撃を提案。5日21時頃に第4・29中隊員から成る百数十名の集団が、木刀や鍬の柄等を持って第13中隊宿舎を襲撃した。第13中隊は宿舎の窓ガラス118枚とサッシ2つを破壊されたほか、幹部の細谷光三が全治2週間の左右前臑及右手背擦過傷・頭部及左胸部打撲傷を負い、保坂光惟は全治10日の打撲傷を負った。
(2) 運動会では第11中隊と第22中隊の成績が伯仲し、最後の幹部リレー競走で第11中隊が勝利して優勝旗を獲得した。第29中隊の増田実は6日17時頃、第22中隊員に対して「俺達ハ昨夜十三中隊ニ襲撃ヲカケテ面白カツタ、オ前達ハ優勝旗ヲ獲ラレテ口惜シクナイカ、若シオ前達ガヤルノニ人数ガ足ラヌノナラ応援シテヤロウ」と第11中隊の襲撃と優勝旗の奪取を提案した。6日22時頃、第4・22・29中隊員から成る総勢百数十名の集団が木刀や鍬の柄等で武装して第11中隊を襲撃。第11中隊事務室に押し入って脅迫のうえ優勝旗を渡すよう求め、別のグループは第11中隊の窓ガラス72枚を破壊した。
(3) 上記の襲撃に対して訓練所長は第22中隊へ適当な措置を講じず、第11中隊を叱責するような口吻であった。これに対し第11中隊は、ナイフ・鍬の柄等で武装した百数十名の集団を結成して7日午前2時頃に訓練所本部を襲撃。所長室で破壊・脅迫を敢行したほか、本部部長室・事務室等の窓ガラス21枚を破壊した。
(4) 8日午前4時、第11中隊員から成る二百余名の集団は、小銃・鍬の柄・煉瓦・ナタ等を持って第22中隊に対し報復攻撃を敢行。第22中隊宿舎の窓ガラスを殆ど全部破壊したほか、南側の約1/3と北側の大部分のサッシも原型を留めない程に破壊。更に第22中隊宿舎への放火を試み、第22中隊員2名(共に19歳)を射殺した。
寧安県沙蘭鎮訓練所第12中隊の事件(1940年4月25日)


職業 義勇隊訓練生
佐藤博
当二十一年(男)
清水守雄
当二十一年(男)
米沢市郎
当二十一年(男)
佐藤好道
当二十一年(男)
山田歳男
当二十一年(男)
藤下直吉
当二十一年(男)
小泉吉孝
当二十年(男)
横山米太郎
当十九年(男)犯罪事実ノ概要
訓練生ノ清水守雄、米沢一郎、小泉喜孝、横山米太郎等ハ康徳七年四月二十五日臨時靖国神社祭ニ依リ休日ナル為メ貝焼鍋屯ニ遊ヒニ行キ暫時ク屯部内テ時間ヲ費シ部落居住者劉玉堂方ガ葬式ガアリ多数部落民集合シ居ル処ニ立寄リ米沢一郎ガ会葬者タル孟憲林当三十七年ノ着用シ居タル「ラシヤ製」ノ「オーバ」 ノ値段ヲ聞キタルトコロ値段ハ六拾円ナリト答へタルヲ以テ米沢一郎ハ六拾円ハ余リ高価ニシテ人ニ馬鹿ニシタ答へナリト憤慨シ孟憲林ノ腕ヲ捻上ケタルニ孟憲林ハ之ヲ振リ放シ米沢一郎ヲ地上ニ倒シタルヲ以テ清水守雄、小泉喜孝、横山米太郎ノ三名ハ協力シテ孟憲林ヲ乱打シタル為メ其場ニ居リシ会葬者多数孟憲林ニ応援シ乱闘トナリ衆寡敵セス右訓練生四名ハ散々ノ目ニ合ヒ第四中隊ノ留守隊ニ逃ケ帰リ此ノ旨同僚ノ佐藤好道、山田歳男、佐藤博、藤下直吉ニ告ケ応援ヲ得テ警備用ノ銃器ヲ携帯此ノ後始末ヲ附クへク再ヒ貝焼鍋ニ行キ劉玉堂方ニ於テ孟憲林ヲ取押へ先刻ノ不法ヲ詰問セシ処又モヤ部落民ノ為ニ暴行ヲ受ケ訓練生敗北ノ形勢トナレルガ山田歳男ハ部落民ニ縛上ケラレ袋叩キサレ居ルヲ以テ右訓練生七名ハ之ヲ救出セントシタルモ手段ナキニ依リ小銃ヲ携帯セシ小泉、横山、佐藤好道等ハ威嚇ヲ以テ発砲シタルカ依然山田ハ暴行ヲ与へラレ居ルヲ以テ佐藤博ハ小泉喜孝ノ携行シ居タル小銃ヲ受取リ悲鳴ヲ上ケ居ル山田ヲ救出スへク発砲シ其ノ場ニ於テ孟憲林ヲ射殺セリ尚清水、米沢、小泉,山田等ハ鳶口ヲ携帯闘争シ穆青山外三名ヲ負傷セシメタリ又被疑者清水守雄ハ乱闘ノ際軽傷シ居レリ
寧安県新安鎮での事件(1940年5月12日)
殺人
中村亀雄外四十三名
一、事実
1、寧安県新安鎮警察署管内海浪甲■訓練所生徒中村亀雄(当十九年)外五名ハ康徳七年五月十二日午後一時半頃五道子部落ニ於テ秋山洋行使用苦力魏清文(当二十八年)外一名ト言語不通ヨリ口論トナリ苦力ノ為殴打セラレタルニ憤慨シ帰所ノ上同僚ノ応援ヲ求メ中村以下十四名ハ該苦力ニ復讐スへク各々日本刀及棍棒ヲ携へ作業場ヲ襲ヒタルモ苦力数十名ノ逆抗ニ逢ヒ訓練生ハ退走シタルガ逃ゲ遅レタル岩下某(当十八年)ハ苦力ノタメ頭部ヲ殴打セラレ切創ヲ負ヒ全身ニ打撲傷ヲ受ケタリ
2、本事件ノ発生ヲ聞知シタル友野中隊長ハ現場ニ急行訓練生徒ヲ慰撫スルト共ニ本件発生ノ原因ヲ究明スベク関係苦力ノ主謀者ヲ訓練所ニ連行シ原因ヲ調査善後策ヲ講セムトシ至リタル際前記岩下頭部ニ繃帯シ戸板ニテ担ガレ帰所シタルヲ目撃セル訓練生一同ハ逆上シ中村亀雄外四十三名ハ日本刀及棍棒ヲ携へ再度大挙労力小屋ヲ急襲乱闘ヲ為シ苦力王殿臣ヲ殺害其ノ他重傷二名、軽傷十数名ヲ出シタリ
二、原因
1、日曜外出ヲ許可セラレタル前記中村外五名ハ訓練所所在地タル敷東屯南方二粁五道梁子部落ノ満人商店、民家等ヲ遊行シ居リタルガ其ノ際佐藤、清水ノ両生徒ハ訓練所支給ニ係ル地下足袋ヲ秋山洋行使用苦力ニ対シ之ガ購買方ヲ求メタルニ金銭ヲ所持セサル故ヲ以テ拒絶セラレタルニ痛ク憤慨シタルコト
2、秋山洋行苦力頭薜某ノ愛撫シアル番犬ヲ前記訓練生中村等ガ打捕連行セントシタルニ苦力ニ制止セラレタルニ端ヲ発シ口論トナリ苦力ノタメニ殴打セラレ中村外一名ハ手ニ軽傷ヲ負サレ憤慨シ居タルコト
3、訓練生中村等ハ前記闘争ニ敗北シ帰所後同僚十四名ト相謀リ之ガ復警ヲスべク日本刀、棍棒ヲ携ヘ苦力作業場ニ殺到セルガ反ッテ労力ノ反撃ニ逢ヒ同僚岩下ハ頭部数ヶ所ニ切創ヲ負サレタルヲ以テ益々憤慨シ遂ニ前記ノ如ク大挙三度苦力小屋ヲ襲ヒ本件ノ如キ不祥事ヲ惹起スルニ至リタリ
三、部民ニ及ホセル反響
本件ハ訓練生対苦力ニシテ部民介在シ居ラサルタメ目下ノ処反響概シテ軽微ナルモ該地附近一帯ノ住民ハ訓練所設置ニ伴ヒ耕地ヲ失ヒ遂ニハ部落ノ撤退ノ止ム無キニ立到ルニ非スヤト懸念シ居レル際斯ル不祥事件ノ惹起ハ将来開拓政策遂行上看過シ得ザルモノアリ
開拓青年義勇隊満鉄豊栄訓練所(1940年10月6~7日)
騒擾
山崎義雄
外百七名一、開拓青年義勇隊満鉄豊栄訓練所ハ十六歳乃至二十一歳ノ訓練生三百三十名ヲ収容シ居ルモノナルトコロ
(イ)康徳七年十月六日午後七時頃池田健蔵外五名ハ永安二道溝ニ赴キ部落民孫喚章ニ対シ鶏ヲ貰ヒ度キ旨要求シ家人ヨリ之ヲ拒マレタルニモ拘ラズ鶏一羽ヲ捕へ又連行シタル畜犬ガ食ヒ殺シタル鶏一羽ヲ所持シ隣接セル趙国喜方ニ立寄リ鶏卵二十個ヲ要求無償ニテ貰ヒ受ケタル上更ニ隣家于延海方ニ立入ラントセシニ同家ハ之等訓練生ノ来ルヲ知リ逸早ク門ヲ閉メタル為入門スルコトヲ得ズ片言ノ満語ニテ開門ヲ迫リタルニ家人ガ大声ヲ発シタルニ依リ部民数名来集セルヲ以テ訓練生ハ即時其ノ場ヲ引揚ゲ帰所後他ノ訓練生ニ対シ自己ノ不当行為ハ之ヲ秘シ部落民ヨリ不法ニ包囲セラレ又ハ追跡セラレタル如ク吹聴セルヲ以テ之ヲ聞知シタル五十余名ノ訓練生等ハ報復センコトヲ企テ小銃三挺、銃剣三挺、短刀木剣棍棒十数本ヲ用意シ同夜九時半頃私カニ訓練所ヲ出デ前記于方ニ到リ実包数発ヲ威嚇的ニ発砲シ閉扉セル門ヲ破壊シ家屋内ニ侵入シ戸、障子其ノ他ノ器物ヲ破壊又ハ家人ヲ殴打シタル上翌七日零時半頃帰所シ
(ロ)更ニ前夜ノ暴行ヲ以テ満足セザルノミナラズ其ノ際訓練生一名軽傷ヲ負ヒタルタメ翌七日早朝来一部訓練生内ニ於テ更ニ襲撃ヲ為サンコトヲ企図シ各訓練生ニ伝へタルトコロ同意者九十七名ニ及ビタルヲ以テ前回同様小統三、銃剣三、短刀、木剣、棍棒等十数本ヲ用意シ午前十時頃三々五々訓練所ヲ立チ出デ部落ニ到着二隊ニ分カレ一組ハ二十里站一組ハ二道溝及頭道溝部落ニ侵入小銃十数発ヲ発砲シ部落民ヲ威嚇シ約二十戸ニ侵入戸、障子、家財道具数十点ヲ破壊シ、家禽、家畜類ヲ殺傷其ノ他小道具、衣類、食糧品、小額ノ現金等数十点ヲ強奪シ避難セントシタル部落民ヲ追跡シ銃剣ニテ斬付ヶ棍棒ヲ以テ多数ノ人民ヲ殴打セル他婦女子ニ短刀ヲ突キ付ヶテ脅迫シ脱袴ヲ為サシムル等ノ暴戻ナル行為ヲ為シ重傷者一、軽傷者五名ヲ出サシメ強奪品ヲ所持シテ午後二時半頃帰所シタルモノナリ
二、処置
県ヨリ警務科長以下十二名出動シテ検挙司法事件トシテ捜査ヲ開始一方宣撫ト負傷者ノ治療ニ当ル
三、原因
訓練生ノ精神的弛緩、誤レル優越感、少年ノ面白半分ノ気分、度々部落ヨリ家畜ヲ窃取スルタメ于延海等ガ不快ニ思ヒ冷遇セルヲ侮辱セリト考へ血気ニ逸リ本件ニ及ブ
部落民ニ与へタル精神的影響ハ実ニ重大、元来開拓ハ元住民ノ土地買収、転住等相当深刻ナル犠牲ヲ彼等ニ与へ居ル際斯ル非行ハ一層開拓民ニ対スル反感ヲ唆リ開拓政策ニ対シ一大暗影ヲ投ジ満人層ニ反満反日的ナル一大底流ヲ作ルモノナリ
教育勅語は、1890年に発布され日本国民の道徳の基礎となった。この記事で紹介した在留邦人の振舞いは、教育勅語施行50年の成果に他ならない。
- 日清通商航海条約第22条 [↩]