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【解説】日本人の内地侵出と満蒙問題 ― II. 満洲に配置された日本の警察

注意:

この記事は前の記事「I. 南満東蒙条約の強制性」の続きです。

外務省警察史」やワシントン会議等、複数回参照している資料がありますが、同じページへの参照が何度も繰返される場合はリンクを省略します。

概要

 日本帝国は中国に日本の警察を配置して活動させていた。日本の警察は、租借地・鉄道附属地・租界だけでなく、自開商埠地1 や未開放地2 にまで不法に配置され、様々な形で中国の主権を侵害した。

 満洲に配置された日本警察には、関東庁警察3 と「外務省警察(領事館警察)」の2種類があった。また、朝鮮総督府警察が独立運動家等を追って勝手に満洲へ越境侵入することもあった。

自開商埠地・未開放地への設置と中国側抗議

 1916(大正5)年8月17日、石井菊次郎外相は在満各公館宛に、満鉄附属地外に開設された警察官吏派出所につき「設置及支那側ノ承認ノ有無等詳細御取調報告相成度シ」との通達を出した。史料集「外務省警察史」では、この後に各公館からの返信が続く。自開商埠地や未開放地で、中国側に無断で開設して抗議を受けている例が多く見られる。抗議が止むまで遣り過ごした上で「今は黙認されている」等と報告したり、私服勤務や門標不掲示によって派出所を目立たなくしたりして、派出所の設置を既成事実化しようとする意図も明確に伺える。

 1924年には、奉天の船津辰一郎総領事から未開放地での警察配置状況が報告されている4 。未開放地には217人配置されている。外務省警察はそのうち157人だ。「外務省警察史」の統計(後述)から、この時期(間島も合わせた)満洲に配置された外務省警察の人員は約500人と推計されるので、外務省警察の約3割強が不法に未開放地に設置されていたとみられる。

 これらの報告は駐在所毎に抗議を受けたとか受けていないとか分類しているが、日本による内地5 での警察配置は、1919年のパリ講和会議と1922年のワシントン会議において全面的に抗議を受けて撤退を求められている。結局全ての駐在所が抗議を受け撤退を求められていたのである。

対華21ヶ条要求前

 辛亥革命前から日本人は中国の内地に侵出していた。開原・昌図・公主嶺には日露戦争で満洲へやってきた日本軍に付いてきた御用商人を中心とする邦人が居り、外務省警察も置かれていた。これについて奉天の萩原守一総領事は1906年12月、林董外相宛の通信で

右ノ地ハ日清間ニ協定セラレタル開放地ニ無之従テ我方ハ清国政府ニ対シ当然ノ権利トシテ本邦人ノ取締ヲ領事ノ職権ニ包括シ難キ事情有

と述べた6 。しかし関東都督府警察が鉄道附属地内で活動することになるので、都督府警察に未開放地の邦人もついでにカバーさせてはどうかと提案する。これを林外相は

関東州以外ニ於ケル関東都督警察権ハ鉄道租借地内ニ限ラルヽハ管制上既ニ確定シ居ルノミナラズ鉄道租借地以外ニ都督府警察権ヲ及ボスハ清国政府ニ於テモ到底承諾セザル所ニ有

として却下している7 。しかし1907年4月、日露戦争の撤兵が完了する頃になると、林外相は奉天の吉田総領事代理に対して下記のように指示する8

此度満洲ニ於ケル撤兵ヲ完了シタルコトヲ清国政府ニ通告スルコトニ決定シタルニ付昌図及開原ノ我警察出張所ハ之ヲ閉鎖シ単ニ巡回滞在ノ名義ヲ以テ現在ノ警察官ヲ駐在セシムル様取計ハレ度若清国官憲ヨリ撤兵完了ノ故ヲ以テ右両地本邦居留民及警察官ノ退去ヲ要求シ来リタルトキハ撤兵完了後本邦人ノ不開港場ニ居住スルノ権利アルコトハ帝国政府ノ主張ニアラズト雖既ニ今日迄同地ニ在留シタル者ハ財産ノ整理、営業ノ仕末、貸金ノ取立等ヲ為スノ必要アリ直ニ引揚ゲシムルコト能ハザルノミナラズ一旦同地ニ居ヲ定メ営業ニ従事中ノ者ニ対シテハ成ルベク引続キ在留ヲ許スコトハ地方ノ開発上ニモ利益アルベキヲ以テ此等ニ限リ其ノ在留ヲ許容スルコト妥当ナルベキ旨ヲ答ヘラレ尚右滞留者取締ノ為警察官ヲ駐在セシムルモ亦已ヲ得ザルコトヲ主張セラレ可成我目的ヲ達スル様御取計相成度公主嶺ニ付キテモ同様取計ハレ度シ

 こうして実際的な必要性を主張する形で、邦人の住む所なら自開商埠地だろうと未開放地だろうとお構い無しに、外務省警察は設置されていった。法的に正当性が無いので、上述のように、派出所はしばしば無断で目立たないように開設され、抗議を受けても遣り過して「自然承認」等とされたのである。

警察配置巡る日中間の応酬

日本側

 1922年のワシントン会議のときも、日本側は内地での警察配置に法的正当性が無いことは認識していた。外務省内部でも会議に先立って抗議されることを想定し、全権に対する訓令の中で警察の配置について「別ニ条約上ノ根拠アル次第ニ非ザルヲ以テ……」述べつつ、それでも警察を撤退させない方針を立てていた。警察配置を正当化する為に練られた理屈には、主に次のようなものがあった。

(1) 警察権は治外法権に含まれる。

(2) 外国人家宅不可侵原則により、中国の警察は治外法権国人の家宅や船舶に逃走した犯人を取締れない。だから日本の警察が必要だ。

(3) 在留邦人の取締・保護の為已むを得ず必要となる。

(4) 日本の警察は中国人には手を出していない。だから別にいいじゃないか。

 (2)の「外国人家宅不可侵原則」は日清通商航海条約第24条を日本側で解釈して編み出したものだが、後に外務本省は(2)よりも(1)と(3)に重点をおいて正当化すべしとの見解を述べ9 、(2)を使うことには否定的な立場をとる。したがって日本側外務省の採用した法的な理屈は主に(1)ということになるが、これは極めて苦しい理屈であった。日本政府が安政条約下で治外法権撤廃に取組んでいた1888年7月26日、大隈重信外相は山縣有朋内相宛「神戸港外国人雑居地販締リニ関スル指令案照会ノ件」の中で

居留地ハ兎モ角モ雑居地及其他ノ地ニ係ル警察権ハ嘗テ条約又ハ其他ノ取極等ヲ以テ締盟諸国へ分与シタル儀一切無之ニ付其我ニ属シ居ルハ勿論ノ儀ニ有

と述べ、山縣の賛同を得て、兵庫県に対して10月6日に下記の指令を発した。

伺出之趣雑居地ニ係ル警察権ハ固ヨリ帝国政府ニ専属候ニ付外国領事ト協議ヲ遂クルヲ要セス外国人ノ名義又ハ所有ニ係ル家屋ト雖モ伺出ノ如ク特別ナル取扱振ヲ設クルノ必要ナシ日本人ノ家屋同様ニ取扱フ可シ尤モ従来等閑ニ相成居候ニ付一時或ハ紛議ヲ生ス可ケレハ可成正当着実ニ我警察権ヲ行ヒ我法律規則等ニ違反無之様精々注意ス可シ

 大隈外相は更に1989年3月13日、函館に外国人居留地を抱える北海道宛に下記の訓示を発している10

抑モ帝国ガ諸外国ト条約ヲ締結シ以テ帝国ノ行フベキ権ヲ特ニ条約ニ依リ彼ニ譲与シタルモノハ独リ民刑事件ヲ裁判スルノ件ニシテ朝鮮人ヲ除キ他ノ締盟各国ノ人民ニ我裁判権ノ及バザルハ条約上規定スルトコロナリト雖モ警察権ノ如キハ固ヨリ行政権ニ属スルモノナルヲ以テ其我ニアルハ勿論ナリトス故ニ現行犯等ノ如キ我治罪法ニ拠リ判事ノ令状又ハ命令ヲ俟タズシテ司法警察官及巡査ニ於テ直チニ犯罪人ヲ逮捕シ得ベキ場合ニ於テハ内外人ノ区別ヲ要セズ之ヲ逮捕スルコトヲ得而シテ外国人ハ我裁判権ニ服従スルノ義務ナキモノナルヲ以テ司法警察官若クハ巡査ハ之ヲ犯罪人所轄ノ領事ニ引渡シ我検察官ノ手ヲ経テ該領事ヘ求刑ノ手続ヲ為スベキモノトス又之ニ反シ判事ノ令状若クハ命令ヲ俟テ逮捕スベキ場合ニ於テハ被告人所轄領事ノ依頼アルニアラザレバ之ヲ逮捕スルヲ得ズ

 不平等条約改正に取組んでいた頃の日本政府は、外国人居留地(中国での「租界」に対応)外で治外法権国の警察権が治外法権に含まれないということを、明確に認識していたのである。

中国側

 中国側からしてみれば、対華21ヶ条要求のとき一生懸命抵抗してせっかく南満東蒙条約第5条に満洲内地の日本人につき「支那国警察法令及課税ニ服スベシ」という文言を入れさせたのに、完全に反故にされていることになる。例えば清華学校の国際法講師Minchien T Z Tyauは1917年1月25日のPEKING GAZETTEで、自開商埠地でも中国に警察権があるということ:

But in the case of ports opened voluntarily by China herself since 1898 e.g. Yochow (Hunan) Santuao (Fukien), Changsha (Hanan), Nanning (Kuangsi), Tsinan (Shantung), etc., the municipal administration as well as the police control are vested in the Chinese authorities.

と、南満洲に於ける日本の警察配置が南満東蒙条約第5条に違反すること:

The words of Article V are clear, plain and explicit: “The Japanese subjects shall also submit to the police laws and ordinances and taxation of China”. Consequently, to permit the establishment of Japanese police-stations in South Manchuria in face of the express provision that Japanese subjects shall submit to Chinese police laws, is to render the stipulation in question meaningless―a procedure which is a direct contravention of the axiom that “it is to be taken for granted that the contracting parties intend the stipulations of a treaty to have a certain effect, and not to be meaningless” (Oppenheim, International Law, vol I, 586). In the absence of any declaration that the treaty of 1915 is null and of no effect, its provisions are still valid, and therefore the demand of the Japanese to establish police-stations in South Manchuria is invalid and indefensible.

を指摘している。1919年のパリ講和会議でも中国は日本の警察の問題を取り上げ、

既ニ日本居住民監督保護ニ関スル協定存スル以上特ニ警察官ノ派遣ノ必要ナカルベク又本問題ト治外法権トハ別箇ノモノト思考シ支那政府竝地方官憲ハ従来屡次抗議ヲ提出シ来リタルモノナリ

として「警察配置の権利は治外法権に含まれる」という日本側の屁理屈を否定し、警察の即時撤退を求めている。

 一方、ワシントン会議における中国側のスタンスは、対華21ヶ条要求の強制性を理由に南満東蒙条約全体の再審・無効化を求めるものであり、警察配置への抗議も基本的に南満東蒙条約には依拠していないようである。極東問題総委員会第6回会議では「支那ノ抗議アルニ拘ラズ強ヒテ警察権ヲ行使スルハ条約上竝国際法上ノ根拠ナシ」と述べた上で、

治外法権ヲ享有スル諸国モ日本ノ警察権ノ併有ヲ主張スルモノナシ満洲ニ於ケル日本人ガ多数ナリトノ事実ハ同地ニ警察権ヲ樹立スルノ正当且充分ナル論拠ト為スコトヲ得ズ

と反論している。租界でも植民地でもない所で勝手に警察を配置していたのは、治外法権国の中でも日本だけだったというのである。更に、日本側の「支那内地ニ於ケル日本警察官ノ駐在ガ支那人又ハ外国人ノ日常生活ニ何ラ干渉スルコトナク」という言説に対しても、次のように真っ向から反対の見解を述べている。

支那全権ハ日本警察官ガ支那人ニ干渉シタルコトナシトノ日本全権ノ陳述ヲ疑ハザルヲ得ズ日本警察官ガ支那領土内ニ於テ支那人ヲ逮捕シ又ハ之ヲ拘束セル例ハ無数ニ之ヲ挙グルコトヲ得ベシ

日本の警察は中国人に手を出したか

 筆者の知っている範囲では、日本の警察が中国内地でいつ何人の中国人をどう取締まったかを示す具体的な統計は無い。しかし、日本警察官が「中国人ニ干渉シタルコトナシ」とする日本全権の陳述は極めて疑わしい。ワシントン会議より前の時期だと、1913年7月7日附で外相から関東都督宛に下記の公信が出ている11

南満洲各地方ニ駐在スル我警察官憲ハ南満洲ニ於ケル我特殊ノ地位ニ鑑ミ支那人ニ対シ十分威厳ヲ保ツト共ニ警察権ノ執行ニ当テハ平素極メテ慎重ナル考慮ヲ用ヒ苟モ他ヨリ非難攻撃ヲ受クルガ如キ事態ヲ発生セシメザル様注意スベキ義ニ有之処南満洲就中鉄道附属地沿線各地ニ於テハ我警察権ノ支那人ニ対スル態度穏当ヲ欠キ或ハ徒ラニ支那人ヲ侮蔑シ又ハ其ノ取扱時ニ苛酷ニ失スルヤノ風聞ハ往々耳ニスル所ニシテ之ガ為支那官憲ヨリ我官憲ニ対シ抗議ヲ提起シ来リタルコト一再ニ止マラズ特ニ近クハ御承知ノ長春「ボイコット」事件ノ如キ交渉案件ヲ生ズルニ至リシハ甚ダ面白カラザル次第ニ有之而シテ従来此種物議ノ発生ヲ見タルハ大要左ノ如キ場合ニ属スル様思考セラル

一、我警察官ガ支那人ノ身分アル者就中大商店ノ支配人ノ如キ者ヲ現行犯ニ非ザル際犯罪嫌疑者トシテ拘留スル場合

二、我警察官ニ於テ支那人ニ対スル審問ニ際シ拷問ニ類スル手段ヲ用フル場合

三、我警察官ニ拘留中ノ支那人ガ原因ノ如何ヲ問ハズ変死ヲ遂ゲタル場合

四、日本人ニ対スル犯罪ノ証拠明白ナルモ現行犯ニ非ザル支那人ヲ鉄道附属地以外ニ於テ準現行犯トシテ引致スル場合(此場合ニハ支那巡警等之ヲ奪還セントシテ往々騒擾ヲ惹起スルコトアリ)

此等物議ハ支那側ニ於テ自家ノ非行ハ之ヲ差措キ只我官憲ヨリ圧迫ヲ受ケタル廉ノミニ関シ針小棒大ノ言ヲ為シ喧シク不平ヲ訴フルト共ニ下級官吏及新聞記者ニ叨リニ対外硬ヲ衒ヒテ事毎ニ小理屈ヲ竝ベテ我方ニ抗争セントスル傾アルニ出ヅルコトモ尠カラザルベキモ我警察官ガ其ノ職務執行上周到ナル注意ヲ欠キ左程重要ナラザル事項ニ過度ノ手段ヲ用ヒ為ニ意外ノ物議ヲ惹起スルニ至ルガ如キハ我方ニ取リ甚ダ不得策タルハ申迄モナキ義ニ有之特ニ鉄道附属地以外ニ於ケル犯罪ノ捜査検挙等ニ関シ日本内地ト同様ノ考ヲ以テ支那人ヲ遇シ又ハ支那人ニ臨ムニ徒ラニ侮蔑ノ念ヲ以テスルガ如キハ面白カラザル事態ヲ惹起スルノ因タルベキニ付責任者ニ於テ平素十分適切ナル指導監督ヲ行ヒ部下警察官ヲシテ事件ノ性質、周囲ノ状況等ニ応ジテ随時適宜ノ処置ニ出デシメ一面日本居留民ノ安寧利益ヲ図ルト共ニ多面出来得ル限リ支那側トノ間ニ物議ヲ惹起セザル様致度シ

 この公信は日本警察官憲の中国人に対する残虐性や侮蔑的態度こそ戒めているものの、鉄道附属地外で中国人を取締ること自体は明確には否定していない。

 ワシントン会議より後の時期には、例えば1924年7月4日に在長春日本領事館から外務大臣に宛てられた「警察官ノ支那人取扱改善ニ関スル件」がある。満鉄附属地内の関東庁警察についての記述だが、下記のように書かれている。(■は筆者が判読できなかった文字)

犯罪及警察関係ノ事務ニ没頭セル彼等トシテハ動モスレバ支那人ヲ劣等視スル潜在意識ノ■動ヲ見支那人ニ対シ殴打創傷ヲ加フルノ例不尠殊ニ甚シキハ犯罪嫌疑者ノ審問ニ際シ拷問ヲ行ヒ犯罪ヲ自白セザル者ニ対シテハ鼻ヨリ冷水ヲ通シ鉛筆ヲ手指ノ間ニ挿入シテ強制ヲ加ヘ甚シキニ至リテハ麻縄ニテ身体ヲ縛リ上ゲ胸間ニ煙草火ヲ押シ付ケ又ハ小金棒様ノモノニテ強ク筋骨ヲ撫デ上ゲテ自白ヲ強要シツヽアリ右拷問ハ成ルベク後日ニ証跡ヲ遺サヽル方法ヲ講ズルニ努ムルモ時々失敗ニ終ルコトアリテ問題ヲ惹起シ居レリ現ニ最近当地ニ於テ支那旅館悦来桟使用人其他両三名ニ対スル拷問事件起リ支那官憲ヨリ非公式ニ本件ヲ提起セラレ其処置ニ頗ル困難ヲ感ジタル事アリ

(中略)

此種拷問等ノ暴行ハ沿線各地ニ行ハレ居ルガ如ク当地ニ於テハ過去一年間ニ於テ既ニ数件アリ之ニ対スル警察署長ノ態度ヲ見ルニ(小官著任以来署長三名更迭セリ)各署長ノ性格等ニ依リ素ヨリ相違アルモ何レモ満足ナル処■ヲ行ハズ甚シキハ関係者タル部下ガ全然干知セズト申立ツレバ其儘之ヲ取次ギ敢テ別ニ署長ノ意見及善後策ヲ立テントハセズ稍良好ナルモノハ関係支那巡捕ヲ免職スルモ邦人警官ニ対シテハ容易ニ責任ヲ負ハシムルコトヲ肯ゼズ(前顕拙信参照)此場合ニ於テモ巡捕ノ罷免スラ当方ヨリノ厳重ナル要求ニ基キ漸ク決行セラルヽ実状ナリ右ハ満洲ハ所謂馬賊ノ巣窟ニシテ之ガ逮捕竝審問ハ頗ル困難ノ■ニ■シ時ニ或ハ無理ヲ行フニ非ザレバ犯罪ノ発見及防止ノ功ヲ奏セザル実状ナルニ右ノ如キ失態アル場合一々責任ヲ負ハシムルハ警察官ノ士気ヲ阻喪セシムルモノナリトノ見解ヨリ来タルモノニシテ又一方署長ノ関東庁ニ対スル責任及立場ヲ無難ナラシメントスルニモアルベク前者ハ一応寔ニ止ムヲ得ザルニ■ツト認メラルヽモサリトテ支那側ニ対シテハ支那官兵等ノ暴行事件発生スル度ニ暴行者並直接監督者ノ処罰ヲ要求シ乍ラ我ニ仝種ノ事例発生セル場合ニ相手方ヨリ正当ト認メルヽ処置ヲ執ラザルニ於テハ■■■ノ憾多ク我方ノ誅意ノミナラズ日本警察ノ信用ヲ害スルノ甚シキモノナル処

 1925年6月には、所謂「不逞鮮人」を追ってしばしば満洲まで越境侵入してくる朝鮮総督府警察につき、日中間で会合が持たれた。中国側は、越境侵入する朝鮮総督府警察の素行について、

貴国警察官ノ我領域ニ越境進入スルコトニシテ殊ニ多クノ場合此等警察官ハ変装シ而モ進入後弊国住民ニ対シ殺人放火等ノ惨行ヲ敢テスルモノアリ之ガ為ノ損害亦尠ナカラズシテ我地方官憲ノ業務執行上多大ノ困難ヲ伴フコト……

等と説明して、越境侵入の停止を求めた12

 1926年1月26日には、奉天の吉田茂総領事が斎藤実朝鮮総督との会談の中で、満洲で日本人・朝鮮人の土地商租権13 が阻害されがちである14 背景の1つとして、下記のように述べている。

従来日本人若クハ朝鮮人ノ居住スル所我カ警察官派遣セラレ其ノ警察官ハ未開放地タルト否トニ頓着ナク保護ト称シテ地方官民ニ対シ遠慮ナク立振舞ヒ所在地方官民ノ反感ヲ買ヒツヽアリ

 1929年11月30日附「満洲ニ於ケル行政機関ノ統一ニ関スル件」の中では、奉天の森島守人総領事代理が幣原喜重郎外務大臣に下記のように報告している。

(イ)昨年六月四日張作霖座乗列車爆破事件発生ノ際当館ニ於テハ某方面画策ノ所為タルベシト疑ハルル節一二アリシヲ以テ仮令外部ニ対シテハ事件ノ内容ヲ秘密ニ附スルトスルモ事件ノ内容ヲ仔細ニ調査シ置クコト将来ニ於ケル外交並内政関係上緊要ナリト認メタルヲ以テ奉天警察並ニ領事館警察ニ厳重ニ命令シ事実ノ探査ニ当ラシメタルモ警察官ノ活動充分ナルヲ得ズ事件発生直後ニ完全ナル調査報告ヲナスヲ得ザリシ次第ナルガ爾後警察側ノ内密ニ館員其他ニ漏ス処ニ依レバ事件発生直後ニ於テモ警察側ニ於テハ相当根據アル証拠材料並ニ資料ヲ蒐集シ居リタルニ拘ラズ領事館ニ対シ故ラニ之ガ提示ヲ差控ヘタルコト疑ヒヲ容レズ。

右ハ関東庁側ニ於テハ事件ノ背後ニ某方面アルモノト信ジ某方面ト関東庁トノ紛争ヲ来スベキコトヲ懸念シ事件ノ直後其ノ内容ニ立入ルコトヲ避クベキ旨警察側ニ内命シアリタル結果ニ依ルモノニシテ若シカカル内命ナカリシニ於テハ事件直後ニ於テ其真相ヲ明カニスルヲ得政府トシテ対内対外両方面ニ亘リ一層有利ニ事件ノ処理ヲナシ得タリシコト推察ニ難カラズ

(ロ)前述列車爆破事件ノ直後本官ハ警察署長ニ対シ浪人連ノ陰謀計画ニ対シ厳重取締ヲ励行スベキ旨ヲ命ジタルニ不拘関東庁並警察ノ態度前述(イ)ノ如クナリシヲ以テ警察ノ取締徹底セズ遂ニ六月十日夜商埠地日本居留民会附近家屋ニ対スル爆弾投下事件発生シタルガ爾後諸般ノ情報ヲ綜合スルニ列車爆破事件直後刑務局長ハ浪人連ノ取締ヨリ某方面関係ヲ摘発セムコトヲ懸念シ管下ノ警察署長ニ対シ浪人連取締ニ手加減ヲ用フベキ旨内命シタルコト確実ニシテ警察側ニ於テハ事件直後爆弾投下者其ノ他ノ関係者ニ付住所姓名ニ至ル迄確実ナル資料ヲ有シ居タルニ不拘之ヲ当館ニ提出セザリシハ右局長ノ内命ニ基クモノト思料セラル

(中略)

(ヘ)本年二月張宗昌関係本邦浪人等ノ奉天城内爆破計画アルヤ奉天警察署長(兼領事館警察署長)ハ之ガ情報ニ接シ居タルニモ不拘前述張宗昌ニ対スル関東庁ノ遣口ヲ考慮シタル為ナルニヤ之ガ取締検挙等ニ関シテハ予メ関東庁側ノ意向ヲ伺フノ必要アリトシ領事館ニ対シ何等通報スルコトナク他用ニ藉口シ旅順ニ赴キタリ幸ニ領事館ニ於テモ民間ヨリ右情報ヲ入手シタルヲ以テ署長不在中ニ関係者一味ヲ検挙シ本件計画ガ防止スルヲ得タルモ右民間側ヨリノ情報ナカリセバ出先機関ニ於テ右計画進捗ノ事実ヲ知リ乍ラ之レヲ防止スルヲ得ズ外交上憂慮スベキ結果ヲ招致シタルベキコト推察ニ難カラズ

 中国側からしてみれば、日本の警察は官民のテロリストや工作員を庇って要人暗殺にまで加担し、情勢を撹乱していることになる。治外法権如きでは到底正当化し得ない露骨な主権侵害である。(ワシントン会議後の史料が多くなったが)以上のことからも、ワシントン会議で日本全権が述べた「支那内地ニ於ケル日本警察官ノ駐在ガ支那人又ハ外国人ノ日常生活ニ何ラ干渉スルコトナクシテ日本在留民ノ犯罪予防上実際極メテ有益ナルノ実証ハ斯クテ看取セラルベシ日本ノ警察権ノ執行ハ支那ノ社会ニ保護ヲ与フルモノニシテ支那現在ノ警察組織ハ之ヲ与フルコトナシ」との認識は間違っていたと見てよい。

 外務省警察による中国内政への干渉で最も有名な事例と言えば、満洲事変直前に起きた万宝山事件であろう。

万宝山事件

[]で史料「万宝山事件」における該当文書の番号を示す。

 1931年春、長春県三姓堡の約500晌15 の土地に210人(43戸)の朝鮮人農民が移住して来た[167][168]。そこで稲作を始める為に、1931年4月、彼等は伊通河から水を引く水路とダムの建設工事を開始した。水路は幅約10m、深さ約5mであった16

愛知学院大学人間文化研究所「人間文化」22号 菊池一隆「万宝山・朝鮮事件の実態と構造」26頁図2
愛知学院大学人間文化研究所「人間文化」22号 菊池一隆「万宝山・朝鮮事件の実態と構造」26頁図2 より

 この水路の用地には契約未了の所もあり、現地農民の土地を横切って分断する所があった[170][185]。また現地では、工事に伴う伊通河の堰止が上流で浸水被害をもたらすことも懸念された。このような中にあっても朝鮮人農民等は工事を強行した為、現地農民と紛争をきたした[178]。現地農民の苦情を受けて中国の官憲が工事を取締りに来たのに対抗して、現地の日本領事館は紛争現場に外務省警察を派遣して工事を支援した[172][174]。外務省警察は工事に反対する現地農民を「暴民」と規定[197]、銃を装備してこれに徹底抗戦を挑んだ[198]。現地農民と外務省警察との間では一時銃撃戦17 も見られた[200]。派遣された外務省警察は7月3日には46人に及んだ[203]。7月11日に工事が完了した後、外務省警察は8月8日まで現地に居座った[257]

 この紛争について中国の王正廷外交部長は、

日本ハ朝鮮人ノ希望スル帰化ヲ認メス右鮮人ニ対シテ警察保護ヲ延長スル結果茲ニ両国警察ノ衝突スルハ当然ナリ

とコメントしている[235]

 対華21ヶ条要求第2号で中国側が最も強硬に抵抗したものの1つが、日本人(朝鮮人を含む)に南満洲での土地商租権を認めるというものであった。これは南満東蒙条約第2条で明文化された。この実際の運用において、日本人と現地人との商租契約を現地の地方政府等が阻止して、日本側がこれを「条約違反」として抗議するという、所謂「土地商租権問題」が慢性化しており、日本ではこれが満洲事変前の所謂「満蒙問題」の代表格の1つに位置付けられていた。しかし万宝山事件の例からも分かるように、日本人や朝鮮人に土地を与えて住み着かせれば、もれなく外務省警察の影響もセットで付いて来たのである。中国側からしてみれば、軍事威圧で強制されたこのような条項を馬鹿真面目に遵守しても、一方的に主権を蹂躙されるだけだったのである。中国側当局が日本人の土地商租を阻止する為にとった様々な策動は、自衛の為真に已むを得ないものであったと言える。

満洲事変まで

 「外務省警察史」の統計によれば、満洲に配置された外務省警察の人員・装備の推移は下記のようになっている。

満洲(間島を除く)における外務省警察の人員推移
間島における外務省警察の人員推移
満洲(間島を除く)における外務省警察の人員推移
満洲(間島を除く)における外務省警察の人員推移 復刻版「外務省警察史」(不二出版)第18巻180頁 在満領事館警察機関警察官(巡捕、警察傭員共)配置累年別表 より
間島における外務省警察の人員推移
間島における外務省警察の人員推移 復刻版「外務省警察史」(不二出版)第27巻280頁 在間島総領事館及同分館警察機関ノ警察官配置人員表(1925年3月は第5巻142頁 大正十四年三月行政整理直後外務省警察官定員表、1931年8月31日は第5巻147頁 昭和六年八月三十一日現在外務省警察官現員表) より

※ ↑グラフは直上の表に対応

満洲(間島を除く)における外務省警察の銃器弾薬備附推移
満洲(間島を除く)における外務省警察の銃器弾薬備附推移 復刻版「外務省警察史」(不二出版)第18巻188頁 在満領事館警察機関銃器弾薬備附累年別表 より
間島における外務省警察の人員推移
間島における外務省警察の人員推移 復刻版「外務省警察史」(不二出版)第27巻280頁 在間島総領事館及同分館警察機関ノ警察官配置人員表(1925年3月は第5巻142頁 大正十四年三月行政整理直後外務省警察官定員表、1931年8月31日は第5巻147頁 昭和六年八月三十一日現在外務省警察官現員表) より

 幣原喜重郎外相の所謂「協調外交」においても、結局未開放地から外務省警察を撤退させることは無かった18 。中国では張学良による易幟を経て国権回復の機運が高まり、外務省警察に対する反発は厳しさを増していたが、これに対する日本側の対応は、「警察署及同署長ノ名称ヲ用ヒザルコト」「警察官ハ制服ヲ着用セザルコト」等といった警察活動の不可視化であった19 。上で述べたように外務省警察の駐在所が中国側に無断で開設されていたこともあり、外務省警察の活動が不可視化されれば、日本人が内地で土地を商租したり建物を借りたりする度に、それを外務省警察の駐在所として使われる脅威に中国側は晒されることとなった。中国側は自身の主権を護る上で土地商租の阻止が益々必要になるのであった。幣原外交の始まる少し前にも、外務理事官の末松吉次が満洲に出張した際、この出張の目的を中国当地の地方政府が

東三省内地ニ日本警察官出張所二十八ヶ所増設ノ第一歩トシテ先ヅ便衣警官ヲシテ商民ヲ装ヒ民家ヲ借入レ居住セシメントスルモノナルニ付

と判断し、日本人に家屋を貸さないよう密令を発したことがあった20

 現場の警官の高圧的な姿勢もあまり改善されなかったようだ。先に引用した「満洲ニ於ケル行政機関ノ統一ニ関スル件」の冒頭では、森島総領事代理が

我方出先陸軍、警察官及一般居留民ノ対支態度ヲ見ルニ支那ノ新風潮ニ考慮ヲ払フコト少ク今尚依然トシテ高圧的態度ヲ脱セズ無用ニ支那官民ノ感触ヲ刺激シ却テ之等ヲ馳リテ暗々裡ニ邦人ノ経済的発展阻止ノ方途ニ出デシムルコト多ク徒ニ排日的風潮ヲ激発スルノ懸念少カラズ

と述べている。また外務省も1930年5月の時点で、

我出先警察官中ニハ今猶支那軍警ヲ軽侮スルノ風無シトセズ之ガ為自然支那側トノ意思ノ疎通ヲ欠キ此ノ間不良鮮人ニ利用セラレ些細ナル原因ヨリ意外ノ事端ヲ惹起シタル実例尠カラズ又同地方ニ於ケル鮮支人間ノ紛争事件ノ跡ヲ見ルニ我警察官ハ動モスレバ事情ヲ究メズシテ徒ラニ鮮人側ヲ支持シ又ハ不必要ニ支那側ヲ威嚇スルガ如キ態度ニ出デタル為支那側ノ反感ヲ買ヒ重大ナル結果ヲ見タル事例往々アリ

との観察を示している21 。この約1年後に先述の万宝山事件が発生し、その2ヶ月後に柳条湖事件が起きるのである。

まとめ

 満洲侵略によって関東軍が一併解決せんとした「満蒙問題」のうち、土地商租権問題等の南満東蒙条約第2条・第3条を巡る問題は、日本では動もすれば中国側の条約違反に端を発するものとして説明される。それに対し、この「日本人の内地侵出と満蒙問題」の記事では以下のことを述べた。

  • そもそも南満東蒙条約は軍事威圧で強制されたものであったこと
  • 日本が中国の内地に不法に警察を配置して活動させていたこと
  • もし中国側だけ一方的に南満東蒙条約を遵守して日本人の内地侵出を全面的に容認すれば、中国の主権が著しく侵害されたこと

 当時の中国側には、日本人の内地での土地商租を阻害する等、南満東蒙条約に違反する行為が確かに見られた。しかしこのような日本人の内地侵出への妨害は、中国の自衛の為に真に已むを得ない措置だったのである。

 但し中国側も、共産主義を弾圧する局面では外務省警察に協力する場面が見られた。安内攘外というスローガンがあったように、満洲事変の頃の中国国民党は、共産主義を弾圧する為なら自国の主権を蔑ろにすることも辞さなかったのである。この記事が外務省警察を取り上げているのは南満東蒙条約第2条・第3条にまつわる満蒙問題を論じる為なので、共産主義弾圧など外務省警察が持つ他の様々な側面には触れていない。下記の文献は、外務省警察について様々な観点から論じており、この記事を書く上で大いに参考にさせて頂いた。

  • 荻野富士夫「外務省警察史」(校倉書房)
  1. 中国の司法・警察に従うことを条件として中国政府が外国人向けに開放した領域 []
  2. 治外法権国人に対して開放されていない領域 []
  3. 1919年以前は関東都督府警察 []
  4. 未開放地ニ於ケル本邦警察官等ニ関スル調査書提出ノ件 []
  5. 租界でも租借地でも鉄道附属地でもない、中国の主権が及ぶ領域 []
  6. 「外務省警察史」第7巻49頁 明治三十九年十二月六日附在奉天萩原総領事発林外務大臣宛稟請要旨「開原、昌図及公主嶺ノ本邦居留民取締ニ関スル件」 []
  7. 「外務省警察史」第7巻50頁 明治三十九年十二月二十八日附林外務大臣発信在奉天萩原総領事宛回訓要旨「開原、昌図及公主嶺ノ本邦居留民取締ニ関スル件」 []
  8. 「外務省警察史」第7巻166頁 明治四十年四月十二日林外務大臣発在奉天吉田総領事代理電報要旨 []
  9. 京都大学人文科学研究所『人文学報』第106号(2015年4月)長沢一恵「ワシントン条約体制下の青島における領事館警察について」155頁 []
  10. 荻野富士夫「外務省警察史」(校倉書房)37頁より引用。原史料は外務省外交史料館分類番号4.2.1.5「本邦ニ於ケル警察取締規則雑件」 []
  11. 「外務省警察史」所収「南満洲ニ於ケル我警察官ノ支那人ニ対スル態度ニ関スル件」 []
  12. 鮮満国境警備問題ニ関シ日支両国関係者会同ノ情況送付ノ件 []
  13. 南満東蒙条約第2条で中国側に認めさせた権益。商租の意味は前の記事で説明済。 []
  14. 所謂「土地商租権問題」。関東軍が満洲侵略によって一併解決を目論んだ「満蒙問題」の1つ。 []
  15. 面積の単位 []
  16. 愛知学院大学人間文化研究所「人間文化」22号 菊池一隆「万宝山・朝鮮事件の実態と構造」25頁 []
  17. 死者は発生しなかったとの見方が一般的 []
  18. 「外務省警察史」第23巻338頁 昭和四年九月四日附幣原外務大臣発信在間島岡田総領事宛訓達要旨「間島地方ニ於ケル我警察権行使ニ関スル件」 []
  19. 「外務省警察史」第5巻251頁「外務省警察機関ノ改善ニ関スル件」(1929年8月20日、外務省亜細亜局第二課) []
  20. 末松吉次出張時の東三省側警戒態勢 []
  21. 「外務省警察史」第23巻422頁 「間島地方ニ於ケル我警察権ノ行使竝ニ警察官ノ充実ニ関スル件」 []