記事
【検証】「満洲国は傀儡国家でなく独立国家だった」のか?
論点
「満洲国は傀儡国家でなく独立国家だった」とする言説がある。これは正しいか間違いか。
結論
日本帝国のとった建前としては満洲国は独立国家だったが、実態は露骨な傀儡国家であった。

解説
日本帝国や満洲国が自ら「満洲国は日本の傀儡国である」と公言したことは無い。名目は飽くまで「独立国家」だった。しかし、実態は全く違った。
満蒙支配の計画
満洲事変の前から、関東軍は満蒙の支配を構想していた。参謀の石原莞爾中佐は1929年の段階で
満蒙問題ノ解決ハ日本ガ同地方ヲ領有スルコトニヨリテ始メテ完全達成セラル
(1929年7月5日「国運転回ノ根本国策タル満蒙問題解決案」)との考えを示していた。その後関東軍は満蒙支配に向けて調査研究に取組み、下記のような報告を挙げた。
- 「満蒙ニ於ケル占領地統治ニ関スル研究」ノ抜萃(1930年9月、関東軍参謀部)
- 「科学的に満蒙対策を観る」(1931年1月24日於旅順講演要旨、佐多弘治郎)
1931年9月18日夜、関東軍は奉天郊外の満鉄線路で爆破テロを自作自演し(柳条湖事件)、これを中国軍の仕業ということにして自衛の大義をでっち上げ、満洲事変を勃発させた。陸軍は若槻内閣の不拡大方針に逆らい、下記のような方針を策定:
満蒙ヲ支那本部ヨリ政治的ニ分離セシムル為独立政権ヲ設定シ――初期ハ三,四個所ニ地方政権ヲ設立セシメ適当ノ時期ニ中央政権ヲ樹立セシム――帝国ハ裏面的ニ此政権ヲ指導繰縦シテ彼ヨリ進ンデ帝国ニ信倚セシムル如クシ之ニ依リ懸案ノ根本的解決ヲ図リ満蒙ニ於テ帝国ノ政治的経済的地位ヲ確立スルコト
(1931年9月30日「満洲事変解決ニ関スル方針」)、
此新政権樹立の為には次の如き原則に準拠するのを有利と信ずる
一、満蒙を支那本土より全然切り離すこと
一、満蒙を一手に統一すること
一、表面支那人により統治せらるるも実質に於ては我方の手裡に掌握せらるること
而して右の新政権は結局実質的には我国の保護下に置かなければなるまい。尠くとも軍事、外交、交通の実権を収めるの要がある
(1931年10月6日「内田満鉄総裁に対する本庄関東軍司令官よりの懇談事項要旨」)、
情勢判断ニ基ク対策ノ主要ナルモノハ速ニ満蒙新政権ヲ確立スルニ存スルコト勿論ナルモ之レト同時ニ支那本部ニ対シテハ張学良及現国民党政権ヲ覆滅シ且之ニ依テ支那ヲ一時混乱ニ導キ世界ノ視聴ヲ満蒙ヨリ遠ザケ且為シ得レバ支那ニ数個ノ政権ヲ樹立セシメ南方ヨリ北方ニ至ルニ従ヒ日本色ヲ濃厚トナシ満蒙ニ至リテハ終ニ殆ンド帝国色タラシムル如クスルヲ以テ我根本方策トナス
(1931年12月4日「昭和六年秋末ニ於ケル情勢判断同対策」)、
方針
満蒙は軍威力の支持を以て在住諸民を包括する新独立国家を樹立せしめ国防及之に附帯する鉄道の実権を掌握し満蒙に於ける我帝国の政治、経済等に関する永遠的存立の性能を顕現し得る如き状勢に馴致するを根本方針とす
要綱
一、速に奉天、吉林、黒龍江三省主脳者を以て最初政務委員会を組織せしめ新国家樹立に関する研究準備に任ぜしむ
新国家は復辟の色彩を避け溥儀を主脳とする表面立憲共和的国家とするも内面は我帝国の政治的威力を嵌入せる中央独裁主義とし地方行政は特異の自治機構を助長する如くす
……
門戸開放、機会均等の主義を標榜するも原則に於て日本及日本人の利益を図るを第一義とす
(1932年1月27日「満蒙問題善後処理要綱」)。日本軍は東三省を制圧し、1932年3月1日、満洲国を樹立した。
溥儀-本庄秘密交換公文
犬養毅政権は満州国の承認を躊躇っていたが、軍部のテロリストが犬養首相を殺害(5.15事件)、後継の斎藤実政権の下で日満議定書が締結され(1932.9.15)、ここに日本は満洲国を承認するに至った。このとき、関東軍が満洲国との間で結んでいた下記の4つの協定を、引続き有効とすることが取決められた。
- 大同元年三月十日満洲国執政ヨリ本庄関東軍司令官宛書翰及昭和七年五月十二日同司令官ヨリ執政宛回答文
- 大同元年八月七日鄭国務総理ト本庄関東軍司令官トノ間ノ満洲国政府ノ鉄道、港湾、水路、航空路等ノ管理竝ニ線路ノ敷設管理ニ関スル協約及右協約ニ基ク附属協定
- 大同元年八月七日鄭国務総理ト本庄関東軍司令官トノ間ノ航空会社ノ設立ニ関スル協定
- 大同元年九月九日鄭国務総理ト武藤関東軍司令官トノ間ノ国防上必要ナル鉱業権ノ設定ニ関スル協定
このうち1.は特に、「溥儀-本庄秘密交換公文」とも言われ、満洲国が日本の傀儡国家として運営されていくことを決定的に運命付けた。この協定は満洲国(弊国)が日本(貴国)に依頼する形式をまとい、下記の五項目から成った。
一、弊国ハ今後ノ国防及治安維持ヲ貴国ニ委託シ其ノ所要経費ハ総テ満洲国ニ於テ之ヲ負担ス
二、弊国ハ貴国軍隊ガ国防上必要トスル限リ既設ノ鉄道、港湾、水路、航空等ノ管理竝新路ノ敷設ハ総テ之ヲ貴国又ハ貴国指定ノ機関ニ委託スベキコトヲ承認ス
三、弊国ハ貴国軍隊ガ必要ト認ムル各種ノ施設ニ関シ極力之ヲ援助ス
四、貴国人ニシテ達識名望アル者ヲ弊国参議ニ任ジ其ノ他中央及地方各官署ニ貴国人ヲ任用スベク其ノ選任ハ貴軍司令官ノ推薦ニ依リ其ノ解職ハ同司令官ノ同意ヲ要件トス
前項ノ規定ニ依リ任命セラルル日本人参議ノ員数及ビ参議ノ総員数ヲ変更スルニ当リ貴国ノ建議アルニ於テハ両国協議ノ上之レヲ増減スベキモノトス
五、右各項ノ趣旨及規定ハ将来両国間ニ正式ニ締結スベキ条約ノ基礎タルベキモノトス
中でも特に第4項目は、関東軍に満洲国の日本人官吏の任免権を掌握させ、関東軍が満洲国を操縦(内面指導)する為の重要な基盤となった。なお、この文書が満洲国から関東軍へ依頼する形式になっていることについては、関東軍参謀片倉衷の日記に
交換公文は一方的のものとして依頼の形とし国防及之に伴ふ鉄道管理権等を獲得す。
之将来国際紛糾に対する言質を与へざるを主眼とす。
(1932年1月22日「新満蒙自由国最高機関の研究」)と記されている。
日本人官吏の人数と総務庁中心主義
斎藤内閣は次の方針を閣議決定した。
満洲国ニ対スル指導ハ現制ニ於ケル関東軍司令官兼在満帝国大使ノ内面的統轄ノ下ニ主トシテ日系官吏ヲ通シテ実質的ニ之ヲ行ハシムルモノトス
日系官吏ハ満洲国運営ノ中核タルベキヲ以テ之ガ簡抜推挙ヲ適正ナラシメ之ニ本指導方針ヲ徹底セシムルニ付万遺憾ナキヲ期スルト共ニ特ニ此等日系官吏ノ活動ノ中心ヲ得シメ其ノ統制ニ便スル為総務庁中心ノ現制ヲ維持セシムルモノトス
(1933年8月8日「満洲国指導方針要綱」)この方針が示す通り、満洲国では国務院総務庁に財務・人事含む強大な権力が委ねられた1 。そして歴代の総務庁トップ(長官)は全員日本人で占められ、その他の重要ポストにも日本人が就いた。満洲国の総人口において日本人の占める割合は多いときでも3%に満たなかったと言われる2 が、満洲国の中央官庁では、官吏のうち日本人の人数・割合は以下のようになっていた。
(1) 1932年12月末時点
現在員 | |||||
日 | 満 | 計 | |||
人数 | 割合(%) | 人数 | 割合(%) | 人数 | |
参議府 | 6 | 40 | 9 | 60 | 15 |
立法院 | 2 | 4 | 46 | 96 | 48 |
監察院 | 23 | 56 | 18 | 44 | 41 |
法制局 | 18 | 78 | 5 | 22 | 23 |
総務庁 | 42 | 62 | 26 | 38 | 68 |
民政部 | 47 | 27 | 130 | 73 | 177 |
財政部 | 48 | 55 | 40 | 45 | 88 |
外交部 | 13 | 37 | 22 | 63 | 35 |
実業部 | 21 | 29 | 51 | 71 | 72 |
交通部 | 38 | 53 | 34 | 47 | 72 |
司法部 | 12 | 17 | 57 | 83 | 69 |
文教部 | 25 | 42 | 34 | 58 | 59 |
土地局 | 6 | 33 | 12 | 67 | 18 |
興安総署 | 21 | 42 | 29 | 58 | 50 |
国都建設局 | 28 | 82 | 6 | 18 | 34 |
首都警察庁 | 43 | 27 | 114 | 73 | 157 |
逆産処理委員会 | 3 | 100 | 0 | 0 | 3 |
積欠善後委員会 | 3 | 100 | 0 | 0 | 3 |
大同学院 | 3 | 100 | 0 | 0 | 3 |
合計 | 404 | 39 | 633 | 61 | 1037 |
※日本人官吏の合計人数は402人になるはずだが、史料では404人と書かれている。理由はよく分からない。
1933年1月23日「満洲国中央官庁現在員通報」(陸軍省) – 官吏現在員一覧表 十二月末日現在
アジア歴史資料センター Ref.C04011508500、昭和8.2.1~8.2.28「満受大日記(普)其3」(防衛省防衛研究所)
(2) 1934年12月1日時点
直轄部門の官吏数(1934年12月1日) | |||||
日本人 | 非日本人 | 合計 | |||
人数 | 割合(%) | 人数 | 割合(%) | 人数 | |
尚書府 | 1 | 14 | 6 | 86 | 7 |
宮内府 | 12 | 11 | 95 | 89 | 107 |
参議府 | 9 | 50 | 9 | 50 | 18 |
立法院 | 4 | 18 | 18 | 82 | 22 |
総務庁 | 111 | 80 | 28 | 20 | 139 |
財政部 | 117 | 68 | 56 | 32 | 173 |
交通部 | 71 | 66 | 36 | 34 | 107 |
実業部 | 87 | 54 | 75 | 46 | 162 |
民政部 | 161 | 52 | 151 | 48 | 312 |
外交部 | 51 | 50 | 52 | 50 | 103 |
蒙政部 | 34 | 47 | 38 | 53 | 72 |
司法部 | 47 | 43 | 62 | 57 | 109 |
文教部 | 29 | 37 | 50 | 63 | 79 |
軍政部 | 38 | 35 | 71 | 65 | 109 |
最高法院 | 32 | 91 | 3 | 9 | 35 |
最高検察庁 | 31 | 94 | 2 | 6 | 33 |
合計 | 835 | 53 | 752 | 47 | 1587 |
塚瀬進「満洲国 『民族協和』の実像」(吉川弘文館)P.43
著者が下記史料から集計:
満洲国官吏録 康徳元年12月1日現在(1935年3月31日発行、国務院総務庁編纂)
(3) 1940年4月1日時点
直轄部門の官吏数(1940年4月1日) | |||||
日本人 | 非日本人 | 合計 | |||
人数 | 割合(%) | 人数 | 割合(%) | 人数 | |
尚書府 | 2 | 33 | 4 | 67 | 6 |
宮内府 | 35 | 24 | 109 | 76 | 144 |
参議府 | 10 | 53 | 9 | 47 | 19 |
立法院 | 1 | 20 | 4 | 80 | 5 |
総務庁 | 425 | 80 | 106 | 20 | 531 |
治安部 | 156 | 79 | 41 | 21 | 197 |
交通部 | 259 | 88 | 36 | 12 | 295 |
民生部 | 144 | 56 | 111 | 44 | 255 |
外交局 | 52 | 63 | 30 | 37 | 82 |
司法部 | 63 | 61 | 41 | 39 | 104 |
産業部 | 249 | 75 | 82 | 25 | 331 |
経済部 | 208 | 77 | 63 | 23 | 271 |
最高法院 | 17 | 33 | 35 | 67 | 52 |
最高検察庁 | 7 | 32 | 15 | 68 | 22 |
合計 | 1628 | 70 | 686 | 30 | 2314 |
塚瀬進「満洲国 『民族協和』の実像」(吉川弘文館)P.43
著者が下記史料から集計:
満洲国官吏録 康徳7年4月1日現在
(4) 歴代総務庁トップ
氏名 | 職名 | 任 | 免 |
駒井徳三 | 総務庁長官心得 | 1932年3月10日 | 1932年10月5日 |
阪谷希一 | 総務庁長官代理 | 1932年10月5日 | 1933年7月22日 |
遠藤柳作 | 総務庁長 | 1933年7月22日 | 1935年5月11日 |
長岡隆一郎 | 総務庁長 | 1935年5月11日 | 1936年4月3日 |
大達茂雄 | 総務庁長 | 1936年4月9日 | 1936年12月16日 |
星野直樹 | 総務庁長 | 1936年12月16日 | 1937年7月1日 |
星野直樹 | 総務長官 | 1937年7月1日 | 1940年7月21日 |
武部六郎 | 総務長官 | 1940年7月24日 | 1945年8月19日 |
吉川弘文館「二〇世紀満洲歴史事典」P.283
(5) 1940年勅令第881号
関東軍の覇権
満洲国では民選議会どころか議会そのものが開設されず4、共匪にでもなる以外、関東軍に抗う方法は無かった。関東軍は1936年、柳条湖事件5周年を記念して「満洲国ノ根本理念ト協和会ノ本質」なる文書を内部向けに出した。その一節「三、天皇ト軍司令部ト皇帝トノ関係」を下に引用する。
満洲国ハ叙上ノ建国精神並建国ノ歴史ニ鑑ミ 天皇ヲ大中心トスル皇道聯邦内ノ一独立国家ナリ
満洲国皇帝ハ天意即チ 天皇ノ大御心ニ基キ帝位ニ即キタルモノニシテ皇道聯邦ノ中心タル 天皇ニ仕ヘ 天皇ノ大御心ヲ以テ心トスルコトヲ在位ノ条件トナスモノナリ、永久ニ 天皇ノ下ニ於テ満洲国民ノ中心トナリ建国ノ理想ヲ顕現スル為設ケラレタル機関ナリ(其状宛モ月ガ太陽ノ光ニ依リテ光輝ヲ発スルニ似タリ)従ツテ万一皇帝ニシテ建国ノ理想ニ反シ天皇ノ大御心ヲ以テ心トセサルニ至ルガ如キ場合ニ於テハ天意ニヨリ即時其地位ヲ失フベキモノナルト共ニ他面民意ニヨル禅譲放伐モ亦許サレザルモノトス
満洲国ガ日本ト不可分ノ独立国ナル真義上述ノ如シ、従ッテ満洲国ノ宗主権ハ実質上皇道聯邦ノ中心タル日本 天皇ニ在リ皇帝ハ皇道聯邦内ニ於ケル一独立国家ノ主権者タルベク、関東軍司令官ハ 天皇ノ御名代トシテ皇帝ノ師伝タリ後見者タルベキモノナリ
日満両国ノ間固ヨリ条約其他ノ関係ニヨリ律セラルル所アルモ満洲国ノ育成ハ本質上 天皇ノ大御心ヲ奉シタル軍司令官ノ内面的指導ニ依ルベキモノニシテ、日本政府ノ国務大臣ガ輔弼上ノ責任ヲ以テ之ヲ指導スルガ如キハ独立国家トシテ育成スベキ理想ニ反スルモノナリ
日本では大学教授が天皇機関説を唱えると迫害を受けたような時代に、満洲国で関東軍は(内部向けの文書ではあるが)皇帝機関説を唱えることができたのである。この文書は関東軍内部だけでなく満鉄にも一部渡ったようだ。1939年7月、新京(長春)満鉄の調査室で作成された文書「軍管理権ニ関スル研究(草案)」は、満洲建国の「根本理念」を根拠として次のように述べる。
満洲国ニ於ケル鉄道、港湾、水路等一切ノ交通機関ハ国有タルト民有タルトヲ問ハズ実質上全面的ニ軍司令官ノ管理権ニ服スト為シ、「満洲国ニ於ケル行政上ノ指導権」ヲモ包含シ其ノ権利ノ性質タルヤ私法上使用スル如キ管理ト本質ヲ異ニシ権利発生ノ根本ヲ満洲建国ノ精神ト満洲国ニ対スル根本理念ニ求メ宛モ宗主権ニ準ズル広汎ナル支配管理ノ権能ヲ内容トスト解スルモノニシテ、文理解釈或ハ法理論ヲ超越シ精神解釈ニ其ノ本質ヲ探求セムトスルモノナリ
抑満洲建国ノ精神タルヤ究極スル処日満一徳一心民族協和道義世界ノ実現ヲ理想トシ給フ 天皇ノ大御心ノ顕現ニ外ナラズ
満洲国ノ宗主権(保護権)ハ実質上皇道聯邦ノ盟主タル 天皇ニ在リ満洲国ノ育成ハ本質上 天皇ノ大御心ヲ奉ジタル軍司令官ノ内面指導ニ依ルベキモノナリ、態様上満洲国ヲ独立国家ナリト為スニハ固ヨリ異論ナキ処ナレドモ実質的ニハ皇道聯邦ノ一員トシテ満洲国ノ宗主権ハ聯邦ノ盟主タル 天皇ノ保有シ給フ処ニシテ前掲一ノ文書竝協約ハ此ノ根本理念ニ基クモノナリ、従テ軍司令官ノ管理権トハ実ニ宗主権行使ノ一表現ト看做シ得ベク単ナル管理トハ其ノ本質ヲ異ニスベシ是レ管理権ヲ狭義ニ解スルノ不可ナル所以ニシテ換言セバ満洲建国ノ精神ニ鑑ミ満洲国ニ対シテ有スル日本ノ宗主権ト満洲国ニ於ケル軍司令官ノ地位ヲ併セ考ヘ更ニ日本ノ国防上ノ要求ヲモ考察セバ初テ満洲国ニ於ケル交通機関ニ対シ全面的ニ軍司令官ガ管理権(行政指導権ヲモ包含シテ)ヲ把握スルノ正当ナルヲ承認シ得ベシ
……
元来鉄道(仮ニ鉄道ノミヲ取上グ)ニ関シ国権ノ及ブ範囲ヲ分■セバ左ノ如シ
(一) 一般立法権
(二) 鉄道事業経営権
(三) 鉄道事業監督権
トナル以上ノ権利ハ其ノ本質上何レノ国家ニ於テモ制限ヲ認メザルヲ常トス然ルニ満洲国ニ於テハ上来述ベ来リタル如ク立法及行政ニ関スル権利ハ固ヨリ鉄道事業経営権、鉄道事業監督権スラ之ヲ有セズ即チ協約ニ依リ交通ニ関スル重要ナル法令ノ整理、制定ノ改廃ハ軍ノ諒解ヲ得ルヲ要スト定メ居リ又国家ガ如何ナル程度ニ於テ自ラ鉄道ヲ建設シ営業ヲ営ムベキカハ鉄道ニ関スル国家ノ権利トシテ重要ナル点ナルモ協約、協定ノ定ムル処ニ依リ成文上ハ此ノ権利ヲ満鉄ニ認許スルコトトナリ居レリ更ニ又国家ハ交通特ニ鉄道企業ニ関シ国民ニ対シ其ノ公共企業タル性質上之ガ監督権ヲ留保スルコト必要ナルモ満洲国ニ於テハ之ヲ軍ニ於テ代行スルコトトナリ居レリ即チ鉄道事業ノ経営ニ対スル監督、新線ノ敷設管理、人事監督権ノ総テハ満洲国政府ニ於テハ之ヲ有セザルナリ
今軍ノ管理権能中軍事上ノ管理権ハ之ヲ措キ行政上ノ管理権ノ将来ニ就キ見透ヲ述ベムトス
軍ノ管理権トハ記述ノ如ク之ヲ広義ニ解スレバ満洲国ノ交通機関ニ対スル実質上極メテ広汎ナル支配管理ノ権能ヲ謂フト為シ協約ニ関スル限リハ実質上モ態様上モ共ニ軍司令官ハ管理権ヲ有スト為スモ満洲国ノ根本理念ト協和会ノ本質」ニ於テ解明セラレタル処ニ従ヘバ、満洲国ノ庶政ノ根本大本ニシテ確立スルニ至ラバ軍司令官ノ内面指導ハ大綱ノ把握ノミニ止メ政治、経済、思想、教化等ノ直接指導ハ真ノ協和会員ヨリ成ル政府及協和会ノ各首脳者ヲ通シテ之ヲ行ハシメ自ラハ沈黙ノ威信ヲ保持シテ力ヲ統帥ニ傾注スルコト可能ナルベク又斯クアルコトヲ理想トストセルニ鑑ミ管理権■此ノ方面ニ向ヒテ其ノ範囲ヲ限局スルコトヲ理想トス
……
満洲国ノ存在ハ満洲事変発生ノ原因ヨリ明ナル如ク日本ニトリテ有利ナル国防圏ノ構成要素タルト共ニ拡大セル経済圏ノ一部ヲ為スモノニシテ換言セバ日本ノ国防上経済上ノ要求ニ基キ満洲国ハ事実上日本ノ一部タリ
……
日満両国ノ関係ヲ見ルニ所謂皇道聯邦ノ一員タル満洲国ハ日本国ト理念上一徳一心タルノミナラズ事実上政治経済、財政、軍事ノ各般ニ亘リ日満両国ハ唇歯輔車ノ関係ニ在ルハ謂フモ更ナリ、満洲国ハ日本国ノ一部ヲ為セルモノト謂フベク即チ満洲国ノ建設ハ既述ノ如ク日本国ニ採リテハ有利ナル国防圏ノ構成タルト共ニ其ノ狭隘ナル経済圏ノ拡大トナリテ現ハレタルモノニシテ更ニ東亜ニ於ケル不断ノ戦争ノ脅威ニ対シ戦時体制ヲ完備セムガ為ニハ日本ハ満洲国ヲ所謂日本的把握(植民地統治ノ内容ヲ以テ)ヲ為シ置クコト必要ニシテ特ニ交通ニ関シテハ然リトス
臣民感覚
以上のことから、公的機関においても非公開な場では、満洲国は独立国でなく日本の傀儡国として扱われていたことが分かる。では非公式な、臣民の感覚ではどうだったか。例えば戦時中に流行っていた所謂「時局地図」を見ると、次のようになっている。

凡例を見ると、赤い領域は「占領地域」となっている。
当時のこの感覚は、現代のネトウヨ向け自慰史観コンテンツにも受け継がれている。


- 「満洲国現勢」康徳二年版、康徳五年版 [↩]
- 1940年5月大本営陸軍部「海外地邦人ノ言動ヨリ観タル国民教育資料(案)」によれば、日本人の割合はこの時点で約1.3% [↩]
- 1935年5月1日「満洲国人事行政指導方針要綱」(関東軍) [↩]
- 吉川弘文館「二〇世紀満洲歴史事典」P.454 まんしゅうこくせいふそしき【満洲国政府組織】 [↩]