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【解説】日本人の内地侵出と満蒙問題 ―III. 榊原農場問題

 満洲事変について「中国が侵略してきたんだ」などと抜かすネトウヨが昔からいるが、この元ネタの1つとして、榊原農場事件が挙げられる。満鉄の機関紙「満洲日報」は事件の翌日、トップで下図ように報じている。

「満洲日報」1929年6月28日
「満洲日報」1929年6月28日
「満洲日報」1929年6月28日
「満洲日報」1929年6月28日

 記事では、中国側が線路を敷設したことについて「商租地の侵略を実行」などと宣っている。該地の商租権を持っていると主張する榊原政雄が、これを「断乎とし撤去決行」したのだと云う。

榊原政雄(1932年7月8日 大阪毎日新聞)
榊原政雄

画像:1932年7月8日 大阪毎日新聞より

 事件の背景には、1914年から続く榊原農場問題という紛争があった。いわゆる土地商租権問題の一例である。このページでは、榊原農場問題について一通り説明する。

1. 概要とポイント

 少し複雑な話なので、概要だけ先に押さえてしまおう。

 奉天(現在の瀋陽)近郊に榊原農場と呼ばれる領域があった。榊原政雄という日本人が農場主を自称していた。1925年から中国側が北陵遊覧鉄道の線路を敷設していたが、これが榊原農場を通過した。榊原はこの線路の通過を、自らの商租地に対する侵略だと主張して、中国側に抗議した。1929年6月27日早朝、榊原は人夫を雇ってこの線路を撤去・遮断した。これが榊原農場事件である。

 日本では中国側の線路敷設が、在満邦人の土地商租権1 が侵された一例として扱われ、「満蒙問題を一併解決しなければならない」とて中国側を攻撃する材料の1つに仕立て上げられた。一方中国側では、この事件を機に遼寧省国民外交協会が発足、民間から中国の反帝国主義外交を後押しして、国権回復運動の一端を担った2 。この2年後に満洲事変が勃発する。

 榊原政雄は本当に農場主だったのか。日本側と中国側はこれについて正反対の認識を持っていた。

 線路が撤去・遮断された地点は、榊原農場内の百町歩水田と呼ばれる領域の中にあった。1919年、榊原側3 は中国側と正式な商租契約を交わして、百町歩水田を商租した。この時点では日中双方とも、榊原側に百町歩水田の商租権を認めていた。しかし榊原側は、この契約で定められた商租料を滞納した。なので中国側は1924年、百町歩水田の商租権に取消処分を下した。日本側外交当局は慌てて満鉄と東拓に掛け合い、滞納された商租料を調達させ、中国側に受取を迫り、商租権の取消を否認した。中国側は金を送り返し、商租権取消処分の撤回を拒絶した。これ以降、百町歩水田の商租権の有無について、日中互いに真逆の認識を持つようになった。ここに中国側は遠慮無く線路を通し、榊原が事件を起こしたのであった。

 以下では榊原農場問題について、榊原農場の出現から詳しく説明する。

2. 榊原農場の出現

 瀋陽の北陵公園の中心にある昭陵(北陵)は、清国2代目皇帝ホンタイジの墓である。2004年にユネスコの世界文化遺産「明・清王朝の皇帝墓群」に登録された。辛亥革命後、昭陵とその周辺の広大な附属地は昭陵餘地と呼ばれ、旧清皇室の土地になっていた。

 1912年4月、溥豊模範農場公司(溥豊公司)という会社が設立された。代表は崔洵生(崔潮)で、他の発起人5人は中国の官吏だったが、偽名で民間人を装っていた。彼等は官吏としての権限を利用して会社の設立を自ら裁可、旧皇室から昭陵餘地全体の使用権を獲得した4

 昭陵餘地では予てより、農民等が肥沃なエリアを占有して耕作をしていた。勝手に始めた耕作だったが、税金を納め、地券も発給されたりしていた。新しく入って来た溥豊公司とこれらの耕作者との間でトラブルが相次いだため、奉天民政庁は1913年6月28日、溥豊公司の昭陵餘地使用権の取消・無効化を告示した。

 こうして溥豊公司の昭陵餘地に対する権利は消滅した。しかし崔洵生には未練が残り、消滅したはずの土地使用権を売ろうとした。これを2万円5 で買ったのが、榊原政雄だった6 。彼は当時満洲日日新聞の記者だった。

 榊原が権利を買ったのは1914年3月だったが、彼等は契約の日付を1913年4月30日と偽り7 、溥豊公司の地権が無効化される前から既に契約済だったかのように装った8

 榊原農場はこのようにして出現した。榊原は土地を譲り受けて、農場の経営を開始した。

 中国外交部はこれに抗議、農場の契約は無効であるとして、農場経営の差止を要求した9 。これは直ちに外交問題となった。こうして榊原農場問題は始まった。

3. 榊原政雄と在奉天日本総領事館

在奉天日本総領事館:「満洲土産写真帖」(1914年、満洲日日新聞社)より
在奉天日本総領事館:「満洲土産写真帖」(1914年、満洲日日新聞社)より

 榊原農場問題について日本側で外交当局として現地関係者と交渉したのは、在奉天日本総領事館だった。榊原政雄は、崔洵生からの地権獲得を目論んでいた頃、同総領事館へ相談に訪れた。当時総領事を務めていたのは落合謙太郎だった。相談を受けた落合は、榊原に次の勧告をした。

  • 崔洵生ナル者ハ溥豊公司ヲ代表スルニ足ル完全ナル権能ヲ有スル者ナルヤ否ヤヲ確メ置クコト
  • 昨年中于交渉署長ハ同地経営者タル溥豊公司ノ権利ヲ取消シタル旨談話シタル様覚エ居ルヲ以テ其正否ヲ確メ置クベキコト

 そして落合は、この件については追って考究のうえ意見を述べるとして、榊原のプランに対しての賛否は留保した。しかし榊原は結局、落合が勧告したことを全く確認せず、落合の意見も待たずに満鉄から融資を受け、崔から土地を譲り受けて農場経営を始めたのだった10 。榊原は領事館宛の書翰で「余ノ真意ハ支那官憲ヲ人間ト思ハザルナリ」などと息巻いている11

 榊原はその後も満洲事変の頃まで終始発狂し続け、しばしば長たらしい雑文を書き散らしては、日中の関係者に送り付けた。気に食わない関係者を誹謗中傷し、ときにはヤクザを含む12 極右勢力とつるんで、都合の良い陰謀論を捲し立て続けた。落合は榊原を下記のように紹介している13

兎ニ角榊原ハ其性情執拗ニシテ自己ノ主張ハ理比ニ係ラズ之ヲ貫徹セントスル癖アリシカモ許スベカラザルコトハ管轄官庁ノ取締ヲ度外視セントスルコトニ有之彼ハ自ラ一ノ公権主体ナルカノ如ク該地域上ニ或種ノ公権ヲモ行ヒ得ルガ如ク考ヘ其誤見ヲ以テ事件ヲ処理スルヲ以テ行動常ニ常規ヲ逸スルコト是迄報告ノ通ニシテ部下ノ者ニ於テモ此ノ性癖ニ驚キ居ル次第ニ有之候

4. 榊原農場の範囲

 榊原は1929年時点で、昭陵餘地全体の商租権を主張していた。その面積は4500万余坪に亘ったという。神奈川県川崎市(2022年現在)を上回る広大な面積である。榊原はこの領域を下図のように3つに分け、それぞれ第1農場・第2農場・第3農場と呼んでいた14

「榊原農場」

 第2・第3農場の権利は榊原が後からコジ付けたものであり、日本側外務当局にも最後まで認められることは無かった。落合総領事は次のように述べている15

当初榊原ガ溥豊公司理事崔ヨリ引継ヲ受ケタル土地ハ所謂第一農場ノミニシテ租借契約第五条所載ノ地図モ右地域ヲ限リ作製セラレ居タル趣ニ有之従テ有力ナル反対証拠無之限リ第一農場ノミハ榊原正当ノ権利ニ属スルモノトシテ之ヲ措クモ所謂第二農場ハ爾後榊原ガ溥豊公司ヨリ受継タル書類中ニ先年私墾地取消ニツキ紛争アリタルコトヲ発見シタルコトヲ奇貨トシ強迫又ハ暴力ヲ以テ支那側地主ヲ排斥シタルモノニシテ仮リニ榊原見解ノ如ク法理上結局此等地域ガ榊原ノ権利ニ属スルモノト仮定スルモ手続ヲ濫リ私力ヲ以テ他人ノ占有ヲ強奪シタル所為ハ充分ニ犯罪事実ヲモ構成スルモノニ有

 1915年11月22日、日本側は第1農場内の百町歩水田を除く全ての土地を中国側へ返還した(後述)。これ以降、日本側外務当局が認める榊原の商租域は、高々百町歩水田に限定されることになる。在奉天総領事林久治郎は次のように報告している16

榊原農場ハ榊原ガ多年同地方及内地ニ於テ誇大ニ宣伝シ居リタル所謂榊原第一第二農場ニアラズ大正八年確実ニ商租セル約百町ノ水田ヲ指スモノニシテ所謂第一農場及第二農場ニ関シテハ数ヶ月前当館ヨリ榊原ニ対シ右ハ今日ニ於テハ同人ニ何等権利ナキ旨宣告済ナリ

 榊原は溥豊公司から第1農場の使用権しか引き継がなかったにも関わらず、何故第2・第3農場の権利まで主張するに至ったのか。在奉天総領事館の内部文書は、船津辰一郎総領事へ次のように報告している17

引継ヲ受ケタル土地内ニ在リタル建物中ノ机ノ抽斗ヨリ支那側ガ榊原ニ交付スルノ意思ナクシテ遺忘シアリタル山陵衙門18 ヨリ溥豊農場ニ宛テタル書面ヲ発見シ右書面ニハ溥豊農場ガ漸次水田経営ヲ拡張シ附近ニ於テ人民ニ耕作ヲ許シ居レル皇室財産タル土地ヲモ取上ゲ整理スベキ旨ヲ記載シタルモノナリシ由ニシテ偶々支那側ヨリ正式ニ権利トシテ引継ヲ受ケザリシ右文書ヲ前記ノ如キ機会ニ於テ獲得シタル榊原政雄ハ自己ガ引受ケタルハ独リ現在ニ於ケル七千畝ノ土地ニ止マラズ山陵衙門ガ溥豊農場ニ与ヘタル権利ハ総テ之レヲ承継シタルモノナリト都合良キ解釈ヲ為シ不法ニモ引継ギヲ受ケタル土地七千畝ノ周囲及其附近ニ於テ現ニ支那人ノ耕作中ナル土地七千畝ヲ更ニ占領シ正式ニ引継ヲ受ケタル七千畝ヲ第一農場ト名ヅケ不法ニ占領シタル七千畝ヲ第二農場ト称シ尚ホ溥豊農場ガ権利トシテ耕作シ得ベキ地域ハ附近十餘万町歩ニ及ブヲ以テ之ヲ第三農場トシテ整理スベキコトヲ声明シタリ右ノ如キハ支那側ヨリ言ヘバ誠ニ理不尽ノ言条ニシテ支那側ガ商租シタル範囲ハ境界ヲ踏査シテ引渡シヲ終リタル七千畝ニ過ギズ又榊原ノ為メニ不法ニ占領セラレタル地域内ノ耕作支那人ハ之レガ為メ非常ナル恐慌ヲ来シ支那官憲ニ向ッテ日本人榊原ノ不法行為排除方日本官憲ニ交渉セラレタキコトヲ申出ヅルト共ニ直接当館ノ門前ニ日々数百名押カケ来リ

 榊原農場の領域を時系列でまとめると、下図のようになる。

榊原農場
榊原農場問題における重要な出来事
榊原農場問題における重要な出来事

5. 百町歩水田以外の領域を中国側へ返還

 榊原政雄は溥豊公司から、日付を偽った契約で既に取消された土地の「権利」を譲り受けたのだったが、日中双方の外務当局はこれを一旦既成事実として認め、榊原へ一定の代償を払って土地を中国側へ返還することにした。返還交渉に際し、榊原は代理人として原口聞一細梅三郎を立て、両者に対して下記の委任状を出した19

一、興京森林弐百方地ノ伐採権ヲ余ニ許可スルコト(一方地ハ壱支里平方場所ハ当方ニテ実地検分ノ上適当ト認ムル処)

二、興京撫順間軽便鉄道布設権或ハ布設権ト実益ニ於テ同等ノ権利ヲ拙者ニ許可スルコト

三、農場ノ既成水田及ビ水田予定地百餘町歩現契約ノ通リ保留スルコト

四、日金弐拾弐萬円ヲ余ニ提供スルコト

右四ヶ条ヲ有効ニ実行セシムル範囲ニ於テ支那側ト仮契約ヲ締結スルコト

大正四年十月十九日

 要するに、森林・鉄道・水田・金――の4つを代償として求めたのである。これを受けて原口と細梅は11月22日、榊原の代理人として中国側と返還契約を交わした20 。以後これを「1915年11月返還契約」と呼ぶことにする。

6. 赤塚総領事の取極書

 榊原が求めた4条件:森林・鉄道・水田・金――は、その後どうなったのだろうか。

 1916年2月、榊原が求めた22万円のうち20万円が支払われた。残りは2万円である21 。1917年3月、赤塚正助総領事は下記の取極書22 を発行し、榊原を含む関係者の署名を得て日本側内部の合意を形成した。これにて鉄道以外の3懸案は解決となった。鉄道については、農場問題から切り離して取組を継続することになった。

第一、金弐万円ノ件

一、洪憲元年弐月弐拾弐日付貸主原口聞一、借主張煥柏名義金額日金弐万円利子月九厘(一万円ニ付九拾円ノ割)トセル証書ニ依ル金銭消費貸借契約ノ債権ハ榊原政雄ノ債権ナルコトヲ原口聞一ニ於テ確認シ且ツ支那側ニ於テモ右債権ハ榊原政雄ノ債権ナルコトヲ承知シテ居ル旨言明シタリ

二、右榊原政雄ノ債権ニ対シ趙知事ハ正式ノ支払保証ヲ為シ居レルモノニ相違ナキコトヲ原口聞一ニ於テ言明シタリ

三、榊原政雄ハ右債権ノ取立ヲ総領事ニ委託シ前記債権証書ヲ総領事ニ交付シタリ
  但シ前記債権ノ利子ハ領事ノ自由処分ニ一任シタルニ依リ領事ニ於テ之ヲ抛棄或ハ取立費用其他ニ充当スルモ聊カ異議ナキコトヲ榊原政雄ニ於テ言明シタリ

第二、水田ノ件

一、細梅三郎名義ヲ以テ商租内約ノ奉天北陵御花園水田及水田予定地百餘町歩ハ榊原政雄ガ農場交換ノ一条件トシテ元榊原農場ノ一部ヲ留保シタルモノニシテ仝人ノ財産ニ属シ細梅三郎又ハ其ノ他ノ者ニ於テ之レニ対シ何等ノ権利ヲ有スルモノニアラザルコトヲ原口聞一ハ細梅三郎ノ代理人及ビ本人トシテ確認シタリ

二、大正五年八月二十日付細梅三郎ヨリ榊原政雄妻瓊子宛ノ右水田ハ榊原ノ基本財産ニシテ細梅三郎ノモノニアラザル旨ノ念書ハ細梅三郎ノ作成シタルモノニ相違ナキ旨原口聞一ニ於テ言明シタリ

第三、山林ノ件

一、石人溝山林ハ榊原政雄ノ金銭ヲ以テ原口聞一ガ仝人ノ代理人トシテ購入シタルモノニシテ榊原政雄ノ財産ナルコトヲ原口聞一ニ於テ確認シタリ

二、支那側ヨリ原口聞一宛売買代金受領証ハ仝人ガ榊原政雄ノ代理人トシテ差入レシメタルモノニシテ榊原政雄ノ出金シタルモノナルコトヲ原口聞一ニ於テ言明シタリ

第四、撫順興京間鉄道ノ件

一、本件ニツキテハ原口聞一ガ先キニ支那官憲ト交渉シ巡按使ノ内諾ヲ得タルモ交通部ノ許可書ヲ受クル前榊原政雄ト感情ノ行違ヒアリ又時勢ノ変化アリ右進行ノ程度ニ於テ其ノ運動ヲ一時中止シタルモノナレバ今又運動ヲ開始セバ許可ヲ受クル見込アル旨原口聞一ニ於テ陳述シタリ

二、右ノ権利主タル榊原政雄ハ右布設権ニ関スル問題ヲ領事ノ裁量ニ一任スルコトヽナシ布設権獲得ニ関スル一切ノ手続及運動ヲ大連市山縣通リ二十八番地村田誠治及原口聞一ノ両名ニ改メテ委任スル旨言明シ右両名ハ共力シテ右委任事務ヲ遂行スベキ旨言明シタリ

三、原口聞一ハ凡テ村田誠治ト相談ノ上運動スベク運動中ハ領事ノ監督ノ下ニアルベク榊原政雄ハ原口聞一ニ対シ直接注文申出等ヲナサヾル可キモノトス

四、成功ノ上ハ鉄道ニ関スル利権ヲ直チニ其ノ儘榊原政雄ニ提供スルモノトス

五、成効報酬ハ大塚信太郎ト相談ノ上交付方ヲ領事ニ委託ス
  鉄道布設ニ関スル書類ハ一旦領事館ニ交付セラレ度又本人ガ代理人ヨリ受ク可キ書類モ同様ノ手続ニ依ラレ度榊原ノ希望ニ有之申候

右之通相違無之後日ノ為メ本証参通ヲ作成シ一通ヲ領事館ニ提出シ他ノ二通ハ領事ノ認証ヲ受ケ榊原、原口ノ両名各壱通ヲ所持スルモノナリ

大正六年参月参拾日奉天日本総領事館ニ於テ

榊原政雄
原口聞一
村田誠治代理人 皆川秀孝
立会人 相馬昌三

本文取極ニ依リ榊原問題ハ全部解決シタルコトヲ榊原政雄ニ於テ承諾シ同時ニ鉄道問題ハ全然之ヲ分離シ村田誠治原口聞一ノ両名ニ於テ従前ノ行掛リヲ辿リ運動ヲ継続シ之レガ成効ノ結果ハ榊原政雄ノ利益ニ属スルモノナルコトヲ原口聞一及村田誠治代理人皆川秀孝ニ於テ声明シタリ

第一八号

右認証ス

大正六年三月三十日

在奉天 総領事赤塚正助

7. 中国側が百町歩水田の商租権を取消

7.1. 料金滞納と権利取消

 赤塚取極書で榊原への留保が確認された百町歩水田は、その後どうなったのだろうか。

 榊原側3 は1919年5月6日、中国側と正式に百町歩水田の商租契約を結んだ。これによって、1913年に遡ってそこから30年間の商租を認められた。商租料は1915年分から請求され、毎年2月1日に奉天小洋700元を中国側へ納めることとなった23

 これに対して榊原側は、1921年1月までに中国側へ合計小洋1760元を納めるに留まった。中国側から再三支払を督促された24 にも関わらず、1920~1923年分の商租料を滞納し続けた25

 1924年6月12日、中国側の盛京副都統公署26 は遂に榊原側の百町歩水田の商租権取消を通告、現場へ一時的に20余人を派兵した。これを受けて在奉天総領事館は、

該農場ニ債権関係ヲ有スル満鉄会社及東洋拓殖会社トモ協議ヲ遂ゲタル処両会社トモ該地ヲ奪回セラルル如キハ頗ル遺憾トスルモ一面榊原政雄ノ如キ人物ニ対シテハ何等同情シ援助スベキ意思ナキノミナラズ会社側ニ有スル五六万円ノ債権ヲ此際抛棄シテモ榊原トノ関係ヲ絶ツハ寧ロ賢明ノ策ナルベシト観察シ可成榊原政雄トノ関係ニ深入セザル方針ヲ採リツツアリシモ本件土地奪回ニヨリ生ズル一般土地商租問題ニ重大ナル関係ヲ生ジ満鉄並ニ東拓ハ勿論其他邦人土地関係者ノ既得商租地ノ根底ニ及ボス影響亦鮮少ナラザルベキヲ顧念シ榊原ニハ厘毫ノ援助ヲ與フベキ限リニ非ラザルモ斯ル邦人ノ満蒙発展上ニ障碍タルベキ問題ハ速ニ除去セザルベカラズトノ見地ヨリ

――として、滞納されていた小洋総額5240元を調達し、榊原等の代りに支払ってやった27

 しかし、中国側は商租権取消の撤回を拒否し、この滞納総額を日本側へ送り返した。7月9日までに盛京副都統公署が衛兵を、日本側が領事館警察を、それぞれ現場農場へ派遣し、小作人等を含めて重傷者を出すに至った。

 7月9日のうちに中国側が現場から撤兵して、実力の衝突は終った28 。その後、現場には小作人が戻って来て農作業を再開したが、中国側としては既に該地の商租権取消を通告済であるのに対し、日本側は榊原だけでなく外務省も含めて、まだ商租権は残っていると主張し続けた。

7.2. 商租料支払済説の実相

 榊原政雄は商租料を支払えないだけでなく、滞納を独特の論法で正当化していた。実は1915年11月返還契約のとき既に30年分の商租料を支払済だと云うのである29 。何をどう見ればそのような解釈になるのだろうか。現代でも歴史改竄屋に利用されるかも知れないポイントなので、一応チェックしておこう。

 1915年11月返還契約に向けて、榊原が代理人の原口・細梅に宛てて「委任状」を出していたことは既に述べた。この委任状において、榊原の受取る金額は22万円となっている。しかし榊原によると、彼が請求した金額が実は23万円だったというのである。そして、実際には22万円を受取った30 が、「残り1万円」が百町歩水田の商租料30年分として差引かれたと主張するのである31

 もっとも、榊原がこの論法で商租料支払済説を唱えていたのは1924年頃までのことである。榊原はこの後、第1~3農場全体の商租権を主張すべく、1915年11月返還契約まるごと否認するようになる32 (後述)。そして榊原農場事件後の意見書「陳情請願」では、日付を偽って溥豊公司と結んだ当初の契約(租料は純益の15%)を基礎に据え、これを1919年5月6日に改訂して毎年定額で奉天小洋700元の商租料を納めることになったと説明、「之ガ商租料ハ否認致サズ候」と述べるに至った。そして、総領事館が満鉄・東拓に掛け合って代りに支払おうとしたこと(上述)に言及して、

商租料ハ納付セザルニ非ズ嘗テ我ガ総領事館ヲ経由シ支那官憲ニ納附セル所如何ナル理由ニテカ我官憲ニ返還シ来リ今尚ホ我官憲ニ於テ保管中ニ属ス

などと調子の良いことを息巻くのであった33

 また、1919年5月6日の商租契約における日本側の契約者は榊原の実弟たる浦本政三郎であったが、遠東事情研究会のレポートによれば、このとき榊原は年額小洋700元と定められた商租料に文句を言わないどころか、保証人として署名したという34

 総領事館が榊原の滞納全額を調達して支払おうとした時点で察することだが、この「商租料支払済説」が成り立たないことを、ここにあらためて念押ししておく。

7.3. 榊原の第1~3農場回復占有策動

 榊原は予てより、原口聞一を詐欺容疑で告訴する等して、1915年11月返還契約の無効化を狙っていた35 。ちょうど中国側が百町歩水田の商租権を取消す頃になると、榊原は奉天省に「通告書」と題する雑文を送り付け、一方的に第1~3農場全体の所有権を主張するとともに、土地の「回復占有」を声明した。「通告書」には次のように書かれている36

六、無権限ノ農場交換トスルモ詐欺ノ農場交換ナリトスルモ要スルニ不法又ハ不正行為ニヨリテ吾人ノ財産権ヲ喪失スル理由ナキヲ以テ租借セル榊原第一第二第三農場ハ依然トシテ今猶通告人榊原政雄ノ所有ニシテ溥豊農場公司ノ全権利モ亦別ニ完全ニ榊原政雄ニ帰属シ居ルモノトス
従ッテ貴省長公署第四科ニ現在保存中ノ我ガ農場ノ権利書類ハ贓物ナルヲ以テ真所有者タル榊原ニ返還セラルベシ

七、貴省長ハ来ル八月二十日迄ノ猶予期間内ニ於テ我ガ第一第二農場ヨリ冐入者全部ヲ場外ニ退去セシメ建築中ノ東北大学校舎其他ノ新建築物ヲ場外ニ移転セシメ奉天市ガ我ガ農場内ニ計画セル市街建設計画ヲ撤廃シ「奉天市居住区界標」及「奉天市工業区界標」等ヲ除去シ第三中学校建築計画ヲ中止セラルベシ

若シ本通告ヲ無視シテ我要求ヲ履行セザルニ於テハ通告人ハ猶予期間経過後直チニ農場ノ占有ヲ開始シ整理ノ必要上断々乎トシテ自由行動ヲ執リ不法ノ建築物ハ已ムヲ得ズ之レヲ取除キ不法ノ耕作者其他冐入者ハ之ヲ退去セシムルニヨリ之レヨリ起ル紛擾ノ責任ハ一切貴省長ニ帰スルモノナルコトヲ声明ス

本通告到達後五日間以内ニ貴官ノ御回答ヲ得度ク若シ御回答之無時ハ貴官ハ本通告ヲ全部承諾セルモノト解ス可ク候右通告候也

 これを受けて船津辰一郎総領事は、幣原喜重郎外相宛に次のように報告している37

左ナキダニ榊原政雄ガ従来採リ来レル行為ニ対シ極度ノ悪感ヲ有スル支那官憲ハ再ビ斯ル通告文ニ接シ非常ニ激昂シ原口憎悪ノ念ヲ喚起シ日本ハ何故斯ル悪徒ヲ取締ラザルヤ若シ日本ニシテ同人ヲ取締ラザル限リ日本人ノ土地商租問題其他ニ関シテハ全然好意ヲ持ツノ要ナシト言ハシムル迄激昂シ現ニ鍾交渉員ハ榊原事件ヲ日本側ニテ公正ニ措置セラレザル限リ商租問題ハ当底進行セシムル能ハズト言明致居リ又王省長ハ病気ノ為メ丁鑑修ヲ当館ニ派シ榊原ノ如キ半狂的人物ヲ放置セバ益々邦交ノ親善ヲ阻害スル虞アルベキニ付速ニ相当ノ措置ヲ講ゼラレ度シト陳ヘ暗ニ同人ノ退支処分ヲ要望シ居レリ査スルニ榊原ニ対スル措置如何ハ支那側ヲシテ日本ハ斯ル人物ヲシテ帝国主義侵略主義ノ手段ニ利用スルモノナリトノ誤解ト謗リヲ招クノミナラズ折角予備交渉中ニ在ル商租細則協定ニモ鮮少ナラザル影響ヲ及ボシ国交上実ニ重大ナル障碍タルベキモノト思料致サレ候

8. 榊原農場事件

 1925年、中国側は皇姑屯駅から航空処へ通じる北陵遊覧鉄道の敷設を開始した。この鉄道は榊原農場内を通り、百町歩水田をも通過した。既述のように、中国側が榊原農場の商租権を既に全部取消していたにも関わらず、日本側は百町歩水田の商租権がまだ残っていると主張していたことから、この鉄道を巡って日中間に紛争を来す結果となった。

 1928年4月、田中義一政権下で在奉天総領事に林久治郎が着任した。彼はこれまでに登場した大正期の総領事たちとは異なり、意図的に土地紛争を惹起して土地商租権問題の有利な解決を狙う傾向にあったとされる38

 林総領事は1928年10月に北陵遊覧鉄道を巡る交渉を始め、翌6月まで複数回にわたって中国側に賠償金を要求した。中国側はただ自分たちの土地に鉄道を敷設しただけなので、賠償要求には応じなかった。総領事館は中国側に対して、榊原が実力で線路を撤去・遮断しだしても阻止しないと通告した。

 榊原は1929年6月27日早朝、人夫22人を集めて、遂に百町歩水田において線路の撤去・遮断を実行した。総領事館も榊原らの行動を阻止しないどころか、逆に領事館警察34人を現場へ派遣してバックアップした。

 中国側は、当日の現場では警官に士気が無かったため抵抗しなかったが、後に外交ルートで厳重に抗議、日本側に対して榊原等の処罰や賠償金の支払いを要求した39 。日本側は応じなかった。

9. 榊原農場のその後

 榊原農場事件後も、日本側は依然として百町歩水田の商租権を保持しているつもりであった。1931年2月時点で、榊原は東拓に対して、百町歩水田の商租権を売渡担保として20万円の借金を抱えていた。榊原は結局返済できなかったため、9月に百町歩水田の権利を手放し、同地は東拓の子会社へ譲渡された。1932年4月20日、同地は更に満鉄へ譲渡された40

10. 参考文献

 下記の文献は、榊原農場問題全体について一通り体系的に分かり易くまとめている。参考にさせて頂いた。

孫雨涵「在奉天総領事から見た土地商租権問題」(2021年3月)

  1. 対華21ヶ条要求の結果として締結された南満東蒙条約の第2条で、南満洲の日本人に認められたとされる満蒙権益。 []
  2. 北陵鉄道支線遮断事件を契機として遼寧省国民外交協会の成立について」(1929年7月9日、在奉天林久治郎総領事発 幣原喜重郎外相宛)日本外交文書昭和期I第1部第3巻1929年対中国関係 87頁 [92] []
  3. 百町歩水田はこの前後に、榊原政雄から実弟の浦本政三郎に転租されたり、商租権が榊原多恵子(榊原政雄の長女)へ贈与されたりしている。これは日本側の内部事情に過ぎず、商租契約の権利や義務の中身には影響しない。浦本政三郎も榊原多恵子も、特に必要のない限り「榊原側」と表記する。 [] []
  4. 江夏由樹「土地利権をめぐる中国・日本の官民関係」5頁 []
  5. 当時の1円は現代の値段に換算すると約4000円:昔の「1円」は今のいくら? 1円から見る貨幣価値・今昔物語 []
  6. 「榊原政雄ノ溥豊農園経営着手ニ関スル件」(1914年5月7日、在奉天総領事落合謙太郎発、加藤高明外相宛)日本外交文書1914年第2冊[164] 234頁 []
  7. 「契約証書」(崔洵生・榊原政雄・張耀廷・石塚善重)日本外交文書1914年第2冊 239頁 [164](附属書二) []
  8. 機密北第一〇五号「榊原農場経営ニ対スル支那側抗議ニ関シ意見申進ノ件」(1914年7月11日、在奉天日本総領事落合謙太郎発、在華臨時代理公使小幡酉吉宛)日本外交文書1914年第2冊266頁 [168](附属書) []
  9. 公第一八号「榊原政雄溥豊農園経営ニ関シ外交部ヨリ抗議ノ件」(1914年6月28日、在華臨時代理公使小幡酉吉発、在奉天日本総領事落合謙太郎宛)日本外交文書1914年第2冊 251頁 [166](附属書・別紙) []
  10. 「榊原政雄ノ溥豊農園経営着手ニ関スル件」(1914年5月7日、在奉天総領事落合謙太郎発、加藤高明外相宛)日本外交文書1914年第2冊 234頁 [164] []
  11. 「我ガ農場ノ係争地点ニ関スル意見」(1914年5月4日、榊原政雄)日本外交文書1914年第2冊 248頁 [164](附属書五)(別紙) []
  12. 1929年の線路撤去計画段階で一時期国粋会の協力を取付けていた。「奉天榊原農場内支那鉄道撤去事件」(1929年6月、関東庁警務局高等警察課)アジア歴史資料センターRef.B09041289500、在外本邦人経営農場関係雑件/奉天榊原農場(E-4-3-1-16-1)(外務省外交史料館)コマ番28 []
  13. 「榊原農場ニ関スル満鉄側申越中事実ニ符合セザル廉指摘稟申ノ件」(1914年10月14日、在奉天総領事落合謙太郎発、加藤高明外相宛)日本外交文書1914年第2冊 282頁 [175] []
  14. 「陳情請願」(榊原政雄代理人 中島忠利 1929年10月)アジア歴史資料センターRef.B09041289600、在外本邦人経営農場関係雑件/奉天榊原農場(E-4-3-1-16-1)(外務省外交史料館) []
  15. 「榊原農場ニ関スル件」(1915年5月14日)アジア歴史資料センターRef.B04011165400、満洲ニ於ケル農場経営関係雑件/榊原溥豊農園 第二巻(1-7-7-11_1_002)(外務省外交史料館)コマ番43 []
  16. 今回問題の榊原農場の商租権は確実なものの旨の報告」(1929年6月28日、在奉天日本総領事 林久治郎発、田中義一外相宛)日本外交文書昭和期I第1部第3巻(1929年対中関係)82頁 [86] []
  17. 「榊原政雄ノ質問書ト題シタル書面ニ関スル説明書」(1924年3月15日、外務書記生 坂内弥代)アジア歴史資料センターRef.B09041289200、在外本邦人経営農場関係雑件/奉天榊原農場(E-4-3-1-16-1)(外務省外交史料館)コマ番55 []
  18. 旧清皇室で陵墓の墓守を担った部門。三陵衙門。 []
  19. 委任状(写)」(1915年10月19日、榊原政雄→細梅三郎・原口聞一)アジア歴史資料センターRef.B04011165600、満洲ニ於ケル農場経営関係雑件/榊原溥豊農園 第二巻(1-7-7-11_1_002)(外務省外交史料館)コマ番57 []
  20. 公第二九七号「榊原農場売戻ニ関スル件」(1915年12月2日、在奉天矢田七太郎総領事代理発 石井菊次郎外相宛)日本外交文書1915年 588頁 [530] []
  21. 第45号」(1916年2月24日、在奉天矢田七太郎総領事代理発、石井菊次郎外相宛)アジア歴史資料センターRef.B04011165800、満洲ニ於ケル農場経営関係雑件/榊原溥豊農園 第三巻(1-7-7-11_1_003)(外務省外交史料館)コマ番5 []
  22. 取極メ書」(1917年3月30日、在奉天日本総領事 赤塚正助)アジア歴史資料センターRef.B09041289200、在外本邦人経営農場関係雑件/奉天榊原農場(E-4-3-1-16-1)(外務省外交史料館)コマ番63 []
  23. 孫雨涵「在奉天総領事から見た土地商租権問題」(2021年3月25日、北海道大学)56頁 []
  24. 雑第七三号・雑第七四号「北陵農場ニ関スル件」(1924年7月5日、在奉天総領事船津辰一郎発 山西満鉄地方事務所長・吉植東拓支店長宛)アジア歴史資料センターRef.B09041289300、在外本邦人経営農場関係雑件/奉天榊原農場(E-4-3-1-16-1)(外務省外交史料館)コマ番33 []
  25. 「北陵農場ノ件」(1924年5月20日、浦本政三郎)アジア歴史資料センターRef.B09041289300、在外本邦人経営農場関係雑件/奉天榊原農場(E-4-3-1-16-1)(外務省外交史料館)コマ番20 []
  26. 農場の地主。中国の公的機関ではなく、旧清皇室に属する。 []
  27. 機密公第二四六号「商租関係北陵農場ニ関スル件」(1924年7月8日、在奉天総領事船津辰一郎発 幣原喜重郎外相宛)アジア歴史資料センターRef.B09041289300、在外本邦人経営農場関係雑件/奉天榊原農場(E-4-3-1-16-1)(外務省外交史料館)コマ番27 []
  28. 機密関第四八号「榊原北陵農場ニ関スル件」(1924年7月9日、在奉天総領事船津辰一郎発 関東庁兒玉秀雄長官宛)アジア歴史資料センターRef.B09041289300、在外本邦人経営農場関係雑件/奉天榊原農場(E-4-3-1-16-1)(外務省外交史料館)コマ番36 []
  29. 「榊原農場商租問題ニ関スル件」(1924年6月18日、関東庁)アジア歴史資料センターRef.B09041289300、在外本邦人経営農場関係雑件/奉天榊原農場(E-4-3-1-16-1)(外務省外交史料館)コマ番25 []
  30. うち2万円は債権。前掲の赤塚取極書を参照。 []
  31. 「請願書」(榊原政雄、1917年3月5日)アジア歴史資料センターRef.B04011166200、満洲ニ於ケル農場経営関係雑件/榊原溥豊農園 第四巻(1-7-7-11_1_004)(外務省外交史料館)コマ番6 []
  32. しかも同契約で受取った20万円の返還は拒んだのである!:「陳情請願」(榊原政雄代理人 中島忠利 1929年10月)42頁 アジア歴史資料センターRef.B09041289600、在外本邦人経営農場関係雑件/奉天榊原農場(E-4-3-1-16-1)(外務省外交史料館)コマ番25 []
  33. 「陳情請願」(榊原政雄代理人 中島忠利 1929年10月)アジア歴史資料センターRef.B09041289600、在外本邦人経営農場関係雑件/奉天榊原農場(E-4-3-1-16-1)(外務省外交史料館)コマ番24 []
  34. 「榊原農場問題の真相」(遠東事情研究会、1924年9月24日)10頁 アジア歴史資料センターRef.B09041289300、在外本邦人経営農場関係雑件/奉天榊原農場(E-4-3-1-16-1)(外務省外交史料館)コマ番80 []
  35. 機密公第八八号「告訴事件ニツキ榊原政雄ノ差出シタル質門書ト題スル書面ニ関シ報告ノ件」(1924年3月27日、在奉天総領事船津辰一郎発 松井慶四郎外相宛)アジア歴史資料センターRef.B09041289200、在外本邦人経営農場関係雑件/奉天榊原農場(E-4-3-1-16-1)(外務省外交史料館)コマ番20 []
  36. 「通告書」(1924年6月30日、榊原政雄)アジア歴史資料センターRef.B09041289300、在外本邦人経営農場関係雑件/奉天榊原農場(E-4-3-1-16-1)(外務省外交史料館)コマ番47 []
  37. 機密公第二五四号「榊原政雄ニ関スル件」(1924年7月12日、在奉天総領事船津辰一郎発 幣原喜重郎外相宛)アジア歴史資料センターRef.B09041289300、在外本邦人経営農場関係雑件/奉天榊原農場(E-4-3-1-16-1)(外務省外交史料館)コマ番38 []
  38. 孫雨涵「在奉天総領事から見た土地商租権問題」(2021年3月25日、北海道大学)第四章第一節(1) []
  39. 「奉天榊原農場内支那鉄道撤去事件」(1929年6月、関東庁警務局高等警察課)アジア歴史資料センターRef.B09041289500、在外本邦人経営農場関係雑件/奉天榊原農場(E-4-3-1-16-1)(外務省外交史料館)コマ番21 []
  40. 孫雨涵「在奉天総領事から見た土地商租権問題」(2021年3月25日、北海道大学)第四章小結 []