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【解説】第1次上海事変 ― II. 交渉成立したのに戦闘開始

 満洲事変の真っ只中に上海で起った第1次上海事変の勃発経緯についてまとめる。

 柳条湖事件が満洲事変を直ちに勃発させたのとは異なり、日本人僧侶襲撃事件(→第1回記事)から第1次上海事変の勃発までの間には、10日以上ある。襲撃事件を受けて駐上海日本総領事館は上海市長に対し抗日運動取締等の要求を突き付けた。上海市側が全要求を受諾して交渉が成立したにも関わらず、その約9時間後に戦闘が始まったのである。第2回の本記事ではこの10日間に焦点を当てて、事変勃発までの軌跡をいくつかの観点から分析する。

 日本外交文書満州事変第2巻第1冊一「上海事変の勃発と停戦協定の成立」に出典がある場合は、[ ]付番号でその文書番号を表す。

1. 大まかな時系列

村井倉松
村井倉松
塩沢幸一
塩沢幸一
呉鉄城
呉鉄城

 僧侶襲撃事件から戦闘開始までの大まかな時系列は、下のようになっている。

1932年1月18日16時頃

日本人僧侶襲撃事件

21日午前 

駐上海日本総領事村井倉松が上海市長呉鉄城に抗日運動弾圧等の要求を提出[6]

27日20時頃

村井総領事が呉市長に対し、要求への回答の期限を翌28日18時に設定[17]

28日15時頃

呉市長が日本側の全要求を受容れ、村井総領事は満足の意を表明[22]

28日16時 

租界当局が戒厳令を発令[29]

29日00時頃

日本海軍特別陸戦隊が出動
戦闘開始[29]

 中国側に全要求を受け容れさせて交渉が成立したにも関わらず、何故戦闘が始まったのだろうか。

2. 戦闘開始時どちらが先に攻撃?

 戦闘開始の時にどちらが先に攻撃したかという点については、日中双方共相手側が先に攻撃して来たと主張し合っている。事変当時横須賀鎮守府第2特別陸戦隊員として出征した中山定義は戦後、東郷神社の機関誌「東郷」1977年4月号で次のように供述している。

陸戦隊が配備につかんとした際、中国軍から第一砲を発射した件も、真相は、一触即発の両軍対峙の中間で発砲した謀略的第三の仕掛人がおったことは、事変後私自身H氏(未亡人現存)から確証を得た。熱血漢H氏は背後関係に就ては遂に黙否しつづけた。「相手軍から先に発砲してきたので味方は応戦した」という主張は、停戦協定交渉中、日、中双方共、最後迄互に断固として譲らなかった問題点であった。

3. 中国側に無断で租界外にまで及んだ防備担当区域

 戦闘開始場所は北四川路(North Szechuen road / North Sichuan road)の西側だった[29]。ここに大きな問題がある。

3.1. 上海共同租界

 本題に入る前に、上海共同租界(Shanghai International Settlement)についての基本事項を説明しておく。

 租界は、治外法権を有する国から来た外国人(治外法権国人)の居留地である1 。上海にはフランスの租界と、イギリス・アメリカ・日本等の共同租界があった。共同租界の行政は、主に工部局(Municipal Council)が担った。共同租界は土地章程第6条1項2 を援用して、主に1916~1925年にかけて、租界に接壌する土地を得て道路や公園等を造った。これは延長道路区域(extension)と呼ばれた。延長道路区域は租界ではないので、法的には上海市の行政権・警察権の下に置かれるはずであったが、共同租界も行政権・警察権を施行しており3 、上海市との2重警察状態を来していた4

 問題の北四川路も延長道路の1つであり、この西方で閘北(ざほく/こうほく/Chapei/Zhabei)という地が租界に北から隣接していた。ここには日本人居留民が多く住んでいた。北四川路の北端に日本の上海海軍特別陸戦隊本部があった。同陸戦隊は第1遣外艦隊(司令官:塩沢幸一少将)に属し、1930年から常設になっていた5

 共同租界では中国の内乱等による情勢悪化に備えて、防備委員会(Defense Committee)が防備計画(Defense Scheme)を策定していた。防備計画では共同租界の各国に防備担当区域が割当てられた。租界が戒厳令を発すると、各国が担当区域で防備計画に定められた任務を遂行することになっていた。

3.2. 踏み越えられた北四川路の一線

 上海租界では1927年春の北伐のときに協同防備を実施したことがあった。このときの日本の担当区域は、1927年2月4日の第一回各国先任指揮官上海防備会議で次のように定められた。

Honkew6 District as bounded by ;

Honkew Creek – Dixwell Rd. on the east
North Szechuan Rd.    〃 〃 west
Soochow Creek – Whangpoo River 〃 〃 south
Honkew Park        〃 〃 north.
also part of Pootung side included.

 実際に日本の兵力は下図のように配備された。北四川路が担当区域の西の境界を成していたことが分かる。

アジア歴史資料センター Ref.C14120084500、昭和2年4月21日~2年5月31日 上海陸戦隊経過概要 其の2(防衛省防衛研究所)
アジア歴史資料センター Ref.C14120084500、昭和2年4月21日~2年5月31日 上海陸戦隊経過概要 其の2(防衛省防衛研究所)
アジア歴史資料センター Ref.C14120084600、別表第7 陸戦隊配備要図其の1(北四川路虹口方面)(5月21日調)(防衛省防衛研究所)
アジア歴史資料センター Ref.C14120084600、別表第7 陸戦隊配備要図其の1(北四川路虹口方面)(5月21日調)(防衛省防衛研究所)

 このときの防備計画に対して、1931年に修正案が挙がり、同年12月18日の防備委員会で各国派遣軍指揮官がこれに署名した7 。淞滬鉄道線路と北四川路の間の領域は、租界でも延長道路区域でもない純然たる中国内地であったが、今回の防備計画修正案によって初めて共同租界の防備範囲に組入れられた。1927年実施の防備計画に比べて、日本の担当区域が北四川路越界区域で西へ拡がる形になった。

上海租界周辺(1932年1-3月)
上海租界周辺(1932年1-3月):日本外交文書デジタルコレクション 満州事変 別巻 付録 国際連盟調査委員会報告書付属地図 11 City of Shanghai ――をベースに作製
第1次上海事変_北四川路周辺防備区域
第1次上海事変_北四川路周辺防備区域 昭和六・七年事変海軍戦史 > 第四章 第一遣外艦隊ノ執リタル措置 > 第七節 支那側我ガ提議ヲ受諾セル以後ノ処置 > 第七節 支那側我ガ提議ヲ受諾セル以後ノ処置より

 1月28日16時、租界は戒厳令を発令した。この戒厳令下で上述の新しい防備計画が実施された。そして日本の陸戦隊が北四川路西側へ足を踏み入れたとき、戦闘が始まったのである。

 防備計画は租界の秘密文書となっており、北四川路西方の防備範囲への組込みは、事変勃発まで中国側には通知されなかった。この点は当時の外交関係者も租界当局の大失態として言及している所である。当時米国務長官だったHenry L. Stimsonは、著書「The Far Eastern Crisis」の中で次のように書いている。

The sector allotted to the Japanese was in the northeastern portion of the Settlement. More than that, the defense line of the Japanese sector had been extended outside of the Settlement northward in a sharp salient so as to include the so-called Hongkew district where a large number of Japanese nationals resided. This Hongkew salient lay east of the Shanghai-Nanking Railway, which ran north from the North Station. The main portion of Chapei lay west of the railway, in some portions overlapping the railway. Somewhere in Chapei it was known that the Nineteenth Route Army was quartered. This, moreover, was the first time that such an extension of the Japanese sector outside the Settlement to Hongkew had ever been made; and no notice of the extension had been given to the Chinese authorities of the city by the Defense Committee—perhaps owing to the confusion and excitement of the moment. Therefore if the Japanese moved into that portion of their sector without ample warning on their part, it was morally certain that they would come into immediate proximity and perhaps into contact with the Nineteenth Route Army.

 駐上海イギリス総領事John F. Brenanは1932年2月7日の外交文書で次のように書いている。

I append hereto extracts from the so-called “Shanghai Defence Scheme,” which is a scheme drawn up by agreement between the various parties responsible for the defence of the foreign area. It is important to note that, so far as concerns the Chinese authorities, this is a secret document. They had no say in its composition, and, it is presumed, no knowledge of its contents.

 事変勃発後に設置された国際聯盟上海調査委員会の第1回報告でも、日本の担当区域については

支那側当局ハ午後十一時事件発生ニ先立チ此租界外日本区域ニ関シ何等通報ヲ受ケサリシモノノ如シ

と記されている[122]。

3.3. 塩沢司令官声明

 1月28日20時、戒厳令下で第1遣外艦隊塩沢司令官は下記の声明を発した8

目下上海ハ、租界内外ヲ問ハズ人心動揺シ、形勢不穏ニシテ刻々悪化シ、工部局ハ戒厳令ヲ布キ、各国軍モ又警戒ヲ厳ニシツツアリ。

帝国海軍ハ、多数邦人ノ居住スル閘北一帯ノ治安維持ニ関シ、不安ト認ムルヲ以テ、兵力ヲ配備シ、之ガ治安ニ任ゼントス。

本職ハ、閘北方面ニ配備セル支那軍隊ノ敵対施設ヲ速ニ撤退センコトヲ支那側ニ要望ス。

 これがまた問題のある声明であった。そもそもこれは中国側に日本の防備担当区域を示すものではない。防備担当区域の時点で勝手に租界外に及んでいるというのに、この声明はそれより遥かに広い「閘北一帯」を指して、日本側海軍の兵力を配備させろなどと要求しているのである。中国側が抗日活動の徹底弾圧を含む日本側要求を全面受諾した5時間後に、中国の主権を新たに蹂躙せんとする内容の要求を発しているのである。これでは中国側も、自衛のため必要に応じて戦わなければならなくなる。

 また声明には中国側の設置した「敵対施設」を撤収するようにとの要求が書かれているが、これもまた一方的なものである。影山好一郎「第一次上海事変の研究」(錦正社)の分析によれば、中国側がこの「敵対施設」を構築し始めたのは1月23日頃である(80頁)9 。一方日本側は、1月18日の僧侶襲撃事件を受けて21日に村井総領事が呉市長へ要求を通牒した時点で、塩沢司令官から「本職ハ上海市長ニ帝国総領事ノ提出セル抗日会員日本僧侶暴行事件ノ要求ヲ容レ速ニ満足ナル回答並其履行ヲ要望ス 万一之ニ反スル場合ニ於テハ帝国ノ権益擁護ノ為適当ト信スル手段ニ出ツル決心ナリ」との声明を発して、中国側への徹底的な軍事威圧を開始している。そして22日には既に軍艦派遣と陸戦隊増強に向けて動き出し[65]、北四川路では敵対施設を構築していたのだった。

日本側の敵対施設構築 1月22日北四川路
省文社編集部編「満洲・上海事変写真帖」(1932年4月28日刷)

 声明の問題はその内容だけではない。この声明が上海市長に届いたのは、23時25~30分頃(戦闘開始約30分前)であった。国際聯盟上海調査委員会第1回報告には、次のように書かれている[122]。

支那軍事当局ハ其軍隊ヲ撤退スヘキ日本司令官ノ要求ニ応セサリキ然シ乍ラ支那当局カ此要求ニ応セント決心セリトスルモ恐ラク該地方ニ於ケル支那軍隊ニ現実撤退ヲ手配スルコトハ短時間ニ於テ彼等ノ自由ニナシ得ルコトハ不可能ナリシナラント思ハル

4. 交渉成立後に発令された戒厳令

 租界当局は1月28日午前中の打合せで、同日16時戒厳令発令の計画を承認した[122]。これについては、イギリスのBrenan総領事が次のように記している10

At 7:30 A.M. on the 28th January the Japanese commander gave notice to the commanders of the other national defence forces that he proposed to take action on the following morning, as no satisfactory reply had been received from the Chinese, but no indication was given of the nature of the action intended. At a meeting of the Defence Committee, held on the 27th, the commander of the Japanese naval landing party, in reply to a question, said that, with regard to the threatened drastic action to be taken in the event of the Chinese not conceding the Japanese demands, Admiral Shiosawa would give twenty-four hours’ notice in advance of taking action. He further stated that, in the event of the Japanese having to take action, it was the wish of Admiral Shiosawa that the Shanghai Municipal Council should declare a state of emergency.

 つまりこの戒厳令のスケジュールは、中国側が日本側の要求を受諾せず日本海軍が出動することになった場合を想定して、日本海軍の希望に応じる形で、可決されたのである。しかし実際この戒厳令は、中国側が全要求を受諾して交渉が成立した約1時間後に、予定通りの時刻に発令された。この戒厳令の下で出動した陸戦隊が中国軍と衝突することになる。何故租界当局は交渉成立にも拘らず予定通り戒厳令を発したのか。国際聯盟上海調査委員会の第1回報告は、この戒厳発令について下記のように記している[122]。

 同日午後早々大上海市長ハ日本総領事ニ対シ日本側要求ヲ全然受諾セル回答ヲ手交セリ午後四時日本総領事ハ此回答受領ノ次第ヲ領事団ニ報告シ右回答ハ全ク満足ナルモノナリト云ヘリ彼ハ市長カ受諾セラレタル条件ヲ実行セシメ得ルヤ否ヤヲ見守ルコトカ残サレ居レリト付言シ併シ要求ハ既ニ大部分履行セラレ居リ現在ノ処何等行動ハ採ラレサルヘキ旨ヲ付言セリ外交上ノ事態ニ於ケル此変化ニモ拘ハラス日本海軍当局ハ何時ニテモ行動ヲ起スヘク決セリト一般ニ信セラレタリ支那側ハ其約束ヲ履行スル意向ナクシテ日本側ヲ襲撃スヘク準備シツツアリトノ煽動的声明カ日本側「プレス・ユニオン」通信ニ現レツツアリタリ又日本側要求ヲ市長カ受諾セルコトニ対シ支那民衆中ニ暴動起ルヘシト予想セラレタリ之等考慮ハ防備委員会ノ目ニハ戒厳状態ハ強行セラルヘキコト望マシキコトナリトセラレタリ依テ戒厳状態ハ午後四時ヨリ実行セラレタリ

 1月29日早朝、上海市長から「貴方ハ我方ノ回答ヲ既ニ満足ノモノト認メラレタルニ貴国海軍カ突然此種軍事行動ニ出ツルハ殊ニ奇異ノ感ニ堪エス……」との抗議を受けた日本側は「今回ノ衝突事件ト日蓮宗徒殺傷事件ニ依リ惹起セラレタル交渉事件ハ其ノ性質全然別個ノモノニシテ直接ニハ無関係」などと応酬している[65]が、上で見た戒厳令の経緯だけからしても、この言い訳には相当無理があると感じざるを得ない。

 もっともこの「僧侶襲撃と事変勃発は無関係」説を公式見解とした外務省や海軍は、田中隆吉の謀略の協力者ではなく、ターゲット側である。僧侶襲撃謀略の主体たる田中は、事変を起こす意図を明確に持ち、謀略の成功を見届けた。これは前回の記事で既に示した所である。田中は1960年1月6日放送のテレビ東京番組のインタビューで、「国民諸君に対しては、かくの如き上海事変を起こして、まことに衷心相すまんと思っております。」と謝っている。

5. 便衣隊と陸戦隊

 1月29日早朝の呉市長からの抗議を受けて、村井総領事は事変勃発直前の状況として下記のような説明をした[65]。

The rumour of surreptitious entry of the “plainclothed corps” gained wide circulation. To make the situation from bad to worse all the Chinese constables fled from the Chapei district where about 7000 Japanese reside. The excitement of the populace grew to feverpoint. As an emergency measure of protecting the Japanese lives and property in Chapei a Japanese landing force was despatched in accordance with a previous arrangement with authorities of the Municipality and British, American and other forces and in conformity with former precedents of similar cases (the territory in question is a strip of land in Chapei on the east side of the Shanghai-Woosung Railway which by the above named agreement was assigned to the Japanese).

 この節では便衣隊(前者太字部)について簡単に触れておく。後者太字部については次節で言及する。

 便衣隊とは、制服を着用せず一般人と見分けのつかない兵の集団のことである。しばしば戦闘法規に照らして交戦資格の有無が問題視される存在ではあるが、交戦中でなく交戦に至るまでの過程を論じる分には、そのような問題は争点にはなり得ない。

 寧ろ問題は、租界での日本を含む列国の戦力の方にある。列国の陸戦隊の上海駐留は法的根拠を欠いていた。信夫淳平「上海戦と国際法」第4章第3項は次のように解説する。

 これ等各国兵の上海駐屯は、何等条約上の根拠あるのではなく、畢竟は実際の必要に基いて多年の間に慣例を形成するに至れる一の既成事実に外ならない。外国が支那に於て条約上駐兵権を有するのは、義和団事変善後の最終議定書に依る北支那に於ける特定の駐兵のみである。(満洲のことは別とする)。

 第1次大戦後のワシントン会議の時点で既に中国は「条約上ノ根拠ナキ外国軍隊ノ駐屯ハ速ニ之ヲ撤回スベキコト」を再三要求していた11

 租界は高々治外法権国人の居住地であって、植民地ではない。確かに1927年の北伐のときなど、情勢悪化を受けて租界の列国戦力が出動した例はある。信夫の謂う「実際の必要」とはこうした事例のことを指すのだろう。しかし本来、自国の治外法権を享受してなお中国が危なくて嫌だと言うなら、中国から出て行かなければならない。そういう発想に至らず現地人の声を「排外運動」として弾圧しにかかるような所が、租界列国の帝国主義たる所以なのである。

6. 閘北が無警察状態に?

 村井総領事は上掲発表の中で、事変勃発直前の状況として、日本人が約7000人住む閘北から中国の保安隊(constables)が皆逃げ出したと述べている。日本側の軍事行動を正当化する材料の1つとして言及しているのかも知れないが、どうだろう。

 まず28日20時塩沢司令官声明の所でも言及したように、閘北は租界外である。日本人がたくさん住んでいようが、閘北の治安が心配になったからとて日本が干渉していい場所ではない。

 そもそも村井総領事のこの発表内容には、本当かどうか疑わしいとする指摘もある。村井の発表について、イギリスのBrenan総領事は2月7日の外交文書の中(第29段落)で次のように述べている。

If the statement with regard to the fleeing of the Chinese constables refers to the constables of the Shanghai municipal police12 it is untrue, for these police had been withdrawn at the request of the commander of the Japanese landing party, as mentioned above. If it refers to the Chinese city police it is denied by the Chinese Bureau of Public Safety, who assert that the constables were still at their posts at the time of the attack, and is also discounted by the Press Union report of the attack, which states that Chinese police officers, who fired upon the Japanese, were quickly disarmed.

7. 交渉の結果に関わらずどっちみち戦争する気だった?

 日本側は外交交渉の結果に関係無く最初から事変を起こすつもりだったのではないか?

 陸軍は勿論そうである。田中隆吉はまさに上海で事変を起こす為に、チンピラを雇って日本人僧侶を襲撃・殺害させたのだ。これについては前回記事で既に確認した。

 海軍はどうだろうか。陸軍ほど明確な結論には至らないが、次の2点は資料から読み取れる。

  1. 陸軍の工作や極右居留民の暴走は許さない一方、海軍なりにタイミングを見計らって抗日運動に一挙大弾圧を加えようと考えていた
  2. 要求を中国側に受諾させる為の軍事威圧として、武力行使をチラつかせた。表向きには必ず「中国側から満足な回答が得られなかった場合」という条件付きで武力行使を示唆したが、外交当局者からは「交渉の結果に関係無くどのみち武力行使に出るだろう」と見られていた。

 この2点について順に説明する。

7.1. ケチではない何らかの処置

 事変当時第1遣外艦隊主席参謀だった山縣正郷は「上海事変秘録」の中で、事変前の現地海軍の考え方について次のように記している。

第十、排日行為ニ対スル方策

一、内外棉事件以来ノ情況ヲ見ルニ抗日態度ハ愈深刻ヲ加フルノミナルヲ以テ適当ノ機会ヲ捉ヘテ断乎タル処置ニ出デ排日行為ノ徹底的取締ヲ行フ要アリトノ所感ヲ得タリ

二、排日ノ弾圧ヲ加フル機会ニ就キテハ次ノ二方法アリ

(イ)自発的ニ機会ヲ作為スルコト

(ロ)自然ノ成リ行キヲ注視シ適当ノ機会ノ発生ヲ待チ之ヲ利用スルコト

  上海駐在陸軍武官(田代公使館附武官ハ帰朝中)ハ支那浪人又ハ日本人ヲ使嗾シテ事端ヲ起サント策動シ或ル時ハ支那人ヲシテ日本軍艦襲撃ヲ企図セシメタルコトアレドモ海軍側トシテハ極力之ヲ抑止シタリ

  策動ニヨリ機会ヲ作ラントスルコトハ支那側ニハ勿論列国ニ対シテモ日本ノ立場ヲ不利ナラシムルモノニシテ公明正大ナラズ当時一遣司令官ノ意志ハ専ラ自然的ノ成行ヲ見テ適当ノ機会ヲ捉ヘテ発動スルコトニアリタリ

三、当時上海ノ情況愈々悪化シ適当ノ時機ニ徹底的弾圧ヲ加フルニアラザレバ中南支ニ於ケル日本ノ権益ハ失ハルベキニ就キ之ニ対スル中央ノ大方針ヲ訊シタルニ中央ヨリハ事件不拡大ガ依然タル方針ナル旨ノ回答ヲ得タリ当時司令官ノ決心ハ次ノ如キモノナリキ

  今日ノ情況ニ立チ至リタル以上出先指揮官ハ自己ノ責任ノ下ニ最善ト信ズル処置ヲ執ルヨリ外途ナシ

 極右居留民の暴走も戒めた時のことについても、同秘録で次のように書かれている。

一月二十二日午后二時居留民大会実行委員ノ代表者トシテ弁護士書斎某外二名旗艦安宅ニ来訪シ去一月二十日ノ居留民大会ニ於テ選定セラレタル実行委員ハ其後研究ノ結果居留民有志ヲ以テ第五区公安局ヲ襲撃スル計画ヲ樹テタルヲ以テ明二十三日ノ居留民大会ノ決議ニカケ実行スル決心ナルガ海軍側ニ於テハ陸戦隊ヲ出動シテ之ヲ支援シ貰ヘザルヤト申出デタリ

塩沢司令官ハ言下ニ之ヲ叱責シ絶対ニ支援セザルノミナラズ暴挙ヲ行フ不逞ノ徒ハ譬ヘ日本人ナリト雖モ武力ヲ以テ之ヲ鎮圧スベシト言明サレタリ

彼等ハ其ノ緋ヲ悟リタルモ明日ノ大会ニ斯ノ如キコトヲ云ヘバ袋叩キニ遭フベシ何トカナラザルヤト萎レ居リタリ

此処ニ於テ小官ハ次ノ如キ要旨ノ注言ヲナセリ

目下海軍ニ於テ執ラントスル処置ハ諸君ノ計画ノ如クケチナモノニアラズ一公安局ノ焼打ノ如キ何ノ価値アラン

大会ノ対策トシテハ実行委員ガ今日迄ノ研究ヲ説明シ且公安局焼打ノ計画ヲ立テ之ヲ艦隊司令部ニ諮リタルニ艦隊側ニ於テハ確固タル方針ノ下ニ大ナル計画アルラシク又何等軍隊的統制ナキ居留民ノ直接行動ハ迷惑ノ如ク見受ケタルヲ以テ暫ク時局ノ推移ヲ観察シタシト諮リ大会ヲ閉会スベシ

 陸軍のような露骨な謀略に訴えたくないというプライドを持ちながらも、抗日運動に対して一挙大弾圧を加えるタイミングを探っていたことは間違い無い。

7.2. 海軍の言動と外交当局者の見方

 僧侶襲撃事件を受けて村井総領事が呉市長へ要求を提示したとき、塩沢司令官は同時に下記の声明を発して、中国側を軍事的に威圧した[65]。

本職ハ上海市長ニ帝国総領事ノ提出セル抗日会員日本僧侶暴行事件ノ要求ヲ容レ速ニ満足ナル回答並其履行ヲ要望ス

万一之ニ反スル場合ニ於テハ帝国ノ権益擁護ノ為適当ト信スル手段ニ出ツル決心ナリ

 また上海調査委員会第1回報告[122]によれば、塩沢司令官は1月28日午前7:30に、

他国防備軍司令官ニ対シ何等満足ナル回答カ支那側ヨリ受領セラルルニ非サレハ翌朝ヲ期シテ行動ヲ採ルコトヲ提議スル旨通知セリ

とのことである。公文書に残された発言では必ず「もし中国側が要求を受け容れなければ」といった条件付きで軍事行動を示唆しているが、現場の外交当局者の間では、中国側の回答内容に関係無くどのみち日本海軍は軍事行動に出るだろうと受け止められていたようだ。英Brenan駐上海総領事は2月7日の文書で、次のように述べている。

Furthermore, on all sides, in official and unofficial circles, there was a strong belief that, no matter what the reply of the Chinese to the Japanese demands might be, the Japanese naval authorities were determined to take action.

……

The fact remains that, whether true or not, almost all persons, both the ordinary public and those in authority, whether Chinese, Japanese or neutrals, were firmly convinced in their minds that the Japanese intended to take action some time (though it was not then known when the stroke would fall), and not for the purpose of guarding their perimeter under the Defence Scheme, but as a war-like operation for the occupation of Chapei or some other portion of Shanghai.

……

I would repeat that the general opinion, which I share, is that the Japanese navy intended to take action in Chapei whatever the outcome of the consul-general’s negotiations were. They had all their plans ready. They hoped that the demands which had been presented to the Chinese were impossible of acceptance, as indeed they were impossible of execution. When, however, the demands were accepted the grounds for the proposed action had to be shifted, and reports were immediately circulated by the Japanese Press Union that the Chinese had no intention of carrying them out and that they were preparing to attack the Japanese.

 また上海調査委員会第1回報告でも、次のように書かれている。

外交上ノ事態ニ於ケル此変化ニモ拘ハラス日本海軍当局ハ何時ニテモ行動ヲ起スヘク決セリト一般ニ信セラレタリ支那側ハ其約束ヲ履行スル意向ナクシテ日本側ヲ襲撃スヘク準備シツツアリトノ煽動的声明カ日本側「プレス・ユニオン」通信ニ現レツツアリタリ

 日本外務省内では、1月26日南京発本省宛の電報[14]で次のように報告されている。

(一)二十六日当地我海軍側ニ達セル電報ニ依レハ塩沢司令官ハ上海ノ事態益々悪化シ来レルニ鑑ミ帝国海軍ハ二十八日以後自衛手段ヲ執ルヘキ旨宣言シ先大臣発貴官宛電報第一二号後段司令官稟請ノ第二項及第三項ヲ実行スヘキ決心ナル旨東京ニ電報シ更ニ当地駐在海軍武官ニ対シテハ帝国海軍ハ何日カ(日付ハ追テ電報スヘシトノコト)ヨリ必要ナル自衛手段ニ出ツヘキ旨、支那側ニ対スル通告文案ヲ電報シ来リ日付決定ト同時ニ右ヲ陳紹寛ニ手交スヘキ旨訓令シ来レル趣ニテ当地海軍側ハ二十八日若ハ二十九日ニハ必ス上海ニ於テ実力行使ノ挙ニ出ツヘキヲ信シ居レリ依テ本官ハ大臣発貴官宛第一一号及第一二号ノ趣旨ヲ話シ上海総領事ト海軍トハ密接ナル連絡ヲ執リ居リ而モ外務大臣ヨリハ実力行使ノ時期ハ予メ請訓スヘキ旨ノ訓令モアルコトナレハ司令官ニ於テ右総領事、本省ニ対スル請訓ヲ待タス兵力行使ニ出ツル筈ナキ旨説明シ自重ヲ求メ置キタルニ就テハ右特ニ御含ノ上海軍側ト連絡方御配慮相成度シ

(二)当地碇泊ノ先任艦長ヨリ司令官宛電報ヲ以テ上海ニ於テ兵力使用ノ場合ハ当地ニ於テ如何ナル事件突発セサルトモ限ラサルニ付予メ領事館員及在留民ヲ軍艦ニ収容シ置キ度キ旨ノ意見ヲ稟申シタル処司令官ヨリ軍艦ニ収容スルハ避ケラレ度キ旨回訓アリタル趣ニテ艦長ノ解釈ニ依レハ右訓令ノ趣旨、非常ノ際ニ於ケル軍艦ノ戦闘カ阻害ヲ恐レタル為ナル可ク此ノ上ハ予メ日清汽船ヲ一隻当地ニ回航セシメ置クヨリ外ナキニ付本官ニ於テ右取計方依頼シ越セリ本官ノ見ル処ニ依レハ支那側カ南京ノ治安維持ニ全力ヲ尽シ居ルハ事実ニシテ当地ニ於テハ我方ヨリ挑発セサル限リ先ツ大事ナル事件ヲ見ル事無カル可シトハ思ハルルモ我海軍側ノ意気込ニモ顧ミ全然楽観シ得可キニ非ス従テ上海ニ於ケル兵力使用ノ場合ハ当地在留民ヲ安全地帯ニ移シ置ク事万全ノ策ナル可ク而モ当地ニハ安全地帯トテハ之無ク「ハルク」トテ万一砲火ヲ交ユルカ如キ場合ニハ頗ル危険ナルニ付予メ汽船一隻ヲ当地ニ回航シ置キ在留民ヲ之ニ収容スル外安心シ得ル方法無キ次第ニ付大臣宛拙電第七一号ニ対スル本省ノ回訓ニ依リ差支ヘナキニ於テハ適当ト認メラルル時期ニ汽船一隻当方ニ回航セシムル様御取計相成度シ

 New York Timesの中国特派員として当時上海に居たHallett Abendは、1月28日17時に日本の旗艦を訪れて塩沢司令官に話を伺ったときのことについて、著書「My life in China 1927 – 1941」の中で次のように述べている。

Admiral Shiozawa showed a marked lack of enthusiasm over the abject surrender of the Chinese authorities, and finally said sourly that their acceptance of the Japanese demands was “beside the point.” Then came the informative bombshell.

“I’m not satisfied with conditions in Chapei,” he said, measuring his precise English very slowly. “There are 600,000 excited Chinese in the Chapei district of Shanghai, and most of them are violently anti-Japanese. About 6,000 helpless Japanese civilians have their homes and shops in Chapei. I hear a rumor that the Chinese policemen are deserting their posts, and that there is danger of rioting and looting. At eleven o’clock tonight I am sending my Marines into Chapei, to protect our nationals and to preserve order.”

“But the Chinese will resist,” I blurted out. “There will be fighting, unavoidably.”

“Well,” said the admiral, twinkling, because I knew as well as he that it was not only in the United States that there was rivalry between the army and the navy, “you see the army had to protect our interests in Manchuria. There is no Japanese army in Shanghai, so the navy will have to take over a similar job here.”

 また事変中に上海を訪れた遠藤三郎(当時参謀本部作戦課)も、著書「日中十五年戦争と私」の中で次のように述べている。

この時私は徳島県の小松島から第二艦隊の旗艦妙高(一万屯巡洋艦)に乗って上海に行ったのですが、その航海中艦隊参謀の宇垣纏中佐(後の中将、敗戦の時航空艦隊司令長官として飛行機に搭乗、沖縄沖で自爆した人)と一緒におりましたが、彼は私に「陸軍は怪しからん。海軍を出し抜いて勝手に満洲事変を起し、国民の人気を一人占めにしている。今度は海軍がやるぞ」と真面目に言われました。上海事変の導火線は先にも述べた様に日本の僧侶二人が上海市中で中国人に傷害されたことにあるといわれますが、やはり海軍軍人の中に宇垣参謀の様な考えが伏在しておったのも一因であったことは否定し得ない様です。

 交渉成立にも関わらず何故事変が勃発したかという考察は、ここまでとする。

8. 事変中の惨案

 最後に、事変勃発以後のことについて簡単に触れておく。事変中は、日本の自警団等が通行人を便衣兵認定して虐殺する事例が相次いだ。重光葵駐華公使は、当時の状況を本省へ次のように報告している[48]。

二十九日事件当初海軍側ハ手薄ノ為在郷軍人団及一時青年団又ハ自警団ヲ閘北占拠地内ノ治安維持ニ用ヒタル行懸モアリ彼等ノ行動ハ便衣隊ニ対スル恐怖及憎悪ト共ニ恰モ大地震当時ノ自警団ノ朝鮮人ニ対スル態度ト同様ナルモノアリ支那人ニシテ便衣隊ノ嫌疑ヲ以テ処刑(殺戮)セラレタルモノ既ニ数百ニ達セルモノノ如ク中ニハ外国人モ混入シ居リ将来ノ面倒ナル事態ヲ予想セシムル為ニ支那人外国人ハ恐怖状態ニアリ

 2月2日、租界防備委員会参加各国から日本宛に抗議があり、その中で次の事例が挙げられている[65]。

(二)一月三十日英国受持区域「ロビンソン」路「ペナン」路交叉点ニ近接スル日本軍「ポスト」付近ニ於テ日本兵ハ二名ノ支那人苦力ヲ突殺セリ

(五)二月一日夕「プレナンピース」付近ニ於テ十六歳ノ武器ヲ持タサル支那軍小児ハ日本兵ノ為銃殺サレタリ

 国際聯盟上海調査委員会第2回報告の中でも、次のように報告されている[138]。

陸戦隊在郷軍人及壮士ハ即決処刑ヲ含ム多クノ暴行ヲ行ヒタルカ壮士ハ何等公ノ資格ナク多分支那側初期ノ反日運動ニ対スル単ナル復讐心ニ促カサレ斯カル行動ニ出テタルモノノ如シ其結果トシテ恐怖時代ノ現出ヲ見同地方ノ日本人以外ノ殆ト全部ノ外人ハ他ニ避難セリ

9. 上海停戦協定

上海停戦協定
影山好一郎「第一次上海事変の研究」416頁より

 1932年5月5日に日中間で上海停戦協定[341]が調印された。これを以って第1次上海事変は正式に終了した。この協定によって中国側は、軍の配置範囲を上図「支那軍現駐地ノ前線」以西に制限された。租界外であり且つ中国固有の領土である広大な範囲において、中国側は自軍の配置を禁じられたことになる。日本帝国政府の見解によれば、この配置制限は5年後の第2次上海事変勃発時点でも解消されていなかった。

10. 参考文献

 本文中に挙げた資料以外では、影山好一郎「第一次上海事変の研究」(錦正社)を大いに参考にさせて頂いた。(前回記事と同じ)

11. アイキャッチ画像

1932年1月22日に北四川路で敵対施設を構築中の日本軍。

省文社編集部編「満洲・上海事変写真帖」(1932年4月28日刷)より。

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日本側の敵対施設構築 1月22日北四川路
  1. 租界については記事「【解説】日本人の内地侵出と満蒙問題 ― I. 南満東蒙条約の強制性」の節「第2条・第3条は何故受入れ難かったか」で説明した。 []
  2.   「借地主その他別項規定の有権者は納税者会議の決定を以て、道路、公園、運動場、又は娯楽場と為すの目的にて租界の接続地又は租界外の土地を買収し、或は外国人又は支那人所有者との相互契約の下に土地を受納するの権利を有す。又工部局は道路公園等の土地の買収、新設、及び維持のため必要且有益と認むる場合に於て、時々本章程第9条に規定する資金の一部を之に充当するを得。但し斯かる道路及び公園は、租界内の総ての住民の健康、娯楽、及び運動のため必ず公用に供せられるべきものとす。」 []
  3. 交通整理に関しては、共同租界側の施行にも法的根拠があった。1919年2月制定土地章程補足第36条で「何人と雖も、租界内若くは租界外の工部局道路又は小路に於ける交通整理のため工部局の制定したる規定を故意に犯す者は銀25弗以内の罰金又は科料に処されるべし」と定められていた。しかし、交通整理にとどまらない一般的な行政権や警察権となると、法的根拠が無かった。 []
  4. 信夫淳平「上海戦と国際法」第4章第2項より。 []
  5. 笠原十九司「日中戦争全史」(上)124頁 []
  6. 虹口のこと []
  7. 公刊昭和6,7年支那事変史 上(公刊昭和6,7年事変海軍戦史原稿)> 第5章「上海事変の近因」 > 12「局面急転」 []
  8. 「昭和六・七年事変海軍戦史」第2巻 > 第一篇 上海事変発生前ノ一般状況及両軍ノ状況 > 第三章 中央海軍当局ノ措置 > 第四節 上海事件ニ対スル指導 []
  9. 1月23日深夜、第19路軍の蔡廷鍇軍長は「一、日本は将に大艦隊を派し我政府を威迫して愛国運動を取締らしめ且自由行動に出でんとす」「二、我軍は国土守衛を以て大職とし若し日本軍我駐地に向て攻撃し来らば全力を以て之を撲滅せよ」といった密命を下している(公刊昭和6,7年支那事変史 上(公刊昭和6,7年事変海軍戦史原稿)> 第5章「上海事変の近因」 > 9「わが抗議に対する支那の態度」)。 []
  10. British documents on foreign affairs Part II Series E Vol. 11「Origins Of Shanghai Crisis []
  11. 華盛頓会議経過 第二部 太平洋及極東ニ関スル問題 > 第一編 支那ニ関スル問題 > 第二章 領土上及行政上ノ保全ニ関スル問題 > 第五節 外国駐屯軍撤退問題 > (一) 外国駐屯軍撤退ニ関スル支那側要望 []
  12. 工部局の警察のこと。村井が逃げ出したと言っている保安隊は多分こちらのことではないと思う。 []