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【解説】第1次上海事変 ― I. 僧侶襲撃事件ヤラセの形跡
満洲事変の真っ只中に上海で起った第1次上海事変の勃発経緯についてまとめる。第1回のこの記事では、事変の引金になった日本人僧侶襲撃事件が陸軍によるヤラセであったことについて、史資料の記述を紹介する。

1. 満洲事変勃発後の上海
満洲事変の真っ只中、関東軍は満洲の中国からの分離に向け、まず列国の目を逸らせたいということで、上海駐在武官補佐官の田中隆吉少佐に工作を依頼した。上海には日本の海軍特別陸戦隊が常駐しており、またフランス租界と日米英等の共同租界があって、列国の権益が錯綜していた。この上海で一つ事を起してほしいということであった。(この関東軍からの依頼については、後掲「上海事変はこうして起された」に書かれている。)
万宝山事件に続いて起きた朝鮮排華事件(朝鮮事件)や満洲事変の勃発以来、中国では抗日感情が激しさを極めていた。しかし上海では、抗日運動の内容は日貨排斥がメインであり、日本人が虐殺される事件はなかなか起きなかったという。当時の上海について、朝日新聞上海特派員だった宮崎世竜は、1960年1月6日放送のテレビ番組のインタビューで次のように述べている。
宮崎 まあね、上海は平和だったですよ。排日運動が起こっても経済的なものです。いわゆる日貨ボイコットです。日本品を買うなというわけです。それがだんだん進んでいってね。日本品を買った商人を懲罰するんですね。日本品をウンと買いだめしているのを押収するとかね。はなはだしいときは、奸商といいまして、その商人を引っ張り出して街を引きずり回すのです。
―― さらし者にするわけですね。
宮崎 ええ、それは上海抗日救国委員会の分派ですが、そういう非常に激しいのが出てきました。しかしね、直接日本人に危害を加えるというようなことはありませんでした。
ジャーナリストのEdgar Snowは著書「Far Eastern Front」(1934年)で、満洲事変勃発から1932年1月17日までの中国の状況について、
この全期間を通じて中国本土にいた日本人居留民や官吏で殺された者はひとりもいなかった。
と記している。(実際には福州で殺された事例があるようなので「中国全土」とまで書いてしまうのは確認不足の感があるが、1932年1月初旬から上海に居たSnowの体感としては参考になるだろう。)そして1月18日の日本人僧侶襲撃事件について、
上海で中国人暴徒に襲われて日本人の生命が失われ、これまでの注目に値する記録が破られたのである。
と書いている(引用は梶谷善久の訳書「極東戦線」 > 第2部「壁の中の中国」 > 12節「日本式商法」より)。
当時アメリカ国務長官だったHenry L. Stimsonは、著書「The Far Eastern Crisis」(1936年)で、当時の上海について次のように記している。
Although a most intensive and effective boycott of Japanese trade by the Chinese had been going on for over four months, and although the occurrences in Manchuria had resulted in tremendous feeling against the Japanese on the part of the Chinese population, it is fair to say that surprisingly little personal violence had resulted.
したがって、上海で日本人居留民の虐殺を契機として事を起こそうと考えれば、受動的な態度で日本人が虐殺されるのをただ待っている訳にはいかず、積極的に虐殺事件を創り上げる必要に迫られたのであった。
1932年1月18日、托鉢寒行中の複数の日本人僧侶等が三友実業社のタオル工場前で中国人暴徒によって襲撃され、1人が死亡した。これが日本人僧侶襲撃事件である。これが引金となって、10日後に田中等の思惑通り事変が勃発することになる。次の節では、この事件が田中の工作であったことを示す史資料の記述をいくつか紹介する。
2. ヤラセの証拠・傍証
河出書房「別冊知性」1956年12月号の記事「上海事変はこうして起された」で、田中本人が謀略を供述している。該当の記述を下記に引用する。
十月初旬、関東軍の花谷少佐から至急来て欲しいという電報が来たので、佐藤武官には黙って奉天に出かけ、板垣大佐、花谷の両人に会見した。板垣等は「日本政府が国際連盟を恐れて弱気なので、事ごとに関東軍の計画がじゃまされる。関東軍はこの次にはハルピンを占領し、来年春には満州独立迄持って行くつもりで、今土肥原大佐を天津に派遣して溥儀の引出しをやらせているが、そうなると連盟がやかましく云い出すし、政府はやきもきして、計画がやりにくいから、この際一つ上海で事を起して列国の注意をそらせて欲しい。その間に独立迄漕ぎつけたいのだ」という話であった。更に溥儀妃を満州に連れてくるため、私と親しかった川島芳子を天津に派遣してくれという依頼も受けた。
関東軍は帰りがけに、運動資金に二万円をくれたが、これだけでは足りないので、後に鐘紡の上海出張所から十万円を借りた。
それから、支那課に連絡して機密費を少し出して呉れと頼んだら、関東軍の連絡で、計画のあらましを知っていたらしく、課長重藤(千秋)大佐、班長根本(博)中佐、影佐少佐等、大いに乗気でしっかりやってくれということだったが、資金の方はどうも応じ切れないという話で、正月に専田(盛寿)大尉が連絡にやって来て激励して行ったが、金の方はとうとう出ずじまいだった。
一方上海には重藤支那課長の弟である重藤憲兵少佐が共産主義研究のために駐在していたが、私と彼は余り仲が良くなかったとはいえ、この陰謀では協力して、仕事をした。実際の仕事は殆んど彼がやってくれた。
さて準備もほぼととのったので、翌七年一月十八日夕方江湾路にある日蓮宗妙法寺の僧侶が托鉢寒行で廻っているのを、買収した中国人の手で狙撃させた。二名が重傷を負い、一名は後に死亡したが、支那側巡警の到着がおくれたために犯人は捕らなかった。待ち構えていた日本青年同志会員三十余人が、ナイフと棍棒を持って犯人が匿れていると主張して、三友実業社を襲って放火し、帰路警官隊と衝突して死傷者を出した。之が上海事変の発端である。
翌二十日には居留民大会が日本人クラブで開かれ、中国側新聞の不敬記事(桜田門事件に関するもの)問題及び僧侶襲撃事件について対策を協議した結果、排日運動の絶滅を帰するために陸海軍の派遣を政府に請願することになった。一方私も方々を飛びまわってこの際出兵すべきである旨を説いてまわった。少し熱心に過ぎたせいか、私が当時の三井物産上海支店長福島氏にピストルをつきつけて、団琢磨に出兵要請電報を打てとおどかしたという話が伝えられているが嘘である。
そうしている内に一月二十八日、日支両軍はとうとう戦闘を開始して本格的な戦争になって来た。日本は最初海軍陸戦隊だけで十数倍の蔡梃諧軍を支えていたが、苦戦になったので、下元混成旅団と第九師団を上陸させ、それでもらちがあかないので、二個師団を揚子江の上流に上陸させて、ようやく上海を抜いた所で、三月三日停戦協定成立となったが、我々の陰謀は効を奏して、列国の眼が上海に注がれている間に、満州国は三月一日に独立してしまった。
しかし、我々のやった陰謀は途中から薄々海軍側に気付かれたらしく、海軍がかんかんになって怒っているという噂を耳にしたが、或日山岸中尉以下数名の海軍青年将校―後に五・一五事件を起した連中―が私の部屋にどなり込んで来て、ピストルと刀をつきつけたことがあった。中央部でも海軍側から抗議が出たということだったが荒木陸相は元々寛大な人だし、何ということもなかった、永田(鉄山)軍事課長と上海派遣軍の岡村(寧次)参謀副長に叱られたことはあったがそのまま有耶無耶になってしまった。叱られるなら、関東軍が発案者だし、その上満州事変迄やっているのだから、罪は向うの方が重しとせねばならぬ。
この供述の冒頭で田中は、関東軍の板垣征四郎と花谷正から謀略を依頼されたと書いている。同巻の別記事「満州事変はこうして計画された」では、花谷正は第1次上海事変について次のように簡単に触れている。
ハルピン占領が出来たのは翌年一月で、この時には我々と上海の田中隆吉少佐の合作でやつた上海事変に火がついたのでそのどさくさにまぎれて簡単に作戦を終了した。
事変当時参謀本部作戦課に勤務し陸海軍間の連絡に当たっていた遠藤三郎は、戦後に書いた著書「日中十五年戦争と私」の中で、田中から
“ 日蓮坊主の傷害はおれがやらしたのだ ” と直接聞いたことがありました
と記している。
田中は上掲のインタビューの中でも、第1次上海事変について語っている。そのときの遣取りを下記に引用する。
―― 田中さん、世間ではこの上海事変の火付役は、実は田中さんであると……。
田中 そのとおりです。
―― ズバリ一言でおっしゃいましたね。そうしますと、日蓮宗の托鉢僧が五人托鉢をやっておりましたね。あのとき、上海の路上であの人たちを襲撃させたのは田中さんですか。
田中 そうです。私です。
―― それは、どういういきさつですか。
田中 それは……前の年の九月十八日に満州事変が起こりました。一一月半ばにはほぼ平定した。日本人としては満州を独立させたいんです。ところが列国側が非常にうるさい。そこで関東軍高級参謀板垣征四郎大佐から私に電報がきまして、「列国の目がうるさいから、上海で事を起こせ」と。列国の目を上海にそらせて満州の独立を容易ならしめよ、という電報がきたんです。それで、金を二万円送ってきた。
―― 運動費ですね。大金ですねえ。
田中 今の金にすれば六〇〇万円です。それで私はなんとかして事を起こそうと――。実は私も満州事変に関係した一人ですから、是非成功させたいと思いました。当時、親しくしていました川島芳子さんという女の人がいました。
―― 例の男装の麗人……
田中 ええ、これに二万円渡しましてね。上海に三友実業公司というタオルの製造会社があったんですが、これが非常に共産主義で排日なんです。排日の根拠地なんです。「それをうまく利用して日蓮宗の托鉢僧を殺せ」ということを頼んだんです。それが、果たしてやったです。
―― やりましたか。
田中 一人殺されて、二人は傷ついたんです。そこで私は、このときこそ事を起こそうと思って、当時、上海に日本人青年同志会というのがあったんですが、それをちょうど上海にきておった重藤千春という憲兵大尉に指揮させて、その抗日色の強い三友実業公司を襲撃させたんです。そうすれば必ずや日支間に衝突が起こると、私はそう確信したんです。果たして、その後の日支間の空気は非常に険悪になった。そこで当時の上海の松井倉松総領事がシナ側に抗議したんです。こういう排日運動をやめろと。すると、中国側は全面的に承知したんです。ところが、日本の居留民が承知しないんです。非常に激昂したんです。で、上海陸戦隊に頼んだんですな、なんとかしてシナ人の排日運動をとめてくれと。ところが、だんだん険悪になりまして、一月二八日の晩に陸戦隊と一九路軍が衝突したんです。
ここでは前掲の「別冊知性」の記事で語った内容に加えて、新たに
- 日本人僧侶襲撃事件をもっともらしく仕立て上げる為に三友実業社の「共産主義で排日」なる評判を活かした
- 僧侶襲撃事件後の日本人極右団体による三友実業社襲撃事件も田中等の謀略だった
――ということが供述された形になっている。
海軍特別陸戦隊を麾下に置く第1遣外艦隊で事変当時主席参謀だった山縣正郷は、1933年2月附で「上海事変秘録」と題して上海事変の記録を綴っている。山縣は僧侶襲撃事件こそヤラセに気付いていないようだが、当時の上海で駐在陸軍武官等が「事端ヲ起サント策動シ」ていたことを記している。例えば第2章終盤では、満洲事変後の上海の状況として、次のように書かれている。
上海駐在陸軍武官(田代公使館附武官ハ帰朝中)ハ支那浪人又ハ日本人ヲ使嗾シテ事端ヲ起サント策動シ或ル時ハ支那人ヲシテ日本軍艦襲撃ヲ企図セシメタルコトアレドモ海軍側トシテハ極力之ヲ抑止シタリ
また第3章では、第1次上海事変前の状況として
此ノ間日支浪人間ニ動乱ヲ作為セントスルモノアリ甚シキニ至リテハ上海駐在我陸軍武官ニシテ支那無頼漢ト連絡ヲ取リ南京在泊帝国軍艦ヲ襲撃セシメントシタルコトサヘアリタルモ幸ニ警戒ヲ厳ニシテ事ナキヲ得タリ
と記している。また三友実業社襲撃事件についても、次のように書かれている。
二十日上海陸戦隊ヨリ得タル報告ニヨレバ十九日夜重藤憲兵大尉ガ上海陸戦隊本部ニ来訪シタル際ノ言動ニヨリ邦人三友実業社襲撃ハ上海駐在陸軍武官連中ノ画策使嗾シタル事明トナレリ(当時公使館附田代陸軍少将ハ帰朝不在中ナリキ)
これは田中隆吉が前掲のテレビ番組のインタビューで述べた内容と合致する。
第1次上海事変に横須賀鎮守府第2特別陸戦隊員として出征した中山定義は戦後、東郷神社の機関誌の1977年4月号で田中による僧侶襲撃事件のヤラセに言及するとともに、事変後のこととして次のように書いている。
事変が片づいて、上海特有の平和気分が蘇った頃、何処からともなく、われわれ陸戦隊は田中謀略に踊らされたんだという説がわれわれの耳に入り出したから堪らない。若い士官の怒りはおさまらず、遂に植松陸戦隊司令官自ら田中少佐を某所に招待し、その不届を激しく面責した処、彼は「………頭をそって坊主となった気持で改心し、将来再び今度のようなことはやらぬ」旨誓って平身低頭平謝りしたので、司令官も赦してやったということが伝えられ、われわれの憤慨も一応鎮まった。
1931年9月29日、原田熊雄は若槻礼次郎首相に電話で官邸に呼出され、若槻が金谷範三参謀総長と交わした話について、下記のように伝えられたという(原田熊雄 述「西園寺公と政局」第2巻)。
参謀総長が、『今度はどうか前の統帥権問題のやうなものを起したくない』と言ふから、統帥権問題といふのは来年のジェネヴァの会議の時の話をするのかと思つて、自分がその話をしかけると、『いや、さうぢやない。或は長江沿岸に兵を出すかもしれないが、その時に政府の掣肘を受けないやうにしてもらひたい』と言ふので、自分は肚の中で非常に危険に思つた。といふのは、かねて陸軍部内に上海封鎖の計画があることを自分は知つてゐるから、これはその計画を邪魔されないやうにかう言ふのだと思つて、非常に心配になつたわけだ。
原田が9月29日に言及されたというこの「上海封鎖の計画」も、“列国の注意を逸らせる為に上海で事を起す”構想を指すのではないかと、当サイトの筆者は考えている。「別冊知性」の田中の前掲記事によれば、田中が関東軍から奉天に呼び出されたのが同年10月初旬とのことであった。また、上海には日本の陸軍の戦力は常駐しておらず、同地は基本的に海軍の「縄張」となっていた1 。ここに陸軍から派兵するというからには、海軍特別陸戦隊や租界防備委員会参加国との協力だけでは手に負えないレベルの事を起すということに違いあるまい。板垣・花谷が田中に依頼した「注意を逸らせる」為の謀略以外に、上海を対象とするそのような構想が当時果たして陸軍にあっただろうか?
3. 参考文献
本文中に挙げた資料以外では、影山好一郎「第一次上海事変の研究」(錦正社)を大いに参考にさせて頂いた。
4. アイキャッチ画像
左:清水啓水(僧侶襲撃事件で亡くなった水上秀雄の後任者)
右:事変前、防禦工事に取組む日蓮宗僧侶たち
省文社編集部編「満洲・上海事変写真帖」(1932年4月28日刷)より。
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- 笠原十九司「日中戦争全史」(上)123頁 [↩]