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外務省記録 満洲事変善後措置関係国際聯盟支那調査員関係 第三巻

第三巻 > 7 昭和7年5月11日から昭和7年5月16日

アジア歴史資料センター Ref.B02030446100、1.連盟支那調査員関係/7 昭和7年5月11日から昭和7年5月16日(A-1-1-0-21_12_2_003)(外務省外交史料館)
1932年5月、外務省

昭和7 一一六二三 暗 奉天   十三日後発 亜、條

            本省 五月十三日後着

芳澤外務大臣

森島総領事代理

第七八二号(至急)

九日吉田参与員ガ長春ヨリ直接本省宛送付ノ聯盟調査員ヨリ本官宛提出ノ質問要領書中左記諸点ニ付至急御回電ヲ請フ

(一)質問要領書一ノ(二)回答ノ際昨年大倉組ト学良政府トノ航空契約交渉ヲモ実例ニ援用スルコト有利ト思考スル処右ノ可否

(二)同四ノ(四)間島協約ニ関シテハ我ニ於テ支那側ノ領土権ヲ承認シタルニ対シ幾多ノ対償ヲ得居ル処本件朝鮮人ノ土地所有権ハ右ノ一ニシテ間島協約第五条ハ右土地所有権ノ存在ヲ前提トシタルモノナリト答弁シ差支ナキヤ

(三)同五ノ(一)及(二)南満及東部内蒙古ノ意義

(四)同七ノ(一)ニ対スル本省ノ解釈

(五)同九ノ(一)ノ(a)ニ付共同調査報告ヲ委員ニ提出シ差支ナキヤ

尚三ノ(四)ニ関シ在満各館ヨリ毎年本省ニ提出ノ商租調査報告ヲ一括提出スルコト最良ト思考スルニ付右取纏メ至急御送付相成度シ

第三巻 > 10 昭和7年5月20日から昭和7年5月21日

アジア歴史資料センター Ref.B02030446400、1.連盟支那調査員関係/10 昭和7年5月20日から昭和7年5月21日(A-1-1-0-21_12_2_003)(外務省外交史料館)
1932年5月、外務省

一九三二、五、二〇

南満洲及東部内蒙古ノ範囲ニ関スル一参考資料

(草案)

亜細亜局第三課

(極秘)

明治四十(一九〇七)年七月三十日

第一回露協約附属密約追加約款

本協約第一条ニ掲ケタル北満洲ノ分界線ハ左ノ如ク之ヲ定ム

露韓国境ノ北西端ニ始マリ琿春(Hunchun)及必爾滕湖(Pirteng)北端ヲ経テ秀水站(Hsiushuichan)ニ至ルマテ逐次直線ヲ画シ、秀水站ヨリハ松花江(sungari)ニ沿ヒ嫩江ノ河口ニ至リ之ヨリ嫩江(Nunkiang)ノ水路ヲ溯リテ托羅河の河口ニ達シ此地点ヨリ托羅河ノ水路ニ沿ヒ同河ト「グリニツチ」東経百二十二度トノ交叉点ニ至ル、

 

八月十四日 小村大使ヨリ英国外務大臣ニ通告

同日    栗野大使ヨリ仏国政務局長ニ通告

明治四十五(一九一二)年七月八日、第三回日露協約

第一条 前記分界線(一九〇七年七月三日附ノ日露協約ノ追加条款ニ定メタル分界線)ハ托羅河ト「グリンツチ」東経百二十二度トノ交叉点ヨリ出テ「ウルンチユルン」河及「ムシシヤ」河ノ流レ依リ「ムシシヤ」河ト「ハルダイタイ」河トノ分水線ニ至リ、是ヨリ黒龍江省ト内蒙古トノ境界線ニ依リ内外蒙古境界線ノ終端ニ達ス、

第二条

内蒙古ハ北京ノ経度(「グリニツチ」東経百十六度二十七分)ヲ以テ之ヲ東西ノ二部ニ分割ス。

七月三日 在英加藤大使ヨリ英国外務大臣ニ内告

七月三日 在仏安達代理大使ヨリ仏国外務次官ニ内告

 

○大正四年日支交渉当時ニ於ケル「南満洲及東部内蒙古」ノ範囲ニ関スル解釈

一、南満洲

(一)日支交渉当時「南満洲」ノ範囲ニ関シテハ我方内部ニ於テモ何等ノ決定ヲ為シタル事実見当ラズ従テ支那側ニ対シテモ右範囲ニ関スル我方見解等ヲ開示シタル事無シ

(二)支那側ノ解釈振ニ関シテハ加藤大臣ノ訓令(大正四、二、二四、支宛電報第一一七号及大正四、四、一、同第二〇六号)ニ基キ大正四年四月三日第十八回談判ノ節駐支日置公使ヨリ支那側ニ問合セ見タル処之ニ対スル支那側ノ意見左ノ如シ(大正四、四、五支発大臣宛電報第一七五号)

「支那政府ニ於テハ「南満洲」ナル地名ヲ用ヒズ、「南満洲」ハ日本国ニ於テ普通用ヒラルル処ニシテ支那ハ之ニ対シ「東三省南部」ナル文字ヲ該当セシメ居レリ

又東三省南部、北部ト区別スルモ法制上何等一定ノ区画無シ併シ東三省南部トハ大凡長春以南ト心得居レリ」

二、東部内蒙古

(一)我方解釈

大正四、四、二六第二十五回会議ニ於テ支那側ヨリ東部内蒙古ニ関スル我方見解ヲ求メタルヲ以テ、右回答振ニ関シ日置公使ヨリ請訓アリ(大正四、四、二六、支発大臣宛電報第二一五号ノ三)

之ニ対シ加藤大臣ヨリ日置公使宛回訓ヲ以テ(大正四、四、二七、大臣発支宛第二七六号電報)

「南満洲ト言フモ東部内蒙古ト言フモ共ニ素ト漠然タル地理的名称ナルガ、我方ノ所謂東部内蒙古ハ長城以北ニシテ南満洲ニ接壌セル地域ヲ指シ普通ニ所謂内蒙古東四盟ノ大部ヲ包括シ西方多倫諾爾辺迄ヲ含ム地方ト言フモノナリ」

トノ趣旨ヲ申入レ置クベキ旨訓令セル処、其後支那側ヨリ我方回答ノ督促ヲシ来ラズ、我方ニ於テモ進ンデ支那側ニ対シ我方見解ヲ言明スル必要モ無ク又右ノ範囲ハ漠然トシ置ク方然ルベシトノ理由ニヨリ結局何等ノ表示ヲナスコトナクシテ止メリ、(大正四、五、一〇、大臣発支宛電報第三三一号、大正四、五、二〇同第三七四号及大正四、五、二一支発大臣宛電報第三一五号参照)

(二)支那側ノ見解

支那側ノ見解ヲ示スベキモノニ次ノ資料アリ

(イ)前顕大正四年四月二十六日第二十五回会議ニ於テ支那側代表(陸徴祥)ハ

「支那政府ニ於テハ南満洲接壌地域ヲ以テ東部内蒙古ト看做シ、北満洲及直隷省ニ接近スル地域ハ之ヲ東部内蒙古ト見做シ居ラザル旨」

ヲ述ベタリ

(ロ)大正四年五月一日ノ談判ニ於テ我方最後修正案ニ対シ支那側提示アリタル対案中ニハ我方ノ東部内蒙古ニ於テ商埠地ヲ開設スルコトニ関スル要求ニ対スルモノトシテ

「支那政府ハ、、、、速ニ自ラ南満洲及熱河道所轄ノ東部内蒙古ニ於ケル適当ノ地方ヲ商埠地トナスコトヲ承諾ス」

ノ一項アリ(大正四、五、二、支発大臣宛電報第二三〇号)右ハ支那側ニ於テ「日本国ノ要求セル東蒙地域ハ曾テ交付ヲ受ケタル日本修正案中ノ予定商埠所在地(後記註参照)ヲ包含スレバ足ルモノト了解シ支那対案ニハ南満洲及熱河道所轄ノ地方トナセル次第」ナル趣ニテ即東部内蒙古ヲ以テ南満洲ニ在ル内蒙古及熱河道所轄ノ地ナリトスル支那側見解ヲ表示スルモノナリ、但東蒙地域ヲ以テ日本提示ノ予定商埠所在地ヲ含メバ足ルモノト解スルコトニ対シテハ日置公使ヨリ其ノ誤解ナル旨篤ト説明ヲ与ヘ置キタル趣ナリ

(大正四、五、二一、支発大臣宛電報第三一五号参照)

註。

大正四年三月十六日第十一回談判並同二十五日第十四回談判ノ際我方ヨリ開放候補地トシテ提案シタル都市名左ノ如シ(同年支発大臣宛電報第一三四及一五七号)

錦州(錦県)醴泉(突泉県)小庫倫(綏東県)熱河(承徳県)開魯県 林西 四平街 開原 掏鹿(西豊県)大疙疽(西安県)北山城子(山城子) 撫順 本渓湖 興京 懐仁(桓仁県)大孤山 伊通州 農安 額穆索(額穆県)敦化 盤石(磨盤山)安図 大賚 朝陽

而シテ当時我方ニ於テハ右二十七ヶ所中東部内蒙古ニ属スルモノハ

熱河、醴泉、開魯、小庫倫、林西、大賚、朝陽、農安

ノ八ヶ所ナリトノ見解ヲ有シ居タル趣ナリ、但此ノ見解ハ支那側ニ開示セラレタルコトナシ、

(大正四、四、一四、大臣発在支公使宛公信政、機密送第六六号参照)

(ハ)大正四年五月十三日(支那ハ五月八日附我方最後通牒ヲ受諾セリ)支那政府公表ノ日支交渉顛末書ニ左記要旨ノ一節アリ

(原文英文別紙)

「支那政府ハ亦東部内蒙古ニ関スル四条項ノ中三条項ヲ受諾スベキ旨申入レタリ、東部内蒙古ノ境界如何ヲ決定スルニ付多少ノ困難アリタルモ――蓋シ右ハ支那ノ地理的名称トシテハ新規ノ言葉ナレバナリ――支那政府ハ日本政府ニ於テハ支那行政権ノ下ニアル地方ヲ意味スル旨日本公使ガ会議ニ於テ為セル所言ニ基キ、又日本公使提出ノ表ニ掲ゲラレタル開埠予定地ヲ参酌シ、所謂東部内蒙古トハ内蒙古中南満洲ノ権下ニ在ル地域及熱河道所轄ノ区域ナル旨推断シ、従テ此ノ語ノ定義ニ対シ何等ノ制限ヲ附スルコトヲ避ケタリ」

即右ハ前顕(ロ)ノ支那側見解ヲ繰返シ居ルモノナリ

但「日本公使ガ会議ニ於テ為セル所言」トハ如何ナル所言ヲ指セルモノナルヤニ関シ加藤大臣ヨリ日置公使ニ対シ照会シタルニ対シ(大正四、五、二三、大臣発支宛第三七四号電報)同公使ヨリinter alia左記ノ如キ回答アリ

「会議中支那側 ニ於テ東蒙ハ民智未ダ開ケズ、交通モ不便ニテ外人ニ対スル保護モ行届キ兼ヌトノ理由ノ下ニ絶対的ニ我方ノ要求ヲ拒ミ商議ニスラ応ジ難シト主張シタルニ付本使ハ民智未開ト交通不便トニハ何等関係無キ鉄道借款租税等ノ如キ事項ニ対シテハ之ヲ承諾シ難キ理由ハアラザルベク、将又支那行政ノ行ハレ居ル地方ニ於テハ南満同様ノ取極ヲナスコトモ毫モ支障無之キ筈ナリト駁シ概括的ニ支那側ノ東蒙不商議ノ主張ヲ否定シタルコトアルモ、我要求区域制限等ニ付何等言明致シタルコト無シ」云々(大正四、五、二一、支発大臣宛電報第三一五号)

又「日本公使提出ノ表、、、ヲ参酌シ」云々ノ支那側所見ニ対シ日置公使ニ於テ嘗テ反駁ヲ加ヘ置キタル次第ハ前顕(ロ)ノ通ナリ

 

別紙

 The Chinese Government also proposed to agree to three of the four articles relating to Eastern Inner Mongolia. There was some difficulty in determining a definition of the boundaries of Eastern Inner Mongolia – this being a new expression in Chinese geographical terminology – but the Chinese Government, acting upon a statement made at a previous conference by the Japanese Minister that the Japanese Government meant the region under Chinese administrative Jurisdiction, and taking note, in the list presented by the Japanese Minister, of the names of places in Eastern Inner Mongolia to be opened to trade, inferred that the so-called Eastern Inner Mongolia is that part of Inner Mongolia which is under the jurisdiction of South Manchuria and the Jehol circuit; and refrained from placing any limitation upon the definition of this term.

 

分類 1.1.1.0.21-12-2

事件費支辨

電送第10564✓号

昭和7年5月21日 后7時30分

電信案

電信課長佐久間信 (原議用紙中)■納

主管 亜細亜局長3 主任 亜細亜局分室柳井 (起草 昭和七年五月二十一日)

件 調査員質問書ニ関スル件 綴込名 満蒙一般

宛 在奉天森島総領事代理 発 芳沢大臣

暗 第二八二号 至急

貴殿第七八二号(三)南満及東部内蒙古ノ意義並本件質問書五ノ(三)及(四)ニ関スル当方思付ノ諸点 二十三日電報スベキニ付右ニ■念アリタシ

第三巻 > 11 昭和7年5月22日から昭和7年5月24日

アジア歴史資料センター Ref.B02030446500、1.連盟支那調査員関係/11 昭和7年5月22日から昭和7年5月24日(A-1-1-0-21_12_2_003)(外務省外交史料館)

1932年5月、外務省

主管 亜細亜局長■ 主任 亜細亜局分室柳井

電送第10589-10590号

昭和7年5月23日後5時0分発

宛 在奉天 森島総領事代理 発 芳澤大臣

件 「リットン」委員会関係南満洲並東部内蒙古ノ意義ニ関スル件

記録件名 満蒙一般

暗 第二八五号 至急

貴殿第七八二号ニ関シ

一、質問事項五ノ(一)及(二)ニ関シテハ左記ノ趣旨ヲ以テ応酬セラレ度

南満洲ト云フモ東部内蒙古ト云フモ共ニ漠然タル地理的名称ニシテ要スルニ満洲ノ南半分乃至内蒙古ノ東半分ト云フ意味ナリ大正四年日支交渉当時ニ於テモ此等地域ノ範囲ニ関シ日支間ニ一定ノ限界ヲ定メタルコトナク其後モ右限界ニ付別段問題ヲ生シタルコトナキ次第ニテ自分(森島)ノ承知スル限リauthoritative official interpretationナルモノハナシト存ズ尤モ自分ノ研究ニ依レハ満洲ノ南半分及内蒙古ノ東半分ノ範囲ヲ定ムル為メニハ左記ノ諸点ヲ考慮スルヲ要スヘシトシテ此等諸点ヲ可然説明スルコト

(イ)南満洲

(1)満洲南北両端ノ中央ハ北緯四六度六分ノ線ナリ

(2)松花江本流及嫩江ハ満洲ヲ南北ニ分ツ重要ナル地理的根拠タルヘシ(右地域ハ行政的ニハ吉林、奉天ノ二省ニ該当スル処吉林省牡丹江沿岸方面ハ夙ニ朝鮮民族ノ定住セル所ニシテ大正四年日支条約締結当時之ヲ無視シタルモノト見ルコトヲ得ス)

(3)清朝初期ニハ現在ノ黒龍江省居住ノ満人ヲIcho Manchu伊徹満(新満)ト称シ奉天吉林省(殊ニ牡丹江沿岸)居住ノ満人ヲFou Manchu仏満(老満ノ意)ト称シタル事実アリ

(4)一八九八年東清鉄道会社続約第一条ニ哈爾賓ヨリ南下スル支線ヲ「南満洲支線」ト称シ居レリ

(ロ)東部内蒙古

(1)万里ノ長城以北ニシテ満洲ニ接壌セル地域ト解スルヲ妥当トス

(2)清朝時代ニ所謂内属蒙古ハ(イ)内蒙東部四盟(ロ)Chahar察哈爾部(ハ)Kuhuhot帰化土Tumed黙特部及(ニ)内蒙西部二盟ニ分タレタルカ問題ハ右側(ロ)(ハ)ヲ東西何レニ属セシムヘキヤニ存スヘク少クトモ内蒙東部四盟即チCherim哲里木、Chaouda昭烏達、Chosotu卓索図、Silinghol錫林郭勒ノ四盟カ『東部内蒙古』ニ属スルコトハ疑ナカルヘシ(従テ現在ノ熱河省ノミナラス察哈爾省ノ一部ヲ含ムモノナリ察哈爾省ノ東半部ハ錫林郭勒盟ニ属ス)

(尚本件ニ関聯シ東三省官憲ノ本邦人居住営業妨碍殊ニ朝鮮人ニ対スル圧迫カ北満ヨリモ南満ニ於テ特ニ甚シカリシコトハ注意ヲ要ス)

二、質問事項五ノ(三)及(四)ニ関シ当方気付ノ点左ノ通

(イ)昔時内蒙古ニ属シタルモ清朝末期以来開墾政策ノ進捗ニ伴ヒ次第ニ東三省ニ編入セラレタル地方アル処(例ヘハ洮南)如斯満洲政権ノ権力下ニ編入セラルル地方ハ大正四年ノ条約ニ所謂南満洲ニ属スルモノト解スルコト至当ナルヘク質問書五ノ(三)即「東部内蒙古ニ於テ日本人ハ居住営業権アリヤ」ニ対スル応酬ニ当テハ此ノ点ヲ注意セラルルコトト致度(但シ以上ハ必要ニ依リ貴官ノ私見トシテ述ヘラレ度)

(ロ)質問書五ノ(四)ハ東支鉄道南部支線等ニ於ケル支那官憲ノ邦人借家妨碍事件ニ言及シ居ル処之等借家妨碍ハ我満鉄附属地ト同様一般外国人ノ居住ヲ認メラレアル東支鉄道附属地ニ於テ行ハレタルモノナリ尚San-hsing三姓ハ開港場ナルヲ以テ本邦人居住ノ権アルコト言フ迄モ無シ(三姓及東支東部及南部線地方カ南満洲ニ属スト解スルノ妥当ナルコトハ前述ノ通リナリ)

 

本件ト満洲ニ於ケル日露勢力範囲トノ関係ニ付テ

本電所載南満洲及東部内蒙古ニ関スル解釈ハ第一回及第三回日露協約附属秘密協定ニテ画定セル日露勢力範囲(当時英仏米等ニ極秘トシテ内報セリ)ノ限界ヲ幾分食ミ出シ居ル処右ハ左記諸点ニ顧ミ差支ナカルベシト認メラル

(イ)日露間ノ協定ヲ以テ日支間ノ約定ヲ解釈スベキニ非ズ又大正四年ノ日支交渉ニ当リ前記日露間ノ勢力範囲ニ関スル約定ヲ基礎トセルコトナシ

(ロ)大正四年二月十五日在本邦露国大使ト加藤外務大臣ト会談ノ際同大使ハ日本ノ対支要求中ニハ政治財政軍事顧問傭聘ノ条項アル処露国ノ勢力範囲ニ該条項ノ適用及バザル様致シ度ト述ベタルニ対シ(其ノ際同大使ハ南満ニ於ケル居住営業権ニハ言及セズ)加藤大臣ハ今回ノ要求ハ支那ニ対スルモノナレバ右要求ガ全部承認セラレタル暁ニハ其ノ点ヲ不都合ナキ様取計フコトハ異存ナキニ付対支交渉結着後必要アラバ御相談致度ト応酬セル事実アリ

(ハ)日露秘密協定ノ内報ヲ受ケタル英米仏等ガ同協定ヲ引用シテ大正四年日支条約ニ関スル我方ノ解釈ニ対シ云々スベキ地位ニ在ラザルコト勿論ナリ