資料
公刊昭和6,7年支那事変史 上(公刊昭和6,7年事変海軍戦史原稿)
アジア歴史資料センター Ref.C14120178400、公刊昭和6.7年支那事変史上(公刊昭和6.7年事変海軍戦史原稿)(防衛省防衛研究所)
1932年、海軍省
アジア歴史資料センター Ref.C14120182300、第5章 上海事変の近因、事変直前の情況/9.わが抗議に対する支那の態度(防衛省防衛研究所)
九、わが抗議に対する支那の態度
上海市長呉鉄城はわが四ヶ条の要求に接するや之に対し三ヶ条は容認すべきも抗日会閉鎖に就ては独自の見を以て処置の難きを述べた。而して彼は南京に到りて之を中央政府に謀り且つ国民党党議の結果を俟つことにした。彼が一月二十三日早朝南京より帰滬して、支那新聞記者に語りたる所によれば
呉鉄城の談話
其第四项、所要求之取缔排日运动、解散抗日团体、係因民众基於自动的爱国的赤诚而组织、祗须其行动在於合理范围之内、不妨碍地方上之秩序与安宁、政府不能以政治力量加以压迫、故日总领来市府提抗议书时、即已声明无权取缔、然其行动苟有趣出轨道之外、足以妨碍地方秩序安宁等之不合法情形发现、则市政府必依法制裁之、现该项答覆、业已定於下星期一(念五日)送达日本总领事、(時事新報二十四日)
と言って居る、即ち其の意は「日本総領事の要求せる排日運動の取締、抗日団体の解散は、それが民衆の自発的愛国的赤誠を以て組織したるものに係る以上、その行動が、合理の範囲を出でず地方の秩序安寧を妨げざる範囲に於ては、政府は之を圧迫すべき謂れがない、日本総領事来訪の節もこの事は既に声明して置いたが、然しその行動常軌を逸し、安寧秩序を害する不合法のものであれば、市政府は必ず、法に依って制裁を加ふるであらふ、この趣旨によって月曜日(二十五日)に回答する筈である」
と言ふのである
この言は明かに遁辞である、
われは排日運動そのものを国際儀礼に反したる不法行為と見るのである、抗日会の組織や、経済断交の如き越軌の行動でなくて何であらふ、而して其実例に至っては過去数年の間余りにその多きに堪へざる程ではないか、仮りにそれ等の行為が「愛国の至情に出づる」とするも之を許すべからざるは彼自ら言明する如くである、吾人は彼等の動機如何に拘らず之等を不法行為と認めるのである、呉市長の言辞は到底我に於て容認すべきものではなかった。
而して彼は尚記者の問に応じて
记者又问、如果日人不顾一切而大举骚扰、则市长之意、以为如何、此事中央政府早有命令、如果有人侵人内地领土、决采正当防卫、且沪市绝安上之防范、早已有相当準备、苟遇事变、即采必要手段
と答へて居る則ち「若し日本人が一切を顧みずして大挙騒擾せば市長の覚悟如何と」、答へて曰く此事に関しては既に中央政府の命令を受けて居る、若し彼等が我が領土に侵入して来らば正当防禦の手段に出で、必要なる手段を採る」と言って居る
而して呉市長は日浪人の騒擾事件は
尽所谓见怪不怪、其怪自灭、
と言って居るが日本人が如何に多年の反日運動に対し敵愾心をそそられたか三友実業社襲撃事件、日本居留民大会の決議及わが総領事の抗議等に於て其表顕の形態は異っても其主張に至ては一貫して固き決心の下に出でて居るかと言ふことに就ては彼は正しき認識を持って居らなかった如くに見える
而して支那側は日本浪人(支那人の呼称に従ふ)の襲撃に対して二十三日より厳重なる戒厳の方法を採った
支那側の戒厳
警備司令部の命令によって華界公安局及警察当局が採った手段は次の如くであった
温公安局長は第五区の警士全体を召集し武装せしめ、警察第二中隊一百余名と共に閘北に派遣し、極密の歩哨を放って四川路の華界、天通庵路、宝興路、宝山路、江湾路一帯に防備を厳重ならしめた
警備司令部は多数の軍隊を進ましめ、未だ戒厳の令を宣布せざるも極密に巡邏せしめて居る
一月二十三日午前より北四川路一帯は公安局第五区の警士及警察大隊第三中隊、第六中隊、二百六十人を以て公部局巡捕と共同警戒に任じて居る
又閘北、宝山路、賓通路、虬江路一帯は当該警察署の警戒の外、郵務二会義勇軍より交代にて交通隊五十人宛を出し、自由車(自転車)に乗って馳駆し、又巡羅隊四百名は徒歩にて、又基本大隊二百余名は服家路会所内を守って居る
団総は張克昌、総指揮は陸克明で一班十人宛に分ち、刺刀を帯び、虬江路、宝山路、宝興路、賓通路、等を巡回し見張して居る
又市民聯合会第十七区分会及第二十八分会(北四川路)の便衣義勇軍五十余命は副教官林鎮城の統率の下に武昌路、蓬路、靶子路等を徒手巡羅する
と言ふ状況であった、而して二十四日には淞滬警備司令戴戟は参謀長張■を伴って■華、高昌廟、閘北、呉淞の防務及治安の状況を視察し、指示するところがあった、
また南京一帯にも防備を施した
軍を南京軍路(南京停車場)及三山会館後面、四路電車に駐在せしめ防備物を高昌廟大門、北面斜土路門前等に布置して警戒を厳にした
支那正規軍の集中
支那正規軍は此の間に如何に配備されたかと言ふに翁照垣「淞滬血戦懐憶録」(甲報月刊第一巻第三号 第六号)に依れば
九一八事変発生の時一九路軍は江西に在りて剿匪工作(共産軍攻撃)中であった、此の報到着の翌朝吾人は「団結一致、打倒日本」の口号を掲げ爾後毎日、操練を行ふとき、集会するとき、訓話の場合此口号を叫び、朝より晩に到る迄吾人の耳邊に充満し遂に吾人一切願望の中心となれり・・・・・・十九路軍が京滬線に来るべき命を受くるに及び吾人の抗日情緒は更に高漲を加へ、決心又更に堅定を加ふ、・・・・・・
と言って居るから十九路軍の上海附近集中は彼等の抗日精神に一層の拍車を加へたるものであった、
十九路軍京滬線に到着後七十八師(長区壽年)は淞滬衛戍を担任すべく指定せらる、元来淞滬警備は税警団の担任する所なりしが七十八師到着後南市及呉淞の防務は百五十五旅(長黄固)の第一、第二団を以て之に代り閘北は一時税警第一団の担任とす、然るに一月四日軍長(蔡廷楷)の命令に依り太倉にありし第六団(百五十六旅)は進んで閘北を接管すべく一月八日第六団は全部閘北大塲一帯の地に到着せり、
元来百五十六旅(長翁照垣)は嘉定■在りしが十日命により淞滬一帯の警戒に当ることとなり大塲に移駐し更に翌十一日命令により百五十五旅は京滬線以南百五十六旅は以北(鉄道を含まず)及瀏河、呉淞の正面を担任することとなれり、
一月十四日の配備は左の如し
十九路軍(蔡廷楷)司令部 南翔
百五五旅(黄固)司令部 真茹
第一、第二、第三団 真茹及南市
百五六旅(翁照垣)大塲
第四団 呉淞、宝山
第五団 嘉定、瀏河
第六団 閘北、大塲
と言ふ形勢であった
百五十六旅長翁照垣は当時の所感を述べて「一月十八、十九両日以後彼等は衝突の避くべからざるを覚悟した」と言って居るから、此頃以来支那軍は只管戦闘の覚悟を以て諸般の準備を進めて居ったのである。
特に十九路軍長蔡廷楷は二十三日深夜密令を下して
一、日本は将に大艦隊を派し我政府を威迫して愛国運動を取締らしめ且自由行動に出でんとす
二、我軍は国土守衛を以て大職とし若し日本軍我駐地に向て攻撃し来らば全力を以て之を撲滅せよ、
云々と言って居る、
尚此命令に依れば鉄道砲隊及北停車場の憲兵衛を第百五十六旅第六団長張君嵩の指揮下に入れ、呉淞要塞司令は要塞兵を指揮して之を固守し、各区の警察及保衛団は各該地区の指揮官の指揮下に入れて防備を厳にして居る、されば我外交交渉中に閘北大塲一帯は支那軍の為めに堅固な陣地が一歩一歩築かれて居ったのである。
アジア歴史資料センター Ref.C14120182600、第5章 上海事変の近因、事変直前の情況/12.局面急転(防衛省防衛研究所)
一二 局面急転
呉市長の回答
一月二十七日午后三時村井総領事はわが四ヶ条の要求貫徹に対し予め政府より受領せる訓令に基き、最後の腹を定めて呉市長と上海市政府に訪問した。
その交渉の内容は詳細に述ぶることは出来ないが民国側の態度は依然として誠意を示すものでなかつた。
最後の回答を要求す
茲に於て総領事は最早口舌を以て樽爼の上に折衝するの余地なしと認め、最後通牒的の警告を発し、二十四時間以内(二十八日午後六時迄とす)に明確なる回答を与へられ度しと述べ辞去した、民国側に於では今更ら日本の強硬なる態度に恐慌を来たし、午後四時より銀行公会に於て各界領袖者の緊急会議を開き、日本側の要求全部を容れ、抗日団体の解散を市政府当局に勧告した
支那銀行界の懸念とするところは、日支間の衝突によって公債上莫大なる損害を招くは勿論、当地経済界を根底より破壊し、延いては国民政府の生命を脅かす原因を生ずるに至るべしと言ふのであった。
市政府に於ては此の間の形勢を懸念することは勿論であるが、従来民衆に対し寧ろ愛国運動として抗日救国運動を奨励しつつあった関係上、遽かに日本側の要求に屈服すること困難なる立場にあり面子上より種々の手段を弄してわが総領事館に数次非公式に申入れたのであった
然し事茲に至っては如何ともする手段がなく、遂に余儀なく承認することとなり一月二十八日午後三時十五分、呉市長より左の正式の回答を領事館に送って来た。
呉市長の回答
(訳文)
呉鉄城ヨリ村井総領事宛
中華民国二十一年(昭和七年)一月廿八日附
拝啓陳者一月二十日貴翰ヲ以テ日本僧侶天崎及水上、其信徒後藤、黒岩及藤村等五名ガ本月十八日午后馬玉山路附近ニ於テ殴打負傷セシメラレタルニ付四項ノ条件ヲ提出シ之ヲ接受セラレンコトヲ要請ストノ趣御申越有之敬承致候本件発生ハ誠ニ不幸ニシテ本市長ハ深ク遺憾ノ意ヲ表シ候本件ハ傷害事件ニテ法ニ明文アル次第ナレバ事件発生当日報告接到後直チニ公安局ニ厳重命令シ期限ヲ限リ犯人逮捕ノ上法律ニヨリ処断スルコトト致候、尚凡テノ被害人ノ医薬費及慰藉金ハ本市長ニ於テ斟酌ノ上支給シ同情ノ意ヲ表スルコトト致ス可候御来示中御提議ノ抗日運動取締方ニ関シテハ現ニ本市各界抗日救国委員会ハ越軌違法行為アリタレバ已ニ主管局所ニ命令シ同会ヲ取消サシメタルカ之ニ類スル越軌違法行為ハ本市長ニ於テ法治ノ精神ニ基キ取締ヲ命令シ其他ノ各抗日団体モ同時ニ取消方命令済ニ有之候条右様御承知相成度此段得貴意候 敬具
この回答は一般に満足なるものとして受容れられた、然し其字句に於て吾人は尚不満足なる点を発見するのである。
我が抗議の要点は日華両国の国交を傷害しつつある原因としての抗日会の解散を要求したるに対し、彼は越軌行為としての抗日運動取締を承諾したに過ぎないのであるこの点は屡彼が法に照して取締を行ふと宣言したところのものであって回答は従来に比して稍其の辞句に於て穏当なりしのみであった。
兵力行使の中止
然し兎も角も、此の回答は文面に於てわが要求を容れたるものであるから、村井総領事は之に満足の意を表し塩沢司令官は我兵力行使を停止するに到った。
回答を受け取った時はわが陸戦隊は既に着々予定の計画に従って、将に兵力発動の実施準備を為しつつあった時であった、この回答到着によってわが海軍の予定行動は辛うじて停止することを得た。
是に於て今回の事件も危機を脱し息詰まる如き両国の悪感もここに光風霽月を見んとするに至った。
然るに不幸にも些細なる支那側の不注意によって怱如としてこの夜事変が勃発した、これに就ては更に章を改めて詳述するであらふ
上海租界共同防衛
上海租界の防衛問題は古き歴史を有するものであって一朝一夕にして今日の状態となったものではない、その濫觴は嘉永六年一八五三咸豊三年の太平賊の乱当時であった、而してその最初の協同防衛戦とも称すべきは安政元年一八五四咸豊四年四月三日(太陽暦)に起った所謂泥地戦争Battle of muddy flatであった。
当時上海城内の賊を攻撃中であった清の官軍は屡租界に乱入し且租界内に避難した支那人の中にも浮浪の徒があって紛擾を起し、外人の財を掠め一時租界の治安は保たれ得ざるが如くに見えた、そこで英国領事は外人総会を開いて中立厳守の為に武力を以て自衛するか、若くは一時難を避けて引上げるかと言ふことを謀った、然るに外人一同は武力自衛の策を立て中立を厳守することに議を決した、然るに外人中に私かに兵器を賊軍に供給したるものがあって中立は自然に破れ、官軍は怒って租界を攻撃するに至った、其の数二万余人と言はれた、之に於て英国領事は翌四月四日を限り官軍の撤退を要求したが支那一流の茫乎たる外交辞令に接したので其の誠意なきを憤り遂に英米両国の陸戦隊及義勇軍合して約四百人の兵は略今の南京路の線を守り洋涇濱附近に砲列を制いて官軍を砲撃し之を撃退したのであった、当時此辺一帯は水溜多く一面の泥濘地であった依って此の戦闘を泥地戦争と称したのである。
義勇軍の起因
上海義勇隊が建設されたのも此年(安政元年一八五四)であった爾後支那の内乱に対して租界は厳正中立の態度を採り且武力を以て其の治安を維持すると言ふ観念が一の通則となったのである。
最も仏蘭西は此時英米聯合軍とは少しく異なった経路を採った即ち黄家渡にあった天主堂が匪賊の為めに危険に瀕するに至った為め仏国陸戦隊は官軍を援助して共に匪賊に当り官軍は遂に安政二年一八五五咸豊五年二月十七日(陰暦正月元旦)上海城を陥れ賊首領劉麗川以下を屠った、而して仏租界は此の報酬として仏国に与へられたものである
其後万延元年一八六〇豊一〇年長髪賊が上海を攻撃し来つたときにも英米及義勇軍は租界の安全保障の為め清軍を援けて防備を厳にし仏軍は積極的に清軍を援けて賊を撃退したワード(F.T.Word)が道台及商人等より資金を出さしめ外人の義勇兵を募集して所謂常勝軍を組織したのも此の時のことである。
これが機縁となって文久二年一八六二同治元年再び長髪賊が上海を攻撃したときは常勝軍は之を撃退して租界を守りまた曽国藩はゴルドンGordon将軍に属し常勝軍を率ひ各地に転戦し遂に元治元年一八六四同治三年六月南京城に天王洪秀全を攻めて之を滅したのであった。
之より上海は外国人の武力の下に安全なる避難所たることが実証せられ急激に発展して今日の繁栄の基礎を形ち制ったのである。
而して現在上海共同租界には其権下に軍隊ヽヽヽ義勇軍ヽヽヽを持って居る、一つの自治行政機関が兵力を擁して居ることは他に殆んど其例を見ない、換言すれば共同租界は一の小国家の体を成して居る、そこに上海租界共同防備問題には特別の意義を持って居るのである。
昭和二年の事変
我海軍陸戦隊が上海の協同防衛に大なる割役を演ずるに至ったのは昭和二年革命軍が北進し租界の安寧が危険に瀕するに至ったときであった。
当時の租界協同防衛の為めの一般方針は次の如きものであった
一、租界内の治安維持に任ぜしむる為め内部保安隊(Internal security force)を置き日、蘭、葡、の陸戦隊、米海兵隊、英サフォーク聯隊、上海義勇隊、工部局巡査の一部を以て編成する、
二、上海防備隊(defence force)を置き主として英陸軍(一万四千)英海軍陸戦隊(二千二百)
三、日本陸戦隊以外列国軍は上海防衛隊ダンカン少将(英)の指揮を受く
四、仏租界は仏軍之を防衛す
五、仏租界以外の主要工場建物等は当該国の軍隊を以て之を守備す
六、各■の受持守備区域は別図の通りである
即ち図に見るが如く我海軍陸戦隊の防備区域は虹口及北四川路一帯に亘ったのであるが当時多数の日本人が居住せる北四川路越界地区を租界同様に防衛するは英軍指揮官に於て難色ありしが如く、当時の我陸戦隊指揮官植松(練磨)大佐は遂に夫れ等の反対を排除して同地区を我防備区域に編入し以て居留民の現地保護を完ふすることが出来たのである。
共同防備計画の改正
其後共同防衛の具体的案は幾多の問題を残して居ったが昭和六年五月頃より従来の共同防衛受持区域其他の規定を修正すべき議起り英軍指揮官フレミング少将は之が腹案を立て数回に亘りて我が陸戦隊指揮官柴山(昌生)海軍大佐竝に各国派遣軍指揮官と公式非公式の会合を重ね同年十二月十八日成案を得左記諸官は上司の承認を条件として該協定案に署名したのであった
英国軍指揮官「フレミング」少将
米国海兵隊第四聯隊指揮官「フーカー」大佐
日本海軍陸戦隊指揮官鮫島(具重)大佐
上海共同租界工部局議長「マクノーデン」氏
上海義勇隊長「トーマス」大佐
上海工部局警視総監「マルチン」氏
仏国軍指揮官「マルケール」大佐
而して本協定(上海租界共同防備計画草案)の内容は略左の如きものであった。
一、共同租界及其の附近に於ける外国人の生命財産の保護は工部局の責任であって之が為工部局は警察及義勇隊を維持す、
二、若し工部局が鎮圧し得ざる内部的動乱及外部よりの攻撃に対しては本協定により各国軍隊は共同租界及仏租界を防禦す
三、協同防備計画を実施すべき地区
下水処分所(含まず)――宝安路、狄思威路――境界に至り線上格蘭路の端より北東に流るる河に沿ひ軍工路――租界東部境界線――黄浦江より共同租界及仏租界の点に至り――海格路と霞飛路との交叉点より法華路―― 滬鉄路――鉄橋に至り蘇州河に沿ひ西蔵路橋より租界に沿ひ江西路交差点より北折して鉄道に至り――鉄路に沿ひ虹口公園、
四、右の地区内には外国人の生命財産に脅威を与ふる如き如何なる軍隊、団体、個人の外部よりの侵入を許さず、
と言ふのであって我海軍陸戦隊が受持たる区域は
五、北河南路(含まず)以東の租界即ち虹口及楊樹浦方面竝北四川路より虹口公園一帯に亘る越界地区であって西は淞滬鉄道線路を以て限界として居った
(図参照)
而して指揮系統としては
六、我軍隊は先任聯合軍指揮官の指揮を受けず唯共同動作を採るに止め、且日本人義勇隊は義勇隊指揮官の麾下を離れ我陸戦隊指揮官の麾下に入り只軍政上の区処を固有の隊長に受くるのみとした
七、尚若し日本陸戦隊受持区内に弱点を生じ其保護を必要とする場合には臨時米国海兵隊分遣隊を使用することを得と言ふ規定があった
共同防備に任ずる列国軍隊の兵力(一月二十八日現在)及受持区域等は左の如くであった(図参照)
八、
B区―上海義勇隊(軽騎隊、米隊、砲兵隊、装甲車隊 但日本隊欠)及英軍大隊の銃隊一個中隊 一,四四九名
C区―米国海兵隊第四聯隊 一,二五四名
D区―英国軍一大隊(欠一個中隊) 二,一六三名
仏租界―仏軍
また伊太利海軍陸戦隊はD区内ロビンソン路より以北蘇州河に至る地区を分担したと言ふことであるが其期日兵力等は明かでない、
共同防衛と我居留民
上海事変勃発当時に於ける在上海邦人は二万五千五百三十五人であった、然し実数は之れ以上で約三万人であらふと推定せられて居った、
上海に於ける外国人の数は近年に於て我国(内地人)を以て最大とし英国之に次ぎ露西亜、米国の順にて五十一国に達して居る、フィータム報告第二表に依れば一九三〇年昭和五年民国十九年の統計として次の如く計上して居る、
各国居留民の数
国別 | 共同租界 | 越界地域 | 仏租界 | 総計 |
日本 (朝鮮等ヲ除ク) | 12,788 | 5,690 | 318 | 18,796 |
英 | 4,606 | 1,615 | 2,228 | 8,449 |
露 | 3,113 | 374 | 3,879 | 7,366 |
米 | 1,145 | 463 | 1,541 | 3,149 |
印度 | 1,758 | 84 | 1,842 | |
葡 | 847 | 485 | 267 | 1,599 |
独 | 524 | 309 | 597 | 1,430 |
仏 | 159 | 39 | 1,208 | 1,406 |
(以下略) | ||||
総計 | 26,965 | 9,506 | 12,335 | 48,806 |
右表に於て共同租界に居住する日本人の八割は虹口地区に居住するものであり、また越界地区居留者の九割までは北部越界地区即ち北四川路一帯に居住して居る、
この方面の外国人居留民は総計に於て五千三百八十八人であるがこの中の大部分が日本人であることは言ふ迄もないことである
従って今回の共同防備計画に於て直接我軍の防備下に在りし在留邦人は約八割五分であったが、事変勃発と共に避難の為異動を生じ我受持区域外の邦人は殆んど内地若くは受持地区域内に収容せられたる状況であった
[後略](表の値は漢数字からアラビア数字に改めた)