資料
橋本群中将回想応答録
みすず書房「現代史資料(9) 日中戦争(二)」P.318
1939年秋、参謀本部
(竹田宮恒徳王による橋本群中将へのインタビュー)
↓「二、事変勃発当時に於ける駐屯軍と関東軍との思想の相違」
二、事変勃発当時に於ける駐屯軍と関東軍との思想の相違
橋本 夫れからもう一つは夫れに余程関聯している問題ですが、事件が勃発した時関東軍が中央に意見具申をして居ます。
つまり盧溝橋事件が起りますと、此の際やれと云ふ意見であります。
殿下 夫れは電報でありますか。
橋本 電報も無論行ったでせうが書類もこしらへて関東軍だけで意見具申をしたのです。そして支那駐屯軍よりも同様の意見具申をするやうに勧告する為に幕僚が其の書類を持って天津へやって来たのです。私の所の幕僚にも同じ意見を言ふものがありましたが、軍としては対「ソ」情勢判断に就き関東軍と同様の自信を有しないから同様の意見を駐屯軍より具申することは出来ぬと断りましたので、遺憾の意を表して新京へ帰ったことがあります。
事変前から北支問題に関する関束軍と駐屯軍との考には幾分の相違がありました。
関東軍としては満洲国を確り握って行く為に其の周囲の地域と云ふものに非常に関心を持って居るのは之は無理からぬ事だと思ひます。夫れで東北正面は直接に「ソ」聯を相手とする事だから問題はないのですが、西の方面即ち蒙古方面北支方面は何と云ひましても支那からもぎ取った満洲国である関係上、終始交通もあれば陰謀も行はれると云ふ関係にあり、而も蒋介石は失地回復といふ「スローガン」を以て満洲国の独立と云ふものを否認して居った時代であるから、さう云ふ陰謀を持つ人が北支から流れて来るのは無論であります。
そこで天津、北京附近が親日、親満と云ふ境地になって来るのでなければ満洲国の治安維持に危険を及ぼすことを考へ、而も夫れをやる為には従来の伝統もあり積極的強硬態度で一貫してやるといふ主義であります。
例へば前の事と関聯いたしますが、あの宋哲元の政権の如きも我が要求に対し少し愚図々々して居るとあんなものはひっくり返せば親日のものが出来るではないかと云ふことを度々聞かされたのです。然し駐屯軍としては宋哲元を代へて他のものを持つて来てもそれは同じだと思つて居りました。
然し兎も角北支だけは日満両国とは特殊な関係にあるし、日本に対する考へ方を全然一変するのでなかつたら駄目だ、結局支那と云ふものから北支だけを別箇にしなければ満洲をいくら治療しても隣からどんどん這入つて来て駄目である、故に安全地帯を作る必要があるといふ思想は前からあつたと見えまして、是より先例の冀東政府と云ふものを北支の 一角満洲の隣に作りましたのも関東軍であります。
ところが支那駐屯軍が十一年の三月増強せられ、満洲の国境線を以て作戦地境を画しましたので関東軍は直接此の方面に手を下す訳にはゆかん事になつたのです。
然し其の後に於ても関東軍としては満洲国の関係上色々の希望があり、一方駐屯軍としては単に満洲国の為のみに北支問題を処理する訳にはいかぬので、支那問題を廻つて両者間には色々考への違ひもありましたが之は止むを得ぬことであります。
↓「九、事件の直接原因」より
九、事件の直接原因
橋本 事変前にも第一第二回と同じやうな豊台事件と云ふのがありました。
衝突の直接動機は結局豊台に新に兵営一ヶ大隊分を設けたと云ふことに起因するのです。この兵営を設けるに就いては相当向ふに刺戟を与へ北支に色々なゴタゴタを起すことになりましたので、一ヶ大隊の兵舍がなかつたならば或は今度の事変も防ぎ得たかも知れませんし、少くともああ言ふことが導火線となつて盧溝橋事件なるものは起らなかつた様に思ひますが、これには色々の経緯があるのであります。
駐屯軍は十一年の三月増強されることに決まりまして、其の後逐次増強されつつあって兵営に一番困って居りました。
駐兵は条約上に於ては交通を確保するためでありまして鉄道沿線には兵力を置きますが、その場所も北京、黄村、楊村、天津、塘沽、秦皇島と云ふ様に指定されて居るもの以外には置けない訳です。
然し時勢は非常に変わったので今迄の僅か五ヶ中隊許りでは足らない為に混成一ヶ旅団になったのですが、其の兵力を何処へ置くかと云ふことが問題であります。
そこで主力を天津に置くことは天津と云ふものが条約にありますからよいのですが、租界外の土地を買収して兵営を作らうと思つても土地を仲々買収させないので、北寧鉄道当局に買はせまして其処に兵営を作らしまして、天津に一ヶ聯隊と特科部隊を置くことになりまして、他の一ヶ聯隊は北京と云ふことになつたのですが、然し北京の城内には公使館及居留民の治安を守る為に二ヶ中隊の兵舎があるばかりだから其処へ一ヶ大隊の兵隊を入れるのも非常に窮窟でどうにも容れやうがない。
そこで現地では通州に置きたかったのであります……。それは冀東政府の為に其処に日本軍が居ると云ふのが非常に有利であるからであります。勿論冀東政府は敷地を提供すると云ふのです……。ところが当時陸軍省で梅津次官等は反対をされました。夫れは通州に置くと云ふことは条約にないからです。即ち「通州に兵力を置くと云ふのは国際問題になった時に何等外交的に見ても根拠がない。そう云ふ所に駐兵すると云ふことは外交上の弱点を惹き起す」と云ふので、之は尤な話でそれで其の次は豊台を考へたのです。豊台も指定地域外でありますが、そこには十数年前英国軍が駐屯し何年か居て、どうした訳か引き上げてしまったことがあるのですが、当時支那側は何等抗議をして居らない。さう云ふ先例があることを陸軍省が外務省で探し出しまして夫れでそこへ決まる様になって、取り敢へず域内に一大隊、豊台に一大隊、天津に一大隊と分置して仮りに収容することになりました。
ところが今度は其処で土地を得る事が仲々出来ないので御覧になりました様に鉄道のすぐ側の土地を停車場の用地と云ふ名目で北寧鉄路をして買収されたのであります。
↓「一五、北支問題の根本的検討」
一五、北支問題の根本的検討
殿下 仲々難しい問題と思ひますが結果から見てどう考へられますか。
橋本 簡単に結論をするのは早計かも知れませぬが、先づ平時に駐屯軍の様な半端な兵力をああ云ふ所に置いて実力者たる軍司令官が表面に立つて北支の問題を解決しようとした所に研究を要するものがあると思ひます。
先程も一寸申上げましたやうな閣議で決定した北支処理方針にあるああいふ風な程度のことをやるのなら兵力は要らない訳です。従つて条約に基く列国並の兵力で沢山のやうに思ひます。
駐屯軍の兵力は事変前即ち十一年三月に増強して混成一ヶ旅団にしました。そしてこれ丈の兵力を北支へ置けば大丈夫だと云ふ考であったのですが之が大いに検討を要するものと思はれるので、今から考へると夫れ位の兵力だったら無かった方が良かったと思ひます。又軍司令官と云ふものをして外交経済に関すること迄やらせることは良くないことで……矢張り外交は外交関係の者がやり経済は其の専門家に任かせ陸軍は満洲国の北支寄りの所……つまり熱河(この方面は当時がらあきになつて居た)……附近に大きな力を集めて置いて、グット睨んで居ったならば寧ろその方が効果があったと思ひます。
軍司令官其の他軍隊に居る者が専門外の外交経済問題を取扱ふものですから凡てにぎごちなく何か向ふへ申込をして拒絶せられたら軍の面目にかかると云ふ事になって非常に拙劣い。夫れでどうしても外交関係の人にやらせ経済は其の方面の人にやらせると云ふ事が必要であります。
次に北支問題を単に北支のみに於て解決することは当時の情勢に於ては無理であってどうしても支那全般の問題と関聯して中央政府を相手に解決すべきものあったのですが、種々の事情(満洲事変以来の抗日態度、英国の経済問題を主とする援支排日、西安事件以来特に露骨となれる蘇聯の策動等)よりして中央政府を相手とする外交関係は停頓状態となり寧ろ悪化する一方であったのです。それで少くとも北支問題は北支政権(宋哲元)を対象として局地問題として解決しようと考へたのですが、北支政権としても中央政府を全然無視して日本の希望する如き提携合作を実行することはやり得なかったのです。
即ち表面実力者たる日本側(駐屯軍)の言に聴従するが如くにして内々では常に南京政府の意向に気兼をし牽制せられて居ったのです。
之に対し日本側に於ても満洲事変の惰勢と申しますか満洲問題を処理したと同様の思想を以て北支を処理せんとする観念と、満洲以外の支那は之を統一せる支那の儘国交の調整を図り其の範囲内に於て北支問題をも処理せんとする観念とが絶えず両立して居た様に思ひます。
此等の不一致が縦ひ表面上は政府の一定せる方針を示されても不言の間に実際問題の処理に影響を及ぼしたることは争はれないことと思ふのです。
以上の如く考えますと北支問題と称するも畢竟独立した問題ではなく、対支問題に包括せらるべきもので対支問題は一面支那を繞る国際問題でもあるのですから此の解決が困難であるのは当然と思ひますが、日本の大陸発展の為には晩かれ早かれ解決せねばならぬ問題であつたのです。
盧溝橋事件は避け得たかも知れませぬが第二第三の同種事件即ち根本的問題解決の導火線たるべき小事件は不可避的に起つたでせう。不拡大方針を徹底的に実行して一時成功したとしてもそれが根本的解決になつたとは思はれず、早晩解決に乗り出さねばならなかつたでせう、要するに時機の問題であり、やり方の問題であり第三国に対する腹の決め方の問題であつたと思ひます。
↓「二六、日本側の黄河決漬企図」
二六、日本側の黄河決漬企図
殿下 此方で黄河の氾濫をやることに就て何か第一軍に居られた時分に考へられたことがあるのではありませんか。
橘本 石家荘を取つた時分に(軍の第一線は漳河の線に在り)、研究したことがあつたのです。それは何かのきつかけに黄河を決潰、氾濫させると云ふやうな状況がありはせぬかと云ふので一つ資料を調査して見ようと云ふことになつた。丁度其の頃既に占領して居た保定に水利河川の工事を掌る機関が平時からありまして事変前から保定に永年住んで居た日本人でそれに関係して居った者が精密に堤防の標高とか厚さとか云ふものを書き入れてある河川工事の原図を持つて居ると云ふことを櫻井徳太郎中佐が聞いて探し出しまして、其の地図に拠つて研究したので黄河の渡河点や流れの具合も判つたのであります。
殿下 それは何か目的があつて準備させられたのですか。
橘本 第二軍が黄河を渡つて山東省を取ることは非常な大事業でありますから、其の方面の黄河を減水させて渡りよくした方がよいことも起りませうし、又旧黄河が本流となれば所謂北支五省は天然の大障碍を以て他と隔絶すると云ふ利益もあるからです。併しやるとなれば第一軍の独断でやると云ふ訳には行きません。中央に意見具申の上で其の指示に従ふべきで調査研究だけはして置いても直ぐに実行する考へではなかつたのです。殊にそれを兵力でやるとなれば河の向ふ側に兵を渡さなければなりませんので相当の兵力が必要ですのに当時の状況は之を許しません。そこで謀略でやる計画を立てて見ることになりまして、其の方面は櫻井のお得意ですから「やりませう」と云ふ訳であつたのですが遂に実行するに至らず、後に至つて反対に敵の方からやられた訳です。