資料

宇垣一成日記(1935年11月30日付)

宇垣一成「宇垣一成日記」1935年11月30日付(P.1035)

 最近起りし北支の事態[殷汝耕自治宣言]は若い一部連中の功を急ぐ気分から醸生された事と想像して居る。素より北支に独立政権を樹立し南京との縁を薄くし日満関係を濃くすることは日満支の為に望むべきであるけれども、夫れを遣り切り押通すような秘密が保たれ度胸と手腕と名望を備へて居る役者がいない、役者が揃はねば大芝居は打てぬ、と考へ居た所である。然るに月初突如として北支風雲急を告げ来りしが宋哲元の人となりは克く知らぬからハア彼れは此の難局に方り得る男かなーとも一時は考へたが、北平や天津方面から入り来る電報は鳴物入り宣伝用らしく実際に疑を抱かざるを得ざりしが、旬日ならずして予想は適中して化けの皮が剥げ来りつつあるの感あり。企図の頓挫を示し結局は体裁を繕ふ程度で不徹底な小規模の仕上げに終る様な有様に向ひつつあり。最近北支を見て帰途の過客の談によれば、日当四五十銭で五十、百位の苦力を集めて市中を練り廻りて自治の民衆運動と叫び新聞通信記者連は宿屋の一室で電報を作為して打電して居る有様で御話に成らぬと。夫れ或は然らん乎? (十一月三十日)