資料
乾岔子島事件と満蘇国境問題
「国際時事解説」(国立国会図書館書誌ID 000000713983、永続的識別子 info:ndljp/pid/1268027)P.257
外務省情報部、1937年7月14日
乾岔子島事件と満蘇国境問題
一 事件の概略
六月十二日のトハチェフスキー元帥以下赤軍八巨頭の銃殺に端を発した赤軍の大清掃工作の底知れぬ発展に対して、世界の注目が不安と動揺に包まれたソヴィエト聯邦の国内情勢に集められて居る折から、突如として勃発した満蘇国境の乾岔子島事件は、これまた世界の耳目を聳たせるに十分であつたのである。
今回の事件は、満蘇国境を流れる黒龍江中の黒河の下流にある満洲国領乾岔子島及金阿穆河島に、 六月十九日以来、ソヴィエト軍が不法に越境侵入して来て、満洲国職員である乾岔子島の航路標識点火夫の宿舎に侵入し又両島に住んで居る満洲国人の採金夫等を追ひ払つてこれを占拠し、両島に沿ふ黒龍江の本流を通航する満洲国側艦船の航行を阻止しようとした為、同地方の国境警備に衝つて居る満軍監観隊との間に紛争を生じ事態が険悪となったので、モスコウの重光大使は帝国政府の訓令によつて、六月二十八日ソヴィエト政府のストモニアコフ 外務人民委員代理に対して、満洲国と共同防衛の関係にある帝国は、満蘇間に起った乾岔子島事件の事態に対して、深い関心を持ち、東亜平和の見地から速かに事態の平静に帰することを希望するのであるから、乾岔子に於けるソヴィエト赤軍出先の不法な行為を是正して貰ひたいと強硬に申入れたのであった。
更に翌二十九日、重光大使はリトヴィノフ外務人民委員に対して交渉を重ねた結果、リトヴィノフ委員は、両島から派遣部隊を撤退し、原状を回復すること及附近に集結して居る武装力を引き揚げること に同意する旨を述べ、就ては日本側に於ても、同様に緊張した情勢を緩和する措置を執ることを希望する旨を申出でたので、一応事態は緩和される筈であった。
然るに、モスコウで我が重光大使とリトヴィノフ外務人民委員との間にさうした交渉の行はれたにも拘らず、現地に於ては、赤軍は両島から何等撤退する気色もなく、而も愈々兵力を集中して日満側を威嚇せんとするの勢を示し、遂に三十日の午後三時頃、ソヴィエトの砲艦三隻が乾岔子水道の南側に侵入して来て、突如として満領江岸にゐた日満兵に向つて発砲したので、日満軍も已むを得ず自衛のため、これに応戦して砲火を開き、遂にソヴィ エト砲艇(二十四、五噸)一隻を撃沈し、他の一隻に大損害を与へたのであった。
この不祥事件の突発に対して、帝国政府としては、ソヴィエト側の不信行為を深く遺憾とするものであるが、この上に重ねて不祥事件の発生を避くるために、ソヴィエト側に於て速かに兵力を撤収し、事態を拡大せしめぬことを期待する旨の意向を発表すると共に、モスコウに於て、重光大使をしてソヴィエト当局に厳重な抗議を提出し、其の反省を促したのであった。
斯くて重光大使とリトヴィノフ外務人民委員との間に連日折衝が行はれ、我方の厳重な交渉の結果、 七月二日夕刻国防人民委員部は、乾岔子島及金阿穆河島にあるソヴィエト哨兵並に両島附近に集結中の軍用砲艦艇の撤収を命じたので、本事件もやうやく大事に至らずして事態は平静に帰したのである。
二 両島は満洲国の領土
かやうに、乾岔子事件は、満洲国領土である両島にソヴィエト赤軍が不法に侵入して来て、これを占拠したことに端を発するのであるが、重光・リトヴィノフ交渉に際して、ソヴィエト側は、乾岔子、金阿穆河の両島が明白に満洲国領土であることに就ては何等疑問の余地がないにも拘らず、一八六〇年の露清間の北京条約の附属として、翌六一年に作られたと称する地図なるものを根拠として、却て両島がソヴィエト領土であると逆襲したと伝へられて居る。素よりかやうな地図が今日まで公表された事実はないのであるからこれは何等根拠とすべき性質のものでないことは明らかである。
上述の北京条約によれば、露清の国境は黒龍江を以て境界とすると書かれて居る。黒龍江の主流は乾岔子、金阿穆河両島の北を流れてゐるから、国際公法上の通念から云って満蘇両国の境界線は、主流即ち北水道の中心にある訳であり、両島が満洲国の領土であることは勿論問題は無いばかりでなく、而も既に久しい以前から満洲国人が住んで農作や漁業や採金に従事してゐたのである。のみならず、満洲国建国後の昭和九年九月、黒河に於て満洲国哈爾賓航政局とソヴィエト聯邦アムール国立船舶局との間に結ばれた航行状況改善に関する協定の第五条に「河岸上ニ航行標識ヲ設置スル工事及其監督事項ハ双方各単独ニ自岸ニ於テ実施ス」とあり、両島の標識は満洲国側に於て設けたるものであり、且満洲国航政局員が常住して標識の管理に衝つてゐたのであるが、今日までソヴィエト側でもこの事実を承認して居り、嘗て何等の問題も起つたことはなかったのである。ソヴィエト側ではこの協定は単なる汽船会社間の取極めで何等国際的な拘束力を持たないものだと抗弁して居るのであるが、これが立派な国家官庁間の取極めであることに就ては何人も争ふ除地がないのである。
更に、ソヴィエト砲艇の乾岔子島南水道侵入事件の後に、七月二日、リトヴィノフ外務人民委員が両島に居る哨兵及附近に集結してゐた武装力の撤収に同意した時に、乾岔子、金阿穆河両島の帰属問題は後日の交渉によって定めることを留保し、従つて両島の帰属問題が懸案として後日に残されて居る様に蘇側は宣伝してゐるが、上述の如くに、両島が満洲国の領土であることは既に一点の疑ひもなく明らかなことで、唯これに対し蘇側が文句を言つてゐる丈のことなのである。
なほ日満軍がソヴィエト砲艇を撃沈したことに対して蘇側は言ひがかり上賠償等に言及した様であるが、これはソヴィエト側の挑戦に対して全く日満軍が自衛のため已むを得ず行つたところの正当の手段であるから、かやうなことが問題となるべき理由のないことは明らかである。
三 満蘇国境の実状
日本の本土のやうな四面海に囲まれて居るところでは、一般の人に、国境問題といふものを諒解して貰ふことは困難であるが、一個の石標を以て境界とし、一流の河川を挟んで相対峙して居る大陸の国々の間に於ては、国境問題は非常に重大な而も非常に複雑な問題である。況んや、僅か一線を以て死境を接して居る両国の関係が親善でないとしたならば、この場合の国境問題は頗る厄介な事件である。何となれば、国境線は両国の国防と外交が接触する第一線であるが故である。満洲国の生まれた以後の満蘇国境問題は日本と満洲国との不可分一体の関係が加はつて、非常に複雑なものとなつたのである。
現在の満蘇国境は旧支那時代のものを其のままに引継いだので、一八五八年の璦琿条約及前述の一八六〇年の北平条約による満露の国境は、東部はウスリー河から興凱湖を経て綏芬河、東寧、図們江をつなぐ線であり、北部は黒龍江とアルグン河とを以て境界とされて居る。元来満洲の国境線に関しては、一六八九年前帝制ロシアと清国との間に結ばれたネルチンスク条約から、革命後ソヴィエト聯邦と奉天の張作霖政権との間に結ばれた一九二四年の奉露協定に至るまで十余の条約や協定が結ばれて居る。北部国境は黒龍江及アルグン河を以て境界線として居るのであるから、大体は明らかであるが、一番事件の発生する東部の興凱湖西岸から図們江に至る間の約六百三十粁の陸境は一八六一年の興凱湖境界条約と一八八六年の琿春条約とによって定められた境界線が、密森や山谷を通して文字界標九個、記号界標二十六個合計三十五個の標石を以て連ねられて居る。界標間の平均間隔は十八粁であったが、永年の間に石標は崩れ、現在残って居るものは僅か十個程に過ぎないのであるから、正確な境界線を知ることが困難な状態にある。西部の国境に関する協定は、所謂斉々哈爾協定で、当時甚だしく支那側に不利な情勢があつたので満洲国側はこれを承認してゐない。
かうした事情にある満蘇国境線であるから、ソヴィエト側の不法越境により種々な紛争が起るのであるが、近年に於ける日満蘇関係の緊張は国境に反映して深刻な国境問題を惹起することがある。即ちソヴィエト政府は、満洲国が生まれて以来、俄かに極東に於ける軍備を拡張強化することに努めて居るのであるが、共の充実に従つて国境問題が深刻化する傾向のあったことは大いに注目すべき事実である。
極東方面に於けるソヴィエトの軍備はハバロフスクに極東軍司令部を置き、満蘇国境の全線に亘つて歩兵十数師団、騎兵三師団、国境陣地守備兵数万、ゲペウ数万、武装移民隊数万、飛行機戦車各々約一千二百台、装甲自動車六百台を超え、其の他に海軍力としては、ウラジオストックを主たる根拠として、小艦艇及潜水艦約百四十隻及ハバロフスクを根拠として砲艦、砲艇等三十数隻から編成されて居る黒龍江艦隊があり、総兵約三十万を集結させて居るのである。蘇側はこの優勢を頼んでか、絶えず前線部隊の将兵或は飛行機の不法越境を試み、或は日満人を拉致し、時には不法な狙撃をさへ加へる等、頗る挑戦的の態度に出でるのであるが、これが即ち国境紛争大部分の原因となつて居るのである。
四 国境に於ける不法事件
試みに満蘇国境に於けるソヴィエト側の不法行為によって起った事件を調べて見ると、主なものだけをあげても、昭和十年には東部国境地方では八十八件、北部国境で二十二件、西部国境で八件、満蒙国境で十八件、合計百三十六件の多数に上って居るのであるが、昨昭和十一年には、東部国境百二十件、北部国境四十九件、西部国境十四件、満蒙国境二十件、合計二百三件に増加して居り、本年に入っては既に六月末までに、各国境方面を合せて八十六件に達して居る状態である。而して其の内容は軍隊の不法越境十二件、飛行機の越境数件、不法射撃事件七件、不法拉致四件が数へられて居る。
以上の事件の中には、例へば昨昭和十一年一月三十日、密山県の金廠溝に於て満洲国国境監視隊の満人将校以下八百名が、蘇聯側の煽動によって兵変を起し、兵舎を焼き払ひ蘇領へ逃げ込んだ際起った金廠溝事件を初めとして、延吉県の長嶺子に於て我が吉田中尉以下の部隊が赤軍の騎兵から狙撃された長嶺子事件、綏芬河東方事件、観月台事件、張殿英事件等々の十数件は何れも日満側に死傷者を生じた事件であつて、当時の新聞にも報道せられたところであるから、世人の記憶に残って居るであらう。其の他東寧、綏芬河、虎林等の各地に於ける不法射撃事件の頻発、或は東寧、二人班、張殿英、 饒河等の各地に起った日満人の拉致等、不法事件や、挑戦的行為は枚舉に暇が無い程である。
かうした国境事件の頻発は、緊張せる日蘇関係をして更に険悪化せしむるものであり、地方的の些細と思はれる事件が動機となつて恐るべき大紛争が起らないとも限らないので、帝国政府としても東亜平和を顧念し、満蘇国境の安定を期するため苦心を重ねて居るのである。現に昨年の三月には、最も紛争の頻発する東部国境方面の国境の画定及紛争を処理するところの委員会を設置すべきことをソヴィエト政府に対して提議したのであるが、不幸にして、今日に至るも未だ実現するに至らない。
今回の乾岔子事件に於けるソヴィエト側の不法行為が、如何なる動機で為されたのであるかに就ては種々な説が行はれて居り、支那の或る新聞の如きは「今回の日満軍に対する挑戦行為も、偶発的のものではない」とさへ批評して居る。七月二日両島から赤軍が撤収され、一応事態は緩和し、事件は落着したのではあるが、今後また何時、何の方面に如何なる事件が勃発するかは測られない情勢に在るので、帝国としては満蘇国境問題の動きに対しては、今後一層深甚なる注意を払はなければならない。(一二・七・一四)