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康徳五年版 満洲国現勢

康徳五年版 満洲国現勢(国立国会図書館書誌ID 000000733472、永続的識別子 info:ndljp/pid/1208089
1938年7月1日、満洲国通信社

↓満洲帝国の統治組織 – 統治組織の大改革 – 国務院の組織 – 国務院 – 総務庁(P.42)

総務庁

 国務院総務庁の存在は満洲国行政組織に於ける一特色と言へよう日本の内閣に於ても総務庁の新設は屡々問題となったところであって満洲国にこの組織のあることは新生国家建設における大なる収穫である。即ち総務庁は総務長官統轄の下に国務総理大臣の職務遂行に関する事務を行ふもので、その内部組織は官房の外に企画・法制・人事・主計・統計・弘報の六処を有し、官房は庶務・文書・会計の三科に分れ(1)機密・(2)監察・(3)官吏の進退賞罰および身分・(4)官印の頒発・(5)官印の管守・(6)法律・予算・条約・勅令・軍令・詔書・院令等の公布および原本の保管・(7)公文書の収発・進達・発送及び編集保存(8)政府公報の発行・(9)経費及収入の予算および決算・(10)会計および用度・(11)処の所管に属せざる庶務等を管掌する。企画処は第一・第二参事官室及総動員科に分れ(1)重要企画の連絡調整・(2)基礎資料の蒐集・(3)重要施設の考査・(4)総動員計画事務の統轄等に関する事項を管掌する。法制処は第一および第二参事官室に分れ(1)法律案・勅令案・院令案その他法令案の起草および審査・(2)条約の審査等に関する事項を管掌する

 人事処は人事・考査・規画の三科に分れ(1)人事および給与の統一調整・(2)官吏の任免進退および身分に関する事項を管掌する。主計処は一般会計・特別会計・司計の三科に分れ(1)総括予算および総括決算・(2)特別会計の予算および決算・(3)国資の計画運用・(4)国庫金収支の管理・(5)政府保管の現金および有価証券・(6)物品会計の統一・(7)収支科目等に関する事項を管掌する。統計処は統計・統制の二科に分れ(1)統計の統一・(2)国勢の基本に関する統計の統轄・(3)統計年報その他統計に関する図書の編纂に関する事項を管掌する。弘報処は監理・情報・宣伝の三科に分れ(1)弘報機関の監理・(2)宣伝の計画・(3)宣伝の連絡統制・(4)重要なる対内外宣伝の実施・(5)情報等に関する事項を管掌する。尚総務庁の管理下に官公吏若くは官公吏たるべき者を養成訓練する大同学院が設置されてゐる

↓中央行政機関と其業績 – 行政の中軸・総務庁(P.52)

行政の中軸・総務庁

総説

 総務庁は国務院の中枢神経ともいふべく、国務院官制第九条にも「国務総理大臣ノ職務遂行ニ関スル事務ヲ司掌セシムル為総務庁ヲ置ク」とその所以が明定されてゐる。総務庁には国務総理を輔佐するため総務長官が置かれ、総務長官を佐けるため二人の総務庁次長が置かれてゐる。而して従来は秘書・企画・法制・人事・主計・統計・情報の七処が設けられてゐたが、康徳四年七月の行政機構改革と共に秘書処は総務庁官房となり、情報処は弘報処と改名された。官房及び六処の管掌事務は左の通り

官房 機密、監察、官印の頒発・管守、法律 予算 条約・勅令・軍令 詔書・院令の公布・保管、公文書の収受 進達 発送・編纂・保管政府公報の発行、経費及び収入の予算・決算、会計及び用度、官吏の進退 賞罰・身分、処の所管に属せざる庶務に関する事項

企画処 重要企画の連絡・調整基礎資料の蒐集、総動員計画事務の統轄に関する事項

法制処 法律案、勅令案、院令案その他法令案の起草及び審査条約案の審査に関する事項

人事処 人事及給与の統一・調整、官吏の任免・進退・身分・紀律・賞罰・養成・訓練に関する事項

主計処 総括予算・決算・特別会計予算・決算・国資の計画・運用・国庫金収支の管理・政府保管の現金有価証券・物品・会計の統一・収支科目に関する事項

統計処 統計の統一、国勢の基本に関する統計の統轄、統計年報其他図書の編纂に関する事項

弘報処 弘報機関の監理、宣伝の計画・連絡・統制、重要なる対内外宣伝の実施、情報に関する事項

 右の如く総務庁は国内全般の法令 予算・企画・人事・宣伝関係は勿論行政機能一切の中軸をなしてゐるわけで、国務院各部の計画提案は必ず総務庁を通過することを原則とし通過に際しては庁内各関係機関に於て細密なる再検討が試みられてゐるが、これが所謂総務庁中心主義で新興満洲国行政 特徴づける最たるものとされてゐる

主脳部

 現在これを動かしてゐる総務庁主脳部は左の如くである

 総務長官 星野直樹氏 明治二十五年東京市に生れ、大正六年東京帝大法科卒業、大蔵省に入り司税官・税務署長・税務監督局部長国有財産課長・銀行検査官を経て大同元年七月財務部総務司長として来満、康徳三年六月同部次長の要職に就き、同年十二月特任されて現職に就任した

 総務庁次長 神吉正一氏 明治三十年東京市に生れ、大正九年東京帝大法科卒業、外務事務官を振出しに大使館書記官・亜細亜局第一課長心得・奉天領事を経て、大同元年八月満洲国外交部に入り、同部政務司長を経て、康徳三年六月現職に就任した

 総務庁次長 谷次亨氏 明治三十一年関東州普蘭店に生る。東京高師卒業後大正十二年満鉄に入社その後奉天塩務総局長・税捐徴収局長・本渓湖煤鉄公司総弁を経て昭和七年国務院総務庁に入り、大同二年民政部警務司外事科長、康徳四年安東省教育庁長を歴任、同年七月行政機構改革と共に入って総務庁次長の要職に就く

 企画処長 松田令輔氏 明治三十三年山口県に生れ、大正十二年東京帝大卒業、直ちに大蔵省に入り同十三年広島税務署長に補せられ次で横浜・京橋両税務署長を経て、昭和七年大蔵事務官兼醸造試験所事務官に任ぜられ主税局に勤務、大同元年総務庁主計処長として来満、康徳二年十一月企画処新設と共に選ばれて現職に就任した

 法制処長 松木侠氏 大正十一年東京帝大法科卒業と同時に満鉄に入社、関東軍国際法顧問・関東軍統治部行政課長等と経て大同元年満洲国に入り法制局長代理となり、同年法制調査のため欧洲に出張を命ぜられ、帰満後秘書処長に就任、康徳四年五月法制処長を兼掌し、同年七月一日秘書処廃止と同時に法制処長となる

 人事処長 源田松三氏 明治三十二年広島県に生れ、東京帝大法学部政治学科卒業後大蔵省に入り大正十三年札幌税務署長に補せられ、昭和二年関東庁に転じ財務局財務課長となり、満洲事変勃発するや関東軍嘱託として奉天省政府の財政金融問題の収拾に当り、大同元年三月満洲国財政部税務司長に任ぜられ康徳三年八月現職に就く

 主計処長 古海忠之氏 明治三十三年東京に生れ大正十三年東大法科卒業、直ちに、大蔵省に入り、建国直後主計処総務科長兼特別会計科長として来満、更に給与制度確立のため人事処給与課長に転じ松田氏の企画処長転任に伴って康徳二年十一月現職に就いた

 統計処長 徐家桓氏 光緒二十年吉林省永吉県に生れ、民国十五年京都帝大法学部法律科卒業後直ちに河北省昌黎県知事に任ぜられ 後奉天省本渓県長に転じ、満洲建国成るや吉林省公署事務官を拝命、吉林省公署理事官、吉林市政籌備処長を経て康徳三年吉林市長となり、康徳四年七月現職に就任した

 弘報処長 堀内一雄氏 明治二十六年山梨県に生る。大正四年陸軍士官学校、同十四年陸軍大学校を卒業し、第九師団参謀を経て昭和七年一月東辺道保安司令部顧問として入満、同年三月満洲国陸軍少将に転じ奉天省警備司令部附となり、後第一軍管区参謀長の要職を経て、康徳四年七月弘報処機構鞏化と共に選ばれて現職に就く

官房

 官房は国務院の中枢機関たる総務庁内部の連絡統制に任ずるの外政府全般に於ける一般的整備統制の衝に当り、総務庁中心主義の実行機関として最も特殊な内容を有つものである。即ち政府に於ける各般の重要政務は各々の機関を通じて総て之を官房に集中し、こゝに於て所管機関との間に連絡折衝を遂げたる上、次長会議・国務院会議・満日経済共同委員会等に上程或は諮問せられ、その上奏を要するものは上奏御裁可を経たる上実施に必要な処置を為し、更に国家的行事の計画実施、日本側諸機関との連絡折衝等も亦管掌し、既に建国以来執政就任式、政府各機関の開庁工作・承認記念式典・帝政実施及び即位大典・修聘特使派遣・秩父宮殿下御来満行事・建国慰霊大祭・皇帝陛下御訪日行事等を主掌し来ったのである

 康徳四年七月の行政機構改革に於ては監察員の廃庁に伴ひその監察事務を引継いで政府の自粛自戒機能の達成に邁進すると共に、外交に関する事項及び地方団体竝にその長官の一般的指導監督に関する事項が国務総理大臣の直宰事項とせられたるに伴ひ、それ等の統制機関として会計上、将亦一般的監督上独特の立場を与へられるに至ったので、今後諸政の進展に伴ふ当官房の責務は益々重きを加へるであらう

企画処

 政府の核心たる総務庁の心臓部であり、一切の重要企画に参画し総務長官のブレーンとして、康徳二年十一月設置され、康徳四年七月の行政機構改革に依り新たに総動員事務統轄の参謀部としての総動員科を新設されたものが企画処である

 右の如き国家的重要事項を審議決定するために、現松田処長以下各参事官には満洲国官吏の中堅的逸材を揃へ、康徳四年七月行政機構改革を円滑裡に敢行したのを始めとし、路警接収に方りては国鉄及満鉄を通ずる鉄道特殊警察機関を設置し治安部大臣に属せしめ、民生振興に関しては万難を排し阿片麻薬断禁方策を決定実施してゐる

 また従来の幼稚なる農業の再編成を企図し政府統制下に農業者の福利増進を図ると共に生産品の配給を円滑ならしむるため農事合作社の設立要綱を決定し既に各県を一単位としてその設立を見てゐる

 なほ康徳四年五月には重要産業統制法が公布せられた。即ちこれに依り国防産業若くは基礎産業としての重要産業二十一種は本法の適用を受けその他は適用を受けないといふ意味で自由企業との分野が明確にされたのである。次に特産物国営検査制度の確立である本制度確立に依り海外市場に満洲特産物の品質保証と声価信用を維持向上せしめ特産物輸出市場を進展せしめる結果、生産者始め需要者までが共通に利益すること大にして満洲国特産界の発達は期して待つべきものがある

 なほ遼河を中心とする南満河川治整要綱を参画決定し五年度より実施の運びになったが、この結果従来頻々たる水害は除かれるのみならず二十二万平方粁の広大なる土地を潤活にし産業開発と大量移民の遂行に多大の効果が期待されるであらう。その外液体燃料の国策的見地よりして合成燃料会社及油化工業会社の設立、水力発電計画、満洲重工業開発会社設立等に参画これを決定してゐる

法制処

 民族協和と安居楽業を以て政治の根幹とする満洲帝国は建国直後近代国家の趨勢に随ひ法制完備の急務なるに留意し、条約・法律・勅令等諸法令の審議立案機関として大同元年四月法制局を創設し、以て早急に必要なる国家の基本的組織国家行政を管掌する諸機関の組織権限を規定する官制竝にこれが運営に必要なる諸法令の立案審議に当らしめた

 後、康徳二年行政機構の改革に伴ひ法制局を廃して新たに法制処を新設し、総務庁に属する一処となし今日に至ったのである

 本処の組織はこれを第一参事官室及第二参事官室の二室とし、前者に於ては国務院・治安部及経済部の官署及他室の主管に属せざる官署の主管に係る法律(組織法第三十六条に依る勅令)勅令及条約の審議立案を掌り、後者に於ては民生部・司法部・産業部及交通部の主管に係る法律(組織法第三十六条に依る勅令)及勅令の審議立案に当るのである

 満洲国法規制定の関門とも謂ふべき法制処を通過せるものは建国以来今日迄実に千数百件の多きに上り、康徳四年中に於ては七月及十二月に断行せられた行政機構の改革に伴って中央地方を通ずる諸官制の改廃、新たに実施せられた街村制の審議、又十二月一日を期して実施せられた治外法権の撤廃竝に南満州鉄道附属地行政権の接受に必要なる諸法令、即ち民事・刑事法規竝にこれに関聯する幾多の司法法規を始め警察・産業・経済・交通・郵政・教育その他庶般の行政法規が本処に於て審議せられその数実に三百余件の多きに達し、而もこれが審議に当っては常に世界の立法例を参酌し絶えず実情と慣習に留意し敢て量のみならずその質に於ても亦卓絶せる立法を斯くも短期間内に完成せしめた事実は誠に一大驚異と謂ふべく、前述せる治外法権の撤廃竝に満鉄附属地行政権の接受が完全に実施せらるゝに至ったのもこの法制処の隠れたる努力に因るものである

 斯くの如く建国後僅かに五年にして近代的法治国家として敢て先進国家に聊かの遜色もない水準に至らしめたのは処長・参事官始め処員一同の倦まざる努力の賜と謂はねばならぬ

人事処

 国家百年の基礎を確立し悠久の発展を期するためには人材の登用と同時に適材を適所に配置し国家のため全能力を発揮せしむるやう図らねばならない。殊に満洲国に於ては民族多種にして又各人前歴を異にする結果各々その所を得せしめ民族協和を図り以て建国の大業の遂行に遺憾なからしむる要がある。これがため各部局に人事取扱機関を設くるの外国家の全般的人事の運用統制を図るため総務庁内に人事処を設けたのである

 而して人事処は政府全般に亘る人事及給与の統一調整・官吏の任免進退及身分・官吏の紀律及賞罰・官吏の養成及訓練等々に関する事項を主管し人事行政の中枢機関としてその機能の円滑且適切なる運営を期してゐる

 新人材の登用育成制度の企画実行に実績を挙げ官吏恤金法・官吏退職死亡賜金法・政府職員の共済制度その他の福祉施設の確立実施により大いに人心の安定を斉し、語学検定試験制度の確立実施を見るや全満各地に語学熱大いに嵩まりその成績も亦頗る良好であって事務能率向上に貢献する所極めて大であった

 康徳四年度に於ては新たに人事運用計画資料の整備、治外法権撤廃に伴ふ職員及施設引継、地方職員の正式任命、文官任用待遇給与制度の調査研究、文官分限令・文官懲戒令等の制定、待遇職員制度竝共済組合制度の研究立案、職員状態調査の実施、官制定員に関する根本方針樹立、職員養成制度に関する方針樹立、人事基本統計の制定整備等を企画実施しその大部分を完了して幾多の功績を挙げた

 就中七月一日の行政機構改革に伴ひ人事の大々的刷新向上を図り治外法権撤廃竝附属地行政権の移譲乃至調整に伴ふ日本側関係各機関より引継がるべき人事行政も十二月一日完全にその円滑なる引継を完了したのであるが偶々県・市・街制度の改正竝新設に依る人事の配置を併せ実施した。この広汎且多岐複雑なる人事行政が順調に運ばれたことは源田処長以下処員の活躍に依るところ多大である

 一方政府職員共済制度を確立しこれを実施したのであるがこれは下級職員の身分を保証し不時に起り易き各人の災難を互いに救急し合ひ事務能率向上を期待する趣旨に基くもので躍進満洲国のためこの種制度の設定は慶賀の至りである

主計処

 総務庁中心主義の建前から、満洲国に於ては各国の通例に見るが如き独立せる大蔵省に於て予算の編成を行はず専ら主計処に於て之を行ってゐる。未だ予算協賛機関のない満洲国では主計処査定の予算案を以て事実上決定予算となし国務院会議の議決を経、参議府の諮詢を終へて裁可公布実施する順序となってゐるので当処の任務はそれだけに重大である

 建国以来財政制度の近代的整備に日夜努力した結果歳計総予算制度の樹立を見、その拘束力は強化されて旧軍閥時代の不統一や紊乱を根底より革新し、国庫預金制度確立されて今や政府預金は建国当時の百倍たる一億圓にも垂んとし起債の統一によって各省財政庁の恣意借款を絶対禁止、決算制度も公正化され其他康徳二年十二月には会計法制定、同三年度よりは日本の予算編成時期との聯繋に鑑み会計年度を太陽暦と一致せしむる等正に寸暇なき活動を続けて来たのであった

 大同元年度に於ける総予算額は一億一千三百万圓、その後毎年三千万圓乃至四千万圓程度を増加し康徳三年度には二億一千九百万圓康徳四年度に至っては実に二億四千八百万圓編成を見るに至り、当初に比し実に一億圓の増加を来して居る。しかも累年の著増にも拘らず特殊なる積極的建設事業費竝に事業資金の外は総て一般歳入を以て賄ひ、赤字公債又は借入金等に依るを避け得たことは満洲国の順調なる発展を物語るものであり、又その反面財政制度の近代的整備の功績を裏書きするものである

 右に於ても明らかなる如く従来の財政方針は建国日尚ほ浅き満洲国の財政的基礎の確立・対外信用獲得のため専ら健全財政主義を以て一貫してゐたのであるが、四年度以降の予算編成方針は従来とは根本を異にする新味が盛られるに至った

 即ち第二期建設に即応し各方面に於ける巨額の要求に応ずるためには従来の消極的健全主義を蝉脱して積極的財政方針に移り、しかも国際環境の現状より非常時の急需に応じ得るために財政の弾力性を涵養せんとして、合理的積極的財政主義が編成の方針とされたのであった

 この合理的積極的財政主義により四年度の予算を編成するに当っては

一、国家組織を維持するに必要なる財政(統治財政)は極力その膨張を防止し、国家財政の中枢として健全性且強靭性を保たしめること

二、国民生活を安定向上せしむべき施設に要する経費(厚生財政)は積極方針に基き特定財源に依るの外、公債(内国債)を起して為すべきも、之に対しては増税竝に新税の創設に依りその償還財源を明らかにし国家財政全体の健全性を害せざること

三、国家の経営竝に資源の利用開発のためにする国営企業又は重要産業の新設拡張に要する経費(開発財政)は積極的に財源を公債(原則として外国債)に求めて充足すべきも、一面積極的経営主義により経営団体自体に於て堅実性を保持し且発展せしむることに依り将来国家財政の基礎を損傷せしめざる方策をとること

四、内国税、関税及官業の全般に亘り財政上の急需に応じ得る如き体系竝に機構を整へ、以て歳入の伸暢を図り、非常時局に対処すべき財政の弾力性を涵養すること

五、国家中央財政と地方財政の一体的組織及調整合理化を図り、中央集権的統制と地方自治とを融合し国家経営の有機効率化を期すること

の五大方針が定められたのである

 而して五年度に於ては、歳入歳出とも各三億四百五十五万五千圓で前年度に比し五千六百四十五万六千二百四十圓の増、歳入に就て見れば経常部二億四千三十三五万千三百八圓で二千八百七十万三千五百四圓の増、臨時部六千四百二十一万九千六百九十二圓で二千七百七十五万二千七百三十六圓の増となってゐる。また歳出に就て見れば経常部一億四千三百六十五万九千七十一圓で二千四百五十四万六千六百二十八圓の増、臨時部一億六千八十九万五千九百二十九圓で三千百九十万九千六百十二圓の増である

 なほ特別会計はその数二十一、これが歳入総計十一億二千八百九十三万六千八百二十一圓、歳出総計十億八千八百五十七万二千五百十八圓となる。起債額は三億七千三百六十四万七千六百二十五圓で内一般会計に属するもの四千万圓特別会計に属するもの三億三千三百六十四万七千六百二十五圓である

統計処

 康徳四年七月一日の行政機構改革前に於ては本処は各官署統計の統一、人口統計及び国勢の基本に関する統計調査、統計年報その他統計に関する諸図書の編纂を管掌し来ったが機構改革と共に資源調査の統轄事務を併せ管掌するに至った

 惟ふに日満不可分関係に基き満洲国に於ける準戦時体制の採用はその目的とする所は一に国家総動員計画の設定及産業資源の組織的計画的利用開発に在って、本処の実務はこの基本国策に則りこれに関聯する統計資料の整備充実に力を致さんとするに在る

 茲に於て本処は康徳四年十月十四日資源調査法及同施行令及国務院訓令資源調査規定を公布、十二月一日よりこれを施行したのであった

 資源調査法は政府が国民に対する拘束権限を賦与せらるべき法律上の根據たる一般基礎法で、この法律に基き政府各部に於ては種々なる部令を制定し本処に於てはそれを逐一審査の上承認を与へその実施に遺憾なきを期しつゝある

 更に資源調査実施上、その主旨を徹底せしめ以て円滑なる運用を計らんがため中央に各省主任官を集め打合会議を開き、各省公署に於ても資源調査主任官会議を開催したが、機構改革後僅々一ヶ月余にして基礎立法の草案を完成し得たるは実に徐処長以下処員一同の団結強力邁進の賜に他ならぬ

 更に統計職員の養成も一段と重要性を帯び来り、これが質的量的拡充は一層急務となるに至ったので新京に第四回中央統計講習会を一ヶ月間に亘り開催し、各省に於ては県旗地方職員を召集して地方統計講習会を開催した

 中央統計講習会の修了者は五十一名、地方講習会の聴講者は七百四十名に達してゐる

 この外統計職員養成の一助として中央各部よりの統計事務従事職員中より五名を厳選して日本内閣統計局統計職員養成所留学生として日本へ派遣した。五年度よりは中央統計講習会を本格化し統計講習所を設置する予定である。

 康徳二年十二月末施行の第一次臨時人口調査及康徳三年十二月末施行の第二次臨時人口調査は何れも満洲主要都市(七十八都市)約三百七十万の人口調査であって国勢調査に準ずべきものであるが、この結果に就ては目下バワース統計機械に依り集計中でこれが完成の暁は満洲国最初の詳細なる人口統計の編成を見るものとして各方面より多大の期待をかけられてゐる。この他前年度に引続き家計調査を実施し諸般施設の根本資料を提供した

弘報処

 ソ聯・外蒙・支那に馬蹄形に囲繞されてゐる満洲国は謂はゞ赤色バチルスの鉤爪に包囲陣を布かれてゐるやうなもので、従って平時も亦戦時なのである。而して我国の国是は王道楽土の建設であり民族の協和であり、日満一体であり大亜細亜の興隆である。かゝる包囲陣に対抗しこれを撃退しかゝる国是を内外に宣揚するためには、あらゆる情報の蒐集・通報・宣伝・対策の完璧を期すると共に、常に国の内外情勢に対する国民の認識をして正確ならしめることが現下の急務である

 この目的達成の為に設置されたものが即ち弘報処であり、同処はこの使命達成のために統制下にある諸機関を督励動員して常に万全を期してゐるのである

 我国に於ては建国と同時に右思想宣伝戦への対策が重要視されて資政局弘報処を設置し国家創成期の要求する凡百の宣伝にその妙味を発揮して来たが、大同元年八月よりは総務庁秘書処新聞班に一括これを引継ぎ、爾後内外益々多事を加ふるに至ったので大同二年二月宣伝情報機構の完璧を期するため新たに総務庁内に情報処なる一処が置かれたのであった。情報処に於ては処内の人員を総動員し一切の言論機関・ラヂオ・映画・観光事業等に働きかけまた驚くべき数に上る宣伝刊行物・フィルム・写真等を自ら作製してその本然の偉力を顕示したのである。かくして康徳四年を迎へるや国家は第二期建設工作、就中産業開発五ヶ年計画に乗出し凡有る機関をそれに向って集中整備するため茲に国家の行政機構の大改革が断行されその結果従来の情報処は更めて弘報処と改名されたのである。而して六月五日公布の国務院官制に依って弘報処所管事項が定められ七月一日よりこの新官制による当処の活動が開始された

 今、国務院官制第二十二条により当処の管掌事項を示せば

一、弘報機関の監理に関する事項

二、宣伝の計画に関する事項

三、宣伝の連絡統制に関する事項

四、重要なる対外宣伝の実施に関する事項

五、情報に関する事項

五項目であるが、これを詳述すれば次の如くである

一、弘報機関の監理

 弘報機関の監理方法としては国内言論機関及刊行物・映画等一切の統制或は指導を目的としてこれが取捨選定を行ひ、経営の援助を与へ、国策的見地よりこれが健全なる運営を助成するにある

 叙上の目的達成のため設けられてゐる現在の主たる機関として満洲弘報協会・満洲映画協会・満洲観光聯盟・満洲事情案内所がある

1, 満洲弘報協会

 弘報協会は康徳三年九月ニュース統制と新聞通信の綜合経営を目的として設立され加盟社は国通を除いても大新京日報・大同報・満鮮日報・満洲日々・泰東日報マンチュリア・デリーニュース・奉天日々・盛京時報・哈爾浜日々・大北新報・ハルビンスコエ・ウレミヤ・黒龍江民報・延辺晨報・熱河新報・三江報の十五社に及んでゐる。四年度に於ては之等各加盟社の(イ)積極的活動速進のため、(ロ)地方に散在する満字新聞紙の整備のため(ハ)各紙への補助費支出のため特に意を用い、合理的言論統制に一大収穫を捷ち得たのであった

2, 満洲映画協会の設立

 多年懸案となってゐたものであるが四年八月正式に設立、直ちにニュース映画の製作上映を開始し現在では更に国策宣伝映画の撮影に着手してゐるが、事変に依り支那映画の輸入が杜絶したのでその応急策として新年と共に劇映画の製作を開始すると共に一般映画の全満配給統制も実行し、東洋一を誇る大スタヂオの建設も既に着工、国内上映は勿論、対日・支その他各国への輸出も意図され国策映画の使命の下に今や全面的の進出を見せつゝある

3, 満洲観光聯盟

 観光事業統制援助のため観光聯盟に対してその活動を促し年々夥だしき数に上る外人観光客に対し或は外字パンフレット類の国外撒布を通じて外人の我国認識に著大なる効果を斉しつゝある

4, 満洲事情案内所

 一時弘報協会内に置かれたものを更に独立せしめ特殊分野に於ける特種の紹介・宣伝業務のため積極的活動を開始し、相当の効果を挙げてゐる

二、宣伝の連絡・統制・実施

 宣伝に就ては中央各関係機関と密接なる連絡を図り映画の製作・写真の撮影・単行本・リーフレット・パンフレット・雑誌類の出版ポスター・伝単・図表・絵葉書類の発行、講演者の派遣等によって之が実施を為し来った。本年七月一日よりは曾て外交部宣化司に属してゐた対外宣伝をも当処に於て継承することゝなったので各事項に亘るエキスパートを増員し陣容を一新して対内外宣伝に大童な奮闘を続けてゐる。康徳四年度中の重なる業績を挙ぐれば次の通りである

1, 宣伝連絡会議

 中央各宣伝機関(日満共)の代表者による会議で放送・印刷物・映画・宗教・芸術団体関係を始め対民族工作、デマ防止工作等に及ぶ宣伝方針竝に実施方法を決定するもので宣伝の横の関係を緊密統制化す重要な意義を有する。七月二十七日に第一回を開催、十二月一日までに第五回を終了した。

2, 弘報会議

 八月六,七の両日、中央各部局代表並に全国各省事務主任者会同の上、行政機構の改革に伴ふ弘報事務の調整敏速化を目的として開催、宣伝及び情報上の執務に就き縦及び横の連絡の緊密化竝に一貫制の根本的対策を確立した

3, 弘報要員訓練講習会

 独逸・ソ聯等に於ては常に行はれてゐるが我国に於ては始めてのことであった。講習会は宣伝に於ける縦の連絡統制、宣伝直接関係者の教育を目的としたもので全国各省より宣伝要員日満系各一名宛を中央に集め十二月十三日より一週間、早朝より夕刻まで正に火の出るやうな訓練が実施され、各要員帰省後の活躍は期して待つべきものありと看られてゐる

 康徳五年度に於ては右の制度がそのまゝ踏襲され時局の展開、国内諸行政の躍進、産業開発計画の実施等に伴って益々活発な動きを見せるであらう

 なほ当処に於ては諸種の宣伝出版物が刊行されてゐるが本年度中の主要なものを合計すれば

国勢パンプレット 二十二種

時事パンフレット 六十二種

単行本 五種

叢書類 十種

リーフレット 四種

ポスター 十五種

写真帖 六種

地図竝に図表 十二種

伝単 四種

広告用時事写真 五十二種

写真撮影 六百三十七種

児童向印刷物 二十五種

雑誌その他 約四十種

 即ち宣伝刊行物の総計は八百九十四種、部数にして約四百万部の多きに達してゐる。かくの如く宣伝の連絡・統制・実施の方面に於ける当処の活躍は実に目覚しきものがあるが更に当該方面に於ける活動の完璧を期してラヂオ放送の全面的利用及文学演劇方面に於ける助成、側面的利用等が積極的に考慮されてゐる

三、情報蒐集及通報

 情報関係の事項は単に宣伝の有効化のためのみならず一国の行政上、特に我国の如き国是と環境を持つ国にとっては誠に重大なる意義を有する。かゝる重要任務の中心にある当処は常に処員を総動員して国内に於ける情報網確立、諸情報の蒐集及び蒐集情報の必要機関に対する通報に一糸乱れざる活動を続けて来た。本年度に於て更に展開し複雑化する新局面に対応し一層の緊張と俊敏なる行動が続行されるであらうが、中央に在っては情報化が中枢機関となり各部局各省の既設機関を動員して建設的情報の蒐集及通報を企図してゐる。情報蒐集の範囲は極めて広汎で国内民心の時々刻々の動向は申すに及ばず政治・思想・文化・産業・経済その他一切の国内情報を始めとし凡有機関を通じて、隣接ソ・支・外蒙その他世界各国の動きにまでその手が延ばされてゐるのである

大同学院

青年官吏育成の道場

序説

 満洲事変直後、建国草創の際満洲国政府は一時に多くの行政経験者竝事務熟練者を要したので、已むなく上層官吏たると下層官吏たるとを問はず殆んど日本内地・関東州及満鉄等より之を招き若くは縁故を求めて各機関に入った者もあったが、これ等多数官吏中には動もすればその素質不良にして国家の期待に副はぬ者なしとしなかった。依て政府は、建国の大理想を体し国家の一糸乱れざる統制下に、一身を顧みず邁進する青年官吏層の拡大強化を図るべく本学院を開設したのである

使命

 もともと満洲国の建国が単なる偶然の所産でない様に大同学院の開校も亦単なる学校経営によって為されたものではない。満洲建国が世界史上に誇る道義的使命を実践すべき興亜精神の養成こそまた本学院に課せられた建学の使命である

 言ひ換へれば満洲国建国と謂ふ二十世紀人類の歴史に道義的内容と魂の聖火を点ずべき同志訓育の道場……これが大同学院建学の本旨なのである

 この目的の下に設立せられた大同学院は満洲帝国官吏たらんとする者、或は現職官吏を入学せしめて共通の建国理想と指導精神の下に陶冶訓練して、最も統制あり且敏活なる協同動作を為し得る如く訓練し、併せて紀律・節制・服従・秩序を尊重し実務処理能力と着実性を涵養して国士的官吏を養成するに在る

沿革

 大同学院は満洲事変勃発直後満洲国建国の理想に燃えて地方自治の確立を目指し敢然として挺身赴難せる先覚者の結成体たる「自治指導部」を母胎として、更に「資政局訓練所」を経て大同元年七月一日国都近郊南嶺の聖地に呱々の声を挙げ旧東北軍兵舎の一部を改修してその居を定めたに始まる

 院長は創立当初駒井総務長官これを兼ねてより歴代総務長官の兼任としたが康徳二年四月専任院長として現井上院長の就任を見るに至り、漸次に学監・副学監・教授等の職員も充実し組織も確立するに至った

 校舎は一時寛城子に移転し該地中学校々舎を共用したが、康徳四年秋南嶺に三万坪の敷地を卜し校舎を新築これに移転した

 当初は日満学生を混合収容したが、満人中堅官吏育成の緊要なるに鑑み、康徳元年よりは別に満人現職青年官吏より採用収容して第二部とし、これが指導訓練を行ひ、更に康徳三年度よりは現職日本人優秀青年官吏をも収容再教育を実施してゐる。爾来第一部は第八期生を送り出し、第二部もまた第六期生の卒業を見たのである

 而して全満官吏層中には一千三百を超ゆる卒業生が各官庁に配属せられ不退転の活躍をしてゐる

組織

 院長の下に学監一名・副学監三名及び総務科・学生科の二科があり教授・配属将校・事務官ほか助教授・属官・嘱託など四十数名を擁してゐる

 学制は第一部制および第二部制に依って組織され、第一部制は更に大学専門学校卒業者より採用するものと、日人現職官吏より採用する学生より成ってゐたが、現職官吏よりの採用は康徳四年度の募集(入学は康徳五年一月)を以て中止することゝなり、同時に組織を更めて大学専門学校卒業者より採用する学生を、一般文官・技術官の二部門に分って、一般文官は修学期間を一ヶ年に、技術官は半ヶ年として康徳五年度より実施せらるゝ事となった。尚第二部制は凡て現職満蒙人官吏より採用したが、第一部制現職官吏の採用中止と同じく康徳四年度の募集を以て中止し満蒙人学生に対しては別途教育を実施する方針である

 教育概要

 建国の真精神を把握せしめ如何なる難関にも身命を賭して邁進しその真使命を達成する国士的人物を育成するを目的とするを以て、建国精神を基調とし徹底的に心身の訓練育導を為し併せて国勢の実情を正確に認識究明せしむべく最大の努力を払ってゐる

 即ち学生は凡て寄宿舎内に起居し厳正なる学生心得に準據し教官指導の下に日常生活を実施してゐるが、特に日満学生は混合同居して民族協和を実践してゐる

 左に第一部及第二部の教育内容を掲げやう

△第一部

 精神訓話・訓練・一般講義・特別講義・語学・座談会・農村実態調査・視察旅行

 一般講義は専任教授又は兼任教授(政府有力官吏)に依り満洲国官吏として必要なる思想・民族・歴史・法制・経済に渉る研究を行ひ、特別講義に於ては軍・政府・一般より権威者を招きその深き造詣を聴取し該博なる知識を涵養する。語学教育は特に重視し多大の時間をこれに割いてゐる

 訓練に於ては広く教練・指揮法防空防護法・治安及宣撫工作法・銃砲操練・剣道・柔道・合気武道・馬術・自働車操縦・行軍等を実施し、農村実態調査は農業国満洲の三千万民衆の生活実態に触れしむるもので、後日学生がそれぞれの任地に於ける行政手腕へのよき示唆となるのである

△第二部

 学生が高級中学校卒業程度以上なるにより、第一部生とはその内容を異にし一般講義に於て左の教授を行ってゐる

 即ち官吏道・公文程式・建国精神・近世史・行政論・財政経済論農業経済論等で他は第一部と同様の内容を有する。特記すべきは日本視察旅行で友邦日本の國體の本義及躍進せる文化の諸般についての正確なる認識を求めるため毎期多大の日数をこれに当てゝゐる

業績

 創立五週年を迎へた本学院は前述の如く第一部第二部を通じて既に千三百余名の多数卒業生を出し満洲国官吏中堅層として活躍すると共に漸次幹部層に上昇しつゝあるは洵に本学院の使命の重大さを痛感する次第である

 更に本学院の訓育統制の下に置かるゝ政府職員養成諸機関(中央警察学校・司法部学校・財務職員養成所・農林技術員養成所・教員講習所・地籍員養成所・郵政講習所)も亦建国精神の理想達成の戦士育成に真摯なる努力を続けてゐる

 尚之等諸機関を収容せる合同校舎は大同学院の管理に属し第一合同校舎は既に成り、第二合同校舎も康徳五年春には竣工の予定で、その暁には散財せる政府職員養成諸機関は名実共に統合せられ緊密なる連繋の下にその使命達成に邁進する筈である