資料
蒙疆政権の現状と其の経済建設全貌
アジア歴史資料センター Ref.B02030924100、本邦対内啓発関係雑件/講演関係/日本外交協会講演集 第六巻(A-3-3-0-2_1_2_006)(外務省外交史料館)
1938年12月、日本外交協会
北支那協会第二百九十六回例会席上
蒙疆銀行総裁室
文書股長兼調査股長 前野善衛門氏述(要旨)
蒙疆政権の現状と其の経済建設全貌
(昭和十三年十二月)日本外交協会
(お断り)
蒙疆政権に関する概念は其の文献少く普遍化さぜる折柄、本協会に於ては蒙疆銀行創立当初 より直接関係這間の事情に通暁せる前野氏より詳細に之れが報告を拝聴するの機を得たり。
本稿は同氏口演要旨の筆録なるが、其の内容に於て創建当初の事情等機密の点尠からざるも のあり、而も口演者の査閲を経ざるものなるを以て、会員外の閲読は特に御留意相成たし。
昭和十三年十一月
日本外交協会調査局
[目次略]
蒙疆政権の現状と其の経済建設全貌
蒙疆銀行総裁室
文書股長兼調査股長 前野善衛門氏述(要旨)
まへおき
只今御紹介を頂いた蒙疆銀行の文書股長兼調査股長前野でございます。実は只今御紹介下さった吉野先生は私の恩人でありまして、私の上京したのを機会に、何か向ふのことを話せと云ふ御命令を受けたのでありますが、御覧の通りの若年者でありますし、何等の経験もないので、斯う云ふ席へ罷り出まして、皆様の前でお話すると云ふことは、烏滸がましいと存じますので、これは日満支経済懇談会に出席してゐる寺崎副総裁が罷り出まして、御説明申上ぐることが最も適当と考へましたが、副総裁は只今帝国ホテルで会議中で、とても繰合せがつかないので御座いますから茲に罷り出た次第であります。
蒙疆へ参りましてからまだ半年そこそこでありまして、蒙疆の事情もまだ深く認識して居らぬ憾みもありまするし、また上京以来非常に多忙でお話の草案といふやうなものも、とても考へて居る暇もありませぬので、大変取止めもない話になることを虞れるのでありますが、どうぞ若年者の私に免じまして、お許しを願ひますれば結構だと存じます。
御承知のやうに蒙疆政権は成立後一昨日をもって満一ヶ年を経過したのでありまして、張家口、大同、厚和等の都市に於きましては、一周年の成立祝賀を大々的にやって居ることゝ思ひます。私共の蒙疆銀行が創立されましたのも、昨年の昨日でありまして、実は昨日蒙疆銀行創立一周年の記念式を終った訳であります。丁度一周年の記念に当りまして此処で向ふのお話を致すと云ふことは大変私としましても嬉しく存じます。
併し茲に御出席の大部分のお方は向ふのことに認識をおもちになって居ると、半澤先生のお話でありますから、一般的の問題を申上げても、興味がないと思ひますので、出来るだけ一般的の問題は省略させて頂きまして、蒙疆政権としての当面の問題及私共が常に仕事の上で障碍を感じ、或は不満を感じて居ることを、順々に話して見たいと存じます。と申しましても約一ヶ月になりますが、私共の銀行から支那人重役を中心に、蒙疆訪日金融視察団が御当地に出まして、視察を終って帰ったばかりでありますし、引続き徳王一行が視察に上った、さう云ふ関係で蒙疆の事情を非常によく認識して居らるる方が多いので、私共当地に罷り出まして、向ふの事情を申述べると云ふことは、非常に話づらいのでありますが、一般的のことも若干お話させて頂きたいと存じます。
第一、蒙疆政権の現状
一、蒙疆政権の成立過程
御承知のやうに蒙疆は昨年の事変の際に、関東軍の察哈爾作戦に基き、承徳から多倫、張家口、大同、厚和、包頭、斯う云ふ線を通って粛清工作が行はれたのでありますが、一方北支の方からは今陸軍大臣をして居られる板垣閣下が、南口で非常に苦戦をされ、あすこを陥落して、南北双方からの作戦部隊によってこの蒙疆工作が行はれたのであって非常に重要な意義があると思ふのであります。
成立の当初は何んと申しましても、旧軍閥に乱された土地でありまして、国民政府と行動を共にするものが多く、第一流の人物は大部分は逃げて行って了って――この逃げた奴を逆産人物と言ひ、それ等の人物の財産を逆産として処理している――現に蒙疆に残って居るものは実は第二、三流の人物のみで、従ひまして私共日本人が乗り込んで行って、いろいろ政治を行ふに致しましても、殊にあまり偉い人間が居りませぬものですから、非常にやりよく、政権の真中に入ってガッチリとやって行けるのであります。
先般来京した徳王と云ふ人は非常に偉く、蒙古人の崇拝を一身に集めて居りますが、徳王は御承知のやうに、蒙古聯盟の主席であって、蒙疆政権の主権者にはなって居りませぬ。即ち徳王は僅かに蒙古聯盟の主席であって、蒙疆政権の王様ではないのであります。
二、蒙疆聯合委員会と自治政府
蒙疆政権と云ふのは、蒙古聯盟自治政府、察南自治政府、晋北自治政府の三つが一緒になって作ったのでありまして、李守信も蒙古聯盟自治政府の副主席と云ふことになって居ります。この三つの自治政府の上に蒙疆聯合委員会と云ふやうな中央政府が出来て居るのであります。この中央政府の主席は、総務委員長と云ふ名前をつけて居りますが、現在は欠員で、最高顧問をやって居る金井章二氏が総務委員長事務取扱をして居られます。総務委員長は向ふの内閣総理大臣であります。さう云ふ事情でありますから、各方面で徳王が恰も蒙疆聯合委員会の主権者であるかのやうに思っている向もありますが、そんな御考を御持ちの方は御訂正を願ひます。
蒙疆聯合委員会は中央政府の形式を執って居りますが、現在のところ中央政府としての実権はもってゐないのであります。それがどうしても若い人の不満とするところでありまして、将来中央政府たらしむべく、着々努力して居るのでありますが、しかし各自治政府とも各々成立の経緯がございまして、簡単に参りませぬ。ただ所謂親日、防共、民生の向上、民族協和の四つを旗印としてゐる点では各自治政府ともに目標が一致して居る訳でありますし、それに同じ建設工作をするなら、何んとか合同したらと云ふことに意見が一致して、蒙疆聯合委員会が成立したのであります。この蒙疆聯合委員会は各自治政府から一定の権限を委託されて居るのでありまして、その委託された権限内で仕事を行ふと云ふのであって、大分他の中央政府と趣きを異に致して居るのであります。初めは外交、産業、金融、交通等の重要事項だけの権限を委託されて仕事をして居ったが、委託されたと申しましても、契約に依って委託されて居るのであって、別に組織法がある訳でもないので、法律的には実は疑問になって居るのであります。尤も会令と称する法律の様なものを出しては居るが、これも果して純然たる法律としての効力ありや否やは多少議論もあり漠然として居りますけれどもそれらに御構ひなくどしどし仕事をして居ります。所が本年の下期に入りまして、蒙疆の金融工作も成功裡に一段落し、各特殊会社も一応整備し、経済建設の基礎的工作が出来上り、愈々これから本格的産業開発に乗り出さねばならぬ気運に際会しまして、蒙疆政権の基礎を更に鞏固にし、第二発展期に備へ様と云ふことになったのであります。偶々支那の方では北支、中支の両政府が中国政府聯合委員会を作ると云ふ噂も御座いましたので、之に備へる意味もあって八月一日に蒙疆聯合委員会を改組する――改組でなく寧ろ拡充強化することになって、その前まではただ外交、産業、金融、交通と云ふ重要事項だけを委託すると云ふことであったのを内政、外政の全面に亘る様に契約を変更したのであります。この結果蒙疆聯合委員会に総務部、治安部、産業部、交通部、財務部、民生部の六つの部が出来て、政治全般に亘って行政を行ふと云ふ方式を採ったのであります。
然しながらそれも全部がただ契約に依って出来て居るのでありまして、何等中央政府の形を執ってゐないために往々にして文句が出ます。「聯合委員会は契約によって各自治政府より一定の権限を委託されて居るが、それは内部の契約であって、人民を拘束する権利はないではないか」と云ふ疑問もあり、文句が出るのであります。併し現在の蒙疆地域は何と申しても戦争地域であり、軍事地域である。而かも仕事をしなくてはならぬ。にも拘らずさう云ふ状態であるが、兎も角、基礎を作ることが先決問題である、基礎を作る為には多少の無理があっても已むを得ないではないか、と云ふ訳で大分テキパキと仕事をやって居ります。従って仕事の上に或は間違も無いではないかと思はれますが、間違があれば後で修正するほか仕方がないと存ずるのであります。
三、蒙疆の政治的特殊性
一般的の問題はこれ位にしまして、蒙疆の政治的特殊性といふやらなことに就いて申上げます。大体蒙疆地域の重要な政治的特殊性は「防共」と云ふ一点に帰して居る様であります。その他蒙古人の問題とか、回教徒の問題とか、いろいろありますが詮じつめれば防共と云ふ一点に帰するのであります。共産主義を排撃する、それだけで大体政治的の特殊性がある訳であります。満洲、蒙疆から中央亜細亜をぶち抜いて防共の障壁を作ると云ふことが必要ではないか、中央亜細亜迄共産防壁を作って蘇聯の所謂赤色ルートをズタズタに切って了ふ、そこまで行かない間は――防共陣はそれだけでよい訳ではないが――蒙疆、新疆地方から中央亜細亜まで延ばして、始めて防共の目的は達せられる。そして蘇聯の方から少しも這入って来られないやうにする。斯くの如く大陸の外廊を固めれば大陸の内部は自ら治まりはしないだらうか、それには蒙疆は満洲と共に独立国家として永久に存立しなければならぬと考へるのであります。
四、蒙疆政権を繞る諸問題
それから現に蒙疆政権にはいろいろと問題が起って居ります。
(イ)北支との関係はどうする
第一は北支との関係をどうするか、中国政府聯合委員会の第二回目の委員会が南京で今月中旬に開かれまして、蒙疆を勧誘すると云ふ話がございます。蒙疆としましては、日本の大陸政策として蒙疆を参加せしむると云ふのなら兎に角、われわれのやうな蒙疆の人となって、向ふで働いて居る者の考へ――私共としての考へがございます。私共の考へはどうかと申しますと、大局的に見て大陸と一緒になって、中国政府聯合委員会に参加すると云ふことには反対して居る。其の理由は、蒙疆は政治的な特殊性を持って居る。北支、中支と一所になり得ない特殊使命を有して居る。此の使命を達成するにはどうしても独立国家として存立しなければならないと云ふやうな意見に一致して居るのであります。これが二三日前の東京日々新聞に出た現地の空気であります。と申しますのは『蒙疆は曲りなりにも第二の満洲国の如く、国家の体裁を為して居る。既に耕地整理が出来て居る。然るに北支の方は未だ耕地整理が出来てない。ざっくばらんに申すならば泥沼ではないか、お前の方は泥沼で自動車も通らない、船も通らない。蒙疆の方は耕地整理が出来て居る。大きな道路も出来て、自動車も自由に通り、一切のことがうまく行って居る。泥沼と耕地整理の出来て居るものとを一緒にされては困るではないか、若しも蒙疆を参加させたかったら、自分の方の耕地整理をして来い』と云ふわけで可なり強い覚悟で強い主張をもって居るのであります。従ってまだ当分は参加の勧誘には乗らないではないかと思って居ります。今一緒になられては、非常に困ることがある。例へば私共の蒙疆銀行にしましても、大陸の金融は中国聯合準備銀行が一元的にするのが理想ではないかと云ふ御意見もあるやうに聞いてゐますが、さうかと言って蒙疆銀行が直ちに中国聯合準備銀行に参加することはこれまた一寸勇気はないのでありまして、蒙疆銀行は蒙疆政権と同じやうに、内容がガッチリして凡ての点に於てうまく行って居る。然るに中国聯銀の方はなかなかさうは行きませぬ。さう云ふことは北支共通の欠点であります。北支政権自体に日本人が入ってゐない、その他中国聯銀にしても、何等日本人は実務に携ってゐない、私共の同僚が十人ばかり中国聯銀に入って居りますが、全部阪谷顧問附になって居りますやうな次第で、企画とか調査とか、そんなことばかりやって居って、営業の実権と云ふものは何等もってゐない。従ひまして折角よい頭でいろいろ立案しましても、実行する側に日本人が入って居りませぬから、しないことゝ同じことでありまして、政権自体、銀行自体に何等日本人が力をもってゐないために、何等の実行も出来ない、所謂泥沼と申して居ります(笑声)故に蒙疆銀行を合併されては非常に迷惑するのであります。蒙疆銀行は飽く迄蒙疆の中央銀行としてガッチリやって行きたいと考へて居るのであります。
(ロ)蒙漢両民族の統合問題
第二には三つの自治政府の統合問題であります。これも結局蒙疆国を作ることが理想と思はれます。何しろ蒙疆地域で蒙古人は僅かに三十万人内外、蒙疆の全部の人口五百五十万人のうち、蒙古人は僅かに三十万人である。その蒙古人を表面に立てゝ居ると云ふのは、一つの政治的ゼスチュアになって居ります。然るに蒙古人が蒙疆五百五十万の人口のうち、僅かに三十万で国家を作った場合、将来どうなるか、非常に重大なことになる。従ってなかなか実際問題として、この理想は一寸実現出来ないではないかと思って居ります。それ故に蒙疆はやはり蒙漢両民族の融和を基礎とする独立国家にするのがよいではないでせうか。
(ハ)内外蒙古の関係
第三は蒙疆の内部関係でありますが、これは将来とも日本の大陸政策上、大きな問題だらうと思はれます。御承知の通り蒙疆と外蒙との関係でありますが、外蒙は外蒙人民共和国として完全に蘇聯の勢力範囲になって居る。同じ蒙古人でありながら、内蒙のものは蒙疆政権に據って防共を旗印にして居る。広漠たるゴビの沙漠に跨って、何等具体的の国境と云ふものもない住民が、同じ蒙古人で民族、習慣、生活一切を同じうしながら、たゞ政治的環境を異にするがために二つの政権に分れて争って居ると云ふことは非常に問題であります。例へば外蒙に親が居り、内蒙に子供が居る。さう云ふ場合、その子供が親に逢ひに行くと蘇聯の国境監視兵に捕まってひどい目に遭ふと云った例は屡〃あります。西へ伸れば伸びる程斯様な関係が濃化して来る。延いて日蘇間の危機と云ふことが、さう云ふところから起りはしないかと考へられるのであります。
(ニ)複雑なる内部関係
それから第二の内部関係と致しまして、五百二十万の漢民族と三十万の蒙古人との間に摩擦が将来起りはせぬかと云ふことが問題であります。丁度現在はその融和した点に逢着して居るのでありますが、御承知のやうに徳王は徳化と云ふところの王様であって、綏遠、厚和と云ふやうなところは傅作義が勢力をもって居ったし、また張家口附近には廿九路軍の例の宋哲元が非常に勢力を持って居った。事変前は宋哲元の乾分の劉汝明が居って民族的に争って来たのであります。元来清朝何百年と云ふ間、蒙古人は漢民族のために非常なる圧迫を受け、政治的にも経済的にも、再び起つ能はざる状態にまでなって居ったのであります。丁度張家口から二百五十キロも入らなければ蒙古にはならないやうに、蒙古人はだんだん自分の土地を失ひまして、奥へ奥へと逃げたやうな状態で、蒙古人の偉い人は何んとかして失地を恢復したいと常に考へて居った。斯様な矢先に満洲事変が起り熱河工作が行はれ、満洲国の強化の為に察北地方の工作が行はれましたので、蒙古人は日本の勢力に頼って、自分の勢力を取戻したいとさう云った気分で居りましたので、徳王初め日本に頼り、蒙古人全体が日本に頼ると云ふ気持になった。一方の漢民族は抗日意識が非常に強かったのでありますが、現在は凡てが滅茶苦茶にぶち壊されて味噌も糞も同一になった、そこへ蒙古人としては漢民族が邪魔になる。斯様な次第で蒙古人と漢民族を一緒にすると云ふことは、内部的に問題を内包して居るのであります。以上が蒙疆政権の当面の問題としてはその大体であります。
五、蒙疆の治安
次は蒙疆の治安はどうなって居るかと云ふ問題であります。これは自分の関係外のことでありますが――蒙疆の治安は非常によくなって居ります。北支とは一寸比べものにならない位でありまして、先づ満洲国の北満位の治安状態ではないかと思ひます。日本軍が駐在して匪賊討伐をして居りますが、もう討伐する匪賊も殆んど居りませぬ。偶々太原附近の五台山を中心に共産軍が相当活躍して居りましたが、これも先程の討伐で全滅したやうでありますし、また察南自治政府と晋北自治政府との境の長城線にチョイチョイ現はれますが、これは逃場を失った旧廿九路軍及共産軍の敗残兵であります。この旧廿九路軍の兵隊と云ふものは、熱河出身のものが非常に多い、その敗残兵が徒歩で僅か二十人か三十人宛だんだん熱河の方に近寄ってくる、それ等が喰物に困って通行人を迫害したりします。さう云ふものも居りますから、絶対に治安が確立されたとは申されませぬが、さう云ふ状態で京包線は一日と雖も汽車の止ったやうなことは、こゝ五六ヶ月ありませぬ。さう云ふ風で治安はうまく行って居ります。
第二、資源と経済
一、蒙疆の三大資源
次に蒙疆の経済事情を申上げたいと存じます。第一は資源でありますが、これは申すまでもなく皆様は私共よりも、よく御承知のことゝ思はれますので簡単に申上げます。蒙疆の三大資源は鉄、石炭、羊毛であります。
二、鉄と石炭
鉄は約一億五千万噸位あると云ふ推定でありますが、宣化の龍烟鉄鉱の一億噸、これは赤鉄鉱でありまして、悪いので四〇%よいのだと九〇%、平均六〇%位の含有量をもって居りまして、現在興中公司が経営しております。然し採掘法は非常に幼稚で鏧で割って、それを担ぎ出し、トロッコで積出して居ると云ふ訳で、三千人の坑夫を使って居りますけれども、一人当り一噸も出ないと云ふ位であります。何しろ昔からあすこの地域は鉄坑夫にしても、石炭坑夫にしても、専門的のものは殆んどゐない、全部農民を狩り集めてやって居る。百姓の暇な時には沢山集りますが、農繁期になるとバラバラ散って了って、また暇になるとノコノコ出て来て働くと云ふ工合で給料は六十銭位やって居ります。百姓の暇な時は喜んでやって居りますが阿片の採取期などになると皆行って了ふ。阿片の採取は今年は日当三円位になりましたから、従って六十銭の坑夫の賃金では誰も嫌がって出て来ない、三千人使って居る坑夫が九月には約一千人位に減って居ります。これには鉱山当局も弱って居るやうであります。
それから大同の石炭でありますが、これも同じでありまして、今五千人位の坑夫が居りますが、大部分農民であって、今申上げたと同じ状態で八月頃には二千人位になって急に採炭が減って弱って居る。そこで鉱山当局は専門的な坑夫を入れたりして資本と技術との方面に、いろいろの施設を考へて居りますが、なかなか出ないので弱って居るさうであります。大同の石炭は大抵の方が御存知のことゝ思ひますから詳しくは申上げませんが、私達素人が見ても分ります如く、質が非常によいと云ふことが特徴でありまして、どんな風に質がよいかと申しますと――こちらへ参りますのに東海道線でも感ずるのでありますが――日本の石炭は汽車の窓を閉めて置いても坐席に煤煙が飛んで来ますが、向ふの石炭は窓を明け放しにして置いて、白い服を着て居ってもその服が少しも汚れないと云ふ程でありまして、これを以てしても如何に質がよいかと云ふことが感ぜられるのであります。それから石炭抗にガス一つなく水もない、それで洗炭の必要が少しもない、これを見ても素人ながら良いと云ふことが感ぜられます。私共満洲の北票炭礦に参りましたことがありますが、あの炭礦でも水が出る、ガスが出ると云ふ状態であったのであります。
たゞ現在のところ輸送の点に於て困難を感じて居るのであります。所謂京包線が二百万噸位しか輸送能力がないのであります。将来これを持ち出す場合に、大きな専用鉄道を作ると云ふ計画がありまして其の話が一昨日の日満支経済懇談会に提出されたやうであります。京包線は今年のうちに百万噸殖やすことになり、来年中には百七八十万噸輸送を殖やす計画になって居りますから四百七八十万噸になるだらうと思ひます。何分、八達嶺の嶮しい山のために複線にならないので、引込線を長くしまして輸送を増加させるのでありますが、目下盛にやって居ります。それにしても四百七八十万噸では問題にならない。蒙疆としましては京包線による搬出以外にどうしても専用線を作らねばならぬと云ふわけで計画を樹てゝ居る。これは今の所デスクプランに過ぎませぬが、日本の大きな資本と北支開発会社と蒙疆政権との協力に依って、大同から年三千万噸を輸出することを目標にして計画して居るのであります。一ヶ年三千万噸を搬出しても二百三十年の寿命を持って居ります。商工省かどっかの調査に依ると、日本の現在の石炭消費量から行くと昭和廿一年には年四千万噸の石炭不足を生ずることになって居るさうでありますから、それには大同の石炭を充分に使って行けば、これはその心配はないのであって、この計画は是非実行しなければならぬと考へて居ります。
三、羊毛
鉄、石炭以外のもう一つの資源は、羊毛であります。鉄、石炭があまりに有名なために、羊毛はあまり知られて居りませぬが、御承知のやうに蒙古人の生活は羊によって生活して居る。羊は蒙古人唯一の財産であり且つ生活資源であります。羊の乳を飲み、羊の肉を食ひ、羊の毛で絨毯を作って之を敷き、羊の毛皮を着、羊の皮で包(家)を作って生活すると云ふのが本来の蒙古人の姿であります。従ひまして蒙古人が羊を飼ふと云ふことは生活目的として飼ふのでありまして自分が着て、自分が食ふために羊を飼ふ。それがために羊毛の改良と云ふことには、従来何一つ加へられて居りませぬ。蒙疆の羊毛が非常に弱く繊維が太く、砂が混って居り、規格がないと云ふことも、全く自己の消費が主で、交換価値として生産されてゐなかったゝめであります。蒙疆の羊毛は生産三千五百万斤位でありますが、これが殆んど日本へは来て居なかったやうであります。蒙古聯盟自治政府では畜産部を設けて、躍起になって畜産政策をやって羊毛の改良に非常に苦心して居りますが、さう云ふ習慣的に培って来たものを、新らしいものにすると云ふことは非常にむづかしいのでありまして、生産体を改良するとともに、日本羊毛工業を改良して頂きまして、蒙疆羊毛を買ふやうに註文して居るのであります。
四、西北の経済的価値
羊毛に付て序でありますから申上げますが、西北方面――包頭から先の地域は非常に質の良いものが出て居ります。これまた事変前(民国廿五年)には三千三百四十万斤位出て居ったのであります。
包頭は西北地方の基点になって居りますから、あの地方のものは皆包頭に集って参ります。殊に寧夏産の西寧羊毛は第一の良質のもので、濠洲羊毛に匹敵する位の羊毛のでありまして、民国廿五年には千七百万斤と云ふ巨額の羊毛が産出され、その九割迄はカーペット原料としてアメリカや欧州へ出て居ります。これは天津の外国商人の手で直接外国へ出て居ります。その他甘粛、陝西、四川等より相当産出されます。その中日本で使われるものは僅かに烏拉山の羊羢、楡林の紫羊羢位で五六十万斤に過ぎないのであります。只今は残念ながら日本の現地工作が包頭までゞ終って居りますので之等の全部に手を延ばす迄には行って居りませぬ。有名な西北の貿易が完全に出来ないので、殆んど出て参りませぬ。西北のことは後程申上げますが、大きな問題を残して居る訳であります。
五、其の他の資源
その他農産物関係のものからは、獣皮、亜麻、塩、阿片等が沢山出て居ります。特に阿片は蒙疆地域で一千万両(一両は十匁)西北よりの移入一千万両を予想され、中一千三百万両を京津に輸出する予定でしたが、西北方面が閉されて居る為めに出て参らず従って阿片の値段は一両六圓の高値を示し、昨年の三倍になって居ります。
六、蒙疆産業開発に対する蒙疆政権の態度
次に蒙疆政権が産業開発に対してどう云ふ態度で臨んで居るかと云ふことを大要申上げて見ますと、大体重工業方面の鉄、石炭に対しては、蒙疆政権としては、これは独占する考へをもってゐない、日本の政策に添ふて行くのが本当でないかと思ふ。同時に北支経済開発一元化、さう云ふ線に依りまして重工業を開発する。蒙疆の重工業も、北支開発会社の手でやるのが本当だと思ひますが、大体重工業以外の軽工業と農業部門は蒙疆自体で開発して行く、軽工業と農業品は蒙疆でも出来ると云ふ態度を執って居ります。重工業の方は単に発言権を持つだけでありますから、それだけに軽工業、農業関係に重点を置いて居ります。軽工業と申しましても大したこともございませんで、強いて言へば農業生産品の加工工業とか或は羊毛、皮革、塩ソーダ工業位のものしかございませぬ。農業の方は生産方法を改良し、殊に羊毛は撰毛工場を設けて規格を統一して行く、凡てのものに亘って規格を統一して行く、或は獣皮にしても鞣工場を作ると云ふことが考へられて居ります。
交通関係は、汽車は北支交通会社(現在は満鉄)でやって居りますが、自動車だけは蒙疆政権で会社を作らせてやらせて居ります。今出来て居る特殊会社としましては、蒙疆電気通信設備株式会社(資本金千二百万圓)これは大体電信、電話の設備をやって居ります。
それから蒙疆電業株式会社(資本金六百万圓)これは蒙疆地域の電気一切をやって居りますが、あの地域は元来外国人が電気関係のことを全部やって居ったのであります。即ち外国商人の手に依って電気その他が作られて居ったのでありますが、彼等は日本人の経営と余程違って居りまして、自分の商種を永久に獲得するために、いろいろな工作をして居るのであります。例へば張家口の電気と大同の電気は違ふのであります。片方は直流を使って、片方は交流を使ふと云ふやうに、各地とも全部さう云ふ風になって居ります。従って外の方面からそこへ入ることが出来ないやうになって居ります。外国の元買った会社から買はないと、使へないからどうしてもその会社の品を使ふと云ふ訳で、永久に商権を確保して居るのであります。これが従来の蒙疆地域の電気施設であります。成程外国人はうまいと感心させられたのでありますが、この蒙疆電業株式会社は蒙疆地域の電源を統一することにかゝって居ります。十一万キロワットの電気を起すことにして、器材は大部分日本からもって行くことになって居り、着々やって居りますので近頃は非常に電気も明るくなって居ります。私の参りました当時は、夜になると字も書くことが出来なかったが、近頃は新聞も読めるやうになって居ります。
その他は大したものもありませぬが、蒙疆新聞社、これは独占で資本金四十万圓、蒙疆石油株式会社(資本金八十万圓)蒙疆運輸株式会社(資本金百万圓)蒙疆羊毛同業会(資本金三百万圓)等が特殊会社として出来て居ります。
第三、金融工作の概要
一、察南地域の金融工作
次に金融事情を一言申上げて置きます。金融工作は関東軍が這入って来ました関係上、満州中央銀行が工作に当ったのであります。先づ工作員が軍と一緒に昨年九月張家口に入った。そして張家口の中央銀行であった察哈爾商業銭局へ乗込んだのであります。その以前に察哈爾商業銭局は逸早く諸帳簿、未発行券、現金等を拐帯営業は跡形もなくなって逃亡して了ったので、債権者も預金者も不明と云ふ状態であったのであります。何か資料はないかといろいろ捜したが何も出て来ない。偶々紙屑籠の中にバランスシートの切れ端がありまして、これに依って大体の資産、負債の見当がついたのでありますが、バランスシートにある貸金の貸付先と預金が何んとしても判らない。種々苦心し、地方の古老に聴いて見たりしたが知って居るものもない、が大体四百万元乃至五百万元の紙幣発行高をもって居ったことが推定され、準備金は発行高以上に保有し、大部分京津方面に預け金となって居ることも判った。非常によい端緒を得たので軍と相談致しまして、行員二人を早速北京と天津へ乗込ましめた。ところが北京の支店は既に張家口が日本軍に占領されて本店が逃亡したのも知らずに平気で営業して居った。そこへ乗込んで居ったのですから、帳簿もあって預金の状態が全部判りました。しかしよく調査して見ると、天津方面で二百万元程度の紙幣が発行されて居ったが、事変の発生と共に旧法幣との兌換が急増し、七割位は兌換され結局総発行残高は三百万元乃至四百万元位になり、預ケ金は百万元を残すのみとなった。
これはいかんと云ふので、大至急工作をしなければならぬと云ふことになって、その急場を救ふために一時兌換をストップ致しまして、官憲と協力して察哈爾商業銭局の預ケ金を至急回収することになり、約百万元ばかりの回収に成功した。これを正金銀行に預金致しまして、その百万元を元に尚且つ満州中央銀行から百万圓を借金致しまして資本金百万圓の察南銀行と云ふものが設立されたのであります。そして察哈爾商業銭局の未発行券の逃亡額一千二百万元が這入ってくるかも知れないし、這入ってくれば幣制を滅茶々々にする。それ故に察南銀行は大至急紙幣を発行して商業銭局の未発行券の廻って来ない間に、営業を開始し、旧紙幣を回収しなければならぬと云ふので大至急に工作を始めたのでありますが、銀行を作っても紙幣の印刷が直ぐ出来る訳でないので、いろいろ考へた揚句、満州中央銀行が出来た時、張作霖の東三省官銀号の紙幣に満州中央銀行の印を捺して暫らく間に合した、その当時の古い札が満州中央銀行にその儘ありましたから、それを借りて来て満洲の例に傚ってその古い札に更にもう一つ察南銀行と入れましてそれを使用した。とこらが支那人は非常にお可笑しなもので、同じ札でも銀行の名前が沢山あると非常に信用して……(笑声起る)銀行の名前が沢山あると信用して、どんどんこれが交換に来まして、旧銭局券が回収され今日尚且此の紙幣が相当に流通され却々帰って来ませぬ。それと同時に貸付金の回収を始めたが、何処に幾らあるか見当がつかない、そこで察南銀行では「旧察哈爾商業銭局に債務のあるものは申告すべし、若し債務があって申告をなさざるものは相当の処置をする」と云ふ意味の佈告を発しました。之により申告して来た分が百二十万元ばかりありまして、これは現在立派な債権として残されて居ります。
まァこれはおどかしもありますが、一面元来が張家口は山西商人が大部分を占め、彼等は守銭奴と称される程銭を愛することは事実でありますが、それと同時に非常に商取引を重ずる、今までの察哈爾商業銭局では預金帳をもって居るものはない、紙幣をもって来て窓口に投げて行くだけで預金帳も何もない、銀行の帳簿だけで営業して居る、それ程に信用を重ずる国民であります。現在でも非常に商取引に信用を重ずる、この点に付て日本人はもっと真剣に考へなければならぬと思ひます。こないだ大阪の貿易視察団が来ました時、その話を致しました処感心して行きましたが、その時に大阪から「幾ら張家口でも支那人は信用がならないから銀行が保証してくれ」と申込んで来た「それは俺の方で真平だ、買ったものを支払はないやうな商人は張家口には一人もゐない、北支や天津の支那人商人は何十万と云ふ商品をたゞで送って来て、売上げて初めて金を払って居る様な状態だからそんな心掛では日本の商品は絶対に入りませぬ」と申しましたが、まァそんな訳であります。
二、晋北地域の金融工作
それから大同と厚和でありますが、大同には地場銀行はございませぬ。太原に山西省銀行外五ツばかり銀行がありますが、此の支店が大同にあり、所謂山西票を発行してゐたのであります。晋北地区内で幾何発行して居たか見当がつかず、銀行も逃亡してしまったので全部政府の負担に於て山西省銀行券外全部パーで回収した、これは宣撫工作上パーで回収したのであります。斯くて回収した山西票は百五十五万余元に達しました。
三、綏遠地方の金融工作
綏遠の方は例の傅作義の機関銀行であった綏遠平市官銭局と、それから豊業銀行とがありますが、この二つの銀行は各々紙幣を発行して居ります。傅作義は自分が永年培って来た土地から自分が逃げるに際し、住民に迷惑を及ぼすに忍びぬ、自分は政治家であるから住民に迷惑を及さないと考へて、自分だけ逃げて了って銀行はそっくり置いて参りました。支配人だけが行動を共にして逃げたが副支配人、行員、財産はそっくり置いて行った。従って此の平市官銭局券及豊業銀行券は等価流通を認め漸次蒙疆銀行券を以て回収して居るのであります。こんな点から見ても傅作義と云ふ人は相当に政治的だった様に思ふのであります。
第四、蒙疆銀行と金融統制の強化
一、蒙疆銀行の創立
斯う云ふ風に金融工作が進んで来た一方、十一月二十二日蒙疆聯合委員会が成立して、蒙古、察南、晋北各自治政府が一定の権限を之に委託し、金融を一元化すると云ふことになり、察南銀行を改組拡充して蒙疆銀行を作ってこれを蒙疆地域の中央銀行にしやうと云ふわけで廿二日に蒙疆銀行条令、同組織辯法を出して十一月廿三日に蒙疆銀行が創立され、十二月一日に開業し、同時に察南銀行、綏遠平市官銭局、豊業銀行を合併して今日に至ったのであります。
二、蒙疆銀行の業務概要
蒙疆銀行は蒙疆地域の中央銀行でありまして、法令の定むる所により
一、地域内に於ける金融の指導統制
二、紙幣の製造及発行
三、国庫金の取扱
四、内外為替業務
五、一般銀行業務
の使命を有し非常に業務が発展致して居ります。満州中央銀行から首脳部が派遣されまして、われわれもその一行で参ったのでありますが、現在行員は約四百人居ります。うち約八十人は日本人で副総裁初め課長級、主要支店長級は日本人でやって居るのであります。紙幣の発行高は三千百万元に及んで居ります。昨年十二月の九百万元に比して一ヶ年で二千万元以上も殖えて居ります。六月末には千七百七十三万元だったのが僅か三四ヶ月の間に非常に殖えて居ります。預金は現在二千四百万元でこれも昨年十二月には僅か七百余万元であった。貸付は千八百万元でこれも矢張昨年十二月には七百余万元であったのであります。この非常なる急激な増加を致しましたその原因はいろいろあると思ひますが、政権の確立、幣制の統一、事変の平静化に依って経済取引が復活したことなどいろいろありますが、蒙疆地域に於ける経済工作の進捗に依るものと確信致して居ります。
三、金融統制の完成
それから一般に申上げますと、蒙疆政権は非常に政策的に強い、例へば金融統制に関する命令を九月に出しまして蒙疆聯合委員会は金融統制上又は公益上必要なる場合は金融機関の解散又は営業の廃止を命ずることを得ることにし、厚和、包頭その他にありました交通銀行、中国銀行、斯う云ふ支那銀行の営業の廃止を命じまして、蒙疆銀行に合併して了った「財産、負債は一週間以内に清算し合併すべし」との命令を出して蒙疆銀行に接収して現在蒙疆銀行で引受けてやって居るのであります。満洲でさへ交通銀行、中国銀行はそのまゝ残って居って手の出しやうもないのに、蒙疆はこれを簡単に片付けて了った。これは可なり将来の外交関係、政治的関係の上に問題を残すことを覚悟して居りますが、それはどっかで解決してくれるだらうと思って居ります。(笑声起る)
第五、蒙疆地域の通貨と為替事情
一、通貨制度
次に蒙疆の通貨問題に付て一言申上げて置きます。蒙疆地方は戦争地域でございまして、まだ行政がノーマル化して居りませぬ。まだ貨幣法も発布して居りませぬ。元来戦事金融と云ふものは――戦争と云ふものは勝つとは決ってゐない、負けることも予想しなければならぬ、幸ひにして支那事変は絶対的に日本が勝つことを確信して居りますが、この戦争に依って金融機構は滅茶々々になることを防がなければならない。戦争遂行の為には現地で物資を買はなければならないが、その際万一負けることを予想するならば銀行なんか作らずに、軍票を持って行って物資を徴発すればいゝのですが、支那事変は幸ひにして勝つことを確信して居りますから、それに依って将来に禍根を残さない金融工作を行ふのが最もいゝのでして、換言すると平戦両時に亘る強固なる金融機構を作って、平時に迄適用されることが好ましい。此の点に於て蒙疆地域は実に成功したと思ひます。
蒙疆の通貨制度は緊急通貨防衛令と蒙疆銀行条令の定むる所でありまして蒙疆銀行の発行する蒙疆法幣を以て無制限の法貨とし補助貨は蒙疆銀行の鋳貨銀行に至るまで、満州中央銀行の鋳貨を充当することになって居り、而して蒙疆銀行条令には蒙疆銀行は蒙疆聯合委員会の委託に基き貨幣の製造発行を為す、紙幣の発行に対しては正貨準備として発行高に対して四分の一以上の金銀塊、蒙疆銀行券以外の確実なる通貨又は外国銀行に対する右通貨を以てする預け金を保有することを必要とすると云ふのであります。尤もこの四分の一以上を保有しなくとも、場合に依りまして年五分の発行税を納めれば無制限に発行ができるのであります。
二、通貨政策の大要
尚ほ蒙疆銀行はどうして蒙疆銀行券の価値を維持して居るかと申しますと、対外的には日満圓に等価を以てリンクして居ります。即ち満洲国幣と等価交換の協定を締結して居ります。之は満州中央銀行が工作致しました関係上、満洲国幣を真先にもって行ったのであります。満洲国幣が日本の圓と等価になって居るから間接に日本の圓にリンクして居るわけであります。次は現地の軍資金は蒙疆銀行券を使用するが、その使用する蒙疆銀行券と日本銀行券、朝鮮銀行券と、等価を以て交換することになって居ります。
第三は為替契約でありますが、満州中央銀行、正金銀行、朝鮮銀行、住友銀行等と為替契約を締結し等価で為替を組んで居ります。第四は対内関係から申しますと蒙疆銀行券は住民に非常に信任を得て居り尚ほ且つ地域内の物価もさう騰る傾向がない。第五は準備が非常に多く 外貨預ケ金及銀塊を相当に保有し、準備率は百%以上である等通貨政策は可なりうまく行って居るやうに思はれます。
三、対外為替問題
更にいろいろの問題がありますが、今私達が日本に来る前に大きな問題として――また現在問題になって居るのは対外価値の問題であります。これは四五日前日本銀行に行って話をしたのでありますが、外国為替は現地では実は一志二片では組めない状態になって居る。蒙疆銀行ばかりではありませぬが、大陸に於きましては圓ブロック紙幣では現在外貨取引は出来ませぬ。外貨に連繋をもってゐない蒙疆銀行券、中国聯銀券、日本銀行券皆同じであります。これを一つ外貨に連繋した実力を保ち、一志二片の対外価値を持たせなければならないと云ふのが最近の議論になって居ります。蒙疆銀行はその工作にかゝって居ります。元来蒙疆は資源が豊富で経済は何等不安がなく蒙疆銀行券は成程非常にうまく行って居るが併し蒙疆の産業開発をする場合に、日本は圓ブロックへの輸出を制限して少しも品物を寄越さない。而も現地に於ける日本銀行券も北支の中国聯銀券も外貨に連繋してゐない。外国から物が買へない。これではどうしても蒙疆の産業開発は出来ないのであります。現在蒙疆銀行券で外国から物を買ふ場合はどうするかと云ふと、蒙疆銀行券を以て中国聯合準備銀行券を買ひ更に旧法幣を買ひまして、その旧法幣を以て外国の為替銀行に行って外国為替を買はなければ出来ぬことになる。旧法幣は大体八片台の相場であります。而かも旧法幣は中国聯銀に於ては九割で回収して居るが実際の値段は天津の租界に於て聯銀券千圓に付千十九圓位で旧法幣の方が高くなって居ります。旧法幣は外貨に八片台の相場を持ち、片方の蒙銀券、聯銀券と日本通貨の関係はパーである。日本の外国外為は一志二片であるから旧法幣による外国貿易は差額丈資本の逃避が行はれて居るわけです。寔に憤慨に堪へませんが事実上は如何ともし能はざる状態であります。
と申すのは租界と云ふものがございまして、あすこに於て――租界のことは後程申上げますが――完全に外国貿易その他が全部外国人にキャッチされて居る、日本人も支那人も手も足も出ないで弱って居るのであります。
四、為替管理と物価統制
通貨の問題の序にもう一つ申上げますが、今蒙疆銀行券は斯様なわけで対外価値八片に格付されて居るのでございますが、それ故に出来るだけ早く外貨を獲得致しまして、外貨との連繋を持たせ一志二片の価値を維持すべく一、二月前から準備に取掛ったのであります。これは物価の方に非常に影響を及ぼすのでありますが、蒙疆の物資輸出は全部天津に於ける外国商人に牛耳られて居る。此の商権を蒙疆自体で獲得し、蒙銀券を外貨に連繋させ、蒙疆銀行乃至蒙疆自体で外国へ物を売って外国為替を組めるやうにしやうと云ふ計画を樹てたのであります。私共の考へますのに、外国商人の牛耳ってゐる外国貿易を止めまして、直接蒙疆で外国と取引を行ひ、 外国為替を組めるやうにする。即ち物資統制をすると同時に、片方に於て為替管理を行って資金の統制を行ふことにし、九月十八日通貨取締令と云ふ法律を出しまして、為替管理と物資統制を行ったのであります。即ち通貨取締令は為替管理と、物資統制を規定したのであります。その物資統制の範囲は鉄鉱石、石炭その他の功績三十七種、獣毛皮革一切、油脂原料、卵、卵粉、卵液等、さう云った外国に搬出する物品は凡て許可制度に致しまして、蒙疆聯合委員会の許可を得ずして外国に搬出することを得ずとし、許可の条件を第一に圓為替で組むこと、第二に外国為替を組むことにし、この二つの条件がないと許可されない。斯くて獲得した為替は之を蒙疆銀行に売却することを要することにしたのであります。
斯くの如くして蒙疆自体に於て外貨を獲得し、一志二片建の外国為替を組み、獲得した外貨によって日本より得られない産業開発物資を外国より購入し、場合によってはその外貨を日本に提供しやうと云ふわけであります。即ち通貨取締令と云ふ名前で、為替管理と物資統制を行って居るのであります。
それを準備致しまして こちらに来たので、あとの結果はどうなって居るか申上げられませぬが、それに依って外貨が獲得出来ることになれば幸ひだと思ひます。当分さう云ふことで行くのではないかと思はれるのであります。
五、租界との関係
それから租界に於ける外国貿易の状況に付て申しますと、蒙疆から出ます羊毛なり皮革なりを外国へ出す場合には、先程も申しましたやうに、外国商人を通じ旧法幣を以て出しますが、この旧法幣は一志二片の外貨にはならないで、八片の外貨にしかならない。さう云う状態にしてその獲得した外貨さへも現在はわれわれの手に入らないので一文にもならない。御承知のやうに、天津の租界は外国銀行、貿易業者、税関の機関一切、外国取引の一切を握って居るのであります。そして彼等は支那人や日本人商人から買受けた物品を自分の手を通じて外国へ出して居る。斯くて獲得した外貨は新政権の方へ入って来ないで、 全部租界に於ける外国銀行が掌握する。日本人や支那人商人への代り金は聯銀券で支払はれる。然も香上、花旗銀行等の外国銀行は旧法幣を支持し国民政府の支持であります。これは大きな問題で、或は国民政府が外国から輸入する武器、弾薬の決済資金にその外貨が使はれて居るかも知れない。事実使はれて居る形跡もある。 折角日本人が政治的に軍事的に北支、蒙疆のヘゲモニーを獲得しても、経済的に於てその獲得した外貨が敵のために使はれて居る。これを放任して置いたんでは何時まで立っても、日本の完全なる勝利は期し得ないと信ずるのであります。従って蒙疆としてはこの現状を見るに忍びず、これを打ち壊さねばならぬと云ふ訳で、為替管理と物資統制を行ったのであります。
果してそれがよいかは、いろいろ批評もありませうが、殊に蒙疆は満州から行って居る人が多いので、満洲ではむづかしい法律は作らないと云ふことを、信条にして居りますから、その事情を掴んで非常に乱暴のやうでありますが、精神はさう云ふところにあっていろいろやって居るのであります。
第六、蒙疆経済の特殊性
一、物々交換経済の実情
それからもう一つ結論として蒙疆経済のことを申上げたいのであります。蒙疆地域は経済的には特殊の地域だと云ふことを第一番に認識して頂く、換言すれば蒙疆はまだ完全に貨幣経済になってゐないと云ふことを認識して頂きたいのであります。京包線の蒙疆地帯とか、更に察南、晋北方面を除いては未だ完全な貨幣経済には実はなってゐない。従ってまづ彼等から物を出させやうとしますならば、物を与へなければならぬ。雑貨でも綿布でも必要物資を持って行かなければ、物が少ないと云ふ訳であります。蒙古の奥から駱駝とか牛車等に積んで、張家口なり厚和なりに来て、必要物資と交換する訳であります。又はそれ等の駱駝隊を組織して奥地に出て行って交換する、さう云った訳で、現金の取引は殆んどないのであります。併し包頭や張家口は全部現金取引になって居りますが、直ちに現金が物に変って奥地に這入っていく、然るにも拘らず現在の日本の状態から申しますと、圓ブロック内の輸出制限と云ふことがあって自由に物が這入らない、従って向ふから物が出ない、大体奥地へペーパーマネーを持って行っても仕様がないので、商品のない所に貨幣経済が成立つ訳はありませぬ。その一例を申しますと、私の友人が現金を二十万圓ばかり持って本店へ来る途中多倫の近くで道に迷ひ夜になってしまったので已むを得ず農家に泊めて頂き、食物がないので鶏を売ってくれと頼んだところ拒絶された、そこで一羽十圓だすからどうだと言ってもお金は幾らでも駄目だ、鶏は俺の財産だと言ってどうしても売らない、それで仕方がないから、ピストルを突きつけて(笑声起る)鶏を殺させたと云ふ実話があります。大体さう云ったやうな訳であります。組織がないのであります。将来蒙疆の文化が進み、商品がどんどん入れば貨幣経済になりませうが、今の所は物が這入らなければ物が出ないのであります。羊毛なり皮革なり、さう云ったものを蒙疆から引出すためにはどんどん品物を送って頂きたいと思ひます。但し蒙疆経済と云ふものは元来搾取経済とでも申しますか、 従来よりさう云ふ点が非常に濃くなって居ります。例へば蒙疆から一千万圓の物を得るとするならば、日本からも一千万圓の物を持って行かなければならぬと云ふことはないので、実際は五百万圓にも足らないもので済む、一千万圓のものを持って行けば三千万圓位になるものを持って来られるかも知れない。
従来の蒙古貿易の例を見まするに、度量衡の制度にしましても、満洲の一尺と蒙古の一尺とでは違ふ、奥地の蒙古人のところに行くとだんだん一尺が小さくなる(笑声起る)五十圓のものでも百圓だと云へば百圓に信用する、同じ百圓の向ふの品物をその儘交換するお前の百圓の品物をくれ、俺の百圓の品物をやるからと言へば信用する、実質は五十圓しかないに拘らず、さうして支那人が非常に搾取して居った。民国十八年の外蒙貿易は張家口だけで五千万圓に上ったが、こっちからやるものはせいぜい半分だったらうと云ふ話で五千万圓のものを取って二千万圓か二千五百万圓のものしかやっては居らない、いろいろ経費と云ふやうなものも掛りますが、さう云ふ状態でありまして、現在でも搾取的な方法でやられて居るのではないか 多少さう云ふ傾向は感じて居ります。私共がこれから仕事をするに斯様な従来のやり方を踏襲することは無論避けねばなりませぬが、其処に不自然性がないことを考慮せねばならぬと存じます。
二、西北経済依存症
更に西北経済ですが、蒙疆経済は西北依存症が非常に濃厚であり、且つ重要な問題であります。例へば天津に於ける羊毛の輸出ですが、支那に於ける羊毛の七割は天津から出るさうであります。そのうちの七割幾らかが蒙疆から出て居る、殆んど大部分蒙疆から出て居る、そのうちまた七割が西北方面から出て居るのであります。蒙疆は西北物資の通過する方が多いのであります。通過する上の税金その他に依って蒙疆経済は非常に助かる、蒙疆経済は蒙疆だけでは重要性が半減される。西北を入れて蒙疆経済の重要性は増加する。われわれは西北方面の重要性を斯かる意味に於て非常に高く評価して居るのであります。民国二十五年に西北方面より包頭に集貨された羊毛は約三千三百万斤に達し其の中に西寧羊毛の一千七百万斤の如く濠州羊毛に匹敵する優秀なのもあります。阿片は年一千万両を予想されて居るのであります。其他獣皮農産物等西北よりの移入は現在日本の工作が包頭で止って居るので絶無に近いのであります。一日も早く工作して西北を開くことは非常に大切だと存じます。
大分話が永くなりましたのでこの位で止めて置きますが、私の話の結論は蒙疆は日本の必要な原料品は最先に日本へ出す、但し蒙疆から物を出す為には必要物資を蒙疆の方へ出してくれと云ふことで大体尽きるのであります。而して日本の必要のない物資は蒙疆自体で外国へ売り、獲得した外貨は日本へも提供しやう。之が蒙疆政権の現在採って居る態度であります。
第七、支那人と蒙古人
私共常に支那人に接して感じますことを談片的に申上げて見ますと、私共の銀行の行員も大部分は支那人でございます。向ふに居る支那人は実はあまり教育程度が高くありませぬ、せいぜい小学校中学校位のもので、北京大学を出たものは何人もゐないと云ふ訳で、さう深い見識のあるものは居りませぬ。個人としての支那人は良い性質をもって居りまして友情に厚く――本当に友情を以って殆んど兄弟分のやうに交ることが出来る、大体に個人としては非常に情深く――日本人よりも寧ろ頼りになるやうな人間でありますが、但し公人とし、団体となると習慣として非常に性質が違ふ、相反する、個人としての支那人と団体としての支那人とでは丸切り性質が違ってくる。元来今日の支那人が徹底的に権力を以って押へつけるより途がないではないかと云ふのが、一つの大体支那人に対する見解であります。また虐め抜かれて来て、二進も三進もならない結果が今日のやうな支那人になったと思ひますが、私は二三十年日本の子供を教育するやうに親日的に教育して行って初めて本当の支那人が出来ると思ひますが、それまでは日本は支那の国民に対して徹底的に権力をもって押へつける方がよいと思ひます。
そこへ行くと蒙古人は非常に純情を以て日本人の言ふことを非常によくきく、蔭日なたがない、裏がない、支那人は友情には厚いが日本に留学したことのある支那人でさへも、日本人はどうしてそんなに働くかと不思議に思って居る。われわれ日本人は夜も昼もなく仕事に対し責任感が強く、一生懸命やって居りますが、支那人は一通り自分の仕事が済むと帰って了ふ。日本人はどうしてあんなに仕事をするのか、同じ給料で九時から四時迄働いたら、用事が済んだら帰ったらよさそうなものだと言ふのです。併し私達は言ふのです。「日本人が今日このやうに発展した跡を考へて見よ、日本人は給料に依って仕事をするのではない、与へられた仕事は自分の仕事として責任をもつ、給料はその人の報酬で、それ以外には吾々は考へてゐない、日本人は国家発展のために所謂自主的に働くから今日発展して居るのである。お前等は自分の仕事さへやれば、月給さへ上ればと思って居るから結局こんなことになるのだ」とこんな風なことを云ひきかすのでありますがあまり分らないやうであります。
第八、支那に於ける外国人の文化政策
それからもう一つ大陸の政策で注意しなければならぬことがあります。私共大同へ行きまして驚いたことは、大きなカトリック教の修道院がございます。この修道院は年に十万圓位の費用を和蘭か仏国から送って来て居るさうであります。また熱河との境にも修道院があり各地にある。これには外国人の宣教師が長く居って経営して居る、彼等は布教するばかりでなく情報を本国に送る、その代り何十万と云ふ金が本国からたゞで送って来まして、どんどんいろいろの工作をして居ります。この修道院の中に電気を起しまして、電気の自給自足その他にしてもいろいろの組織を以て居りまして、あゝ云ふ山の中で斯う云ふ文化的な教会を開いて居られることに感心しましたが、非常に大きな、そして辺鄙な――晋北自治政府の辺境な地へ行ってもさう云ふものがある。兎に角彼等が宗教方面に使ふ金は年に数百万圓に上るのではないかと思ふ。さう云ふやうな外国人の租界の建設なり文化方面の施設なりを見まして、日本人が今まで眠って居ったことを私は恥ずるのであります。私は本当に日本としては恥入るべきことだと思ひます。
大変取止めもないことを永く話して相済みませぬでした。何かまた御質問でもありますれば申上げますから遠慮なく、お仰って頂きます。どうも有難うございました。(終)