資料
河邊虎四郎少将回想応答録
みすず書房「現代史資料(12) 日中戦争(四)」P.401
1940年7月、参謀本部
(竹田宮恒徳王による河邊虎四郎少将へのインタビュー)
↓「二、事変の遠因」
二、事変の遠因
河邊 十分に御承知の通りでございますが、実際支那事変の原因は色々に之は説明出来ると思ひますが、私は結局は満洲事変の延長であつて満洲事変といふものが実際は色んな意味に於て本当に政治的な解決が出来て居らないといふことに在ると思ひます。只之は停戦協定の際に北支軍憲側と関東軍とが間に合はせの停戦協定をしましたものですから、実際は満洲事変といふものは日支の間には依然としてずつと継続して居ります。それの真の結末がつけらるべきでありながらうまくゆかず其の中に自然の間に起つたのが此の事変であります。斯ういふ風に私自身は見て居ります。
そこで私は満洲事変の勃発致しました時は参謀本部の作戦課に居りましたが、それから昭和七年二月に「ロシヤ」に行きまして昭和九年帰朝を命ぜられ、それから関東軍の参謀を拝命しました。さうして関東軍に一年九ヶ月居りまして、二・二六事件の直後に近衛野砲兵聯隊長に転任を命ぜられ、此の職に一年勤めました後昭和十二年三月参謀本部課長となりました。此の満洲事変勃発当時から関東軍参謀時代を経、更に参謀本部課長時代等自分が命ぜられました仕事を通じて一貫して見まするといふと今申上げましたやうに満洲事変といふものと支那事変といふものとはそこに一つの段階はあるにせよずつと其の儘連続をしながら変遷をして来て居ります。
今から前の状態を考へますと今日現実に見ます如き大事変になるといふことを考へて居た人は私は中央部で一人もなかつたと思ひます。之は軍部、民間を問はず一人もさういふ考へを持つた人はなかつたといふことを断言したいのであります。其の点はよく御聞きのことと存じますが、最近つくづくと考へますことは特に軍人にも政治家にも日本に人が居らなかつたのであるといふことであります。今日誰しも事変の実体は実に容易ならぬことを認識せられて居るやうであります。此のやうな状態に持ち来したのは偉大なる「人」に欠けて居たが為に進止共に透徹性がなく、為に今後の成行及其の後の結果は兎も角として少くも当初の思惑とすつかり外れて来たのであります。
扨て塘沽の停戦協定は関東軍司令部と北支の軍憲との間に於て取り決められたものでありますから、其の停戦協定の実行を監督するのが軍の実権でありまして特に関東軍は自ら之に任じて其の監督の衝に当つて居つたのであります。
さうして一方当時の支那駐屯軍は軍司令部の機構は大体軍の任務に適して居たのでありましたけれども要するに実威力の小さいものでありまして、河北の問題に就きましても右の停戦協定と関聯し、極端に申しますれば関東軍の出先の如き地位に自然の間に置かれて居りました。
法的にはさういふやうなことは全然誤りでありませうが事実はさういふことでありました。殊に昭和九年の冬に南大将が関東車に行かれたのですが――軍司令官南大将、参謀長西尾中将、参謀副長板垣中将といふ「コンビ」で行つた時に此の「コンビ」は非常に権威の高いものになり又政治的迫力の強いものになりました。元来関東軍は陸軍の停年名簿の「ハイエスト」の大将が御出になる所でありまして、当時政治方面に非常に権威の高い南大将と、それから訓練に或は戦術に純軍事方面に於ては他の追随を許さぬと言はれるやうな西尾中将と、満洲の生みの親と謂はれる板垣中将といふ此の「コンビネーション」は大きな或力であつたと私は思ひます。
そこで昭和九年の始頃に於て中央部の関東軍への要望又は関東軍に対する指導精神は対「ソ」作戦準備といふことが主でありました。其の前後から「ロシヤ」の態度が従来の喊黙的消極を棄てて中々大胆になり大きなことを言ふやうになりましたので、そこで対「ソ」準備の強化が叫ばれまして、中央では関東軍に対して「作戦準備の訓練に便なる如く集結配置を採るやうに」といふ御趣旨でありましたけれども、満洲内部の実状は当時之を許さなかつたのであります。殊に西尾中将は先づ以て満洲内部の治安が確保されなければ中央のさういふ御趣旨も結局砂上の楼閣に等しいと云ふ御考へであり、又下僚たる吾々もさういふ風に感じて居りましたので、中央が今何んと仰言らうとも当軍としては中央の精神たる作戦準備強化のために一時極度の分散配置をやつても構はないから討匪治安粛正を急ぐを以て全般的に有利であるといふ風に考へ、そのやうに仕向けて居りました。その中に之は大体中央も諒とせられ毎年夏、冬等に相当の大兵力を以て討伐をどんどんやると共に他の粛正工作に大馬力をかけたのであります。
所が斯くして当時逐次満洲の対内工作が進みましたが、国境に近き匪賊群は「ロシヤ」或は支那からの使嗾の下に活動するといふことが明瞭となつて来ましたので、例の対「ソ」国境画定、対「ソ」諜報、対支諜報、対外蒙諜報、殊に防諜といふことをもつと積極的にやらなくちや駄目だ、それでなければ結局は飯の上の蠅を追ふやうなもので其の本の塵芥の所を糺さなくてはならないといふ風に高唱せらるるに至りました。かの北鉄買収問題の如きも関東軍に於きましては叙上の見地から非常に熱心でありました。私は「ロシア」から帰りましたものですから参謀長の西尾中将に「ロシヤは売ると思うか」と聞かれましたので、「ロシヤは売る意図がある」と信ずる旨を申上げましたが、兎に角当時関東軍に於ては之を買ふ意志が非常に強く而も大急ぎでやりたいといふので、一時東京会談決裂の後も意見具申をせられたのであります。さういふ風にして対「ソ」国境、対「ソ」防諜といふことが非常に喧しくなつて来ました。それと関聯しまして対外蒙工作をやる為には内蒙工作をやることが必要であります、それを更に基礎づける為には北支を矢張りはつきりして置かなければならぬといふ風に――段々其の当時の事情は北支工作をやらなければならないと云ふ風な考へが――空気が逐次出て来たと思ふのであります。
所で内蒙工作の方は張家口に支那駐屯軍隸下の特務機関が居りまして調査を進めて居りましたが、「ロシヤ」は外蒙を「バック」にして内蒙に対する赤化工作をやつて居り、現在蒙疆の盟主になつて居る徳王も其の当時は聊か赤いと睨まれて居つたのでありますが、併し徳王は最も判りの良い青年であるといふことが判つて居りました。さうして関東軍では此の外蒙に対する「ソヴエツト」の工作が内蒙に及んで来ぬやうに……内蒙の赤化を防止しなければならないといふことを切りに考へ、対「ソ」作戦準備の主要第一線兵団たる任務として之を具体化せんことを企画し、現在の兵務局長石本少将が当時第二課長として熱心にやつて居りましたが、併し徳王は元々「ジンギスカン」蒙古の再現を夢想して居りましたので、蒙古の独立は希望する所であるけれども併し満洲側に入つて仕舞ふことは嫌だといふ感じを持つて居り、関東軍に対して一抹の疑惑を持ち容易に靡いて来なかつたのでありますが、その中に軍首脳部以下の努力により飜然ついて来るやうになりました。南大将も非常にこれには関心を持たれて居りました。
一方曩にも申上げたやうに停戦協定の実行が確実に行はれて行くかどうかといふことを新京に居つて監視して居りましたが、之は大体に於て其の状況は巧く行はれて居らない。之は南京が操って居りました政治団体とか或は藍衣社が内外に活動をして陰に陽に排日工作をやり次から次と小問題が続出して居りましたが、其の中に起りましたのが例の新聞記者二人の殺害事件でありました。此の事件が動機となりまして、どうしても北支政権は此の停戦協定を誠意実行する意図のないもの即ち南京の操縦下にあるものとして今一応的確に歩を進むべしとせられ、当時の支那駐屯軍司令官梅津閣下が例の何応欽に対して交渉を進められたのでありますが、其の助勢手段として何とか威嚇をやらなくちや不可ぬが、それを中央に申上げても其の許しは中々得られないのみならず、元々問題は停戦協定に悖って居ることから来て居るのであるから関東軍に関係深き問題であるが故に関東軍が其の所管内で兵を動かすことは中央の指令を要しませんので山海関方面に兵力を集結しました。時恰も稲葉騎兵旅団が洮南から「ハイラル」に移駐することになつて居りまして――移駐する準備をして居りましたので陣営具なぞは其の儘「ハイラル」に引越し、人員と馬だけを持って山海関附近に一時集結致させました。其の外に飛行機も出しました。
殿下 それは何年のことですか。
河邊 昭和十年です。支那駐屯軍の増強前です。之をやりましたので利きましたのか、梅津、何応欽の協定が成立致しました。
此の時北支の方の親玉は宋哲元でありましたが、其の当時関東軍内でも或る人は宋哲元は北京で一番偉い人だとも言ふし、或る人は非常に知慧のない排日的な人だと言ふ者も居りました。私はどつちとも知りませんでしたが何れにしても宋哲元は其の時分の北支の親玉でありましたので、北支の問題に関しましては彼を相手にして交渉して居りました。
満洲から外部へ逐はれた匪賊は、逐ひ廻はされた結果其の一部が北支へ逃げまして例の停戦地域に逃げ込んだので、宋哲元に何とかせよと言つても中々要求通り運びません。それで満洲側からも日本側からも色々な要求を致しましたが兎角誠意を以てやらない、又其の外に保安隊問題とか其の他諸種の問題があるのですが、之等に対してもどうも宋哲元に誠意がないと見られ、之にはどうしても一度強圧を示さねばならぬといふ意見が出ましたし又軍司令官の御意図もありまして、演習訓練を兼ねて混成の一部隊を出すことにきまり、今航空士官学校長をして居る寺倉中将が当時独立歩兵第一聯隊長をして居られ之が歩兵二ヶ大隊と砲兵一中隊といふ極めて小さい自動車編成の支隊を作りまして圍場(赤峰北方)附近に出されました。当時錦州にも飛行部隊を集結させました。斯ういふことを度々やることは中央では御気に召さぬのであります。訓練上或る利益と効果はありますけれども、真の目的は訓練といふよりも外交的助勢の威赫であつたのであります。さういふ訳でありますから中央としてお気に召さぬことは当然かと思ひます。支那駐屯軍も之には賛成しなかつたと思ひます。此の前の出兵は支那駐屯軍も感謝して居りましたが今度は感謝して居らない。
尚これには支那駐屯軍は余り強圧を加へるといふことはよくないと云ふ考もあったらしいので御座いますが……此の時には新京、東京、天津との間に非常に電報が往復して居りますから……。それから之が何処から洩れたか知りませんが其の電報の内容は支那側が全部知って居り、勅命がなかったら万里の長城を関東軍は越へないといふことも知つて居りまして、少しも恐れることはないなど支那の新聞にも出て居りました。何れにしても本目的のための効果はなかったのでありまして、夏の最中機械化部隊の行軍をやって帰って来たのでありました。
1、関東軍の徳王懐柔
殿下 其の頃多田閣下が居られたと思ひますが……。
河邊 多田閣下は支那駐屯軍司令官をして居られました。
右に申しましたことは洵につまらないことですけれど、之も今の支那問題に関聯して居るやうでありますから申上げるやうな訳ですが――昭和十年の夏、丁度今頃(七月)だったと思ひますが圍場の始末をしなければならないといふことになつて、私は命を承けて現地に参りまして兎も角さきに申しましやうに寺倉支隊を原駐地公主嶺に還すやうにして頂きました。次で一方徳王の懐柔問題、内蒙古工作は逐次良い方に進展致しまして其の年の――昭和十年の秋ですが……。
殿下 それは関東軍でやって居られたのですか。
河邊 はいさうです。
昭和十年九月十八日、丁度満洲事変記念日でしたが、其の日板垣参謀副長は徳王を西烏珠穆沁王府の包の中に訪ひましてしみじみと説得せられました。私は其の時御供をしましたが通訳を通じて徳王の気持ちを縷々聴かれたのであります。結局に於きまして徳王の希望も副長に通じ疑問として居つた所の説明を副長から受けたのであります。此の会見に依って德王はすっかり関東軍に降参して仕舞つたのです。此の時に私は感心したのですが、板垣副長は非常に懇切叮嚀でありました。相手は蒙古人ですから相当疑惑を持って居りますが、相手の疑問として居る所をすっかり思ふ存分に徳王に話し又希望を開かれたので、それですっかり徳王は板垣閣下を信頼した訳であります。
そこで凡て関東軍に任すといふ気になり、徳王がそれ迄は満洲国領土になって居る蒙古地方は自分の配下に入れたいと考へて居つたやうでありましたが副長の説明に依りて氷解し関東軍の意のまゝにやるといふ気持になつたらしいのです。この日の会見が終つてから数週間を経て、徳王は新京に参りまして完全に恭順の意を表しました。其の時御金も相当貰って行ったと思ふのですが此の会見は内蒙工作の上に大きな意義ある会見だったと思ひます。
2、関東軍、支那駐屯軍及其の他の対支問題解決案並に関東軍の北支積極工作
さういう風に内蒙の方はそれで巧く行って居ります。所が南京側の空気は御存じの通り満洲事変より日に日に排日的に強烈となり、其の執拗なる工作が段々河北に拡張されて居ります。関東軍、支那駐屯軍の支那側に対して要望する所は支那側は何んと言っても折れて来ない、「ノー」と拒絶はしないけれども決して「イエス」とは言はない、非常に鬱陶しい状態でありました。
其の以前から関東軍、支那駐屯軍、南京、上海各地の幕僚、武官、特務機関等、支那関係の有力な諸官が屡々各地で会見されて、中央、現地の諸方面皆歩調を揃へてやらうといふ気分があり、殊に当時人の配置も新京に板垣中将、奉天に土肥原中将、天津に多田中将、南京に磯谷中将、東京に第二部長岡村中将と兎に角斯ういふ風な支那通の御歴々の方が揃って居られたのでありますから、此の時に支那問題は何んとかしなければならないと云ふ自覚を持つて居られたと思ひますが、残念ながら以上の人々の間の頭にも少しづつ其の考へ方に開きがあって具体的の問題になりますと一途には行かないのであります。
板垣中将は、支那は分裂的態勢にあるのが自然である、各々分裂した所に将領が居って之が各々競って日本に頼って来るといふやうにしなければならないと云ふ風に考へて居られたと思ひます。
北支に一つ、山西、南京に各一つ、所謂東南方に一つ、南方に一つと云ふ具合に各々自治的の態勢をとるベきである、そして対外的形態として一個の中央的政権は存在することは差支ないが、現在の蒋介石の如き対日態度をとるものは宜しからずといふのであつたと思ひます。大体関東軍はさういふ風に考へて居ったのであります。
所が南京に居られた磯谷閣下の考へは必ずしもさうではなく、現在は何としても蒋介石其のものを操縦する案を樹てなくちや駄目だ、それが事実だといふやうな考へで、従って北支に一つの政権を立てて之が北支問題――日満に関係深い――を専断処理し得るやうに仕向けることは不可能であると云ふ風に見られて居たやうに記憶します。支那駐屯軍に言はせれば、支那駐屯軍はあそこに居て政治的の任務を持って居るのではないとしても、北支問題に関し関東軍が満洲から出て来て御節介をして自分の施策をごちゃごちゃにする、関東単が余り『出しやばって』来て下世話に謂ふ嫁に対する姑のやうなやり方をするのは腑に落ちぬと云ふやうなことでありました。
さういふやうな状態で、要しまするのに何んとかしなくてはならぬといふ考は何処にもありましたけれども、併しそれをどう云ふ具合にするかといふ一途の方針は確定せずして進行して居りました。唯関東軍と致しましては、北支に南京から独立した一つのものを作らうと云ふ考を持つて居りました。
当時「関東軍の対露作戦準備は何をやって居るか、『ロシヤ』に対しては一つもやつて居らぬ」と云ふ非難を受けましたが、しつかりと「ロシヤ」に向ひ得るためには満洲国内の粛正を完全にすることと、支那特に北支那を安全にするためにあの辺一帯を満洲色、即ち日本色にしなければならない、それだから関東軍は北方を忽せにして支那ばかりを見て居るのではないといふ理念の下に対北支那の工作をやられて居ったと当時の軍参謀として今も信じて居ります。即ち北京の宋哲元に山東の韓復榘を合流させ之に山西の閻錫山を靡かせて、要するに大体黄河の北方地帯で一つの独立した政権を作り、満洲と中央支那との中間地帯に親日の傾向を有つたものを作らうといふ考へでありまして、この政権は防共の旗標に於て日満両国と其の向ふところを一ならしめんとするのでありました。さうして之には徳王の配下の内蒙を協力せしむるといふ考へであります。
私はもともと支那の知識はなにもありませず唯指導を受けながら使い走りをして居ったのでありますが――或る民間の人が私に斯ふいふことを言ひました。「支那の民衆は今や大いに思想が変って来た――就中青年層は完全に『ナショナリズム』になつて来た、之には蒋介石が非常な努力をして来て居る、此の実相をはつきり掴んで居らずに支那に於て政権分裂を企てようとするが如きはもう昔の夢だ」と云ふのであります。そこで私は率直に板垣閣下に対し、「斯ういふことを民間の人から聞かされるが、之から本腰を入れてやらうといふ時に此の点如何に考へて宜しいか」とお訊ねしたことがあります。又もう一つ、「関東軍が工作をやるためには何としても相当の資金を必要とするであろう。中央部を煩はすことなくして或る程度まで行く目途がありますが」――其の時私は軍の第二課長に替つて居りましたが――と其の二つを聞きました時に、副長は二つ共立ち所に次の如く答解をされました。
「第一の国民思想の変つたといふことに就ては成程さういふことはあるけれども、それは君の聞かされて居る程深刻には進んで居らぬ。支那は依然支那である。若い者の中には一部さういふことを言ふけれども其の点は一局部的の観察である」と曰はれ、「第二の点は安んぜよ」と云ふ意味でありました。
そこで関東軍は前に申しました気持で動いて行きましたが、やがてどうにか宋哲元を首班とする冀察政務委員会と云ふものが出来ましたが、それは関東軍の意図の如き明瞭に南京から分離したものではありません。其の動きも良好の方に向いて居るといふこともなく、兎も角「テンポ」が非常に遅くぐずぐずして居つたやうであります。さうして山東の韓復榘と連絡をとるやうに言ふと向ふも洵に結構だと云ふ答解でありました。之で昭和十年も段々暮れて参りましたが、それでどうしても一つ北支政権を確立させにゃ不可ぬ、之が為にはしっかり工作をやらなくちゃ不可ぬといふので、奉天の特務機関長土肥原中将が関東軍の代表として北京に出らるることとなりました。表面は関東軍と宋哲元との間に約したことで実行せられて居らぬ部分の督促に行くといふ形で行きました。さうしてそこへ行つてすつかり座り込んで、宋哲元を捉へて冀察の独立を慫慂すると同時に、従来の懸案でありまする満洲国国境に近き方面の配兵及張北の問題を折衝し、結局関東軍に対し一札を入れさせようと云ふのでありました。その所謂一札の内容は三ヶ条でありまして、其の初めの二つは兵力の配置に関することですが……。
殿下 兵力配置とは支那駐屯軍のことですか。
河邊 いや支那側のことです。
三番目は随分乱暴な案を軍で立てたのであります。即ち「張北六縣は自今冀察政権の覊絆内にあらざるものとす」と云ふ意味であります。此の私の立てた案に就きましては上の方も心配せられました。副長は、難しいが然しまあやつて見ろと言はれ、軍司令官閣下(参謀長は上京不在)は、之はひどい事を書いて居るなと言はれましたが、私は其の前から色々聞いて居ましたところから判断して何んだか出来さうな気がしましたので、「これで行きそうです」と申して案の認可を受け、北京の土肥原閣下に打電しました。土肥原中将としては色々困難はあつたのですが最後に説服されたらしいのです。斯してこの土肥原談判は成功致しまして、張北六縣は北支の政権から離れることになりました。
殿下 それに対して中央とは大して問題はなかつたのですか。
河邊 中央には爾後報告をして居ります。
中央とは土肥原中将が北京に行くと云ふことは了解がとれてなかったのであります。支那駐屯軍は了解して居りました。土肥原閣下は多田閣下より期は若いのですけれども停年名簿は上にあるし、支那駐屯軍としては心よくもなかつたに違ひありませぬが、関東軍の所用として行つたこととして了解を得たのであります。土肥原閣下は更に宋哲元に対し、冀察方面の独立の態度を明かにすべきことを大いに説かれたのでありますが、之は中々動かぬやうになつたのであります。宋哲元の方では南京から分離して――南京に対して独立をしたといふことを通告するといふことは到底出来ないと云ふことが明瞭になりました。さうして十年の暮になりまして到底駄目だといふことになりまして――明瞭に南京の傀儡――南京の指示の下に動いて居ると云ふことが判つて来たので吾々は焦つたのであります。そこへ出来たのが冀東政権であります。
此の冀東の長官をして居る殷汝耕は日本の大学を出ましたし、夫人も日本人であり、非常に日本語も上手であります。之が関東軍の薬籠中の人間となつたのであります。それはどうしても宋哲元が南京と手を切つて御輿を上げて来んといふならば――其の口火を切るために一つ殷汝耕をして冀東だけでも之をやらしてやらうといふことが関東軍の幕僚の間に考が出まして、それで色々内々工作をやつて居りましたが幾ら経つても宋哲元は立たぬ。殷汝耕としては、宋哲元に先立つて独立を宣言すれば当然支那側から反逆者として恐ろしい圧迫を受けることでありますから絶対に関東軍の支持を約束して欲しい、それは彼として当然でありますから、それで関東軍に使を寄越して、関東軍は本当に援助をして呉れるかどうかといふことを糺しに来たことがあります。其の時に使に来たのは殷汝耕の甥でありましたが私が会ひました。「何しに来たのか」と言ひましたら、「関東軍は本当にやつて呉れるか、立つた後の面倒を見てやつて呉れるか」と言ひますので、私は、「貴殿はまことに変なことを訊ねに来られた。此の大事の決心は貴殿方の問題です。真に東洋のため、日、満、支の為を思ふて吾々は立つべきである。今立たなければならぬ時だと考へらるるならば立ちなさい。他力本願で関東軍がどうだらうか支那駐屯軍はどうだらうかと考へて決すべき問題ではないでせう。関東軍は軍の信ずる東洋の保安のため結構なことなら力一杯支援もしませうし、苟も之に反することが起るならば極力排撃の策に出るでありませう。要するに決意は関東軍の意見や意図ではない。一に殷汝耕さん始め貴殿方の大局上の観点から来る。何も関東軍と相談などに来ないで一刻も早く帰り自分でお決めなさい。直ぐにも通州に帰られたらょいでせう」といふことを言ひました。さうしたらよく判りましたと言つて帰りましたが、程なく独立宣言をやりました。
そこで彼等は通州に小さな役所を造つて独立の政府となし、冀東二十二縣を其の配下に置きました。そこで私は此の冀東政権の発生が支那事変に一番近い原因を作つて居ると思ひます。
殿下 それはどういふ意味ですか。
河邊 之が因になりまして北支那の政権と折合はなくなりました。吾々は宋哲元は殷汝耕のやり口に刺戟せられ、それが口火となつて立つかも知れぬと考へて居りました所が、事実は逆行しました。その以前甚だ緩慢且不明朗ながら幾分づつ冀察がものになりさうになり、何とか妥協的な形に於ても形態が取れさうになりつつありましたのに、私等の焦ったやり口により宋哲元の配下たるべき者が「左様なら」と先へ立って仕舞ったことは、宋の心中に抜け得ない不快となったやうであります。即ち彼の面子を破壊し又南京に対しても言ひ訳がなくなったのでありませう。さうして土肥原閣下に「あれを早く漬して呉れるならぱ考へる。さうでなかったならば考へる余地がない」、土肥原は「お前が立つ決心をすればああいふことは解消して、あれは御前の所に合流される」、宋哲元は「あれを漬して呉れて自分の顔を立てろ」と云ふ風に拗ねて来て仕舞ひました。
さうして私は、日本が適時冀東政権の解消といふことに然るべく処置しなかったと云ふことが結局支那側の反日、抗日意識を愈〃高揚したと思ひます。而も冀東は副作用的に実に悪い作用を起したのであります。之は殿下の御耳にも達して居ると思ひます。御承知のやうに冀東は割合に天産の豊富な所であります。世界中でも最もよい重工業地帯と欧人が言った位の地帯でありますから、兎角山師が眼を着けて居ると云った状況であります。
さういふ風にして「インチキ」をやつて作つたものでありますから自然に「インチキ」をやるものが集り、さうして色々悪事をやる。無論之は素々そんなつもりで作つたものではないのでありますが、「支那ごろ」又は極端なのは軍部の一部にも密貿易を許して居ると云ふ噂さへ立ち、随分悪いことをして居たやうであります。
さうした内容は其の後隊附を致しまして詳しいことは知りませんが、兎に角非常に悪用せられたといふことを聞き知って居ります。それで日本、満洲、支那といふものを綺麗にするためには、冀東といふものは何んとか処理しなければならないと考へるに至りました。其の後私が隊長勤務一年を経まして参謀本部に来ました時にはどうしても冀東を壊した方がよいと思ひ、色々其の方法に就て支那駐屯軍方面の意見などを聞いて居りましたが、その中に戦争となりました。
3、支那駐屯軍の増強
所がさういふ風な色々な北支に於ける政治的工作が関東軍に依つてなされるといふことが、東京―中央部及政界でも喧しくなつたやうに思ひます。中央は之を心配され、其の原因の一つとして支那駐屯軍が余りに関東軍に比して薄弱だから関東軍は出しやばる、之に対抗するものを作つたらよからうといふ風に考へられたらしいのであります。私は公平に考へまして、即ち関東軍の参謀たる立場に於てではなく考へまして適当でないと思ひ意見を提出したことがあります。私の見方としまして北支に今兵力を殖やす理由はないと思ひました。大体支那駐屯軍は義和団事件後の条約に依つて出来たものでありまして、兵力には制限がないのでありますが、今に於て兵を増すといふことは愈〃北支に対する武力的工作を進めるのだといふ感じを支那人には勿論、外国人にも与へることになり、陸軍の内部的情勢の調整が主目的で之を行ふのは宜しくないと考へました。若し北支に出兵が必要なら関東軍から兵を出せば五時間かからんで之はやれる、無論支那駐屯軍司令部の機構を強化することは差支なからうけれども増兵は不必要であり、それだけの兵があるならば現在熱河の方には兵は足らぬから其の方に出すのが良いといふ考で意見具申をしたこともあります。
実際さう思って居りましたが、中央では愈〃支那駐屯軍の増強が定めらるることになりまして、昭和十一年三月か五月に実際の増強を見ました。而も其の動機は表面の理由は色々ありますが関東軍が出しやばるのを封じて支那駐屯軍に支那問題をやらさうといふ真意があつたと思ひます。
二・二六事件の直後私は近衛野砲兵の隊長に転任し、一年許り居りまして十二年の三月参謀本部の課長に転じて参りました。其の当時の参謀本部の編成――第一部の編成は御承知の通り第二課は国防国策、戦争指導、情勢判断などといふものをやり、第三課は編成、動員、作戦、之等をやります。第一部は第二課を中心としてやつて居るが、其の業務の外廓をなすものに第二課があつて国防国策、大きく言ひますと戦争準備を進めて行かうといふのが当時の第一部長石原少将の抱負でありました。私は其の第二課長を命ぜられました――石原少将は私の前任の第二課長をやつて居られました。
4、産業確立計画
当時参謀本部の全般の空気といふものは所謂「石原イズム」で、国防、国策を確立して国防国家の建設をやらねばならぬ――それが為には軍備の充実をやらねばならぬ――又其の軍備充実の根元である産業の拡充をやらねばならぬ――其の為には官民を通じて其の目的を達するやうにやらねばならぬ――日満の産業を「ブロック」でやれば此の産業の拡充は出来る、といふ考への下に……日満だけで産業を確立するといふ目途で、其の調査研究を満鉄の外部機関をしてやらせました。之に命じて出来上つたものを以て陸軍省を動かし政府を動かして行かう――之が実現の為には政府の顔触も替へなくちゃ不可ぬ、軍の意図を実行する内閣に替へなくちゃ不可ぬといふので、相当に裏面表面から工作せらるる所があったと思ひます。私は「さういふことは極めて結構だと思ひます。さうやらなければ不可ぬ、何とか一般重要産業も大いに拡充してかゝらねばならぬ」といふ気持で馬力をかけるつもりでありました。それで十二年から五年かゝって十七年の三月迄に産業の拡充をやらうと話合って居りました。従つてそれが出来上る迄は「ソヴエット」に対しても支那に対しても戦争をやるベきでないといふ風に固く信じて居りましたし、又それが御上の御方針だと信じて居りました。さうして此の拡充計画の基礎は参謀本部の第二課が指導して作られたもので、之は十二年の戦争が始まる直前頃漸く陸軍省に圧し付けて政府側にも逐次通じて行きつつあったと思ひます。それが参謀本部の状態でありました。
陸軍省もその積りでありました。併し其の間に多少の軋りがありまして参謀本部の言ふことで通らないこともありました。然し其の通らないのを私如きが石原少将の権威を笠に被て……非常な卓見と迫力が石原少将にあることですから……遅いながらも兎に角陸軍省にぶつかって行って見るといふ状態でありました……。
一方北支に於ても司令部が強化されまして、中央の日満共同産業拡充五ヶ年計画の企図に呼応して北支でも之に調和してやらうといふので、経済方面の主任参謀も出来まして池田純久中佐が冀察政権を相手にして色々交渉をやりましたがどうも冀東といふものが邪魔になりました。支那駐屯軍は冀東の開発は直ぐ手を着けると言って来ましたけれども、支那側――冀察側は率直にやらうと言はず何とか回避しようといふ気でありました。それが癌のやうになって仲々解けない――そこで冀東といふものは色々の都合で之は解消した方が良い、即ちあの地帯をしつかり軍で実質的に把握して居つたら良いので法的には支那のものであるといふ風に思ひ、大体先の眼鼻をつけてから解消するつもりでありました。さういふ状態が丁度十二年の四、五月頃でありました。
5、戦争謀略の風聞
六月頃でしたが妙な噂がちよいちょい耳に入って来ました。之は民間から入って来たのですが――近く北支方面で此の前の柳条溝事件のやうなことが起る――それを今支那駐屯軍の幕僚が企画して居るといふことを民間の人から聞きました。それから私は変に思ひまして石原部長にも話しました。「どうも変なことを民間の噂に聞くが、それを止めさせることは出来んものか」と言ひました。部長も非常に私の言に賛成して「何んとしても戦争は勿論此の噂も止めさせなくちやならない」といふことを言ひまして、さうして実状を一遍見に行つたら良いぢやないかといふことで、それから状況を見に軍務課長の柴山大佐と軍事課の岡本中佐とが行って一、二週間歩いて帰って来ました。それから今一つには石原部長から――丁度私の兄が歩兵旅団長をやって居りましたが――「其の兄に向ひ公私混淆の感はあるが手紙をやつて、今のやうなことを言つて居るものもあるから気を着けよ、断じて不慮の事態を醸さぬやうにと言つてやつたらどうか」との話もあり、私は兄に私信を出したこともあります。所が中央から視察に行った一人の帰任報告にもさういふやうな噂は「デマ」であって心配無用とのことであり、又私の兄の返信にも安心せよといふやうな意味のことが書かれてありました。
殿下 あれは六月頃ですか。
河邊 私は六月頃だと記憶して居ります。私の聞いたのは其の頃です……或は其の前かも知れませんが……それで私は視察に参りました人に話を色々聞いたのですが……。
殿下 柴山大佐、岡本清福中佐は全然別で行ったのですか、或は一緒だったのですか。
河邊 全然別です。
殿下 参謀本部からは誰も行って居らんですか。
河邊 永津大佐が行ったと思ひます。他にも行ったかとも思ひますが其の報告は聞きませんでした。