資料

満州事変はこうして計画された

河出書房「別冊知性」1956年12月号

満州事変はこうして計画された

満州事変の口火となつた柳条溝事件は、綿密に計画された関東軍の陰謀であつた。唯一人の生存主謀者が語る事件の真相!!

当時関東軍参謀 花谷正

 東京裁判では太平洋戦争の出発点を満州事変に遡つて、究明したが、たしかに柳条溝事件の爆音は其の後連鎖反応を起して、止めどない大戦争へ突入してしまつたのであるが、今考えてみて、満州事変が当初我々の考えていたような線で処理されていたら歴史の進展は多少その方向を変えていたかも知れない。

 あの時満州事変を起したことは時機としても方法としても決して誤つていたとは思えない。

 当時ブロック圏形成の動きは世界的な必然であつて、日本が満州なしに生活して行くことは不可能であつたし、逆に放置しておくならば日本は張学良及び背後の南京政府の排日によつて大陸の足がかりを失つていたかも知れないのである。我々は、世界情勢の危機にあつて日本の進むべき道は満州の中国本土からの分離のみである、更に虐げられた満州住民に王道楽土を建設してやることが東亜安定の最も好ましい政策であると信じたのであつて中国本土と果しない大戦争に入るという愚を冒すつもりは毛頭なかつた。満州事変の口火を切つた柳条溝事件については、今日それを語る者は私の他に殆んど居ない。関係者の大部分は死亡してしまつたし、またこれ迄漠然とした推測はなされていてもこの事件の裏相を語つた者は誰もいない。

 記憶をたどりつつ当時のことを記してみようと思う。

旅順偕行社の研究会同

 私が関東軍参謀で満州に赴任したのは昭和三年八月張作霖爆殺の二ヵ月後であつた。更に二ヵ月おくれて石原莞爾中佐が作戦主任として着任した。満州事変を遂行した中心は何といつても石原であるが私は以後事変迄、間に一年抜かして彼と接触し、共に談じた間柄でその人柄も良く知つている、石原という人は軍事学者としては一流の人で、若い時からフリードリッヒ大王、ナポレオン戦史を研究し、この頃にはすでに軍事学の立場に立つた一つの世界観を持つていた。

 日蓮宗の色彩が強かつたことはあるが、ともかくも思想家であつたという点は当時の軍内においても珍らしい存在であつた、又非常に私生活の正しい人で若い時はどうであつたか知らないが、女遊びや宴席に出ることなど一切しなかつた。只彼の短所は、他人より十年、二十年先のことを考えていたせいもあるが云い出すことが良く云えば天才的わるく云うと奇矯、突飛に見えることがあり、現実ばなれしていると誤解されることがあつた。

 しかし決して夢想的理想家ではなく、一たん綿密に計画を策定すると電光石火の如く、強力に実行して行く胆力を持つていた。満州事変当初の作戦は世界軍事学界の驚歎の的になつた、といわれる。

 私が満州に行つてしばらくは張作霖爆殺の真相が次第に明らかになり、河本大佐が、東京に呼び返されて審問されるというようなことがあり、現地の空気は落ちつかなかつた。

日本軍の夜襲を受けた北大営兵舎

 真相調査のため峯憲兵司令官が十月頃満州にやつて来たが、関東軍の方で協力的態度に出なかつたため、何物も得ることが出来ず、帰国する途中朝鮮軍に立ち寄り、軍司令官に苦衷を述べると、すぐ中隊長以上を集めて夕食会をやりその席上の雑談で、爆破作業を行つた龍山工兵隊の神田中尉等から状況説明を聞いて使命を果したということがあつた。

 河本大佐は張爆殺を機に満州南部を占領する気であつたがこれは失敗した、旨く行つていたら後の満州事変はこの時起つていたかも知れないのである。それどころか新しく東三省統治の席に就いた張学長は直ちに易幟を打つて青天白白旗をひるがえし、南京政府と呼応して排日攻勢に出て来た。満州の情勢は悪化して行く一方である。一方北方ソ連は第一次五ヵ年計画に着手し、その戦備は次第に充実しつつあり、やがて極東において我国の一大敵国として相接するのも遠くないと思われた。石原はソビエトの国力進展には特に注意を払つていた。

 満州国建議の一大目的も赤色勢力南下に対する強力な防波堤建設にあつた。

 さて、張爆殺が一段落した頃に高級参謀として板垣征四郎大佐が赴任して来た。板垣という人は石原とは対蹠的な性格で秀才型の人ではなかつたが、包容力に富み粘り強い性格で親分肌の苦労人であつた。板垣の実力と石原の綿密な計画力の結合によつて満州事変は行われたと云つても過言ではない。

 かくて、我々は悪化しつつある当面の満州情勢をどう処埋すべきかについて、毎週一、二回旅順偕行社に集つて熱心に討議研究した。

 そのきつかけは昭和四年七月村岡軍司令官に代つて畑英太郎中将(畑俊六元帥の実兄)が着任した時であつた。我々は先ず新軍司令官の満蒙問題に対する見解を糺し、中将が充分理解ある態度を持つていることを確めた。その日の夜我々三人は会合して当面の満蒙問題に対して熱心に議論し、石原中佐の発案で「この静かな環境を利用して、世界の情勢と満蒙の状態、そこから我々の取る態度方法を研究しよう。そのため一週に一、二回偕行社で会合して互いに腹蔵なく論議を戦わし、不明の点はそれぞれの専門家に学び又、支那馬の調査しかしていない調査班を拡充してより高度の研究を行わせよう。」ということに意見が一致し、以後三人は毎週会合して研究を行つた。

 私は、新しい満州は、日本人を中堅として二重国籍を持たせて各民族共同の王道楽土を建設すべきだと考えていた。

 日満は不可分一体で例えば太陽の光を受ける月のようなものであるようにしたい。その際日本人は大規模な企業、智能的事業に、朝鮮人は農業、中国人は小商業や労働を分担し、各々その分を完うして共存共栄しようというのであつた。虐げられている満州人を救つて王道楽土にしようというのであるから、内地のように大資本の横暴を許すことは出来ない。

 財閥満州に立入り禁止という我々の考えはその後も一貫した。日産コンツェルンを導入したのも、日産が広汎な大衆に株式を公開していたからで、単に経営技術を使つたにすぎない。さて、我々の計画は昭和六年に入ると急に具体化して来た。張学良の排日はいよいよひどくなつて小学生の通学さえ危険になつて来る。

 しかも大恐慌の波が波及して、満州の穀物は大暴落して、農民は塗炭の苦しみに陥るし、学良の平行線建設が功を奏して満鉄も大きな赤字を出すという状況であり、邦人の多くも学良の陰に陽に手を変えての圧迫によつて生業をつづけて行くことが出来ず、満州を去る者も出て来た。

計画に加わつた人々

 昭和六年春頃には柳条溝事件のおよその計画が出来上つていた。きつかけを作るのは易しいことであるが、その後の処置が問題である。張作霖爆死事件の時の教訓を生かして計画は綿密に樹てられた。考えてみるとあの頃は未だ機が熟していなかつた。張作霖一人を殺しただけでその後に来るべき行動が何もなかつた。中央部との連絡が全くないし、隣接朝鮮軍との何の打合せもなかつた。国民の満州に対する関心も薄くて、すべて足並がそろわなかつたのである、その上、浪人を使つたり支那人の浮浪者を使つたりして、結局日本軍がやつた陰謀だということが露見してしまつた。今度は二度と同じ誤ちを冒してはならない。事件が起つたら電光石火軍隊を出動させて一夜で奉天を占領し、列国の干渉が入らない内に迅速に予定地域を占領せねばならない。その時政府や出先外交官からじやまされることを考えなければならないがそこをぐずぐずしていると結局何も出来なくなつてしまうだろう。従つて時には中央の命令を事実上無視しても強行する必要があるし、関東軍の行動を支援するため、中央部の中堅将校を同志に引き入れて、内部から、助力してもらい又橋本一派の国内クーデターが同時にあれば益々好都合である。更に隣接朝鮮軍からは適宜増援してもらわなくてはならない。

 幸い、同軍参謀の神田正種中佐が、満蒙問題には経験も深く我々の計画に同意してくれたのでいざという時には朝鮮軍の援助を得る見通しが立つた。石原からの要望で神田中佐は事件迄に三度位旅順を訪れて来た。彼は元来ロシア班出身でハルピン特務機関にも居たことがありソ連通の硬骨漢であつたが、朝鮮軍に来て、朝鮮の事態が想像していたよりはるかに悪いことを知つて驚いていた。鮮人の排日気分は子供に迄徹底していて、田舎の方へ行くと日本人一人の旅行でも危険だという。これも満州の排日が伝染したためであり、満州事変は朝鮮軍の立場から云つても必要だというのであつた。

 最初計画を持ち出した時は朝鮮軍司令官は南中将で神田は南ではちよつと独断越境などむりだといつて難色を示したが、林(銑十郎)中将が来てから意見を叩いてみると、話が良く分る。これなら大丈夫だと云つて来た。

 一方中央部では、当時第二部長から第一部長に変つた建川(美次)少将が、張作霖事件以来の経緯もあつて一番信頼がおける。二宮参謀次長となると元々抜け目のない人間だから少し危険だ。無条件で信頼出来る人は支那課長重藤千秋大佐、支那班長根本博中佐、ロシア班長橋本欣五郎中佐の三人で、永田鉄山軍事課長も一応信頼出来た。彼等に対してどの程度計画を明かしたか数字で示せば橋本、根本が九十五パーセント、建川、重藤が九十パーセント、永田が八十五パーセント、小磯、二宮が五十パーセントという所であろうか。

 六月頃私は彼等と大体の打ち合わせをするため内地に帰つた。橋本、根本に会つて相談したが、二人とも国内改造に熱心であつたので満州事変を起したら、そのはずみで改造も出来易くなるだろうという点では意見一致したが、橋本はクーデター第一主義でクーデターを先にやりたいと云つていたが結局十月頃同時にやろうということになつた。細かい爆破計画などは彼等の方も特に聞かなかつた。

 八月、師団長会議があつて、南陸相が満蒙問題について積極的意見を述べて問題になつたが、この時関東・朝鮮・台湾各軍司令官も出席したので新任、本庄(繁)軍司令官に板垣大佐が付いて上京した。林朝鮮軍司令官には神田が付いて行つた。

 この頃興安嶺方面の地誌調査旅行に来ていた中村震太郎大尉が殺害される事件が起りつずいて万宝山事件があり、満州の空気はますます険悪になつた。計画実行の時はいよいよ近付く。八月下旬私は満州の実状を中央部に認識させる任務をもらつて上京した。私は中村大尉事件について、奉天特務機関補佐官として張学長側官憲と交渉を重ねていたが、問題はこじれるばかりである。そこで、実力発動をこの機を利用してやるとして中央部はどういつ意見を持つているか、もう一度確めてみたいと思つた。

 二宮、小磯、建川、永田以下と意見を交し、二宮、建川には特に、「このままでは近い内日支両軍は衝突するようになるから、その時の対策を考えておいてくれ、しかし、衝突したら当面の処理は関東軍に任せて欲しい。関東軍としても国際情勢を慎重に考慮して行動するつもりだから細かいことまで干渉しないでくれ」という風に切り出して、作戦発動の場合、南満だけに局面を限定するか、作戦時期、兵力量の見込、外交々渉に移る時期、北京に在る張学良処理について話し合つた。二人とも私の云うアトモスフェアで言外の意味を覚つてくれたか、政府に対して、どの位出られるか分らないが出来るだけ貴軍の主張貫徹に努力しよう」と約束してくれた。

 それから橋本、根本に会つて「準備は完了したから、予定通り決行する」と云うと、根本は「今だと計画が実現出来る程、国内の支援があるかどうか不安である。特に若槻内閣ではやりにくいから内閣が倒れる迄待つてみないか。急いでも本庄さんに腹を切らせるだけだ」と延期をすすめたが、私は「もう今となつては待てない。矢は弦を放れているんだ」と云つて満州に帰つた。

現地の同志たち

 さて現地の計画の方はどういう風に進行して行つたか。本庄新軍司令官が着任したのは、六年八月であつた。新軍司令官といつても本庄氏は支那関係者の大先輩で重厚な性格の人格者で、将器の名にふさわしい人であつた。

 この大事な時期の軍司令官としては適任であり、中央の人事当局もその点はよく考慮したのであろう。

 我々は細かいことは本庄さんには何も云わなかつたが、平常から観察した所では、いざという時には頼もしい存在となるに違いないと判断していた。

 三宅参謀長以下幕僚の大部分には計画を明かさなかつた。爆破工作の担当は、四月に張学良軍事顧問(柴山兼四郎少佐)の補佐官として着任した今田新太郎大尉に割振られた。今田大尉は、漢学者を父に持つ剣道の達人で純情一徹正義感に燃えた熱血漢であつた。

 必要以上の人物に秘密を洩らすのは危険であるから同志の選定には苦心した。

 爆破工作は素人にやらせると、どうしても露見し易いことから軍人を使うのが最も良いが爆破後直ちに、兵を集めて行動を開始する以上在奉天部隊の中堅幹部にはどうしても秘密を洩らさねばならぬ、そこで一人一人酒を飲ませて云いたいことを云わせ、これならと思つた人物には計画を明かして同志を固めて行つた。

 即ち、川島大尉、小野大尉(何れも在奉天独立守備隊島本大隊の中隊長)小島少佐(在奉天第二十九連隊付)名倉少佐(同大隊長)三谷少佐(奉天憲兵隊)等で、補助作業には甘粕正彦予備大尉、和田勁予備中尉等が参加した。

 島本大隊長には何も明かさなかつたので事件当夜は全くの寝耳に水でおどろいたらしい。

 一方事件発生と共に、満鉄沿線各地で、爆弾を投げたりして、治安不良の廉により、領事から救援要請を乞わせそれを理由としてどんどん出兵するために甘粕正彦等が、潜行することになつた。九月十八日直後ハルビンや吉林で起つたこの種の事件は予め組立てられたものであつた。

 また現場付近の警戒や連絡に喰いつめた浪人や青年を使うことにして、和田勁がこれを統率することになつた。

 資金は内地から、河本大作の手を通じて届いたので当面不自由はしなかつた。

計画の露顕

 我々は最初鉄道爆被を九月二十八日に行う予定であつた。爆音を合図に、奉天駐屯軍兵舎(歩兵第二十九連隊)内に据え付けた二十八糎要塞砲が北大営の支那軍兵舎を砲撃する。同時に在奉天部隊が夜襲をかけてこれを占領するというのである。ところでこの要塞砲は元々ここにあつたものではない。この年の春永田軍事課長が満州視察に来た時我々は、「在満関東軍は総兵力一万にすぎないのに学良軍は素質良好とは云えないが約二十二万の兵力をようし、その上フランスから輸入したものを主として、三十機の飛行機さえ持つている。こちらは飛行機は一機もなく奉天には重砲一門さえない。これではいざという時に困るではないか」と云つて旅順要塞から分解運搬して据付けたものであつた。

柳条溝鉄路爆破現場

 重砲がすえ付けられるというと神経を尖らせるので、井戸掘りをやつているという名目にして周囲を囲い、外からは何があるか分らないようにした。それでも我大砲のあることは薄々知れたと見えて領事館などでは探りを入れていた。二十八サンチの巨砲と云つても性能はわるく据え付けても良くない上に操作する砲兵が居ない。

 それでも北大営からの直距離を計つて始めから照準を合わせておいた。これなら眼をつぶつていても命中する。問題は威嚇にあつて実際効果は大して期待してはいなかつたのである。

 この重砲の据え付けは九月十日過ぎには完了したが、尚臨時の砲兵に操作を教えたり弾薬を集積したりするのに手間がかかる。そして高梁が刈取られた後が作戦に好適である(高梁が繁茂していると、匪賊がかくれても発見しがたい)という見地から九月二十八日が選定されたのであつた。

 それが十八日にくり上つたのは以下に途べる事情からである。

 九月十五日、かねてから連絡打ち合わせをしていた橋本中佐から「計画か露顕して建川が派遣されることになつたから迷惑をかけないように出来るだけ早くやれ。建川が着いても使命を聞かない内に間に合わせよ」という電報が特務機関に舞い込んで来た。

 後から聞くとこれはこういう事情であつた。

 我々が満州で色々画策していることは現地外交出先に薄々感付かれていたらしく噂は海を越えて内地にも伝わつた。

 金で買収した浪人達が酒を飲んで大言壮語したり、弾薬や物資の集中をやつていたことそれに私も酒の勢いで、多少大きなことを云つたりしたのが原因かと思うが、ともかくそういう情報が、幣原外相の耳に入つて閣議の席に持ち出された。陸軍大臣は南次郎だが、この人は東洋大人的な茫洋とした人物で、幣原が色々つついても不得要領な返事しかしない。「軍が勝手にそんなことをする筈はないと思う」と突つぱつたが、幣原から林奉天総領事の打つた電報を見せられて少しあわて「とにかく事実かどうか調査してみる」と答えて帰つて来ると建川第一部長を呼んだ。

 南から聞かれた建川は「そういうことを計画しているという噂もないではありません」と答えた。すると南は「それは困る、お前行つて止めるように云つてくれ」と云うので建川自身が奉天へ止め男として出かけることになつた。建川は困つたことになつたと思つて橋本と根本を呼んでそのことを告げた。そこで建川の暗示で、早速前のような電報を関東軍に打つた訳である。この時は橋本等中央の同志は青くなつてあわてたらしい。当時土肥原奉天特務機関長は東京から帰任の途中で、十八日に京城で神田中佐と会つて奉天へ向つていた。

 建川は十五日夜東京を出発して途中ゆつくりと列車、連絡船を利用して密行で満州へ向い十八日午後本溪湖駅迄迎えて出た板垣大佐と共に、奉天駅に降り立ち私は駅からすぐ車で建川を奉天柳町の料亭菊文に送り込んだ。

九月十八日夜

 一方建川から電報を受け取つた私は、九月十六日午後奉天特務機関の二階に関係者全員を集めて対策を協議した。

 丁度本庄新軍司令官の初度巡視があり、この日板垣、石原も奉天に滞在していた。

 集つた者は板垣、石原、私、今田の他、実行部隊から川島、小野両大尉、小島、名倉両少佐等で奉天憲兵隊の三谷少佐は欠席した。

 決行するかどうかをめぐつて議論は沸騰し私は「建川がどんな命令を持つて来るか分らぬ。もし天皇の命令でも持つて来たら我々は逆臣になる。それでも決行する勇気があるか。ともかく建川に会つた上でどうするか決めようではないか」と主張したが、今田は「今度の計画はもうあちこちに洩れている。建川に会つたりして気勢を削がれぬ前に是非とも決行しよう」と息まいて激論果しなくとうとうジャンケンをやつて、一応私の意見に従うことになつた。

 ところが翌日になつて今田が私の所へやつて来て、「どうしても建川が来る前にやろう」と云う。私は「東京と歯車を合わせてやつた方が得策だ」と説いたが何としても今田が云うことを聞かぬのでとうとう私も同意して「建川の方は僕が身を以つて説得しよう」と約束して十八日夜決行を決めた。それから先ず小島を呼び、川島、名倉を呼んで「十八日にしたぞ。お前達の大隊はどんどんやつて奉天城を一晩で取るんだ。川島は北大営を取りさえすればいい」と云い渡し、現場付近のゲリラ隊である和田勁等にも連絡して準備をととのえた。

 十八日建川を菊文に送り込んだ私は、浴衣に着かえた建川と酒を飲みながら、暗に彼の意向を探つた。酒好きの建川は、風貌からしても悠揚迫らざる豪傑である。にも拘らず、頭は緻密で勘が良い。私の云うことは大体覚つたようだがまさか今晩やるとは思わなかつたようだ。しかし止める気がないことは、どうやらはつきりした。

 いい加減の所でいい気嫌になつている建川を放り出して特務機関に帰つた。板垣も帰つている。石原は軍司令官に従つて前日旅順に帰り、今田は計画指導のため飛び出していて姿を見せない。十八日の夜は半円に近い月が高梁畑に沈んで暗かつたが全天は降るような星空であつた。

 島本大隊川島中隊の河本末守中尉は、鉄道線路巡察の任務で部下数名を連れて柳条溝へ向つた。北大堂の兵営を横に見ながら約八百メートルばかり南下した地点を選んで河本は自らレールに騎兵用の小型爆薬を装置して点火した。時刻は十時過ぎ、轟然たる爆発音と共に、切断されたレールと枕木が飛散した。

 といつても張作霖爆殺の時のような大がかりなものではなかつた。今度は列車をひつくり返す必要はないばかりか、満鉄線を走る列車に被害を与えないようにせねばならぬ。そこで工兵に計算させて見ると直線部分なら片方のレールが少々の長さに亘つて切断されても尚高速力の列車であると一時傾いて、すぐ又走り去つてしまうことが出来る。その安全な長さを調べて、使用爆薬量を定めた。

 爆破と同時に携帯電話機で報告が大隊本部と特務機関に届く。地点より四キロ北方の文官屯に在つた川島中隊長は直ちに兵を率いて南下北大営に突撃を開始した。

 今田大尉は直接現場付近にあつて爆破作業を監督したが元々剣道の達人、突撃に当つて自ら日本刀を振りかざして兵営に斬り込んだ。片岡、奥戸、中野等、雄峯会の浪人連中もこれに協力した。

 特務機関では、何も知らずに宴会から帰つて熟睡していた島本大隊長が急報であわててかけつけて来た所へ板垣が軍司令官代理で命令を下す。第二十九連隊と島本大隊は直ちに、兵を集合させて戦闘へ参加する。

 北大営では支那側は何も知らないで眠つている者が多かつた上、武器庫の鍵をもつた将校が外出していて武器がなくて右往左往している内に日本軍が突入して来る。かねてから内通していた支那兵も出て来るという調子。そこへ二十八サンチ重砲が轟音と共に砲撃を始めたので大部分の支那兵は敗走し、夜明迄には、奉天全市は我が手に帰し早速軍政が布かれて臨時市長に土肥原大佐が就任した。

手綱を引つぱる中央部

 私は爆破の報告を受けると直ちに旅順の軍司令部宛電報を打つた。石原中佐は全参謀を呼集して軍司令官の前で、作戦案を説明し軍司令官は直ちにこれを決裁した。

 即ち軍司令部は、十九日早朝列車で奉天に向い、満鉄沿線に分散配置してある第二師団主力は吉林方面に備える在長春部隊を除いて速かに奉天に集中する。独立守備隊は夫々配置されている地で行動を起して鳳凰城、安、東営口等を占領すること、又朝鮮軍司令官林銑十郎中将及び第二遣外艦隊司令官津田静枝少将に対し増援協力を要請した。ところが津田司令官は海軍部隊営口集中の要請に対して山東方面の情勢が不穏であるという理由でこれを拒否して来た。海軍はその後も満州事変の進行に対してとかく白眼視的態度を示したがその由来はここから始まる。

 朝鮮軍の方は旨く行くかと思つたらこの方も思わぬ支障が出てきた。

 十九日朝、林朝鮮軍司令官から「朝鮮軍司令官は奉天付近における関東軍の急に応じるため、独断旅団長の指揮した歩兵五大隊と飛行二中隊を奉天に派遣する」という電報が入り、神田の努力で林もとうとう踏み切つたかと喜んでいると更につづいて「派遣隊は十時頃から逐次衛戌地を出発させる」と云つて来た。ところが同じ時刻頃中央部では、満州の情勢は大したことはないと判断して「越境允裁を仰ぐつもりだからその前に独断越境してはならぬ」と命じ、更にそれを徹底させるため新義州の憲兵隊長に越境する部隊があつたら差し止めるようにと電報した。これで越境計画はひと先ず潰れてしまつた。

 その夜の夜中、朝鮮軍から「参謀総長は本職再三の意見を以て具申したにも拘らず、強いて増援隊の派遣を差止められた」という悲壮な電報を打つて来た。

 我々の計画では二十日朝の朝鮮軍奉天到着を待つて関東軍主力を北上させハルビン迄出るつもりであつて、そのため軍を長春に集結させるよう手配していた時だけに痛憤やる方ないものがあつた。

 そうしている中に神田から関東軍が吉林方面へ出るなら、朝鮮軍は奉天が手薄になるという理由でもう一度越境をやるということを云つて来た。二十一日朝、我々は、吉林の大迫機関を使つて爆弾を投げさせ、居留民保護の名目で第二師団を吉林へ進出させた。朝鮮軍は予定通り、嘉村旅団を独断越境させて奉天へ出て来た。

 神田は更に間島方面へ出兵する口実を作るため龍井村へ出かけて、謀略をやつたが、これは成功しなかつたらしい。

 以上のような次第で、神速果敢に全満を占領しようと考えていた我々の計画は中央部の妨害に出会つて仲々進行しなかつた。

 放つておくと関東軍は何をするか分らないというので、先ず兵務課長の安藤大佐がやつて来て、東京では今回の事件が関東軍の陰謀だと云つている向きがあるがどうかと質問したが、つづいて月末には参謀本部第二部長橋本少将等がやつて来て、中央部のお目付として奉天に滞在して事ごとに口を出して我々の行動を制肘した。そして参謀本部からは我々を侮辱するような細かい指示をして来る。こんな指示は関東軍のような大組織に対してなすべきことではないのであるが。

 吉林を占領した後我々は、ハルピンに何とかして出たいと思つた。出兵の機会を作るために甘粕元大尉をひそかに潜入させて、九月二十一日以来正金銀行支店等いくつかの建物に爆弾を投げさせた。効果は現れてハルピン総領事及び百武特務機関長から現地保護要請の電報が届いたので軍では再三、中央部に派兵を要求したがハルピンヘ出るとソ連が動くのではないかと危惧する中央部によつて拒否された。

 参謀総長からは、

 1 寛城子以北に兵を進める勿れ、
 2 満鉄以外の鉄道を管理すること勿れ、
 3 参謀総長の指示を持たずして新しい軍事行動をとる勿れ、というきびしい命令が届いたので一先ず断念する他なかつた。

 ハルピン占領が出来たのは翌年一月で、この時には我々と上海の田中隆吉少佐の合作でやつた上海事変に火がついたのでそのどさくさにまぎれて簡単に作戦を終了した。

 石原を中心とする我々の考え方は、北満に出てもソ連は動かないという判断と、国際連盟も列強も満州の事態に干渉する実力はないということであつた。当時アメリカ、イギリス、フランスの利害は極東では相互に対立していて、協同して日本を押える体制にはなかつたし、ソ連も第一次五ヵ年計画途上で、シベリア方面には手がまわりかねていた。ところが若槻内閣は連盟から日本が排撃を喰うことを恐れていたし、軍中央部もソ連の実力を過大評価して、これ以上の行動に出るのを危険だと見た。

 しかしここで止めては三年前と同じく中途半端になつてしまう。

 こういう政府の弱腰を粉砕するためにやつたのが十月八日の錦州爆撃である。

 この時は石原自らが小型機に搭乗して錦州の張学良軍兵営に小型爆弾を投下した。

 実害は殆んどなかつたが、国際連盟に与えたショックは大きかつた。橋本一行は驚いて我々を詰問にやつて来たが、剣もほろろの挨拶に、彼等も憤激して帰国してしまつた。

 この爆破で連盟の日本に対する態度は急に悪化した。我々の狙いは当つた訳だ。

 統制に服しない関東軍に手を焼いた中央部は、十月中旬、侍従武官川岸少将を慰問に派遣して来た。我々は「よくやつた」という御嘉賞の言葉を頂くつもりでいた所、侍従武官の来る日の朝、陸軍大臣から「関東軍独立の噂があるがそういう企図は中止せよ」という電報が来た。これは夢想だにしなかつたことで我々はかんかんになつて怒つた。後で聞くと、同時に十月事件の首謀者達が捕らえられてその際、誰かの流したデマか針小棒大に伝えられたのが原因らしい。

満州国独立へ

 一応南満州は関東軍の占領するところとなつたので、我々はかねての計画通り、溥儀引出しを開始することになつた。

 溥儀を引き出して満州の元首にすえることはそれほど前から確定していたことではない。我々は、事変前から薄儀に目をつけていて、旅順にいた旧臣羅振玉を通じてひそかに連絡を取つてはいた。独立政権の頭主として考えられた条件は

1 三千万民衆に景仰される名門の出身で徳望あること。
2 家系上満州系であること。
3 張作霖とも蒋介石とも合体出来ないこと。
4 日本と協力し得ること。

 以上のような条件から当然溥儀が浮かび上つて来たのである。

 石原は最初は満州植民地主義と云うか占領論であつた。ところが板垣が来てから独立国家論に賛成するようになつた。その時は我々の間で約一ヵ月に亙て議論が行われた。

 石原が最初我々の独立国家論に異議を唱えたのは、支那人の歴史を見ると政治をやらせても腐敗するだけで、仕ようがない。それよりも清廉な日本人によつて一種の哲人政治を行つた方がいいと云うのであつたが、我々は、そう云つても民族感情が許さないだろうし、第一、日本人間に哲人の名に値する人が居ないだろう。人間には神性も悪魔性もある。現実の人間性を生かした政治をやるべきだ、と主張したが、石原はいつたん我々の意見に賛成すると、そののちは徹底した。独立国家主義者となつた。

 当時満州に居た日本人の中には内地を食いつめた浪人などが多く、お義理にも満州人を指導するに足るとは云いかねた。

 只後に協和会の中心メンバーとなつた満鉄其他の青年の中には、志操高潔で邪心のない真の五族協和、王道楽土の実現を夢見る人々がいて初期の満州国は彼等が中心となつて活躍したので清新の気にみちていたが、その後権益主義がはびこり、内地の資本家や官僚がどんどん入つて来てから我々の理想はすつかり崩れてしまつた。

 我々は最初「満州に財閥入るべからず」という制札を立てた位であつたのだが一片の異動命令で建国時代の同志が去ると、後は利権にたかる蟻共がすつかりよつてたかつて食い荒してしまつたのである。

 さて、九月二十二日には羅振玉が軍司令部に呼ばれて溥儀引出を命ぜられた。彼は直ちに清朝復辟派の有力者であつた吉林省の熙洽を訪れ、次いで済南の張海鵬に会つて天津へ赴いた。しかし天津に旧臣とかくれ住んでいた廃帝は関東軍の意図を計りかねたか、不安がつて仲々動かない。しかし、天津軍の三浦参謀から「宣統帝は、民衆と関東軍の支持と要望があれば、一身を犠牲にしても起つ覚悟があるが目下の状況では今直ちに立つということは考慮を要すると思う」旨連絡して来た。

 その内に工作の内容が少しずつ洩れて、中央から満州に新政権特に宣統帝を擁立する運動に参加してはならぬという命令が来た。

 このままではらちがあかないので、軍は次に、浪人上角某を派遣して天津の歩兵隊長酒井隆大佐と打合わせ溥儀をむりやり連行しようとしたが香椎天津軍司令官が、動かないのでどうにもならない。

 そこで更めて土肥原大佐が引き出しのため天津に派遣されることになつた。十月末天津に現われた土肥原は早速引き出し工作にとりかかつたが、彼の行動は逸早く支那側及び外務省出先に分つてしまつた。

 外務省では尚張学良を持つて来る考えもあり何れにしても南満にむりやり日本の傀儡政権を作るのは連盟に対してもまずいし、第一、今ごろ清朝の廃帝を引き出すのは時代錯誤で、自然発生的政権の誕生を待ち望んでいたのである。土肥原はそこで予定通り天津に暴動を起してどさくさ紛れに皇帝を連れ出すことにしたが支那側もこれを探知して、暴動に参加する支那人を取り締つたので暴動は大したことにならなかつた。

 この騒ぎの中を溥儀は十一月十一日、天津を脱出して船で営口に渡つた。

 そしてしばらくほとぼりをさましていたが、若槻内閣が年末に倒れてからは、中央部もやつとあきらめて溥儀のかつざ出しに同意するに至り、翌年三月一日独立宣言と共に執政の名で満州国元首の座に坐ることになつたのである。こうして中央は一応関東軍の行動に反対しつつも結局はずるずると引きずられて信念のない失態を何度か露呈した。

 次の段階では山海関迄を手に入れる意図でもう一度天津に暴動を起して、それを理由に長城線迄出るつもりだつたが天津軍が乗つて来ないのでこれは失敗し、その上錦州占領のため出動した部隊は参謀総長の命令で、進撃途上遼河の線で行動中止を命令されてしまつた。(錦州は結局翌年一月に占領した)

 一方北の方はハルビン進撃を禁止されたので方向を少し変えて、チチハル方面へ出て、一寸きざみに、停戦ラインを破つてとうとう十一月十九日にチチハルへ入城した。

 折角取つたチチハルであつたが又も参謀総長の命令で兵力を撤退させなくてはならぬ破目となつた。中央部が一番心配していたのはソ連の動向で北満に手を出すのは危くて見ておられないと云うことだつたらしく、とうとう二宮参謀次長が天皇から大権の一部委任を受けて臨時参謀本部委任命令などというのを持つて来て、圧えようとした位であつた。

 こうして我々は事変の進行のために計り知れぬ苦労を重ねたが、十二月に、犬養内閣が出来て荒木陸相となつてからはようやく、満州問題がスムームに運ぶようになつた。特に十月事件の陰謀が政界に洩れて、軍に反対すると命が危いという恐怖感のためもう軍の行動をチェックしようとする意欲を政治家も失つてしまつたようであつた。満州事変をあの時期に起したのはタイミングとしては非常に良かつたと思う。内地の無定見な連中を説得するのに苦労した他、国際的に事変の進行が邪魔された事はなかつた。(文責編集部)