資料

上海事変はこうして起された

河出書房「別冊知性」1956年12月号

上海事変はこうして起された

――第一次上海事変の陰謀――

私の半生はいわば謀略工作に終始したと云っていい。当時の陸軍支那関係者の大部分がそうであったが、私は偶然にも昭和の歴史の中で重大な意義を持っているいくつかの事件の中心にあった。その中から第一次上海事変と綏遠事件について述べて見たい。何れも真相を知れる者今では私一人と云って過言ではない。

当時上海駐在武官補佐官

田中隆吉

北京駐在員を命ぜらる

 私が陸大を出て、参謀本部支那課に入ったのは大正十三年であるが、この頃は、支那を研究しようという人達がふえて私の同期(陸士二十六期)だけでも影佐禎昭、花谷正、和知鷹二、林義秀、雨宮巽、臼田寛三、宮崎繁三郎等後に有名になった連中がそろっていた。何れ劣らぬ、荒武者で、頭の方はともかく、実行力の方では誰にも負けなかった。影佐だけは別格で、陸大の軍刀組の秀才でありながら途中、作戦課から支那専門に変ったが、彼は時々「俺は支那課の頭のわるい連中を教育するために来たんだ」と放言していた。この人は策略に富んだ、陰謀家でもあったが、他の連中の工作よりは着眼も行動もあか抜けていたと云えよう。昭和二年から約二年間私は北京駐在研究員を命ぜられていたが、特に、外蒙古の研究をするように云われていたので張家口にもしばらくいて機を見て外蒙を旅行したいと思ったが、とうとう入れず、内蒙を廻っただけだった。その頃内蒙独立運動をやっていた徳王との知己になり、色々議論したが、数年後内蒙工作で一緒にやって行くようになったのも奇縁である。

 私は内地に帰って対ソ作戦の際、外蒙のウルガからシベリアへ通ずるルートを使用したら如何という報告書を出したら、岡本(連一郎)参謀次長から一笑に付されてしまった。

 昭和四年内地に帰ってから、参謀本部調査班で建川第二部長の命を受けて、「満州軍政計画」の作製に従事した。之はもし満州を軍事占領するようなことが起ったらその後どういう風に統治するかという計画であった。

 これを関東軍で仕上げさせるため角谷主計少佐を送って、向うで出来上ったものが満州事変後の軍政計画の骨子になった。

第一次上海事変陰謀の真相

 昭和五年十月に、私は調査班を出て上海駐在武官補佐官に赴任した。当時の武官は矢張り支那課出身の佐藤三郎少将であったが温厚で落着いた人であったが私の行動には殆んど掣肘を加えなかった。この頃私が宋子文暗殺や重光公使暗殺を計画したということが重光回想録に書いてあるが、之は全くの誤解である。宋暗殺を計ったのは、孫科系のテロリスト達で失敗して私を頼って来たので匿っただけで重光暗殺などは考えてみたこともない。

 満州事変が起った六年九月私は上海に居たが「ははあ。やったな。」と思った。関東軍の板垣、石原、花谷それに今田大尉等が中央の建川第一部長や、橋本欣五郎等と連絡して九月頃に事変を起そうとしている気配はその前から私の所にも伝わって来ていた。

 十月初旬、関東軍の花谷少佐から至急来て欲しいという電報が来たので、佐藤武官には黙って奉天に出かけ、板垣大佐、花谷の両人に会見した。板垣等は「日本政府が国際連盟を恐れて弱気なので、事ごとに関東軍の計画がじゃまされる。関東軍はこの次にはハルピンを占領し、来年春には満州独立迄持って行くつもりで、今土肥原大佐を天津に派遣して溥儀の引出しをやらせているが、そうなると連盟がやかましく云い出すし、政府はやきもきして、計画がやりにくいから、この際一つ上海で事を起して列国の注意をそらせて欲しい。その間に独立迄漕ぎつけたいのだ」という話であった。更に溥儀妃を満州に連れてくるため、私と親しかった川島芳子を天津に派遣してくれという依頼も受けた。

 関東軍は帰りがけに、運動資金に二万円をくれたが、これだけでは足りないので、後に鐘紡の上海出張所から十万円を借りた。

 それから、支那課に連絡して機密費を少し出して呉れと頼んだら、関東軍の連絡で、計画のあらましを知っていたらしく、課長重藤(千秋)大佐、班長根本(博)中佐、影佐少佐等、大いに乗気でしっかりやってくれということだったが、資金の方はどうも応じ切れないという話で、正月に専田(盛寿)大尉が連絡にやって来て激励して行ったが、金の方はとうとう出ずじまいだった。

 一方上海には重藤支那課長の弟である重藤憲兵少佐が共産主義研究のために駐在していたが、私と彼は余り仲が良くなかったとはいえ、この陰謀では協力して、仕事をした。実際の仕事は殆んど彼がやってくれた。

 さて準備もほぼととのったので、翌七年一月十八日夕方江湾路にある日蓮宗妙法寺の僧侶が托鉢寒行で廻っているのを、買収した中国人の手で狙撃させた。二名が重傷を負い、一名は後に死亡したが、支那側巡警の到着がおくれたために犯人は捕らなかった。待ち構えていた日本青年同志会員三十余人が、ナイフと棍棒を持って犯人が匿れていると主張して、三友実業社を襲って放火し、帰路警官隊と衝突して死傷者を出した。之が上海事変の発端である。

 翌二十日には居留民大会が日本人クラブで開かれ、中国側新聞の不敬記事(桜田門事件に関するもの)問題及び僧侶襲撃事件について対策を協議した結果、排日運動の絶滅を帰するために陸海軍の派遣を政府に請願することになった。一方私も方々を飛びまわってこの際出兵すべきである旨を説いてまわった。少し熱心に過ぎたせいか、私が当時の三井物産上海支店長福島氏にピストルをつきつけて、団琢磨に出兵要請電報を打てとおどかしたという話が伝えられているが嘘である。

 そうしている内に一月二十八日、日支両軍はとうとう戦闘を開始して本格的な戦争になって来た。日本は最初海軍陸戦隊だけで十数倍の蔡梃諧軍を支えていたが、苦戦になったので、下元混成旅団と第九師団を上陸させ、それでもらちがあかないので、二個師団を揚子江の上流に上陸させて、ようやく上海を抜いた所で、三月三日停戦協定成立となったが、我々の陰謀は効を奏して、列国の眼が上海に注がれている間に、満州国は三月一日に独立してしまった。

 しかし、我々のやった陰謀は途中から薄々海軍側に気付かれたらしく、海軍がかんかんになって怒っているという噂を耳にしたが、或日山岸中尉以下数名の海軍青年将校―後に五・一五事件を起した連中―が私の部屋にどなり込んで来て、ピストルと刀をつきつけたことがあった。中央部でも海軍側から抗議が出たということだったが荒木陸相は元々寛大な人だし、何ということもなかった、永田(鉄山)軍事課長と上海派遣軍の岡村(寧次)参謀副長に叱られたことはあったがそのまま有耶無耶になってしまった。叱られるなら、関東軍が発案者だし、その上満州事変迄やっているのだから、罪は向うの方が重しとせねばならぬ。

冀東工作と六郡事件

 昭和十年三月私は、中佐に進級して関東軍参謀となり情報を担当している第二課に勤務した。当時の軍司令官は南大将参謀長は西尾(寿造)中将、副長が満州事変の立役者板垣少将、第二課長が石本(寅三)大佐、(次いで河辺虎四郎大佐)第二課では柳田(元三)少佐が対ソ情報を、私と専田少佐が対支情報と工作を分担していた。

 南大将という人は元々野心家で、満州国を西と南に拡張しようという野望を持っていた。之に板垣少将がくっついていたから、関東軍は本来の任務である対ソ作戦準備を忘れて専ら華北工作に専念するようになった。

 当時支那各地に駐在していた武官達が支那通の大御所である板垣を中心に集って練り上げた計画は、華北の宋哲元(チャハル)、閻錫山(山西)、
韓復榘(山東)等を連ねて、北支五省を独立させ、南の方は李宗、白崇禧等反蒋系の広西派を糾合して、南北より南京政府を挟撃して、蒋介石に云うことをきかせようというので、之に徳王を中心とする内蒙も加え、兼ねて、西方赤色勢力の侵入に対する防壁を築こうと云うのであった。

 まずその手始めに、六月、梅津・何応欽協定によって中央軍が河北省から撤退し、その後には、チャハルの宋哲元が入った。又土肥原秦徳純協定によってチャハル省から宋哲元を追い出し、代りに内蒙の保安隊に、チャハル南部を占領させた。

 その年の末には土肥原少将が華北五省連合政権を作るために北京に潜入したが、うまく行かず、結局中途半端な性格の冀察政務委員会(委員長宋哲元)が出来、又、失敗の代償の一つとして冀東防共自治政府を作上げた。之は完全な関東軍の傀儡政権で主席には、日本人女性を夫人にしている殷汝耕が就任した。この工作には私と専田が当ったが、冀東政府の行った大々的な密貿易は巨大な利潤をあげたので、私はその一部を出させて内蒙軍の育成費用に注ぎ込んだ。その代り冀東貿易によって支那経済は撹乱され、特に天津海関の関税収入が激減したので南京政府の財政は大打撃を受けた。

 私は当時之によって、国民党圧迫と内蒙軍育成という一石二鳥の効果をあげ得ると考えていたが、勃興途上にあった民族資本に打撃を与えて、反日気分を昂揚させたことは今になって見ると大きなマイナスであった。

 ここで内蒙工作に眼を転じると、前に述べたように私が関東軍参謀に出たのは昭和十年の三月であったが、当時既に徳王は関東軍と接触を初めていた。

 徳王は蒙古旗族の名門貴公子で、青年時代から大蒙古民族の再建、往昔のジンギスカン帝国の再現を夢見ていた。

 私は張家口駐在時代から徳王と相知り、共に語り合った仲であるが、たしかに、彼は、気宇宏大勇気に富み智略に秀れた民族的指導者であった。然し彼の周囲にはかつての特権階級の地位回復を狙う王侯階級や、上海に亡命していた白雲梯、呉鶴齢等の尖鋭分子があり、必ずしも利害相伴わない上に、大多数の民衆は尚無力で沈滞し、その上訓練された近代的軍隊を持たなかったため満州事変によって日本の勢力が内蒙に及ぶ迄は微々たる力しか持ち得なかった。

 徳王は最初蒋介石に接近し、北伐当時、彼に会って蒙古民族運動への支持を約束させ、昭和八年にも会見して、内蒙古政務委員会(蒙政会と略称)の設立でそれに要する経費の支出を認めさせた。蒙政会は、百霊廟に本拠を置き、主席に雲王、秘書長には徳王が就任し、実権は徳王が掌握して着々自治の態勢を整えた。

 しかし、この蒙政会の成立は綏遠省内に於ける満蒙両民族の複雑極まる利害の衝突から綏遠省の実権者傅作義と徳王の間に大きな溝を生ずるに至った。

 元々内蒙の地は不毛の荒地で、農産鉱産に乏しく、牧畜と阿片取引が主たる財源であるが傅軍が山西から綏遠にかけて進出して来たので、対南方交易特に阿片取引は途上で阻止されるようになり、その上南京政府からの経費は遅れ勝ちなので、徳王は傅作義軍を、南方に退けたいと熱望するようになり、関東軍に接近して来たのである。

 一方関東軍も外蒙を通じて南下するソ連軍機械化部隊を阻止する防兵回廊として、内蒙の地は極めて重要であり利害も全く一致する。そこで私が徳王と会って内合わせをした上、十年八月、徳王は初めて新京に来て、溥儀皇帝に謁見し、南関東軍司令官と握手して、満蒙相互援助条約を締結した。

 この条約は、当時極秘裡に満州国外交部の手によって作られたもので、当時の外交部次長大橋忠一氏は熱心な推進者であった。

 このことは、当時日本が中央軍を河北省から追放した時期でもあり、日華双方の中間に立って形成を覘望していた徳王が、いよいよ日本の方へ踏み切ったことを意味する。徳王は剛毅であり、果断であり又聰明である。

 日本の支持を受けると直ちに、興安西省の割譲を要求した。之は到底出来ない相談であるが差し当って、徳王のために領土を獲得してやらねばならない。そこでその年の十二月卓代海の率いる内蒙軍保安隊を派遣して、日本軍将校の指導下に張家口北方の六県城を占領してこの地域を徳王の版図に入れた。いわゆる六郡事件である。

綏遠事件の失敗

 翌年に入ると内蒙工作は著しく進展した。

 二月十一日徳王は李守信と合体して西スニト府に軍政府を樹立し、関東軍からは西尾参謀長が、河辺第二課長と私を連れて祝賀に参列した。李守信は、蒙古人とも支那人とも云われていたが、昭和八年の熱河作戦の頃、熱河省西部に居たのが、逸早く帰順したので満州国中将に任命して多倫に駐屯させていたが、その軍隊は比較的素質優良で、私も大いに努力して兵力拡張に努めた。李守信自身も、沈着で有能な将軍であったから、徳王と合体したことは内蒙軍の威力を大いに高めた。

 これらの工作費は先に述べたように、私が冀東密貿易の収入の中から持って来た。

 当時密貿易の利益は毎月五百万元程度に上っていて、私はその内から二十万元を内蒙に送っていた。注ぎ込んだ金は全部で百万元位ではなかったかと思う。

 ともかく、李守信軍はその年の七月には九師一万五千の兵力に達していたが、尚烏合の衆たるを免れず、ほんとうに使いものになるのは、十二年になってからであろうと思っていたので、綏遠進攻も十二年初春の頃にしたかったのである。

 四月末には徳王の主宰により、西ウジムチンで内蒙建国会議が開かれ板垣参謀長も出席した。八月再び徳王は新京に来て、内蒙独立の承認と、「現在の領域では政府の自活が出来ない、綏遠省内の旧蒙古地域同盟を回復したいから援助してくれ」と申し出て来た。

 私は軍隊の訓練不充分の現状においては失敗に終る公算が大きいから、もう少し時期を待つべきであると主張したが、新第二課長武藤章大佐は、非常に積極的で結局植田(謙吉)軍司令官、板垣参謀長は徳王の要望を入れて進攻を許す他なかった。そこで私がくっついて行って徳王に大なる過失を犯させないよう助言することになった。私に従ったのは桑原少佐、松井大尉の他は、悉く満州国関係の人人であって、自動車の運転手と各盟の顧問等であった。

 私は現地到着と同時に、蒙古軍主力の戦闘参加は見合わせて、一部部隊を敵の後方に侵入させてゲリラ戦を行い、傅作義軍を疲労させて後に、平和交渉によって領土を拡張すべきであると説いて、徳王も之を諒承した。

 このゲリラ部隊は綏遠省五原出身の王英の手によって編成された。

 王英にとってはかつての失地回復という名分が立った訳である。

 その頃徳王と傅作義の関係はいよいよ悪化していた。十一月九日徳王は傅作義に対して次の五ヶ条の要求を提出した。

1 チャハル右翼旗を即時蒙政会に返還すること

2 各地の軍事施設一切を撤廃すること

3 蒙政会保安隊より強奪した武器を即時返還すること

4 蒙政会経費未交付金二十万元を即時支払うこと

5 過般兵変を起した蒙政会叛逆者を即時引渡すこと

 傅作義は之に対して「内蒙の時局は貴下が某方面の使嗾を受けてチャハル省の六旗を手中に収めたことに端を発している。貴下は速に之をチャハル省に返還して中央の命令に服従すべきことを勧告するとの勧告文を寄せて来た。

 かくて十一月十五日徳王は開戦を通電して軍事行動を開始した。

 これに対し、傅作義軍は逸早く大兵を平地泉大同方面に集結させて内蒙軍を迎撃した。

 当時我々は、傅作義を懐柔して日本側と協力させることは可能であろうと考え、私自身も何度か傅作義と連絡したが、その返事はどうも悲観的で、結局合作の企図は成功しなかった。一方王英軍は、華々しく前進を開始したが、何しろ素質不良の軍隊であって、さしたる効果を上げる前に防備の手薄な百霊廟をつかれて同地を占領された。

 実際には大した損害はなかったが、支那側は百霊廟大勝を宣伝し、傅作義は一躍英雄に祭り上げられた。一方中央軍はこの機を利用して二十数万の兵力を北上させ、飛行隊も出動させて傅軍を支援すると同時に、宋哲元等華北軍閥に対して側面から威嚇を加えるという一石二鳥的態勢に出た。

 私は百霊廟を失った後は兵を動かさず、交渉によって事態の解決を図るべきであると徳王に進言した所へ、武藤第二課長が視察に徳化へやって来て、直ちに百霊廟の奪還を命じた。私はそれが無用の愚策であることを武藤氏に説いたが彼は頑として聞かぬ。

 そこで徳王は王英の残存部隊を自動車に乗せて百霊廟に向って出発させたが、この部隊は途中で反乱を起して、随行の小浜予備大佐を銃殺して傅作義軍に降伏した。こういう状況で内蒙軍の形勢は芳しくなく、傅軍は次第に東方へ戦線を圧縮して来た。

 私は終始徳王と共に徳化に在って指導していたが、当時蒙古は酷寒期に入り、撤退する王英軍は雪中を難行したので、私は配属の満州航空スーパー機を使って誘導を行い、又百霊廟に対しても小規模な爆撃を加えた。

 一方中央部は今回の綏遠進攻については充分連絡していなかったので、気嫌は良くないし、何より困ったのは、北支駐屯軍が非協力的なことであった。内蒙軍の形勢が悪化して来たので天津―北京―張家口間の鉄道を利用して弾薬を輸送することを頼んだが、仲々いい顔をせずやっと承諾した。

 支那駐屯軍は、以前から自分の所管領域内を関東軍が我物顔で工作するので感情的に不快に思っていたし、特に土肥原工作が失敗した後、中央の仲裁で、今後関東軍は北支工作に手を出さない代りに、内蒙工作を自分の手でやることに了解が出来たという経緯もあったので、両軍の間はしっくり行かなかった。

 関東軍ではこのまま事態が推移すると、内蒙軍全滅のおそれもあると考えたのか、今村(均)参謀副長を十二月上旬に上京させていざという時に関東軍の出動をみとめてもらうように要請したが之は拒否されたということであった。私は現地にあって傅作義軍は徹底的な追撃はやらないだろうと判断していた。

 問題は結末をどのようにつけるかということであったが、幸いにして十二月十二日突如として西安事件が起り、督励のため西安に在った蒋介石が監禁されたので、支那側も之以上戦闘をつづける余力なく、自然停戦の形になってしまった。徳王も之を幸いとして直ちに中国の不幸に際して闘争を継続すべきにあらずと宣言して戦闘を打ち切った。もし、西安事件が起らなかったら、局面はもっと悪化したであろう。

 しかし、支那軍が日本軍を破ったという宣伝は全国に行きわたり、国民は反日の気勢をより高め、しかも侮日の感情も抱かせるようになったのは、何といってもマイナスであり、この意味で綏遠軍事件は失敗であったと云わなければならない。