資料

香河県のいかさま師

梨本祐平「中国のなかの日本人」第一部第三章
1958年、平凡社

香河県のいかさま師

 この頃、京津日日新聞(天津発行の邦字紙)や庸報(天津発行の親日漢字紙) などが、毎日のように冀東地区の農民自治運動に全面を埋めて報道していた。大阪朝日、大阪毎日新聞でさえも取り扱って、冀東地区に起った農民自治運動は、遼原を灼く火の如き勢いをもって、今にも華北全省に波及しそうな気配を感じさせている。

 塘沽協定によって、満州国に隣接する長城線寄りの二十三県が非武装地帯となったが、そのうちの香河県の農民が自治を要求して蹶起し、その農民の中に武宜亭という傑出した指導者がいて、その勢いは日に日にさかんになり、河北省はもとより河南から山東省にまで延びる状態だと言う。私が毎日の新聞を読んで注意をしていると、ある朝、若い二人の日本人が私をホテルに訪ねてきた。会って見ると、

「われわれは松村天堂の部下で、今香河県の農民自治運動を指導しているが、何分にも資金が不足している。貴下は松岡総裁の特命を受けてきているときいている。松岡総裁でも貫下でもよいから、資金を少し寄附して貰いたい」

 と言う。

「私は農民自治運動のことは新聞で読んでいるだけで、松岡総裁に寄附を頼むだけの知識がない。しかし、貴下たちもせっかく運動しておられて資金もお入用だろう。私のできる範囲で勘弁してもらいたい」

「さっそくご承知をいただいてありがたい」

 ということで、松岡総裁から送ってきた金がそのままあったので、三百円を出した。

 私は満鉄から機密費として、自由に使える枠が一カ月二千円位あった。松岡総裁から不規則に五万円、十五万円と送ってきた。これは松岡総裁は自分の莫大な機密費で足りないで、時時、山本粂太郎、久原房之助、親類の三井の重役石田礼助等から資金の供給を受け、その都度私にも余分を送ってくるのだった。

 二人の青年は非常に喜んで帰ったが、夕方またやってきて、

「松村先生も非常に喜んで、今夕、席を設けてご懇談申し上げたいから、『敷島』(料亭)までお越し願いたい」

 とのことである。しかし、この夜は朱華の斡旋で大公報の若い記者五、六人と夕食をともにする約束があったので、

「せっかくご招待を受けてありがたいが、今夜大公報の記者たちと約束があるので行かれない。その代り、明朝私の方から松村さんのお宅にお伺いする」

 と明朝を約束した。

 翌朝十時頃、ホテルの近くの『旭軒』という日本風の小料理屋の二階に下宿している松村天堂を訪ねた。八畳二室に松村夫妻、青年六,七名がならんでいる。松村(当時五十歳位)は私を迎えて、初対面の挨拶が終ると、

「私は上海に居住しているが、先般、私は空から燦然たる光を放つ霊告に導かれてこの地にきて、さらに霊告に導かれるまま香河県に行って武宜亭という男に会い、農民自治運動を指導することになった。この運動は日ならずして河北省から河南、山東省一帯に拡がり、各地ともその連絡ができている。先生にお会いすることも前から霊告でわかっていた」

 などという。神がかった言葉に、私はすっかり面食ってしまって、ただ黙ってきいているより仕様がなかった。天堂の雄弁はつくるところがなく、

「この二十二日には香河県城を乗っ取り、さらに一ヵ月余にして天津市を乗っ取って、そこで農民自治政府を組織するように、みほとけの霊告を受けている。先生は必ず農民自治政府の最高の地位につくことも、みほとけのご意思によるもので、先生が何と言われてもこればかりは勝手にはできませんぞ」

 私は閉口して、早々にして辞去しようとすると、

 「二十二日の早朝、自動車をホテルの方に廻しますから、家の若い者と一緒に香河県までおいでになって、農民の自治運動を実際にごらん下さい」

 と誘われた。無知な中国の農民を一つの目的に動員するためには、こんな神がかりが必要なのかも知れない。古来より中国の歴史にそんなことは数限りもなくあった。私はこんな風にも解釈できたので、二十二日の朝を約して辞去した。二十二日の早朝、先日の青年が自動車で迎えにきたので、これに同乗して香河県に行った。

 天津から日本里数にして七里はどの香河県は、農村のなかの小都市であった。道路のでこぼこはお話にならないほどひどく、あまりゆられて気持が悪くなった位である。

 香河に着くと、今日は農民が県城に殺到するというのに、農民はのどかな顔をして田を耕している。町の商売人は平気で店を開いている。「少し変だなあ」と思いながら、自動車を降りて町はずれまでくると、三、四十人の苦力が集って、のんきそうに煙草をふかしている。例の青年と、その苦力たちを引率している日本の青年との対話をきいていると、

「今日はこれだけしか集らなかったのか、いったい武宜亭はどうした」

「武宜亭の奴、金のくれようが少いと言ってぶつぶつ言っていたが、これだけ集めるにも骨を折ったとこぼしていた。県公所の附近まで行ったから、もう間もなく帰ってくるだろう。とにかく、今日は成績が悪いよ」

 などと言っている。だんだんと話をきいているうちに、天津や附近の村々から苦力を一日幾銭かで狩り出してきて、これを引率して県公所でデモ行進をやって、農民の自治運動のように偽装させていることがわかった。天津から七里も隔った一寒村のこととて、新聞社もここまで出てくることはしないで、天津で松村天堂から報告を受けて、でかでかと新聞記事として掲載していたのだ。

 そのうちに、武宜亭が帰ってきた。彼は香河県出身ではあるが、天津のごろつきで、苦力を一人いくらで松村から請負って、農民自治運動の指導者に化けている。松村からくる金が足りないと言って、日本の青年にしきりに苦情を言っていた。今日は、こんな人数では県城へ押し寄せることができないから、改めてやり直すことにして解散をした。私も先刻の自動車で天津に帰った。帰途、車の中で案内の青年は、

「満洲国軍の最高顧問佐々木到一大佐から軍資金を送ってくるんですが、どうも松村先生が新聞社や政治的な方面に使い過ぎて、武宜亭の方に廻し方が少いので、近頃、武宜亭の奴、なかなか言うことをきかなくなったんです」

 とペラペラ内幕をさらけ出してしゃべり出す。私は疲れたからと言って、そのままホテルに帰ってしまった。それでも、翌朝の新聞には、農民が集っている写真まで載せて、「香河県の農民自治運動拡大」と大きく取り扱っていた。

 二、三日すると、松村天堂の配下の青年たちが、私のもとにやってきて、松村天堂の悪口をさんざんに訴え、わずかばかりの金をせびるので、くれてやった。私はもう農民自治運動をふりむいて見る気もしなくなった。そんな時、東京から松井成勲という政友会の浪人が華北の視察にきて、私の隣室に泊った。松村天堂は私と同様に松井成勲からも軍資金をもらい、神がかりの一くさりもやったらしい。ところが私のところにくる青年たちが、その時分、金の分け前のことから松村と険悪な状態になっていたので、松井の所にきて内容を全部暴露してしまった。松井はその青年たちを同行して新京へ行き、佐々木大佐に会って委細を報告したので、佐々木大佐は非常に激怒して、松村天堂に上海に引き揚げを命じた。

 これで一時は華北の農民自治運動と大々的に騒がれた事件も、あっけなく終ってしまった。