資料
大日向村満州移民聞き書き
新人物往来社「近代民衆の記録 6 」P.335
1977年03月07日
大日向村満州移民聞き書き
――長野県南佐久郡大日向村(現佐久町)――
歴史教育者協議会大学部会
満州移民研究会編
凡例
(1) 本聞き書きは、一九七一年一二月から一九七三年八月までの間、四回にわたって長野県南佐久郡大日向村(現佐久町)および大日向移民の再入植地である同県北佐久郡軽井沢町長倉(通称軽井沢大日向)の調査で行なったものである。
(2) 調査を行なったのは、歴史教育者協議会大学部会満州移民研究会である。直接調査に参加したものは、山田昭次(立教大学教員)、臼井嘉一 (東京大学大学院生)、祖父江俊一、佐藤知子、尾本成子(以上当時法政大学学生)、平沢公裕、小野尚美(以上当時立教大学学生)、吉田紀子、中江智明、本徳茂、桜井裕司、松浦千晶(以上当時東京学芸大学学生)である。
なお、一九七二年四月の第三回調査に際しては早稲田大学教員依田憙家氏、氏を代表とする日中戦争史研究会の方々や野崎正昭氏にも参加していただいた。
(3) 以上の調査によって四〇〇字詰原稿用紙にして約一〇〇枚余の聞き書き集が出来上ったが、本書に収録する都合上、約半分に縮小して編集しなおすこととした。このため明治期から経済更生運動開始期までにかんするものはすべて省き、その後の時期にかんするものも重要でないものは省いた。
再編集に当ったのは、山田、臼井、本徳、吉田、小野の五名である。さらにそれに山田が点検を加え、注をつけた。最終責任は山田にある。
(4) 証言して下さった方々の氏名、年齢、職業、経歴、地位を記しておくことが、史料として利用しやすいことはいうまでもないが、証言内容によっては公表によって御本人に迷惑や被害を及ぼす場合があることを配慮して、これらを一切記さないことにした。
ただし証言者中、村内で指導者的役割をした人々(村員、学校長、役場や産業組合の書記、移民団幹部等)九人についてはAからIの記号をつけ、その他の人々一八人についてはaからrの記号をつけた。これによって証言者の特定の事項についての記憶の正確度や立場等についてある程度の判定もしくは史料批判ができるであろう。
(5) 証言は事項別に分解して配列した。こうした編集には欠点があることはいうまでもない。しかし他の事項にある同一人名記号の証言を関連づけていただけば、証言者の立場や考え方はある程度推察できるであろう。
(6) ()で囲んだ文は注である。注の典拠はいちいちつけなかったが、次の文献によった。
「分村日誌」(東京帝国大学農学部農業経済学教室『分村の前後』岩波書店 一九四〇 所収)
『更生計画』(小宮山信一氏所蔵文書)
『大日向村満州分村移民の全貌』二冊(小金沢孝造氏編集の史料集稿本)
『大日向村報』一九三七~一九四〇
(7) 当時作成された右の史料に基づいて証言を検討し、明らかに記憶ちがいのものは再編集に際して削除した。しかし疑問はあっても、当時の史料によって真偽を判定できないものはそのままにしてある。
また事実誤認の証言であっても、特定の立場にある人の当時、または現在の意識や思想を示したものは掲載したことは、いうまでもない。
(8) 本書巻頭に収められた山田の論文「ふりかえる日本の未来――解説・満州移民への動員と民衆の意識」は本聞き書きの解説をかねている。
(一九七七.三.七)
[中略]
四 満州大日向の移民団
①渡満の際の心境
- さびしかったね。まだ小さかったからおやじにつれていかれる、何か遠くへ行くような気がしてね。満州へ行くといぅ事はわかっていたけどね。果たしてどんなとこだかね。内心心配していた。(p)
- 満州へ行って国をのっとるという気持はなかった。広大な土地をどうしてこんなに遊ばせて、のんびりしているんだ。もつと富ませたいと思った。原住民といっしよに切り開くんだという気持だった。(j)
②入植地(吉林省舒蘭県四家房)の状況
- 軍部と拓務省が中心となり、満拓公社の援助も大きかった。大蔵公望,那須皓,石黒忠篤,加藤完治,西村富三郎らのバックで年寄り、子どものことを考え条件のよいところを、と配慮し四家房を選んでくれた。(A)
- 非常に平らな所で水田地帯だったです。交通の便は汽車も村の真中を通っているし、駅から近いし、そういうところで日本ではじめての分村を試みた試験移民だったということで政府が後の為を考えて便利のいいところへ入れた。(g)
- 国でやはり分村であるので、できるだけ治安のいいところに入れようと選んでくれた訳です。しかるべき鉄道の沿線であり便利なところでもあり、非常に恵まれたところに私たちは入った訳です。(b)
- 先遣隊が入ったとき、まだ未買収地で団長の一存で「ここだ」ということで、決まったわけです。だから未買収地といっても無理はないわけさ。(i)
- 開墾地のある立派なところ。開拓してないところはほとんどないでしよう。広々とした水田を見渡す限り、山もこんな高い山はなかった。(A)
③土地買収
- 先遣隊としていった土地の買上げはすっかりすんでいた。入植前に耕作していた朝鮮人の一部はまだ私たちのところに残っていましたが、もう全部土地では会場を設け移る準備をしていた。彼らは、しかるべき山の中へ追いやられた恰好ですね。行った人達は、今までそこで小作していた人たちと自分で地主としてそこにいた人です。全部土地を買収されてちがうところに移ったのです。(b)
- 満州大日向は山から何から全部買い占めてしまったわけです。そして連中のいくところの代替地を用意していきたい人はいき、残りたい人はここにいてもいい、ただし日本人がきて、そこを使用する部落は全部でなさいということになりました。替地のことは全部拓務省の満州農政局(満拓公社の記憶ちがいか)というところでやってくれたです。このことで衝突はなかったですよ。(d)
- 満拓公社のやったことってのは、そりゃ実に非情なやり方だったですよ。田畑の買い占め、そして強制立ち退きですな。もちろん、耕していない期間、年中あいているんですよ。買った土地ですから。いやがうえにも小作料課せられるからもちろん払わなくちゃならない。わしら考えてやらなくちゃなあ、当然これは日本の侵略戦争で絶対にこりゃもう駄目かと思った。だけど、てめえの代で駄目になるとは思わなかったもんですから。てめえの代まではまあまあうまく治まるだろうという考えでしたね。(g)
- そういう事を言っていいか悪いかわからないが、向こうから安い価格で強制的に買った。お前達にはもっと奥をただでくれてやるからと。そんな話しない方がいいかな。それは満拓公社がやった。それで「いやだ、俺は昔から住んでいるのだから動かないぞ」といっても駄目だったようです。だからもっと奥地へ行けばなお寒いというので日本の移民に使われて生活した人もいます。(f)
④満州の訓練所
- 訓練所は主として農業と治安維持に対する軍事訓練と言葉ですよね。通訳がいまして、その方に週一べんずつ満語の講習を受けたんです。農業の実地訓練はそれぞれ委託訓練と言って、先輩だとかに一応訓練生として委託される訳です。千振に入ったのは昭和一二年の八月二〇日頃であったと思うんですが。(h)(h氏は第二次先遣隊として八月九日母村を出発した。)
⑤満州大日向村の建設
イ 部落建設
- 昭和一三年二月一一日に、現地に先発一五名が、設営の為に入って(『村報』三月一五日号によれば「二月十一日入植ノ予定ナリシニ当局ノ都合上二月十九日入植」とある)、その後に残り二二名が入ってきたんですよ。一次の先発隊の責任者が、坪井義一さんで、二次の先発隊の責任者は堀川忠雄さんでした。私達が入った頃には、団長と満拓公社の設営隊と測量班が五~六人きていました。私達が入っていっても、満人は関係ない様子でいて、これが日本人か、ぐらいの調子でしたね。(d)
- 一三年の二月一一日に千振から大日向へ改めて入植しました。私は二〇日ほど遅れて二月の末に入りました。その頃はまだ家はできておらず、入植した時などは原住民の家に、満拓公社が立ち退きをさせておいたのですが、移民団全部が入って共同生活したんです。(g)
- 第一部落は第一回の本隊が入り、第二部落は、先遣隊三七名とあとからきた人たちで三六戸つくり、第三・第四・第五部落は第二回の本隊が入りました。第一部落は横に長い形で、第二部落は山の下で、警備上、不都合でしたよ。(i)
- 第一部落が四五戸ぐらいだったかな。ここが一番の中心地で、開拓団本部、それと小学校があった。第二部落、ここも四五戸前後だったね。第三部落は鉄道をこえた所。川が流れていてね。行った当時はこの川に橋がなくてね。朝鮮人は浅いとこ、浅いとこと、馬車で川を渡っちゃうんだけどね。水曲柳寄が、第四、五部落、本来ならば、真中に学校をつくらなきゃいけないんだけど、だんだんつくっていったからね。三年計画ぐらいでつくったでしょうね。第一部落、第二部落が地形的には一番良かったんじゃないですか。(p)
- 第二部落に先遣隊が入った。一番いい所へ陣取っちゃって。その次に我々が行ったけど。だいたい、第二部落と第一部落の人達が満州のPRをしたんだね。(p)
- 第五部落は、人数が足りない為に、よその町や村にお願いして移民にかわってもらったので、浅川村長が来て、五部落は一一か村の国際部落だと言われましたよ。この部落の統制をとるのは、私の夫しかいないっていわれた。(q)
- 開拓団本部は第一部落と第二部落の間にあった。その間の距離は二キロぐらい。(n)
- 開拓団で協同組合ができまして、そこで米やこうりゃんを集めた訳です。(p)
- 大日向開拓協同組合の職員は二五、六人位。最高幹部が組合長、副組合長、その他に警備指導員、農事指導員、昭和一七年頃村制がしかれて「大日向村」という村制となった。組合と行政区分に分かれたんです。行政がしかれてからは原住民が全部私たちの村に入った訳なんです。(g)
ロ 行政組織
- 当時、警備指導員、農事指導員、獣医指導員という三人の満拓公社の指導員がいた。私達は第七次大日向開拓団といったが、五年たって団が解散して、大日向開拓協同組合になったわけだが、私はその時、協同組合に残り、ある一部の中にいる原住民と一緒に村公署をつくって、大日向村というものが生れた。(i)
- 村長は満人だったです。いわゆる助吏というのもあったんですが。日本の助役なんです。それが日本人だったんです。それが小須田兵庫さんです。村公署の課長は全部満人だったです。課長補佐と係長は全部日系だったんです。(g)
ハ 警備
- 各戸ごとに銃があった。(q)
- 銃は皆弾丸一二〇発と銃一丁ずつは、いつ満州人が襲ってくるかわからないから政府から配られたですね。三八式兵銃ですね。……砲兵少尉が警備指導員として政府から派遣され、警備の訓練をしました。散兵して応戦しろってね。(f)
- 千振の訓練所で三八式の銃と弾薬を四〇~五〇発支給されて、そのまま武装したまま入り、終戦までもつていました。(g)
- 昔は関東軍というのがあってね、開拓団も軍が支配していてね、軍の言うことは絶対服従だよ。部落つくるのにも五〇戸以下の部落はつくってはいけないということになって、”ます”のようにして四方に城壁をつくったわけですよ。(d)
⑥満州における農業経営と労働力
イ 満州における農業
- あそこへ行けば、皆平等ですからね。えらい苦しいとかはなくて、なかなか広いところだなあという感じと、もう日本人の人は行った途端、米のご飯を食べられたけどね。仕事をするにはなかなか広いところで、手はまわらないという感じがした。(n)
- 畑の場合は、主として穀物です。こうりゃん、大豆、粟、きび、小豆とかです。(g)
- たばこは堆肥を使って作ってましたね。豚は二〇頭ぐらいでしたか。鶏は一〇羽から一五、六羽ぐらいでした。(n)
- 反収をあげる為に特殊作物に切り換えるしかしようがないということになって、満拓に出す計画書にみんなウソばかり書いて、たばこや白菜を作ってましたよ。機械等も、送ってくるわけだが、そういうのを使って、豆なんか作ってもオマンマ食えないわけだよ。たばこは満州葉たばこに、野菜は舒蘭炭坑に出したわけですよ。契約栽培だったわけですね。(i)
- 改良方面で、一番あたったのが豚でしたね。〇〇氏なんか豚成金でね。わしもやりたくなって、隣の県の満人の大地主からもらって始めたわけだよ。それからヨークシャーのを入れたんですよ。(i)
- ノモンハン事件が終って、昭和一六年かな? 軍納野菜というのが割当てできて、まき付のパーセントで納めることを指示されたわけだが、作付面積が架空のものを報告してしまったんで、県公社にかけあったわけですよ。軍納野菜は市価の三分の一なので、ウソをついていると思われて調べにきましたよ。満州の農業を知らない人間は、作付面積の大半が収穫できると考えるわけだが、虫にやられたりで、八分止まりの収穫しかできないことを納得させましてね。そして大根などを、毎日、満人のところから徴発してもってきて、一八屯の千切り大根を作りましたよ。(i)
- あぜだけ作れば水田ができちゃうんです。それで水入れれば簡単なんです。水田にまきつけるといったって、田植えなどする訳じゃなくて、もみの種を買ってきて水をはっておいてばらまきをするというふうでした。(g)
- わしのところの連中は、炭焼きしかしていないから、くわの持ち方を知らないわけだ。だから、わしはハルピンの訓練所に行って訓練を受けて、それを教えるわけだ。野菜の貯蔵庫にしたって、こっちと話が違うわけだよ。一〇町歩の農業経営をやれとまかされるわけだが、当時、満拓あたりからの指導は一つもなかったので、内地の方の状況からおそわったり、満人をまねたりして、播種したわけだ。虫は出るしで大変だったですよ。(a)
ロ 農業労働力と小作経営
- 私の家は水田四反歩、畑が一町二反ぐらいだったが満州ではずっと多くて、水田が個人で二町歩、畑は三町歩で、あとは小作に出していました。(d)
- 満人をうんと使ったですね。小作人として。満人を自分の家のそばに住まわせて、小作人とするものもあったし、よその満人部落からお手伝いに来させるという形の者もあった。(a)
- 小作は原住民との話し合いで決めた。小作人には春先き、資金を貸し付けた。小作人から申し込み、こちらで田畑の広さからみて査定して貸し付け金を決めた。秋の収穫で返却してもらった。小作料は朝鮮人は籾、満人は大豆で納めた。(m)
- 小作料というのは物で納める。役場・産業組合で事務をやっている人は全然耕せないから、全部満人や、鮮人に貸し付けて小作料をとっていた。(a)
- 私の家では、中国人一人、朝鮮人一人に小作をさせていた。半々に小作料を取っていたようだ。六対四ということも聞いていたが、日本人が六を取っていたのではないだろうか。俺が卒業して以後、一町かそこら耕したが、あと全部貸してあると思う。畑の方が中国人で、田んぼの方は朝鮮人だ。(r)
- 仲のいい隣人ができて二人で片づけて年頃も全然違わない。奴にそれでまかせて、まきつけから除草から一切の世話をみると、その中から一年間に五石のいわゆる賃金をさしあげると(但し奴の生活は一切保証してだよ)だいたい六石位は残る計算になったね。(h)
- 私の家は朝鮮人の苦力が一二、三人は常時いた。一人雇うにはそれなりの土地を開かなくてはならなかった。責任を持って接したならば本当に良かった。純粋だった。匪賊に襲われた時は、自分を本当によく助けてくれた。(q)
- 日本人は満人を使っても労賃を払わなかったり、品物を使っても代金を払わなかったりした。(q)
- お手伝い満人でも鮮人でも安いお金で人夫に雇えて。(f)
- 田んぼは朝鮮人の人二人の畑の方はたまに満人をお願いしたくらいであまり泊まりがけで頼むということはなかった。(n)
- 畑の方は、満人に作らせて、それから田んぼの方は自分で作り、それから作りきれない分を朝鮮人に作らせる。(a)
⑦中国人・朝鮮人と日本人
- 学校の先生は非常に恵まれておって、当時内地で四五~四七円給料をもらっていたんですけどね。満州では二〇〇円位になったですがな。非常に経済的によかったから。まあ、あんな生活はこちらでは絶対望めないね。汽車に乗るのも満鉄はタダ。私はあの頃一〇〇円内地へ送っていたですよ。弟やおふくろがいましたからね。(a)
- 国民だれもが、儀式のときに着る協和服というのがあった。また、白・黒・青・赤・黄の五色のひもで編んだ首にかける綱があった。(j)
- 満人に対して軽視した考えが大分まちがっていたようです。同じ酒など飲んでも満人は酒飲んで赤い顔して外を歩かないとか。私共が行った時、〇〇さんたちがこりゃ一緒に外を歩けないかなあといって満人に対してかなり謙虚な風でしたよ。〇〇さんたちは、ところが、満鉄に乗ったり、他の開拓団へ行ったりすると、もう日系・白系という言葉を使って威張ってましたよ。大日向は案外地域の満人と融和したようでした。(H)
- 満州人とはうまくいってなかった。堀川団長の努力で水路の建設はうまくいった。(f)
- 治安は比較的平穏なところで、満人は六里離れたところに移動した。朝鮮人・満人は当初仲が悪く、日本人開拓民が調停した。日本人と朝鮮人は仲は悪くなかった。(E)
- 朝鮮人は一つの部落を形成しているところでは権利をもっていた人もあるようですが,日本人が行ってからは、日本人の水田をほとんど小作で借りて作っていたんです。(b)
- とかく日本人は島国根性で満人に威張りたがる訳。支那人のうちに遊びに行くと、若い婦人はどこかにかくれちゃうですよ。日清戦争・満州事変・上海事変で日本兵が悪いことをしたですよ。だから、日本人はこわいといってね。年寄りや婦人はどこかへ隠れちゃうですかね。若い婦人は弁天さまみたいな髪をしておしろいつけてましたがね。どこへ隠れちゃうのか、地下室でもあったですかね。大日向の近くの部落のことですがね。(f)
- 中国人が物資を輸送していた時に、日本人は一般の人も武器を持っていて、若い人なんか出ていってそれをおさえちゃう。金をまきあげてそれで物資を通してやるとか。(r)
- まけた時には朝鮮人に危害はなかったからネ。日本人にだけ危害が出ちゃったから。だから結局、中国人と朝鮮人対日本人になっちゃった。(p)
- 小作人は、畑の方は中国人で田んぼは朝鮮人。割合にまあ緊密な関係があったが、結局、日本人と隔りがありすぎていた。すごくネ。小作人の人たちは襲撃には来なかったんじゃないかな。(p)
- 交流といっても、中国人・朝鮮人部落のいちばん親方というか、財閥級の人が日本人と交流する程度だったからね。あとは日本人がほとんど彼らを小作人として使ったから、その人達とは交流したネ。(p)
- 満州では、朝鮮人が日本人としていばっている。満州へ乗りこんでいって、自分の水田を耕すのもただで満人の人夫をつかっていた。ところが私達はそういうことはしなかった。道路もつくる時、人夫を頼んでも出てこない時は、三八銃で武装して部落に入り、男は全部出ろと言って、元気のいい男を選び、シャベルを持たして道路の作業をさせた。夕方作業が残ると、当時五〇銭(日本人は一日一〇銭)を一人一人に渡した。そうしたら「本当の日本人は金をくれるんですか」と言われましたよ。後には腰のまが
った年寄まで出てくるようになって、最後は人選するのに苦労してしまうほどだったです。団長の「絶対に原住民をなぐってはならない。そういうものは早く内地に帰れ。開拓の精神がない」という言葉に従って行動した。(d) - 清躬さんは人種差別を頭におかない人で、五族協和という事を指導した。水路も日本人・朝鮮人・満州人が一緒になってやった。だから襲撃を受けて殺された人は三人ぐらいしかいないんじゃないですか。少ないほうではないですか。(B)
- 団長は暇があったら薬を持って満人の部落に行けと言った。我々はそこに骨をうめるつもりでいたから、仲良くやっていこうと思っていたわけだ。(j)
- 当時五族協和って形で、とにかく一致協力してやっていこうということが言われたけれど、全体としては猫もしゃくしも行ったから、国の威光をかさにきて、目もあてられないようなつまらない輩が多いんだよ。実に困りましたねぇ。(q)
- 主人も私も愛情をもって接していたから、同じ部落にいたってどこへ逃げたってこわくないよ。満人のうちでかくまわれ、鮮人の家でかくまわれて。(q)
- 配給でも綿布類、衣服類なんかは、満州人・朝鮮人は日本人のほとんど三分の一なんて配給なかったんじゃないですかね。それで大豆とか、こうりゃんを供出させて。たんと供出した者に対して衣服をやるというようにしたからね。砂糖類とか、そういうものは日本人には配給があったけれど、満州人・朝鮮人にはなかったからね。そういう点で反感があったと思うね。我々子供でもわかったものね。(p)
- 朝鮮人・満人とのいざこざは多少あった。「どうやって生きていくんだ」「どうやっていこうと俺たちのもんだから守る権利があるんだ。お前朝鮮人がそんなことを言うんだったらどこへ行ったって早い者勝ちなんてことは許されん」まあ、そんなやりとりをしましたね。(h)
- 簡単な住居で土ばかりでできている。入口にはハエががんがんしている。くせえし、にんにく臭い。麦ばたけに作って皮をむいて味噌をつけてバリバリ食べていた。(f)
- 朝鮮人はしつこすぎてね。籾を満人が分けてくれと言ったら籾をふかしてくれたです。ふかせばはえないですから。朝鮮人はたちが悪かったですね。朝鮮人は新日本人だって盛んに満人に威張っていた。(f)
五 八・一五前後の大日向移民団
①戦争末期の中国人・朝鮮人の態度の変化
- 昭和一九年、徴兵直前の朝鮮人青年の軍事訓練をした。その中に頭は良いが生意気でいうことを聞かないのがいたのでしぼったら「金日成に教えてやる」と言った。その時私ははじめて金日成の名を知った。(E)
- 昭和一三年の渡満の時、満人なんかで私共が行けばよけてくれ、駅へ行って切符を買うにも先に並んでいても、どいてくれて先に買ってくれと言われた。汽車に乗って私共を坐らせてくれた。ところが一八年に行った時には、俺達の乗る所だから向こうへ行けなんて言われちゃって。もう日本が戦争に負けることを奴等知っていたでしょう。とんだ時に来ちゃったなあと思いました。私共も敗け戦だなとうすうす感じとりましたから奴等敏感に感じとるなあと思いました。(I)
- わしらもそう長くは安泰でないということは感じた。わしらもごく溶け込んでやつらと打ち明けて話し合ってみるのですがね。日本の人口とシナの人口を比較した時、一〇人の犠牲者を出して一人殺せばいいんだと。日本は絶える。シナ人は残る。それを聞けばわかるだろう。(h)
- ちょうど私が撃たれてから中国人が薬をもってきてくれてね。毛布持ってきてくれたり靴持ってきてくれたりした。その人は終戦の時中尉になってて、その人がめんどう見てくれたけどね。その人が言ってたね、ぼくも日本の為に特攻隊に出るわけだったらしいけど、中国人の司令官に「特攻隊に申し込むのはよせ。日本は負けるから」と言われた。もうわかっていたんだね。もう八月だったから。(p)
②八・一五
- 二〇年の八月一七日から周囲の満人たちがうちの部落に襲って来た。今度は匪賊になって。それで部落のものを略奪していく。家に鮮人の苦力が密告に来るんですよ。「だんなさん来ますよ」とみんなの目をくぐってね。それから部落の人たちをみんなひととこへ集中させて、しまいには各個人個人住むようにしないでね。いざという時には散らばったら助け合う事ができないでしょ。ところが九月九日には六時間もかかるハルピンの方から全部の満人が雲霞の如くに押しよせてきた。それは本当に驚いた。(q)
- 四部落で襲撃に合った時も王さんという満人に日本語で助けを求めて救ってもらった。主人は前からそのうちのそばを通る時は挨拶をしたし土地がほしいと言われれば日本人だけでは、使いきれないからと分けてやった。みんなと提携していくという精神だったから絶対敵はなかった。(q)
- 降伏のニュースが入ったとたん満人が押しよせたんです。部落長さんの家の庭に集められたんですけどね。もうそこにソ連軍が銃剣で立って女衆や子供は庭前に立たさせておいてその間に家具だとかは全部持っていかれちゃったんです。もうそれから私達は家へなんか全然入れないから家の様子はさっぱりわからないのです。そしてそれで学校へ集まってね。家へは帰ることはできずに、ずっと難民生活して苦労し通してきたんです。(n)
- 土民の襲撃は日本人が悪辣だったからである。彼等は名指して日本人を呼ぶくらいだった。しかし責任を持って彼等を使用していた人達に対しては戦後も数人グループでまもってくれた。(q)
- 最初に逃げたのは、関東軍。敗戦三日目に武装解除された。三七四人が死亡した。二〇人は戦死したが他は発疹チフス等の病気で倒れたものである。(E)
- やっぱり敗戦の時に最も反感を持たれたのが軍です。日本で言えば、一番の軍事産業が力を待っていた時代だから。日本人も学生を動員したことがあったでしよ。それと同じように中国人の若い連中をほとんどここへ徴兵しちゃったよね。塹壕を掘らしたり軍事の方へ使っちゃって。それで秘密のことで使った連中はよく殺しちゃったなんて話しを聞いたけどね。そういう人たちが終戦になってどうっと帰ってきたでしよ。だから最初当る所がないから我々に当っちゃっただよ。だから私も撃たれちゃって、我々が一軒一丁ずつもってた三八銃でやられたけどね。なにしろ、日本の軍閥のやり方が悪かっただね。本当に。(p)
- 終戦直後、二部落から出て私の家の小作人だったコウニチマンの家に厄介になった。朝鮮から日本へ帰る為にはどうしても朝鮮人に厄介にならなくてはということでね。その人は、部落でも有力な人だったと思うね。自分でも水田を作っていた。二部落が襲撃されたとき、朝鮮人部落にかくまってもらった。翌朝日本人部落へ帰ってきた。そこに一週間か二週間いたが、親爺達は話をしてあったと思うが「ここにいても日本に帰れるあてがあるから何としてもこの惨状を日本に伝える。朝鮮人なら日本へ帰れるあてがあるから何としてでも日本に近づけ」ということで弟と二人で「行け」と言われた。千円位もらったんじゃないかな。俺達は手違いがあって朝鮮に渡れなかったが一人は渡った。(r)
- 日本人が出て行った後、八路軍と国民政府軍の戦争があって、八路軍が入ってくれば俺達日本人も自由に出られたが、政府軍が入ってくればかくまっただけでも危険だということでね。一一月頃かな。八路軍が入ってきたのは。それ以後は自由に歩けた。朝鮮人の中では若い人は兵隊に行ったり、南鮮の人々はみな帰ったが北鮮の人達は残ったですね。自分達の所は北鮮だったのでずっと居た。県の方でも朝鮮人を差別しないということで割合平静だった。八路軍が入って以後農地や水田の分配を受けた。八路軍が入って来た時、私は「俺達は日本人だ」と言ってね、県やなんかに連れていかれたですね。そこで仕事や何もかもね、決められたような形。北朝鮮の人は金日成の名前は知っていた。(r)
六 大日向移民団の再入植と現在の意識
①引揚者の再入植
- 当時私は召集されて転属転属で兵庫まできて終戦は本土で迎えたわけです。そして村で移民援護会をつくり毎月一日と一五日に会を持ち対策を練り、二〇年八月佐世保までいき帰国者の名簿をつくりなべ・かま・ちゃわんを用意し、身寄のない人の手配等したわけです。中には親類でも「ふみたおしていったんだから面倒見れねえ」という人もいたわけだが、そういう人をまとめて待機したわけです。下船したという知らせで食糧を近所から集めて名古屋まで迎えにいきました。(i)
- 単身で帰ってきた人の入植地を県にかけあったりした。追い出す時は楽隊でドンカ・ドンカやって今は何んだ、このざまは、ということで郡庁に援助物資をもらいにいったがくれず、警察へ行って野辺山の部隊の物資をもらったね。これが初めて援助物資だったね。(i)
- 軽井沢への再入植が一番苦しかったですね。なにしろ田畑を最初から切り開かねばならなかったんですから。(d)
- 再入植地の候補地としては、岩手、野辺山、軽井沢があがっていたですが、大日向母村に近くて土地も大日向に似ているという事、当時の軽井沢町長が親戚だったこともあって軽井沢再入植が決まったですょ。(E)
- 軽井沢は許可なしで開拓始めてネ。新聞で大日向村再び開拓を始めると大きく報道されて。そんな空気があったから許可が得られた。事後承諾ということだネ。(I)
②分村移民をふりかえって
- 戦争がなくって負けていなかったらいいと思うね。気候も変化が大きくて大変だけれども耕地が十分あり、ろくに肥料をくれなくても白菜なんか五キロぐらいのものがぐんぐんできるんだから。思い切った農業経営ができたんだからね。(i)
- 今になってみると、移民も国策の為だった。軍閥の為だったと思いますね。ソ連軍との関係で奥地に開拓団を置いたんですからね。軍隊生活で満州各地を見ましたが、密山県の由利郷(秋田県の開拓団)は治安は悪いし,土地は狭いで、ソ連軍の盾としか考えられませんでしたよ。日本の百姓をいいところに住まわせようなどということは考えられないですよ。大日向を分村を継続させる為のものだったんですからね。(d)(由利郷は国境地帯の東安省密山県ではなく、牡丹江省寧安県にあった。国境地帯の移民団と由利郷を混同していると思われる。)
- 昔の満州時分の「満州大日向村」という振り付けがあってね。それで思い出しちゃみんなでやってますよ。昔をなつかしんでね。八月一三日から一五日はやる盆踊りのことです。(a)
- 今考えてみれば、親達をなくしてきたけれども、満州へ行ったからまた軽井沢大日向に入ったんだから、結果的にはよかったんじゃないかと思います。(p)
- 私は戦争に負けたから、しょうがないこうして帰ってきたけど、それでも私は帰る気はなかったよ。子供も主人もみんなむこうで死んじゃったでしょ。帰る気はなかったけど、友達から言われて親に会いたいなと思って帰ってきたけどね。本当にこんなにならなきゃむこうにいたいよ。どんなに掘ったって上は同じ層だし、満人も鮮人もいい人ばかりなのよ。絶対にこっちが悪い心をもってなきゃむこうは悪い事しないよ。そりゃ素直な人たちだよ。日本人が一番悪かったんだよ。(q)
- 軽井沢大日向の生活はまあ、一番いいじゃないですか。(p)
③現在の中国・朝鮮認識
- 日中国交回復は歓迎している。もっと関係がよくなればいいと思う。満州へ行って、なくなった人のとむらい、墓まいりがしたい。つきあった人とも話したい。会えることができたら、しばらく、といってまっ先に感激してしっかり手を握ってしまうだろう。現在の現住民は豊かでないように思う。(j)
- 満州の朝鮮人はいつもおびえていた。今日の在日朝鮮人はあまりにいばっている。おとなしい者は日本にいてもいいが、犯罪を犯したものは追放すべきだ。(j)