資料
第一次上海事変(昭和七年)の裏話など
東郷神社機関誌「東郷」1977年4月号(第114号)
中山定義(上海事変当時中尉で横須賀鎮守府第2特別陸戦隊員として出征)
第一次上海事変(昭和七年)の裏話など
中山定義(元海上幕僚長・兵54期)
当時、中尉であった私は、横鎮第二特別陸戦隊の一員として出征した関係で、この事変の裏話等に於て特別の関心を持ちつづけてきたが、この頃になって、いろいろの資料も活字となってきたので、大体の輪郭が判ってきたような気がする。
戦後派の人々にも判るように書いてみよう。
順序として、事変の事実関係の経過の要点を追ってみよう。
昭六、九、一八。関東軍は、国策と関係なく勝手に満州事変をおっ始めてしまった。
その後。政府は、ずるずるとその既成事実に引きづられていった。
時日の経過と共に、新中国ナショナリズム昂揚の時勢に乗じた中国人民の排日、抗日気運は次第に高まり、中国全土に拡まりつつあった。
上海地区並びに揚子江流域に居住する約三万の日本人の、生命財産および権益を守るべき任務を有する現地海軍部隊は、次第にその緊張度を加えていった。
昭七、一、頃。上海地区周辺に於て直接わが方に脅威を与えつつあったのは、中国第十九路軍であった。政府軍ではないが、蔡廷階の率いる、南部中国兵三ヶ師、約三万四千の極めて精悍な軍隊と目されており、鉄軍と渾名されていた。
中国軍は、その後更に第五軍の三ヶ師を増強した。
昭七、一、一八。上海東部地区を托鉢中の日本人日蓮宗僧侶が、中国人に襲われ一名死亡。
一、二〇。三友実業社が焼打される。等々の一連の事件が続発し、日・中双方の反感は相互に刺激し合い沸騰しつづけ、日本側の危機感は次第に頂点に近づきつつあった。
一、二八。日本人の居住する日本租界を警備する必要が痛感され、海軍陸戦隊が租界警備配備に就かんとした際、租界西側に於て中国軍側から射撃を受けた。
已むを得陸戦隊もこれに応戦発砲し、ここに戦闘は開始された。
陸戦隊は、陸軍部隊の来援する迄、僅か三千余の寡兵を以て、一〇倍以上の敵軍の猛攻に対し、よく日本租界を死守し、内外の賞賛を拍した。
海軍は、所在の陸戦隊、第一遺外艦隊(塩沢少将)の外に、第三戦隊(堀少将)、一水戦(有地大佐)、一航戦(加藤隆義少将)等を内地から逐次増派すると共に、内地各鎮からの臨時編成の特別陸戦隊を急派した。
二、二。既記の海軍部隊を以て、第三艦隊を新編し、野村(吉)中将をして指揮せしめ、陸軍は、金沢九師(植田中将)、混成二四旅(下元少将)、を急派することが決定された。
二、六。われら横鎮二特陸は二水戦の特型駆逐隊で佐世保から急派された。
二、七。早朝、呉松地区に敵前上陸した。
(中隊長一戦死、一重傷)
二、二〇。上海北方江湾鎮攻撃で、陸軍は千五百名の犠牲と「爆弾三勇士」を出す程の苦戦を強いられた。
二、二三。陸軍は、白川大将を長とする上海派遣軍を新編し、一一師、一四師を増派し、既に現地にいた九師、二四旅をもその麾下に入れるよう決定された。各部隊それぞれ現地に急派され、逐次呉淞・上海地区をその北東方および東方から包囲する如く展開、西方に向け攻撃前進した。
三、三。わが陸海軍の総攻撃を受け、中国軍は敗退し、日本軍は停戦を声明した。
その後、現地陸海軍最高指揮官および重光公使は、英、米、仏、伊の公使をオブザーバーとし、中国側と停戦交渉をつづけた結果、当時、中国および関係列国もこれ以上の事変拡大を好まぬ内部事情を抱いていたし、日本陸軍も満州以外には領土的野心を示さなかったのである。
五、五。停戦協定成立し、日・中両軍はそれぞれ上海地区から引揚げ、事変前の情況に復旧し、事変は落着した。
この事変に於ける彼我の被害は次の通りであった。
死 | 傷 | 計 | ||
日本 | 陸軍 | 六二〇 | 一六二二 | 二二四二 |
陸戦隊 | 一一八 | 六三五 | 七五三 | |
中国 | 四九八一 | 九八四八 | 一四八〇九 |
(防衛庁戦史室資料)
首題に関する主なる点を拾い上げてみると、
第一。この上海事変の直接の引金をひいたものは、一握りの関東軍参謀と、上海陸軍武官補佐官田中隆吉少佐の共同謀略であった。
昭七、一、中旬、田中少佐は関東軍参謀から、「上海で事を起し、列国の注意を満州から上海にそらしてくれ」(註・1)という要請と、工作資金を受取った。彼はこの要請を引受け、既に記した日蓮僧侶襲撃事件等一連の謀略を実施した。
次に、陸戦隊が配備につかんとした際、中国軍から第一砲を発射した件も、真相は、一触即発の両軍対峙の中間で発砲した謀略的第三の仕掛人がおったことは、事変後私自身H氏(未亡人現存)から確証を得た。熱血漢H氏は背後関係に就ては遂に黙否しつづけた。「相手軍から先に発砲してきたので味方は応戦した」という主張は、停戦協定交渉中、日、中双方共、最後迄互に断固として譲らなかった問題点であった。(註・2)
〔余話〕
田中謀略将校には面白いエピソードがついた。事変が片づいて、上海特有の平和気分が蘇った頃、何処からともなく、われわれ陸戦隊は田中謀略に踊らされたんだという説がわれわれの耳に入り出したから堪らない。若い士官の怒りはおさまらず、遂に植松陸戦隊司令官自ら田中少佐を某所に招待し、その不届を激しく面責した処、彼は「………頭をそって坊主となった気持で改心し、将来再び今度のようなことはやらぬ」旨誓って平身低頭平謝りしたので、司令官も赦してやったということが伝えられ、われわれの憤慨も一応鎮まった。
然しその後も田中少佐の謀略癖は一向改まらず、後日の百霊廟謀略の大失敗、東京裁判における米側特別証人として出廷する等その異常性は改まらなかった。(註・3)
第二。日本側が短期間に、優勢な陸兵を派けん集中し、敵を圧倒したことは、用兵の兵理に適っていた。
又、この陸兵出兵の目的を達するや、アッサリ撤兵したのはあざやかであった。これは本来当然のことであるが、昭和十二年以降の陸軍の大陸出兵と比較すると、異質の軍であるかの感すら受ける。
これは白川陸軍大将が、出征に際し、天皇からの「短期に片づけ、決して長追いせぬように」との御注意を忠実に実行した為であったことは今や周知のことである。
良識を発揮し、皇軍の名にふさわしい爽かさを残した昭和期最後の将軍として歴史に輝くであろう。(註・4)
第三。海軍中央は全く無準備で虚を衝かれた。時の大角海相は、腰を抜かさんばかりに周章狼狽し、(註・5)豊田(貞)軍務局長も戦備不整を認めておる。(註・6)
われわれ横二特陸が、敵前上陸前に携帯していた呉淞地区陸図は、雑用紙に謄写版づりの極めて粗雑なハンド・ライティングのもので、呉淞砲台、呉淞クリーク、これに通ずる一本の軍工路の関係位置を示すのみで距離の見当もつかぬ代物であった。その後、陸軍部隊と配備を交替した時の陸軍将校達は立派な陸図を携帯しており、陸海軍装備にもプロとアマ程度の差が認められた。
これは大陸に対する陸海軍の関心の差を示すものとも思われた。
第四。海軍が第三艦隊長官として、国際感覚豊富な野村(吉)中将を起用したことは、列国権益が錯綜し、関係各国の軍艦や警備兵の混在する国際都市上海地区を考慮し、誠に思慮深い適切な人事であったと思われる。
この人事に関する裏話として、当時の米海軍作戦部長プラット大将の忠告(註・7)と末次二F長官を敬遠して野村横鎮長官を起用した経緯(註・8)は、当時の海軍先輩に対する評価を偲んで誠に興味深い。
第五。事変の初期、指揮系統を異にする多数の海軍部隊、艦船が楊子江下流方面に混在し、その指揮系統混乱せんとする兆を認めるや、末次二F長官が、「爾今、当方面の作戦は本職之を指揮す」の鶴の一声を放った後、一糸乱れず作戦指揮をしたことは、事変後も長く、独断専行の適例としてわれわれ後輩に語りつがれたものである。
第六。大義名分の問題である。
海軍は、当面ふりかかってくる火の粉を払い除けねばならず、あのような経過を辿ったことは已むを得なかったことと思うけれども、緒戦当初、われわれクラス連の間には、
「宣戦布告もせぬ、匪賊対手の戦闘で消耗品となるなんてとんでもない」という空気があったことは事実であった。戦闘のあい間にそんな口吻を耳にする上官も、説明なしに「国策の犠牲になるんだ」との結論を繰り返すのみで何となく説得力を欠いていた。
国民的スケールで大義名分から奮い立つのでなければ、肚の底からの敵愾心は湧き起らないことを体験した。
但しこの点に就ては、戦闘が進展し、戦友達が死傷し、喰うか喰われるかの場面に追いこまれるにつれ、いつの間にか本気で戦っておる自分を見出したもので、戦場心理の不思議さを痛感したものである。
第七。事変後、わが軍は戦訓の分析、反省を怠った。
その結果は、後年日中戦争の際、戦場拡大し、再び上海方面に於て、第一次上海事変と同巧異曲の戦闘を再現した場合に、高価なつけを払わされる結果となった。
中国軍は、第一次上海事変後ドイツ軍事顧問団の指導の下に、その防備体勢を一新しており、日本側はその間の情報収拾すら怠っていたのである。「咽喉もと過ぎれば、熱さを忘れる」日本人の欠点を反省たい。
(註)1 当時、満州事変経過調査の為、リットン調査団を派けんしてくる問題は、脛に傷持つ関東軍としては頭痛の種であった。
(註)2 互に不信憎悪に燃えた両軍が相対峙している時、その中間で発砲して、双方をして互に相手軍から攻撃を受けたと思いこませ引金の役目を果す事は、謀略上典型的な手口の一であると思われる。
昭和一二、七、七 盧溝橋事件の時も、第一次上海事変時と極めて類似の情況で、火を吹いたのであるが、その第一砲は誰が射ったかは今迄のところ謎の儘である。当時の情況や手口からみて、中共説(CC国説、劉少奇説)がやや優勢であるが、日本軍参謀説も白と決定した訳ではない。
七夕に北支で第二の柳条溝事件(満州事変発端で関東軍陰謀)が起こるという所謂七夕説は、早くから陸軍中央部にも流れてきていたが、遂に軍事課岡本中佐を調査の為派遣した程であった。
又当時北京方面には可成りの浪人達が流れこんでおり、参謀らと私的に連絡をつけていたものがあったことも事実であった。〔読売新聞・昭和のの天皇〕更に、当時、中国軍側不信行為の決め手として指摘された、陸軍架設の電線切断事件も、実は陸軍参謀の謀略だった真相が近年になって確認されたことは軽々に見逃せない。
(註)3 田中少佐は、度重なる謀略の廉では罰せらるることもなかったらしく、累進して少将となり、東条陸相の下で局長であった。
東京裁判に登場したことは、ひどく陸軍将校団の非難を受けたが、彼が、嘗ての直系的ボスであった東条大将、および終始ライバル関係ではあったが武藤中将に就て、敢てその戦争責任を強調したことは、天皇の戦争責任のことを心配した上の意図的行動であったということを、私は、当時、山中少将を世話した広瀬大使から直接聞いていることを記しておく。
(註)4 太平洋戦争前の日米交渉中、最も難航した問題点は中国からの撤兵の件であり、近衛首相が最後の内閣を投げ出したのも、四度東条陸相と撤兵の件を話し合ったが同意を得られなかったという理由であった。東条陸相は、「日中事変中の一〇万の英霊に対してすまぬ」ということを撤兵拒否の根拠としたのであったが、つまりは、二〇○万余の同胞の犠牲を見る結果となった。然し事実は、開戦時迄の日中事変陸軍犠牲者は一万八千名であった。
(註)5 高木少将「日本海軍始末記」
(註)6 新名丈夫氏「海軍戦争検討会議記録」
(註)7 大川大佐「連合隊艦の功罪」
「当時ワシントン海軍武官下村大佐が米海軍作戦部長プラット大将に、『日米開戦の危険があるから、米国に信頼ある野村提督を上海海軍現地指揮官にできないだろうか』と云われ、これを東京に急電し、野村さんが上海にゆかれ云々」
(註)8 新名文夫氏「海軍戦争検討会議記録」
「当時、末次F長官を二F長官にやると事変拡大するかも知れぬというので野村横鎮長官を二F長官に任命せられた。……あとで末次さんに『なぜ俺を三Fにやらなかったか』と叱られた」という豊田(貞)大将の述懐がある。