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証言・私の昭和史 ①昭和初期

「証言・私の昭和史 ①昭和初期」
1989年2月10日、きき手:三國一朗、テレビ東京編、文藝春秋

装甲車とクリークと ――上海事変の真実――(1965年1月6日放送)

<解説>略

〈証言者〉

宮崎世竜 当時、朝日新聞上海特派員。

田中隆吉 元陸軍少将。関東軍参謀、軍務課長、兵務局長を歴任。上海事変当時は参謀本部付で上海駐在公使館付陸軍武官補佐官(少佐)。

―― 宮崎さん、国際都市上海と、私たちもよく聞いてきましたが、なぜ上海がそういわれたのでしょうか。

宮崎 それは――上海には、その当時、大きな租界があったんです。フランス租界をはじめとして、イギリス、アメリカ、それから日本、イタリアなどたくさんありましたが、フランス租界以外は共同租界といったんです。そして位置が揚子江の河口にあり、その揚子江という大きな動脈を通じて中国の物資が集まる、こういうわけで非常な繁栄をきたしておったのです。この上海、そして南京、浙江を地盤として国民政府というものが成立していたのです。

 各国の権益もそこに集まって非常に繁栄していた、そこで戦争が起こったわけですね。それだから中国にとっては、まるで心臓部に刃をつきつけられたような形だったんです。

 まあ各国とも権益があるし、英・米・仏の陸戦隊もおり、そういった権威があるのに、まさか日本がこういう所に武力を発動するとは思わなかったんじゃないでしょうかね。そういう意味で、中国にとっても国際的にも大事件だったわけで、非常な反響を呼んだのですね。

―― 当時は、日本人はどういう生活をしていたのですか。

宮崎 当時、日本人は紡績業というのが最大の代表的な経済活動ですね。工場は大小合わせて三〇ぐらいあったんじゃないですか。それで中国の民族資本による紡績業がわずかに芽をふいたんですけれど、これはとても技術においても資本力においても、日本にたちうちできないのです。圧倒的に日本の紡績が中国市場を押さえていました。

―― それで排日、抗日ということが上海でいわれましたが、実際には、中国人の対日感情はどういうふうなものだったんですか。

宮崎 それは、元来中国人が日本人に反感を持つということは普通だったらないはずなんですが、当時は満州事変の影響があったでしょう。その満州事変で全国は騒然として抗日の波が高まってきたんですよ。それはねえ、自分の国の領土を奪われ、国は導かしめられるというわけでしたからね。

 で、いちばん最初に立つのは学生です。そこで学生運動が始まる。労働者がそれに続く。抗議することは――いったい、日本がこういうことをするのに、中国政府はなにをしておるのかということです。政府攻撃です。ところが政府は、日本にたちうちできるような武力がないでしょう。戦争を仕掛けるわけにいかない。

―― じゃあ、学生とか民衆にとっては、中国政府のやり方が非常に生ぬるいというわけですね。

宮崎 学生のいうことはもっともなんで、これを無理に押さえるわけにはいかない。中国政府は非常に苦境におちいったんです。ところが日本側はこの政府に向かって、いろんな無理難題を武力を背景にしてふきかける。まあ、まことに中国政府は困ってしまった。

―― そんな上海の状況の中で、宮崎さんが赴任されたのは何年でしたか。

宮崎 私は、昭和五(一九三〇)年の一一月にいきました。一年たたぬうちに、上海で満州事変の起こったのを知ったわけで、中国にだんだん排日の空気が広がっていくのをまのあたりに見てきました。

―― 宮崎さんが赴任された翌年、昭和六(一九三一)年に満州事変が起こった。それに続いて、上海にもなにか起こるのではないかというようなことはお感じになられましたか。

宮崎 まあね、上海は平和だったですよ。排日運動が起こっても経済的なものです。いわゆる日貨ボイコットです。日本品を買うなというわけです。それがだんだん進んでいってね。日本品を買った商人を懲罰するんですね。日本品をウンと買いだめしているのを押収するとかね。はなはだしいときは、奸商といいまして、その商人を引っ張り出して街を引きずり回すのです。

―― さらし者にするわけですね。

宮崎 ええ、それは上海抗日救国委員会の分派ですが、そういう非常に激しいのが出てきました。しかしね、直接日本人に危害を加えるというようなことはありませんでした。

 しかし、例の日蓮宗の托鉢僧に対して、あの事件が突如として起こったでしょう。これで中国人と日本人の直接の衝突が起こったんですよ。

―― その日蓮宗の托鉢僧が、中国人に青竜刀で殺されたり傷つけられたりした事件ですね。

宮崎 あれで、一人死にましたね。

―― この事件をお知りになったとき、どうお感じになりましたか。

宮崎 第一に、非常に上海での中国人の空気が悪くなってきている、そういう日本に対する反感が盛り上がってきているときに、中国の街の中を、例の非常に戦闘的な感じを与える太鼓を叩きながら日本人の坊さんが歩く。ああいうのは中国にはありませんからね。中国のお坊さんは非常におとなしいんですよ。この戦闘的な感じを与える日蓮宗の坊さんに対して、中国人は一種の挑発だと受けとったんじゃないかと思います。

 あのような事態に、ああいうことをやるのは、私は不謹慎だとさえ思いましたね。だから、中国人が怒ってああいうことをやるのは当然だというふうにその当時、私は思っていましたね。

―― 謀略がその陰にあるのではないか、というようなことは新聞記者の勘として、お感じになりませんでしたか。

宮崎 いや、その当時は、私はそういうことを信じませんでしたね、全く。

―― ところで、あのゾルゲ事件の尾崎秀実さんは、当時、上海におられたんじゃないんですか。

宮崎 ええ、私と一緒におりました。その当時の支局長は太田宇之助さんという人で、今もご健在ですが、この支局長と尾崎秀実君と私の三人が支局員としておったのです。もっとも尾崎君は事件が起こってからすぐ帰られましたが。

―― ところで、事件の全体の印象を一口でいっていただくと、どういったことになりますか。

宮崎 とにかく、まあ無駄な血を流したということですな。各国環視の中でね。租界にはタマは飛んでいきませんから、みんな見物ですよ。そりゃ欧米の武官が、もう一生懸命に日本の戦闘ぶりを見物している。ビルの上とかホテルの何階からだとかね。

―― 田中さん、世間ではこの上海事変の火付役は、実は田中さんであると……。

田中 そのとおりです。

―― ズバリ一言でおっしゃいましたね。そうしますと、日蓮宗の托鉢僧が五人托鉢をやっておりましたね。あのとき、上海の路上であの人たちを襲撃させたのは田中さんですか。

田中 そうです。私です。

―― それは、どういういきさつですか。

田中 それは……前の年の九月十八日に満州事変が起こりました。一一月半ばにはほぼ平定した。日本人としては満州を独立させたいんです。ところが列国側が非常にうるさい。そこで関東軍高級参謀板垣征四郎大佐から私に電報がきまして、「列国の目がうるさいから、上海で事を起こせ」と。列国の目を上海にそらせて満州の独立を容易ならしめよ、という電報がきたんです。それで、金を二万円送ってきた。

―― 運動費ですね。大金ですねえ。

田中 今の金にすれば六〇〇万円です。それで私はなんとかして事を起こそうと――。実は私も満州事変に関係した一人ですから、是非成功させたいと思いました。当時、親しくしていました川島芳子さんという女の人がいました。

―― 例の男装の麗人……

田中 ええ、これに二万円渡しましてね。上海に三友実業公司というタオルの製造会社があったんですが、これが非常に共産主義で排日なんです。排日の根拠地なんです。「それをうまく利用して日蓮宗の托鉢僧を殺せ」ということを頼んだんです。それが、果たしてやったです。

―― やりましたか。

田中 一人殺されて、二人は傷ついたんです。そこで私は、このときこそ事を起こそうと思って、当時、上海に日本人青年同志会というのがあったんですが、それをちょうど上海にきておった重藤千春という憲兵大尉に指揮させて、その抗日色の強い三友実業公司を襲撃させたんです。そうすれば必ずや日支間に衝突が起こると、私はそう確信したんです。果たして、その後の日支間の空気は非常に険悪になった。そこで当時の上海の松井倉松総領事がシナ側に抗議したんです。こういう排日運動をやめろと。すると、中国側は全面的に承知したんです。ところが、日本の居留民が承知しないんです。非常に激昂したんです。で、上海陸戦隊に頼んだんですな、なんとかしてシナ人の排日運動をとめてくれと。ところが、だんだん険悪になりまして、一月二八日の晩に陸戦隊と一九路軍が衝突したんです。

―― そのときには一九路軍は前面に出ていたんですか。

田中 ええ、もう出てたんです。もう待っておったです、反撃を。

―― すると、もう向こうの方も準備ができていたんですか。

田中 すっかりできている。塹壕を作って。陸戦隊が出動すると、すぐ反撃してくる。それで上海事変が起こったんです。

―― そうすると、いわれているとおり、上海事変の火付役は間違いなく田中さんだったと……。

田中 そのとおりです。

―― なにかほかに方法はありませんでしたか。

田中 いや、ありませんな、それ以外に方法はない。

―― じゃ、なんとかして日支間に争いをまき起こして列国の注意をそっちへ向けておいて、その陰で「満州国」を独立させてしまおうという……。

田中 そのとおりです。

―― それが結局は成功というわけで…。

田中 そうです。そうして三月一日にですな、「満州国」は建国できた。あとで関東軍の板垣大佐から非常に丁重な礼状がきました。

―― よくやったというわけですか。

田中 お陰で満州は独立できたと、私はほめられたんです。

―― これで上海事変が起き、そして、次第次第に日本は暗い戦争の谷間へ追いやられていったわけですが、その当時、上海事変の挿話の一つとして、爆弾三勇士というのがありましたね。あれは実際にあったことなんですか。

田中 あったんですけれどもねえ、これは、廟行鎮の鉄条網を爆破するために命令した上官がですな、爆薬の導火線の火縄を一メートルにしておけば、あの鉄条網を爆破して安全に帰ることができたんです。それが誤って五○センチ、すなわち半分にしてしまったんです。それで、江下武次、北川亟、作江伊之助の二人は無残な戦死を遂げちゃったんです。

―― じゃ、あれは事故ですか。

田中 事故です。上官の過ちです。彼らは完全に爆破して帰れると思っていたんです。ところが、その導火線のことから、ああいうことが起こったんです。

―― じゃ、ああいう事故を、あのような美談にだれかが作り上げたんですか。

田中 そうです。荒木貞夫大将です。当時、陸軍大臣の荒木さんが爆弾三勇士の名前を作ったんです。

―― そうですか。では、この事実を知っていた人はどういっていたでしょうかね。

田中 いや、知ってるのは私一人でしょうなあ。この問題で、私は海軍から非常に怒られました。

―― 海軍が、どうして怒ったんですか。

田中 怒ったです。田中は架空の事実を新聞記者に語ったというんです。

―― 架空のね……。 陸軍は出しぬいたというんですか。

田中 そうです。元来、陸軍と海軍は仲が悪いでしょう。そこで植松というその当時の陸戦隊の少将(当時、海軍陸戦隊指揮官、植松練磨少将)がですな、「田中を殺せ」といったわけです。それで三上卓中尉ら――のちに五・一五事件を起こした連中が私を襲撃したんです。軍刀と拳銃で「命をくれ」と……。

―― それが無事で、今日こうしていらっしゃる。どうして切り抜けられました?

田中 「爆弾三勇士は自分で突っ込んだんじゃない、上官のミスでおきたんだ。彼らは実に勇敢な兵隊だった」と、「そういうことをいって、あなたは海軍を馬鹿にするか」という。「馬鹿にしてはいない。敬意を表しておる」「しからばそれをここに書け」というんです。

―― 一札書けというのですね。

田中 ええ、「植松練磨司令官の命令だから、司令官に申しわけのために一筆書いてくれ」と。で、私は仕方がないから一筆書いた。「事態発生以来の海軍の行動に対して敬意を表す」と、それで私は無事であるわけです。

―― そのときやってきた三上さんという方には、五・一五事件のときの三上さんということですね。

田中 そうです。五・一五の隊長です。

―― そうすると、その三上さんは三月にきて、五月まででまた帰ったんですか。

田中 それはこういうことです。当時の私の上官、田代皖一郎参謀長、当時の公使館付武官であって参謀長になった人ですが……、この人が非常に憤慨してですな、陸軍省に電報を打ったんです。「海軍はけしからん。田中少佐を殺そうとした。陸軍省は海軍に抗議する。 海軍はすみやかに三上らを帰させてくれ」と。

―― それで三上さんは呼び返されたんですね。

田中 そうです。もし私がですな、襲撃されることがなければ、五・一五事件は起こっておらんですな。私を襲撃したばっかりに内地に帰って五・一五事件が起こったという、これが実情です。

―― ところで田中さん、あれから二三年たちましたが、当時を振り返って、今どうお思いになりますか。

田中 私ももう七〇歳です。実はですな、東京裁判で私は戦犯にならなかった。佐藤賢了中将が「田中少将は上海事変を起こした元凶だ。あれが戦犯にならぬのは不思議だ」というんです。

―― 田中さんご自身では、どうお思いになりますか。

田中 今考えますとな、今日無事でおりますのは、全くなんらかの神のご加護だと全く感慨無量ですけれど、国民諸君に対しては、かくの如き上海事変を起こして、まことに衷心相すまんと思っております。

―― ところで田中さん、あのクリークというものが上海の特色になっているようですね。

田中 非常に多いですよ。上海事変が片付かなかったのはクリークが多かったためです。あれがなければ一週間で片付いたんですが、実際は一か月半も戦ったというわけです。

―― もう三三年前のことになりましたね。

(昭和四〇年一月六日放送)