資料

日中十五年戦争と私

「日中十五年戦争と私」
1974年、著:遠藤三郎、日中書林

I 戦端が「満洲」に > 一 参謀本部作戦課勤務時代(一九三一年五月――一九三二年七月) > 緊迫状況下の陸海対立

緊迫状況下の陸海対立

 二月に入りまして上海方面の情況はますます緊迫し、海軍は連合艦隊から五千名も兵を抽出して陸戦隊に増派しましたがなかなか埒があきません。元来日本海軍は米海軍に対し太平洋の守りを固めるのが使命でありましたから、その任務を留守にして陸戦に力を割くことは誤りであります。ことに連合艦隊から抽出した兵の中には小銃の操作も十分習っていないものもありまして、安全装置のまま、引金を引いて弾が出ないのを”上海は寒いので遊底が凍りついて動かない”と言ったとかの笑い話さえあったものです。私は心痛の余り二月三日に懇意にしておった相棒の海軍軍令部作戦課主任参謀金沢正夫中佐(後の中将)に連絡した所、金沢参謀は陸軍部隊の派遣を希望しましたので、私は陸海軍間の連絡に当りました。翌二月四日朝海軍軍令部次長から正式文書を以て参謀総長宛陸軍派兵の請求が来ましたので私は早速陸軍派兵の仕事に取り掛りました。

 私は少くも一個師団の派兵を必要と認め、金沢の第九師団を充当することに致しました。しかしそれを動員して上海に到着さすまでには少くも十数日を要しますのでその間上海の陸戦隊が持ち堪え得るかどうか甚だあやしいので、そのつなぎとして北九州の第十二師団から平時編成のまま混成一個旅団を海軍の駆逐艦に乗せて急派することに計画致しました。ところが海軍からは「陸軍の派兵は混成旅団のみにして第九師団の派遣は見合わされ度し」と言って来ました。

 海軍の情勢判断は甚だ甘いだけでなく、混成旅団は第九師団が後から続いて行くことを前提として編成されたもので、偵察の機関も補給の機関も付いておらず独立して戦闘し得るものではありません。その上私が金沢参謀と陸兵の派遣に関して交渉した時の”派遣兵力は陸軍に一任”という約束にも反しますので、私は軍令部の作戦課長近藤信竹大佐(後の海軍大将)と厳談の末、同日夕刻ようやく海軍側を説得して陸軍の計画通り第九師団(応急動員)と混成第二十四旅団(平時編成)を派遣することに決まりました。

 海軍が第九師団の派遣を嫌ったのは表面の理由は情況が必ずしも大兵を必要とせず、かつ師団という戦略単位の派遣は国際的の反響が大きいので不利と判断したのにありましたが、内実は当時上海で戦っている陸戦隊長は海軍少将である関係上、陸軍中将を長とする師団が来たのでは陸戦隊がその指揮下に入れられ痛を貸して母屋を取られるのを嫌ったのが本音であった様でした。陸海軍の関係の難しさを示す一例であります。

 余談になりますが満洲事変で関東軍が営口附近の匪賊を討伐した際、営口方面から海上に逃避する匪賊を監視するよう在旅順の海軍に依頼したが、”演習中だから応じ兼ねる”と拒否されたとか、また溥儀(後の満洲国皇帝)を天津から営口に移す時も海軍に協力を依頼したがそれも峻拒されたとか、当時の関東軍参謀が私に怒りを込めて話しておりました。

 また、昭和七年満洲国が誕生し関東軍司令官が駐満大使、関東庁長官を兼ね、三位一体となって一元的に満洲国を育成、指導しようとした時も海軍は独立した駐満海軍部を設置して関東軍司令官と併立さしたなど、陸海軍対立の壁はなかなか厚いものでありました。

 私は大正の末期海軍軍令部の参謀を兼務し、また昭和二年には海軍の軍縮会議にも参加したりして海軍には知己も多く親しい関係にありましたので、いつも隔意なく話し合っておりましたが、右の例にもある様にどうも陸海軍の対立意識は後々までも消えなかった様です。昭和十八年、大東亜戦争も戦況不利に傾き陸海軍航空の一本化が不可欠と思われた時でさえ、一体化したのはわずかに生産部門だけで、ようやく航空兵器総局が誕生したもののやはり陸海軍の対立は解消されず飛行機の奪い合いが続きました。私は総局長官として陸海軍が仲よく折半するよう一案を草して陸海軍当局に提出した時、陸軍次官と参謀次長が恐ろしい見幕で「予め我々の了解も得ず敵側(海軍のこと)に書類を渡すとは何事か」と私に喰ってかかり東条大臣からは即刻書類の撤回を命ぜられたこともありました。この様な例はいくらでもあり、陸海軍の対立は戦争に敗けて陸海軍が消滅するまで続いた様に思われます。しかしこれは日本だけではなく米軍も同様であった様ですが、結局軍人の偏狭な功名心の過剰という本質から来ているものと思います。

 ただし、これ等は概ね職業軍人とくに上級軍人にあるのでありまして、下級の兵にはあまり見られなかった様に思います。ここで記述する上海事変の中で私が実際に見たのですが、二月二十九日(この年は閏年)の夜揚子江口から揚子江を遡って上陸点の七了口に行く際、上陸の時使用する艀舟を本船の後にもやって牽いて行くわけです。途中で艀舟が転覆しない様に二、三名の兵が各艀舟に乗って操作せねばなりません。したがってその兵は本船のスクリューからの水しぶきをかぶります。しかし陸軍の兵は防水の外套を持ちません。二月の末とは申せ夜の川風はなかなか寒くありました。

 それを見た海軍の水兵は自分の着ている防水外套を脱いで陸兵に貸しております。”おれ達は君たちを七了口迄送って行けば任務が終るが、君達はそれから戦をするのだから風邪を引いてはいかん”と言って。また七了口に着いていよいよ陸兵が本船を離れて艀舟に乗り移ろうとする時、海軍の水兵達が陸兵に菓子袋を渡し”おれ達はいつでも酒保に行って食えるが、君達は上陸したらなかなか手に入るまいから遠慮せずに持って行け”と言っております。誠に涙ぐましい様な麗しい情景でした。

 しかし上級者になるとなかなかそうはいきません。この時私は徳島県の小松島から第二艦隊の旗艦妙高(一万屯巡洋艦)に乗って上海に行ったのですが、その航海中艦隊参謀の宇垣纏中佐(後の中将、敗戦の時航空艦隊司令長官として飛行機に搭乗、沖縄沖で自爆した人)と一緒におりましたが、彼は私に「陸軍は怪しからん。海軍を出し抜いて勝手に満洲事変を起し、国民の人気を一人占めにしている。今度は海軍がやるぞ」と真面目に言われました。上海事変の導火線は先にも述べた様に日本の僧侶二人が上海市中で中国人に傷害されたことにあるといわれますが、やはり海軍軍人の中に宇垣参謀の様な考えが伏在しておったのも一因であったことは否定し得ない様です。

 満洲事変に対する国際輿論もやかましくなりましたのでその目を満洲から上海にそらすため関東軍のやった謀略という者もおります。現に私の友人で当時上海に勤務しておった田中隆吉少佐(幼年学校、士官学校、砲工学校、陸軍大学共に私と同期生で後の陸軍少将。終戦後東京裁判でキーナン検事の懐刀と言われた人物)から”日蓮坊主の傷害はおれがやらしたのだ”と直接聞いたことがありましたが、国際都市上海附近で戦闘を開始するが如きは却って日本が侵略者としての悪評を受けるのみで、満洲問題の解決にはプラスになるとは思われませんでしたが。