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昭和史を縦走する
グラフ社「昭和史を縦走する」
1984年8月、著:秦郁彦
柳条溝事件の再検討――残された疑問 > (七)爆破現場からの証言
(七)爆破現場からの証言
その後久しく柳条溝事件に関する重要な新史実は出ないままに十数年が過ぎた。あえて付け加えれぱ、石原家所蔵文書を公開した角田順編『石原莞爾資料―国防論策篇』(原書房、昭46)で、昭和六年九月をふくむ石原の日記(ただしメモ書き程度の簡略なもの)で、関係人物の動静や、一度中止した爆破の決行が九月十六日に再決行と決まり、その手筈が石原と今田、中野との間で打ち合わせされたことが明確になったり、大構想の変遷を示す石原の未公開メモがいくつか紹介された。また児島襄氏は『満州帝国』第一巻(昭50)で、張学良軍の軍事教官だった矢崎勘十少佐の回想に基づき、同志は八月末ごろ血判の誓約書を交わしたこと、その顔ぶれはすでに知られている者に矢崎と高橋金一大尉(独立守備隊)の二人を加えて計十一人であることを明らかにした。
昭和五十四年夏サンディエゴ州立大学の旧友アルヴィン・D・クックス教授が、関東軍の歴史を扱った著書を書くために調査に来日し、三か月滞在した。クックス氏がこの時、柳条溝事件で満鉄のレールを爆破する必要はなく、したがって爆破は架空の事実ではなかったか、という疑問を提出したことから、筆者はクックス氏と共同で久々にこの事件の実相を再究明してみよう、と思いたった。
そのためには今まで盲点となっていた満鉄の保線関係者に当り、さらに河本中尉と同行した兵士の消息を探し出す必要があった。まもなく満鉄会と独立守備第二大隊第三中隊戦友会を通じて何人かの該当者が見っかった。
次に列挙したのはいくつかの重要な証言の要旨である。
1 見津実上等兵(昭和四年徴集兵、東京都北区在住、昭和五十四年十月二十七日証言)
昭和四年十二月新兵として虎石台の第三中隊に入隊。九月十八日には私用で外出して奉天の親類を訪ね、夕方早く戻ってくると、営庭に百数十名の中隊主力が武装整列していた。居なかったのは文官屯と柳条湖の分遣隊(二十数人)に出ていた兵のみ、鹿野特務曹長が「これから夜間演習だ。すぐに仕度せよ」と言う。仕度をすませると、「お前はそのまま川島中隊長の官舎へ行け」と命じられた。
一人で官舎へ行くと河本中尉と中隊長夫妻、他に見知らぬ大尉が応接間にいて「今田大尉だ」と紹介された。今田が「そのトランクを開けてみろ」と言った。小型の布製トランクの中に中国製らしい爆薬が約二〇個入っていた。
川島から「これから中隊は演習に行くが、お前は今田大尉と同行せよ。誰とも話すな」と厳命され、ワインで乾杯したのでタダゴトではないと予感した。
河本中尉が何人かをつれて先発、薄暗くなって、今田と私は川島中隊主力の後につく形で出発した。途中で主力を追い抜いて、今田と私は北大営とレールの中間点に伏せの形で潜伏していた。
三十分後にバーンと爆発音が三回聞え、火柱が西南方に見えた。演習の一部かなと思った。間近の兵営は静まりかえっていた。
すぐに中隊主力が到着し、北大営に攻撃を開始した。戦闘が始まってしぱらくのち今田と一緒に内部へ入ったら、今田と川島が「もう大丈夫だよ」と話しあっていた。その様子から日本側の謀略だな、と見当をつけた。
二時か三時ごろ戦闘はまだつづいていたが、特務機関へ行く今田と同行、重いトランクをさげて、爆破点の南まで歩き、迎えのモーターカーに乗って奉天駅へ向かった。
特務機関についてトランクを今田に渡したあと二階に軟禁同様となり、花谷夫人が食事を用意し約一か月留め置かれた。二度外出したが監視の下士官がついていたので、無事では帰れまいと覚悟していた。中隊に帰ると川島が涙を流すばかりに喜んでくれた。
七年春除隊し奉天で町会長をやっていた伯父の家に身を寄せたが、リットン調査団の歓迎会に伯父の代理で出た時「俺に聞けぱ」と心中に思ったものの、その後もあの夜のことは口外しなかった。のちに今田の紹介で興中公司に就職し、終戦後日本へ引きあげた。今でも私が何の役割を果したのか見当がつかない。
2 今野褜五郎上等兵(現姓渡辺、昭和四年兵、宮城県在住、昭和五十四年十一月一日および五十六年六月二十九日)
私はラッパ卒兼伝令として、斎藤金市一等兵(故人)とともに九月十八日夜河本中尉と行動をともにした。満鉄線の夜間巡察は下士官を長とし、レールの左右に二人ずつ分れて文官屯と柳条湖分遣隊の間を約二時間かけて往復するのが慣例で、半月~一か月ごとに当直番がまわってきた。
この日は変則で線路の西側を今野、東側を斎藤、河本の順で南下して行った。いつもより多く実弾を携行させられ、問題の地点まで来ると、河本が我々に第14列車(急行)を今からひっくり返すと告げ、列車が近づくのを確かめたのち、一人で図嚢から取り出した爆薬をレールに装置した。その間我々二人は少し離れ反対側に向かって警戒するよう命じられたが「伏せろ」と河本が叫んだので伏せた。
ところが爆発の直後に列車は無事に通過してしまった。あの地点はカーブの外側なので、車輪が浮いたのではあるまいか。
河本から「中国軍が鉄道を爆破したと報告せよ」と命じられ、私は柳条湖分遣隊へ、斎藤は川島中隊長へ伝令に走った。
翌朝早く中隊へ復帰、七年春除隊して内地へ帰った。
3 田村正中尉(陸士三十九期、川島中隊付、終戦時大佐参謀、昭和五十四年八月二十日)
私はその年の春に着任した二十一歳の青年将校であった。九月十八日病院から退院して中隊ヘ戻り、すぐ夜間演習に参加した。想定は北大営付近における中国兵の鉄道妨害に備えた警備行動だった。中隊長の傍にいたが、南方約一キロの付近で爆発音と火煙が昇るのを見た時、中国兵がやったな、と直感した。その直後に列車が通過したのはたしかだ。
夜が明けて片側のレールが一メートル足らず吹きとんでいるのを見た。
河本中尉は兵卒から昇進した人物だが、私より十歳年長で満州勤務も長く、経験が豊富だった。爆薬取扱法の講習を受けていたと思う。
4 松尾正二奉天保線区長(昭和五十四年九月二十六、二十七日、五十六年六月二十八日)
九月十八日夜は自宅に帰っていたが、線路方から日本兵が衝突した、と電話があり、駅へ急ぐ途中で日本軍の砲弾が飛ぶ轟音を聞いた。その日の朝、関東軍から有事に備えていつでもモーターカーが出せるように準備しておけ、と指示が来ていた。まず爆破現場を検分して被害の状況を調べる必要があるので、三宅保線助役(故人)らがモーターカーで出発したが、軍が近づけさせない。
そのうちに兵員物資を運んでいたモーターカーがレールの切れ目に落ちたので破損個所が判ったと記憶する。
いつ頃修理したか、私がそれに立ち会ったか記憶がはっきりしないが、切れた長さは一八~二〇センチで最弱点である外側カーブの継ぎ目だが、よく脱線しなかった、と話しあった。修理作業は一時間もかからない程度である。
切断されたレールは見た。断面に重いもので叩かれた痕があり、列車がこの部分を通過した時に生じた痕と判断した。のちに射撃音を聞いた機関士が増速して現場を通過した、という噂を聞いた。爆破点の近くに数人の中国兵の死体が放置してあった。埋めようとしたが、証拠だから残せと言われ、箱を作ってかぶせた。
5 前田喬奉天駅助役(昭和五十四年十月四日)
問題の上り第14列車は予定どおり奉天駅に着いた。この列車に満鉄の木村理事が乗って大連へ向かうので、当直(駅長代行)の私はプラットフォームヘ見送りに出ていた。
発車直前に助手が走って呼びに来たので事務室へ戻った。理事秘書の松隈氏も何ごとか、とやってきた。独立守備隊からの電話で事件の第一報を伝えるものだった。直ちにモーターカーと臨時列車を編成するよう依頼され、保線区などへ手配したが、当初は演習か実戦か半信半疑だった。
木村理事は重大事と判断しなかったのか予定どおり出発したが、翌朝遼陽から引き返してきた。列車は定刻より2~3分おくれ出た、と記憶する。