資料

「支那事変戦争指導史」より抜粋

堀場一雄「支那事変戦争指導史」
1962年9月10日、時事通信社発行(著者による「序」の日付は1948年7月7日)

凡例

凡例

一、本書内容の区分構成に関しては、その時期的区画を戦争指導上の段階に即し、且戦争指導主体の所在に吻合せしめたり。即左の如し。

「支那事変戦争指導史」凡例図

二、本書の記述は、戦争指導の推移に随ひ、当時の諸情勢並に之に伴ふ考案施策を掲げ、以て順序を逐ひ工夫思索するに便ならしめたり。従って本書を繙く者は、須らく先づ情勢各段階に即して、自ら如何なる策案あるやを工夫し、次いで本書の考案と比較研究すべし。是国事に関する自らの識能を検すると共に、思索を深刻ならしめ、且軽率の論を自戒する所以なり。

三、戦争指導上関聯ある策案は、多少の重複煩瑣を意とせず、全文掲記を以て趣旨となせり。蓋し要旨の摘録は、全意を尽さず、且真の思索は、当時に於ける表現の機微、魂の躍動等に触接するを必要と認めたればなり。

四、事変中政戦略の統合十分ならず、此の間の機微を明確ならしむる必要あり。第一期戦略期間及第二期政略期間の初期(中央政略期間)に於ては、大本営(其の設立以前に在りては参謀本部)内部の事情をも闡明するため、戦争指導系統と作戦系統とを区別して、夫々之を戦争指導当局及作戦当局なる語を用ひたり。又省部とは、陸軍省参謀本部を略称したるものとす。

 第二期政略期間中期以降(現地政略期間)に於ては、中央、現地の対立あり。此の間の事情を闡明するため、政府及統帥部(大本営)を併称する場合、之を中央、主として大本営陸軍部を指す場合之を中央部、支那派遣軍総司令部に於て、事変処理系統を示す場合之を総軍当局と、夫々区別して指称せり。

 第三期持久期間に於ては、全般に亘り一般的記述とせし趣旨に従ひ、大本営、政府等として一般名称を用ひたり。而して大本営政府連絡会議は、単に連絡会議と略称せり。

五、記述中、細部の説明に関するもの、策案の趣意、解釈に属するもの、並に観察批判に亘るもの等は、(註)として之を区分し敍述せり。引用原文中に存在する本来の註は、括弧を附することなく右(註)と区別す。

【附記】
一、本書は、後世を訓ふる規範の書たらしむるため、之を公式記述とせしを以て、本論の附帯事項及予個人の立場等に関するものは、〔附〕として別記することゝせり。

 従って別記〔附〕の部分は、厳に門外不出となすものなり。

二、予は、支那事変に方り、昭和十二年より十四年十一月迄大本営(参謀本部)戦争指導課(班)に在りて、又十四年十二月より十六年七月迄支那派遣軍総司令部政務課に在りて、終始一貫支那事変処理の枢機に参画し之が主務たり。此の間、国策及総軍施策の主流とするもの、予の考案に成れるもの極めて多し。乃ち支那事変処理の複雑なるを綜合し、之を一貫透徹して正統史を後世に貽し得る者は、予を措きて余人之無きを自覚し、粛然として比に筆を執るものなり。

三、予は、志を父祖に享け、国事を専らとし、父母に対し、亦一飯の報すら為すことなし。全精魂を打って悉く之を支那事変の処理に傾倒せり。当時予は、国事を憂ふること宰相将帥の上に在るを自覚し、事変処理への精進自ら第一人者を以て任じたり。是夜郎自大の暴となすか、将又百年に満たざる齢を以て千年を憂ふるの愚となすか、否か。

 予は信念と共に思索し行動せり。而して大勢非にして志成らざりしと雖、今厳粛なる反省の下、尚其の正しかりしを信じて悔ゆる所なし。蓋全精魂を傾くる所誠意天に通じ、策案神明の啓示に出づると謂ふべきか。豈予個人の識量のみならんや。而て予の工夫精進せる、日夜を分たず、家事一切を放擲し、又公事一片の家人に告ぐるなし。肉親皆之を諒とし、甘んじて犠牲たり。而かも、只黙々として予の為す所を寛恕せり。予の純一精進は、父母肉親犠牲の上に立てり。今や、志成らず、世論紛料して帰趨を知らず。乃ち予の行動(附記)を添へ、本書を以て神の如き父母等の志に答へ、併せて将来に児孫を訓へんとするものなり。

サイト管理者注:「附記」については、結局門外不出とはならず本書に掲載されている。本書編者(防衛庁戦史室 稲葉正夫・原四郎)の前書で下記のように説明されている。

 最後に、是非とも読者および関係各位の御諒解を得たい一事があります。それは故人が特に〔附〕として別記した部分を載録したことであります。故人の凡例附記に明示されている通り、厳に門外不出がその遺志であることはいうまでもありません。それを私共は、敢て無視し、強引に御遺族に強要して載せたのであります。折角の労作に画龍点睛を欠くと思い、且これあることが世を裨益することより大なりと信じたからであります。

第十一章「事前合流解決工作」>第三節「交流工作」>其の四「国策の実践」

其の四 国策の実践

 由来根本国策として近衛三原則ありと雖、現地に於ける軍官民各方面に亘る実践に至りては甚だ程遠きものあり。総軍は事変解決の中心問題として、板垣声明以後根本国策の現地実践を一段強化す。

 一旗組乃至利権屋の時勢に便乗し軍の権威を藉りて横行するの状は、識者の義憤を感ぜしむ。上海、南京主要街路に於ける日本人の占拠振りは横暴にして、所有者帰還せんとすれども解放せざるものあり。総軍当局は先づ南京より粛正を企図し、主要街路より日本人の後退を厳命すると共に、新政府の還都に先ち政府引当官衙及関係住宅を強制解放せしめ、以て首都たるの面目を回復せしむ。

 経済事業関係に至りては極めて複雑なり。支那側の逃避に依り暫く日本人を以て代位を要するもの、戦時の必要より已むを得ず臨時特別の措置を要するもの、臨時経営にては危険を冒して従事する者なしとし之を恒久固定化するを要すと称するもの、利潤追及より愈〃広範囲の権益獲得に奔走するもの、政府各部局の施策が大乗的根本策と遊離して無統制なる権益設定に陥りつゝあるもの等各種錯綜しあり。事変以来講ぜられたる各種経済処理及事業経営等を支那側より観れば、如何なる事業が支那側に残されありや。又各合弁事業内に於て支那人活動の余地果して認められありやの嘆無き能はず。是重慶側が近衛原則を目して虚構なりとなす所以なり。此の傾向は興亜院の進出と共に一層顕著となり,最近中央陣容の強硬論は之に拍車をかくるに似たり。総軍当局は事変処理上此等の現地規正を企図し、機会を求めて日支提携に関する根本思想の普及を図ると共に、特に北支方面軍及興亜院連絡部、憲兵司令部等に対し厳重注意を喚起す。

(註)総軍当局が興亜院連絡部に対し、日支新関係調整方針に即し施策の目的及限界とする所を説明したる際、連絡部首脳者が斯くの如き明確なる指針規範を示されたることは未だ曽て之無しと、嘆息したることは驚くべき事に属す。以て百鬼夜行の一班を知るべし。斯くして事変処理何処へ行く。興亜院の設定は事変処理上の失策なり。

 三月十八日総軍当局は各方面の反対を制して、我が占拠地域内に在る軍管理工場、鉱山、事業場等二百四ケ所(北支二十種百十ヶ所、中支二十七種九十四ヶ所)全部を支那側に返還すべき旨声明を発す。

(註)右実行のため当事者間に在りては、移管条件及手続、価格評価等各種の制扼を構へて遷延渋滞を策するあり。

 又中支重要特産品の買付許可制度は、三月末を以て撤廃せしむ。

(註)其他南京神社、漢口神社、各地忠霊塔創建の議続出せるも、総軍当局は一律に之を抑制せしむ。蓋し居留民の心情は一応掬むに足ると雖、支那側より之を観れば、屈辱乃至敵慨心の象徴となり、日支和親に害あればなり。況んや撤兵後何人之を保護するものぞ。

 之より先総軍当局は、支那側に対しては内約以来戦争状態の下に於ける特殊事態及特殊要求の存在を諒解せしめ、和平後の平時原則を今直ちに事変地に適用せんとするの矛盾を指摘理解せしむ。

 此の戦時原則と平時原則、基本形態と臨時措置とを意識的又は無意識的に混淆錯乱しある現地事態を分離解明して、日支双方を指導することは総軍当局不断の努力を要したる所なり。

【附】

 利権屋を相手とする国策実践の努力は蠅を逐ふが如し。上海北四川路南京大街等に於ける日本人の支那店舗占有は甚しきものあり。聞くならく、曰く家賃を支払ありと。曰く是血の結晶なりと。其の家賃は無料に等しく低額なり。又血の結晶とは、彼等果して血を流したるや。今や砲声は遙か漢口の彼方に在り。彼等こそ軍の鮮血を穢すものならずや。南京の解放には、無頼の徒切込をなすと流言を放つ。予は断乎解放を推進せり。

 北支は北支特殊性の蔭に隠れて諸般の施策行過ぎ多し。殊に北支方面軍の政務課は、多く陸軍省就中軍務課の牙城なるの観を呈し、中央部と直通し、その一流の権益思想は抜くべからざるものあり。事変処理上の障碍をなせり。

 興亜院は愈〃出でゝ愈〃権益激し。予が上海連絡部首脳者に対し、日支新関係調整方針に基く諸施策の限界を説示したるに対し、総務部長は斯くの如き明快なる話は始めて聴く所なりとし、且従来は国家犠牲の代償として専ら収穫の多からんことをのみ之努めたりと言ふ。以て興亜院内部の空気を知るべし。

 神社及忠霊塔問題は予悉く之を阻止せり。南京神社は六方台に造営すると謂ふ。六方台は南京全市を俯観する丘陵なり。南京は首都なり。市民は朝夕之を仰ぎ見て何と感ずるや。思はざるの甚だしきものなり。予は之を峻拒す。又漢口神社造営の議に対しても、予は之を拒否し共に要すれば大使館、領事館構内に築造すべしと指示せり。然るに予翌年転出し、更に数年後同地を踏むに、両神社立派に創建せられあり。神明如何に照覧し給ふや。又各地忠霊塔の乱立は、当面の慰霊に過ぎずして撤兵後必ず侮辱を受け、却って紛争の禍因となること明瞭なり。往年予浦塩、チタ等を過ぎシベリヤ出兵当時の陸軍墓地鬼哭愁々たりしを回想せずんば非ず。依って之を上海、天津、北京三ヶ所以上に出づべからずとなせり。