資料
満洲事変の裏面史
1976年、著:森克己 国書刊行会
河本大作大佐談
昭和十七年十二月一日、於大連河本邸
私事に捗るが、満洲事変前の私と満洲の関係を述べると、私は日露戦争には第四師団の歩兵第三十七聯隊に属して出征(当時少尉)、三十七年九月二日、遼陽で負傷した。翌三十八年三月中尉となり、第三軍第三聯隊付となって再び戦線に立った。そして蒙古地帯の法庫門まで進んだ時、平和になつた。私は満洲で活躍したいと考え、戦後凱旋せず、満洲守備隊を志願し、明治四十年十月まで残留し、満洲の田舎の視察族行をやったりして満洲認識を深め、満洲に興味を有つに至り、遂には軍人を廃めてそのまま満洲に残ろうかとさえ考えた程であった。その後内地に帰還し、京都の三十八聯隊付となり、次いで陸大に入り、卒業後漢口の中支派遣隊付となって赴任した。
大正三年四川省に派遣された。これは当時蔡鍔が雲南で袁世凱に対して独立を宣言したので、日本政府はこれを援助することになり、自分は其任務を帯びて赴いたのであり、この計画は成功した。四川省には大正六年まで居り、翌大正七年にはシべリヤ出兵に従軍し、浦塩におった。
大正十年北京の公使館附武官となり、大正十二年まで居り、その後中央に戻って参謀本部附となった。
大正十五年三月、関東軍高級参謀となって渡満した。来て見ると昔の満洲とは全く情勢が違っていた。明治四十年頃までの満洲は、満人達が日本を信頼して居ったので、旅行も出来たのであるが、今度来て見ると、満人の日本人に対する態度は、北京に於ける支那人の日本人に対する態度よりも悪い有様で、排日思想が瀰漫していた。
張作霖の周囲には松井七夫とか、名前を忘れたが某大佐とかが居り、この人達の話を聞くと満人よりも日本人の方が悪いのだという。作戦の必要上、黒河・斉斉哈爾等各地を歩くと、各地共排日傾向が濃厚で、路上で日本人が支那軍警に侮辱を加えられていることなどを目撃し、憤慨に堪えなかった。或は満鉄に対する包囲線が出来上ったり、或はまた現地を知らない日本内地の人々のうちには関東州を還附せよといった暴論を吐くものもあった程で日本の権益は蹂躙されて行く一方であった。しかも当時の奉天総領事吉田茂が張作霖の所へ談判に行っても、張作霖は都合の悪い話になると急に歯が痛い等と言っては引込んでしまう、未解決の問題が山積する有様であった。実際支那本部の軍閥よりも排日的空気が濃厚であった。そこで私はこの儘ではならぬ、何んとか今のうちにしなければならぬと考えた。事実また当時奉天の近傍の新民府へ調査に行くと、この地に居った邦人達は次第に附属地に引揚げて居った。というのは毎晩ピストル強盗が出没して日本商店を脅かしたからである。しかもその強盗は奉天軍の兵隊の仕業であった。日本商人達は危険なので妻子を附属地に避難させ、単身で居残って商売していたのであるが、如何にも商売が出来ないような状態になって来たのであった。こんな有様では旅行は勿論の事、居住すらも不可能である。商売も、居住も、旅行も出来ないとは怪からんというので、在満各地居留民から関東軍や領事館に訴えて来るが、領事は頼むに足らず、又当時の関東軍司令官は白川義則中将であったが、白川中将は張作霖の顧問町野武馬大佐あたりから付け届けがあった。一体張作霖は横着者で、軍司令官や関東州都督児玉秀雄等に対しては、松井や町野を使として付け届けをして機嫌をとっていた。故に軍司令官や、都督の間には張作霖の評判が良かった。つまり軍は張作霖に誤魔化されていたのである。私はこの事実を知ったので、白川軍司令官に注意したが、白川中将は聴き入れなかった。
また張作霖は田中大将はじめ内地の要路の大官連に対しても付け届けを怠らなかったので、張作霖を悪く言い、張作霖と争う日本人は、むしろ日本人の方が悪いのだといって、私がどんなに注意しても、私の意見に耳を傾けては呉れなかった。
ところが昭和二年、武藤中将が軍司令官として赴任して来られたので、早速また私の意見を申上げたところ、武藤さんは満露の事情にも通じて居られたし、また偉い人だったので、私の意見に同意された。
当時内閣は田中大将が総理大臣兼外務大臣で、森格が外務政務次官であった。この森格に話をして、森格をして満蒙問題の重大性を主張させ、遂に昭和二年八月、東方会議を開かせた。
武藤軍司令官もこの会議に出席され、満洲問題は外交では解決し得ず、武力に依る外か解決の道なしと主張された。この武藤軍司令官の意見が容れられて、同会議は適当な機会を見て、武力解決を断行するということに決議が一決した、そして関東軍はこれに対する準備をせよとの内訓を受けた。
これより先張作霖は大正十四年の十二月、郭松齢事件起り、山海関より奉天の西の新民府まで叛軍が迫って来た。
張作霖はこの叛軍に対し、武力討伐の自信を失い、一時は作霖はじめ、張作相・呉俊陞等までも皆日本内地へ亡命せんとするが如き悲運に立ち至った。張作霖は日本に縋ってこの頽勢を盛り返そうとし、白川関東軍司令官に武器・兵力及び作戦指導官を貸して呉れるならば土地商租問題をも解決する、是非作戦指導をもして貰い度いということを懇請して来た。土地商租問題は既に日支間に原則が取決められていたのであるが、その後張作霖側がその細則を協定することに応じなかったので、これが実施することが出来ずしていたものである。
関東軍では張作霖の懇請を容れ、呉俊陞には某騎兵少佐を、張作霖には、林大八中佐を、張作霖には嶬峨中佐を付け、各方面で日本将校が作戦を指導した。また郭松齢に不利のように色々日本側が干渉を加えた。その結果郭松齢は遂に敗死したのである。
張作霖は日本の御蔭で危機を脱したのであるが、それにも拘らず、彼は旅順に来たって関東軍に感謝の意を表することもしなければ、また土地商租権実施細則協定の約束を履行しようともしなかった。
しかも翌十五年、張作霖は曾ての敵馮玉祥と結んで呉佩孚を破り、関内に進出し、北京に軍政府を組織し、自ら大元帥を潜称するや、英米公使を通じて英米に借款を申込む等、日本に対して傲慢無礼な態度を示すようになった。楊宇霆もまた北京に乗込んで、日本に対し不遜な態度を示したのであって、彼は腹からの親日家ではない。作霖が英米の力を借りて日本を圧迫しようとする態度は昭和二年頃益〃甚しくなって来た。
作霖は大元帥を僭称し、一時楊宇霆の如きは上海にまで進出し、南京までも取るに至った。しかるに昭和三年蒋介石の率いる国民革命軍の北伐軍は京漢・津浦両線より北上し来たり、途中済南事件を惹起したりした。
蒋介石の北上は、我々としては寧ろ歓迎した。張作霖といわず、蒋介石といわず、一度満洲に踏み入って、満洲の治安を紊す場合には、日本の権益を擁護するため、何等かの手段に出るという東方会議の決議方針があったからである。そこで今蒋介石軍に圧迫されて満洲に逃げ込んだなら、張作霖軍を断固武装解除せんとする決心を固めた。
昭和三年五月下旬、関東軍は旅順より奉天に集中した。我が軍は七千、これに対し作霖軍は三十万、故にこの大軍を処置するには地形上の要点を占める必要あり。古北口、錦州の西高橋に進出し、以て作霖軍を武装解除しようとした。
当時の関東軍司令官は村岡長太郎中将で、武藤大将と同郷人で立派な人物であった。ところで関東軍は附属地内では行動自由であるが、附属地外は外国であるから勅命がなければ出動させることが出来ない。そこで勅命の降下を待ったが、田中大将の意見が軟化し、米英の態度に気がねして事を決しかねた。参謀総長鈴木荘六大将が、関東軍の意を汲んで、奉勅命令を受けに行ったが、田中大将はこれに立会わない。しかも田中大将側には松井七夫、佐藤安之助の如き自由主義者が控えておったため、到頭駄目となった。その結果、遂に我が軍を錦州以西に出させないことにした、当時奉天に呉俊陞が留守し三万の兵力を擁しており、その後関西より引上げて来た奉天軍は、六月頃には、六、七万に達した。しかもなおその後も続々引上げて来る 。従って関東軍は進退に窮するに至った。しかも当時済南事件直後で、排日の風潮をそそる有様で、満洲に於ける排日空気が一層悪化した。若し一度日支両軍の間に衝突を見んか、長春・遼陽・安東・営口等、旅順より七百キロの鉄道沿線至るところで済南事件の二の舞を繰返さんとする形勢であった。故に在満日本人の保護と、満洲の治安維持に任ずる我々の責務は正に重大なるものがあったのである。
ところで、支那軍というものは、いわば親分子分の関係のものであるから、親分さえ斃してしまえば、子分は自ら散り散りになってしまう。この緊迫した際のとるべき手段としては、先ず親分たる張作霖を斃して彼等の戦意を挫くより外かに途はなしとの結論に到達した。村岡軍司令官は参謀鈴木数馬を北京に派遣して張作霖の退路を襲撃せんとした。私はこれを聞き込み、北支駐屯の軍司令官は器量人ではない。また北支の参謀にもたいした人物が居なさそうでもない。これは自分等が決行すべきであると考えた。
そこで村岡軍司令官の使として北京へ赴こうとする鈴木参謀に対して、私は北京で軽々しくこの計画を言うな。唯張作霖の満洲に帰る汽車の時間を此方に知らせよと、その任務をすり代えた。鈴木参謀も同意し、当時建川少将が北京の公使館附武官であったが、建川少将と打合わせ、時間を知らせて来た。つまり村岡軍司令官にも張作霖襲撃の意図があったのであるが、私は軍司令官に関係なく、自分でやろうと決心したのである。
計画を実行する地点を何処にするか。はじめは大遼河の鉄橋にしようとしたのであるが、何分にも支那軍閥の汽車の編成は仲々警戒を払い、今日発車と称して急に翌日に変更したり、ダイヤを変更したり、或は自分は乗込まずに乗用車のみを出すといったような遣り方をするのが常套手段なので、この先方の手に対しては、一週間位いの間、何時満洲に帰って来ても捕え得る丈けの準備をして待機する必要がある。インスペクションは支那側にもある 。だから鉄橋に準備しても、敵に途中で捕まってしまえば、事は水泡に帰してしまう。これは如何しても満鉄線と京奉線とのクロスした地点以外には安全な場所はないと研究の結論が到達した。ところで、満鉄線の方が京奉線の上を走っているので満鉄線を壊さないようにしてやるのには、仲々やり悪い。そこで脱線器を三本取着け、若し失敗したら脱線させ、抜刀隊で斬込むことにした。
当時満鉄担保の洮昂鉄道の敷設材料を、支那側が瀋海鉄道の材料に、こっそり竊んで行って盗用することが多かったので、この年三月頃より、この盗用を防ぐために 土嚢を築いて居ったが、この土嚢を利用し、土嚢の土を火薬にすり代えて待機した。
愈〃張作霖は六月一日北京を発って帰ることが判った。二日の晩にはその地点に到る筈であったが、作霖の列車は北京天津間は速度を出し、天津錦州間は速度を落し、錦州には半日位いも停車したので、予定より遅れて四日午前五時二十三分過ぎに現場に差しかかった。その場所は奉天より多少上りになっている地点なので、その当時、貨物泥棒が多く、泥棒は奉天駅あたりから忍び込んで貨物車の窓の鉄の棒をヤスリで摺り切り、この地点で貨物を窓の外へ投出すというのが常習手口であった。そこでこの貨物泥棒を見張るために、満鉄・京奉両線のクロスしている地点より二百米程離れた地点に見張台が設けられていた。我々はこの見張台の中に居って電気で火薬に点火した。コバルト色の鋼鉄車が張作霖の乗用車だ。この車の色は夜は一寸見分けが付かない。そこでこのクロスの場所に臨時に電灯を取付けたりした。
また錦州、新民府間には密偵を出し、領事館の電線を引張り込んだりした。そしてこれによって張作霖の到着地点と時間とが逐一私達の所へ報告されて来た。
ところが張作霖が仲々やって来ないので、現場の者達は一時は引上げようとさえした。私は藩陽館(奉天の軍用旅館)と現場との間を往来して連絡をとった。余り頻繁に往来したので大阪毎日の新聞記者に感付かれ、事件が済んでから目星を付けられたりした。
張作霖の乗用車が現場に差掛かかり、一秒遅れて予備の火薬を爆発させ、一寸行過ぎた頃また爆発させ、これが甘く後部車輪に引かかって張作霖は爆死した。
奉天側では、臧式毅が一切日本との衝突を避けた。
張景恵はこの事件を嗅ぎ付けて、日本人を介して私達の方へ連絡を取って来、此方と相呼応して城内で旗挙げしようと企て、度々申込んで来たが相手にしなかった。
荒木五郎元砲兵少尉が、黄慕と名乗って組織して居った奉天軍の模範団張作霖の護親軍を率いて内応しようとした。
また別に我々はヤマトホテルの前に一個旅団を集合して、事件と同時に襲撃せしめようとしたが、これは軍司令官等も知らず、参謀の中に馬鹿な者があって、解散させてしまったので、この計画は水泡に帰した。
此の事件後、自分の補助者として、石原中佐を関東軍に貰って来た。私はその頃から既に満洲事変の案を練って居ったのだ。
翌昭和四年自分は金沢の第九師団司令部に移された。板垣は当時満洲駐屯第三十三聯隊に居った。私は石原と相談の結果、私の後代りに来て貰った。私は金沢に居ること一ヶ月で浪人となった。
満洲皇帝の事は、満洲事変後宣統帝を担ぎ出す相談をした。昭和五年七月予備となり、自由の身となったので、私は満洲に来て画策して居った。これを宣統帝が聞き込まれたと見え、炭田七郎を使に差向けて来た。当時私は京都に居ったところ、炭田は京都にやって来て、御願がある。是非天津に来て戴き度いとのことであった。これは昭和五年九月頃のことだった。私は今迄支那に経験がある。又張学良と楊宇霆は張作霖の死後未だ錦州(石家荘の誤りか)に在り。袁金鎧をして臨時奉天治安維持会長とした。袁金鎧は裏面では頻りに張学良へ使を出していた。これは支那人の癖である。
この張学良や蒋介石に通じない人は宣統帝のみである。また満洲にも関係があり、国際的にも尤もらしい人は宣統帝である。この宣統帝から使が来たので軍務局長小磯中将にこれに関する意見を具申した。というのは協議して置く方が都合がよいと思ったからだ。小磯中将は賛成した。そこで旅順に赴き、板垣・石原に相談して賛成を得て天津に赴いた。宣統帝からは是非共学良を殺って呉れという話があった。
私はこれに対し、自分は頼まれなくともやっつける。やった後で満洲へ来るか如何かといったら、宣統帝は来るという。そこで旅順に立寄り板垣・石原に話し、又小磯中将にも報告した。
天津から帰途、安東通過の際は憲兵隊に捕えられ、ピストルと宣統帝の写真を持っていたために怪まれた。河野伝一と変名していたが、トランクにK・Tとあったので見付った。
天津の旅館へ宣統帝の側近のものから旅費を届けて来たが、これは拒って受け取らなかった。翌年大連に来た時、大連の浪人仲間からゆすられた。宣統帝は毛皮や真珠を軍用金として売った。だから二十万円位いは貰っているだろうというのである。鐚一文も貰っていないのにそんな噂を立てられてはやり切れないと、前に貰っていた御墨付も宣統帝のところへ返してしまったところ、宣統帝から山崎貫一が使となって詫びて来た。
此時にはじめて宣統帝の側近のものの腐敗していることを知った。満洲建国後皇族を置かず、また直ぐに帝制を施かず、執政としたのもその一因はここにあるのである。側近の李とかいう者がいい加減なことをやっていた。
満洲事変前、張作霖爆死事件では内地では自分の事を国際上大罪悪を犯した者のように言い触していた。これでは駄目だと森格や大川周明博士等と結び、内地で満洲問題は武力で解決せねばならぬということを要路の人々に説いたが、南大将などは自分を狂人扱いにし、陸軍省へ出入りするのを禁じたりした有様であった。そこで私は機会ある毎に遊説して歩いて大いに輿論の喚起に努めた。荒木大将一人丈けは流石に理解し賛成して呉れたが、他かの者は皆恐れていた。片倉大佐なども自分が関東軍へ出入するのを怪んで居った程だ。
二・二六事件は私達の計画通りのことをやったものである。柳条湖事件直後、若し陸軍省が反対し、関東軍を孤立させたなら、陸軍省を占拠すべしとの計画を樹てた。ところが根本博(現少将)が内通して陸軍次官の杉山元に漏らし、杉山がこれを南に通じた。
陸軍省では驚いて橋本・和知等を箱根・千葉等に監禁した。当時青年将校等は機関銃を自宅に持ち帰ったりして事を挙げようとしたのである。これが所謂十月事件である。これによって内閣が変り、国内の情勢が変った。
十一月、私が浪人していた駒井徳三を、小石川のアパートにごろごろしていたから満洲に連れて来たのだ。
満洲事変挙事の軍用金のことは、私が七万円を調達し、三万円を持って飛行機で飛んで、九月九日に奉天に来た。ところが挙事は取止めたという。今田や三谷は、板垣・石原の腰が砕けたというので憤慨して私にやって呉れという(三谷氏談参照)。石原の所へ行って訊して見たら決行するのだ。唯噂が拡まって来たので表面は取止めた風を装った。板垣も自分も決して変心してはいないと本心を打明けた。柳条湖事件発生の翌十九日、私は満鉄側の協力を求めるために大連に赴き、星ヶ浦で、十河に会った。また二十日には飛行機で京城に飛び、朝鮮軍を説き付けて、新義州より軍を満洲に進めさせた。林銑十郎は越境将軍として有名だが、事実は仲々躊躇逡巡して越境しなかった。
事変勃発当時、関東軍の機密費は一万円しかなかった。
土肥原は饒舌だというので敬遠した。事変勃発当時土肥原は内地へ出張して、当時箱根に居った。事変の真相は私と板垣と石原以外に知っているものがない。荒木五郎と趙欣伯とが事変前、中村震太郎事件の諒解を求めるための張学良の使者として私を頼って来た。私は上の者に態と会わせず、私の所に留め置いたが、愈々挙事の時期が切迫して来たので、議会の選挙のために一寸国へ行って来ると偽って、二人を置き去りにしたまま奉天へ飛んだのである。
張作霖爆死事件の時は大石橋の伊藤建次郎という浪人者を使ったところが、伊藤が後になって、伊沢多喜男等に自分達のことを売り込んだ。
満洲事変の時には、神兵隊事件で捕った者などを工兵隊へやって爆破のことを練習させた。
十七日には中野虎逸・片岡駿等が、遼陽鉄橋を爆破しようとして失敗した。
十八日の柳条湖の爆破は、小倉の第十聯隊で私の部下だった、川島正大尉、当時虎石台の第三中隊長だったが、この川島大尉にやらせた。
軍用金の七万円は重藤の親戚の者から借りた。ところが返済の段になって、奉天の官銀号には三千円位いの現金しかなかった。
翌年の三月頃には催促を受けた。仕方がないので駒井徳三に頼んで利権をやって貰うことにした。ハルビンの方の株が二円位いのものが一株に就き二十円位い儲るという話だったが、駒井は仲々やって呉れぬ。借金の催促は益々急となって来た。そこで和知が福州炭坑の株何万円かを渡したところが、相手はこれを三井・三菱に売込もうとした。
この利権のことを駒井が本庄に告げ口した。板垣は本庄に叱られて浮かない顔をしていた。そこで自分が夜本庄の処へ出かけて、本庄に言ってやった。一体今度の事変は如何して起ったか知っているかといったら、本庄は柳条湖事件によって起ったと答えた。そこで私は云ってやった。上に立つ者がそんな風な簡単な考えでは駄目だ。こういうように事が運んだというのは決してそんな生易しい簡単なことではない。これには色々の準備も必要だし、また沢山の費用も入用だ。その入用の金の工面を板垣や下のもの達が皆苦心惨澹してやっておったのだ。利権屋を呼んだというのも皆その後始末のためなのである。然るに下の苦心をも知らず、事を簡単に考えて下を責めるとは何事か、更にまた閣下と自分達との関係は長い年月を経ている間柄ではないか。しかるに年来の関係を忘れ、未だ関係の浅い駒井の如き者の言を信じ、年来の関係を打捨てて、自分達を信じないというのは怪からぬではないか。そんなことでは到底上に立つ資格がないではないかときめつけてやったら、本庄は青くなって、自分が悪かった。以後一切御任せすると詫びた。そこでこの借金の埋め合せを機密費から出させようとしたが、橋本参謀長は優柔不断で決しなかった。私は荒木陸軍大臣に話したところ、流石に荒木さんは始末を付けて呉れた。
荒木大将は張作霖事件の時、参謀本部第一部長で、私を認め且つ理解して呉れた。荒木大将の態度は武士的態度である。私は間に立って森格と荒木大将とを結び付けた。
満洲事変挙事計画が中央に洩れ、建川少将が奉天に赴くとの情報に、大川博士が、建川少将の後を逐わせた使は中島だ(建川中将談参照)。
満洲事変画策の中心人物は、現地では板垣・石原の二人、内地では、私が板垣・石原の意を汲んで大川博士・橋本欣五郎等を動かし、内地の輿論を喚起することに努めたのである。
十月事件後、大川・橋本等が国内の政治運動に走り過ぎてしまったために、板垣・石原等は大川博士等にソッポを向けてしせった。
満洲の甘糟達からは、内地派に対して、満洲が改革を決行したのに何故内地はやらないのかと電報で催促して来た。しかし当時既に内閣の性格が変って居り、その必要がなくなったのである。私は上京の途中、岐阜に立ち寄り、帝都を爆撃しようと計画していた岐阜の飛行隊長阿倍一郎を引止めて、その計画を中止させた。そして上京して牛込の金波に居り、内地改革派を抑え、十月中頃に満洲に来た。
この年春の三月事件には、私が調停役に立った。そんな関係で右翼の人達に信用を得た。大川博士は余りに理想に走り過ぎる。従って浪人共は私に接近して来た。
事変後私は満洲に往来し、炭坑のことに関係した。
満洲国の独立には、満人側では臧式毅、煕洽が尽力した。煕洽は自分の財産から二百万円投出している。
昭和七年一月八日、犬養内閣が成立す。荒木大将が陸軍大臣となる。犬養首相は仲々建国には賛成しない。そこで私は荒木陸軍大臣に頼んだ。荒木さんは書面を以て犬養首相に説いたが、首相は孫逸仙の例など引いて反対した。荒木さんは書面を突き付けて説き付けた。私は風邪だったので、この時には立ち会わなかった。
三月事件というのは、宇垣陸軍大臣・二宮参謀次長・建川少将等が議会を弾圧し、クーデターを行って軍部内閣を造ろうとした計画で、大川博士がクーデターをやることになっていた。ところが、西園寺の側近の中川(立命館大学長)が、右の計画を嗅ぎ付けて、そんなことをせずとも政権は宇垣にやるということを内示したので、宇垣は遽に豹変した。
大川博士は、宇垣が変心しても、自分達は飽くまでも決行するといきり立った。そこで私が間に立って、
一、今迄使った軍用金は、軍が負担すること。和知などは良い気になって牛込で使い散らし、芸者を落籍したりして、大分脱線していた。
一、宇垣が政権を取っても、主義は変更しないこと。
一、軍が大川博士に陳謝すること。
という条件で、落ち着いた。
満洲を独立国とした理由は、日本の領土内での日本人のだらしなさに懲りたからだ。朝鮮など正にその例だ。
南、小磯等の野心家達は復辟運動をやった。板垣は湯崗子に宣統帝を説き、ようやく執政となることを承知させた。
板垣大将談
昭和十九年十月二十七日午后一時~二時半、於京城朝鮮軍司令部
私は関東軍へは昭和四年五月着任した。私が大陸問題に関係するに至ったのは、大体私が参謀本部で支那班にあって、その仕事に専念したことから始まる。
満洲に来たのは、第十六師団の三十三連隊長として、津より昭和四年四月奉天に着任したときから始まる。其の前約一ヵ年内地で三十三連隊長をしておったのです、その以前に遡ると、私は大体支那関係に終始し、参謀本部では支那班、現地では支那各地に駐在し、連隊長になる前に済南の駐在武官だったこともある。昭和三年の本格的済南出兵の前年即ち昭和二年五月にも小さな出兵があった。当時私は中佐で参謀本部々員でした。この出兵というのは、満洲の駐劄第十師団が内地帰還前に大連に足止めされていました。というのは揚子江沿岸の居留民を引き揚げる。或は南京事件等があり、不穏な形勢だったので、大連に待機させた十師団の中の第三十三旅団を青島に出動せしめたのである。
しかし旅団には幕僚がなかったので、参謀本部で幕僚を編成し、私と山内中佐が加わり、私が先任で、これに通訳四名程付いた。そして第三十三旅団長の指揮の下に、その隊は暫く青島に駐屯し、七月上旬済南に出動した。これは津浦線徐州・済南間で、張作霖軍と蔣介石軍の戦争あり、我が軍は実力を以て居留民の保護に当ったのである。しかしこの出兵は九月には引き揚げた。そして私は独り留まって駐在武官となった。翌年三月聯隊長となるまで其処にいた。
其の以前に遡ると、私は北京・漢口・雲南等にいた。私の学生時代はちょうど日露戦争前で、大陸に対する関心はすでに士官学校学生時代にはじまった。当時所謂大陸政策を研究しなければならないという大陸会とか、野中会とかの同志たちの研究会があり、日露戰争の始まる頃から大陸問題に理想を持っていた。当時一般軍人はヨーロッパ行を望んだが、私達は大陸を理想とし、大陸において自らの職責を果すのだという考えがあり、陸大に入った時も、私は語学は支那語をやった。在学中にも支那大陸の仕事を希望すると答えていた。大正五年十二月陸大を卒業し、中隊長を半年ほどやり、大正六年八月に雲南駐在を命ぜられた。それより雲南に二年、それから漢口の中支那派遣隊の参謀に転じた。その後大隊長をやり、さらに参謀本部に戻り、十三年より十五年まで北京にいた。昭和四年関東軍参謀になり、河本大佐の跡を受けて実際に満洲の研究をすることになった。
満蒙問題の解決に当っては、中央は如何なる方針をとるか、出先きは如何にするかということを考えなければならない。しかし現地の実際問題としては、私たちは武力解決を必要とした。事変の前年、軍事課長永田鉄山大佐と支那班長重藤が来満したので、私たちは両人に対して、当時満洲では事情が切迫して来ており、武力解決を必要とすることを説き、参謀本部の判断としては、日露役後の国内状態と内外情勢の行詰りを打開することを必要とする。そのためには人口問題を解決するための領土を必要とする旨を話し合った。陸軍省は逐次進んでこれを解決せんとする意向で、同六年八月には、わざわざ軍司令官会議を行った。
私は新に関東軍司令官に任ぜられた本庄中将を迎え方々同会議に出席した。この時、橋本欣五郎・重藤と九段の偕交社で会見した。その時の話では、「何時如何なる場合に、如何なることが起きるやも知れないが、その時には中央が加勢するか?」、「必ずする」というようなことであった。
前年の十二月、花谷が上京した際、彼は参謀本部第一部長建川少将に対して、必ず奉天を取って見せるといったこと(「建川中将談」参照)は、個人的な言動で、別に我々の総意を代表して行なったものではない。永田・重藤が前年の秋か冬に旅行して来たので、我々の腹を聞いて貰いたいと云って、我々は武力解決を主張した。
九段での橋本欣五郎との話し合いでは、中止を考えたかも知れない。橋本はなかなかの策略家だったから。(橋本欣五郎大佐談参照)
計画が中央へ洩れたことについては、確に林久治郎(奉天総領事)が、「板垣が多数の浪人者を使い、多額の機密費を使って陰謀をたくらんでいると幣原(外務大臣)のところへ打電していた。
建川少将が来られた際、奉天の菊文で一緒に飯を食べたが、そのとき、私は「貴方は疲れておられるから、要件は明日にしようと予防線を張っておいた。しかし暗黙の間に独り言のように、また雑談的に計画のことを話した。建川少将から要件を聞いてしまっては、これは命令を受けたことになるのでいけないと考えたからである。すなわち公私の使い分けをしたわけである。
計画がばれたというので、会合して、即決か、または延期かを籤によって決め、以後花谷を遠ざけたというのは、花谷が実際云い過ぎたといふ点が誰にも感ぜられたからである。ばれた以上、そのグルップを何時までも維持することは宜しくないから、一時解散ということにした。その時点では、解散して、それからどうしようかという善後策までは未だ考えてはいなかった。一応解散して、それからのことは、その上のことだと思っていた。大分ブウブウという人があった。それから我々は遼陽へ移った。熱心な中野や甘糟が遼陽まで跡を逐っかけて来た。
(挙事の)日取りを決めたのは、演習をやる準備の期間を与えること、検閲の関係よりして、九月ということになった。点火を誰がやってもよい。とにかく私が責任を負えばよいのだという積りだった。
日取りを決めるのには、別に対外情勢は考えなかった。
今田新太郎は事変の直接的の面では最も関係が深い。
大体時期は九月を目標とした。八月会議がすんで、東京の意向を確めた以上、余りぐずぐずしない方がよい。そこで大体時期は九月を目標とした。
独立案
関東軍の我々の会議では、事変がはじまったら学良一派を悪者にして、民心を把握する必要あり、第一回の佈告の時よりすでにそういっている。占領案は土地を取るという風に考えなくともよい、当時の情勢からして、誰しも独立案に落ち着かざるを得なかった。
事変後の処理の研究は、初めは軍政の研究から出発して、占領案とならざるを得ず、関東軍でも占領案が一応研究されていた。
事変当初の形勢を経過して見ての結果、独立案に落ち着いたのである。
建川美次中将談
昭和十八年七月十八日午前十時〜午後一時
於東北沢同中将邸
僕は昭和三年本庄少将(後の本庄大将)の後任として北京公使館に赴任することになった。僕のようなヨーロッパにばかり在任して、支那を全然知らないものが、任命されるようになった理由は、本庄があまり支那通になってしまって、張作霖と仲よくなり過ぎてしまっては良くないから、全然支那を知らない者の方がよかろうという松井第二部長の意見によるもので、田中首相が知ったときはすでに決定してしまった後のことで、田中首相は僕をやるのには反対だったが、後の祭で、どうにもならなかったのである。というのは田中は未だ本庄を用いて、張作霖をなんとかしようと考えていたからである。
僕は以前中尉時代田中の副官をしていたので、田中とは前から親しかった。それで僕は田中と松井第二部長に招かれて、赴任前に昼食を御馳走になった。その席で田中がいうには、「今まで張作霖をものにしようと努めて来たがどうも駄目だ。」
当時張作霖は北京に在って、大元帥となっていたが、馮玉祥,閻錫山らが蒋介石の北伐軍と結んで北京に迫っており、張学良と楊宇霆は保定に在った。
田中は自分に、「張作霖はとても駄目だ。今に彼らは関外に逃げこむ。そうすれば満洲は混乱に陥る。その場合我が国としては黙視することは出来ぬ。故に君は向うへ行ったなら、その場合、如何いう所置をとったらよいかということを考えて呉れ」と頗る偶意的に云われた。
自分は赴任の途中、関東軍に立ち寄って挨拶したが、ちょうどその時は高級参謀の斎藤が旅行中で留守で、代って参謀の河本大佐が応待に出て来た。その時の河本の話では、張作霖が関外に逃げ込んだ場合は、張作霖を捕えて監禁し、学良を立て、多くの日本人顧問を入れてやって行くという話だった。豈にはからんや、二月後には殺してしまった。
四月十九日北京に着任、その晚から済南事件が起った。蒋介石は済南に迫って来た。
五月十八日、日本政府は、
若し満洲が混乱に陥った場合には、政府は適当な処置に出る。
という有名な声明を発した。
中央より訓令あり、芳沢公使は張作霖へこの旨を伝えに行った。中央からは、学良には僕より伝えるようにと書いてあった。(出先きの外交官達は、軍が出しゃばることを非常に嫌うから、特に中央より僕をと書いて来たわけだ。)
そこで僕は特別列車で保定へ行き、学良に会い、僕は自分の出来る限りの威厳を以て「お前は軍をまとめて、作霖のところへ引き揚げ、父に勧めて奉天に帰れ」と伝えたところ、学良と楊宇霆とは既に全く戦意を失っていたので、直ちに承知し、僕が四時に立ち、学良と楊宇霆は六時に立って北京に帰ったが、作霖に叱られてまたもや保定に戻った。
六月二日に作霖は各国公使を集めた。僕も面白半分で行ったところが、作霖は「これから奉天に掃る」という挨拶をした。
三日朝楽隊を催し、外交官たちに見送られて北京を出発し、四日の朝死んだ。
僕は途中で作霖を捕えてしまうのだろうと思ったから嶬峨(作霖の顧問)を呼び、「お前は今度軍服で行くか? ちやんと軍服で行き給え、(万一のことがあってはと思い)と注意した。
作霖は第四番目の客車に乗っていた。そして爆死した。
その後しばらくして、その月の十日頃、嶬峨が北京に戻って来た。どうしたのかと聞いたら、「欒河におる張学良に伝言を伝えに来た。ついでに北京に残しておいたものを取りに立ち寄ったのだ」という。どういうことを伝えたのかと聞いたら、「無条件で奉天に来い。何もしないから」ということだった。これは田中の変心である、僕は憤慨して電報を打った。
僕の聞いたところでは、小川射山(平吉)が一寸と道学者面をして「親が殺されて戦々恟々としておるのをいぢめ付けるのは東洋道徳に反する」といったので、田中は遽に変心した。
一体田中首相よ勉強せず、人々の意見を自分のものにする、後入斎だから、小川が尤もらしいことを閣議で述べると、直ぐそれに賛成した。
ところが学良は奉天に来ると急に強腰になった。学良や楊宇霆は、僕が保定であった時は、僕に対して小学校の生徒のような固くなって緊張した格好をしていた。ところがその秋私が奉天へ行ったときには、私を招待しようともしない。秦真次が特務機関で私を招き、学良をも呼んだが、傲然とした態度をとっていた。楊宇霆の処へも松井七夫の言葉で行って見たが、矢張り威張った嫌やな感じがした。尤も小川射山の云ったことは偉くはなかったが、結果から見るとあれでよかったわけだ。学良はそういった馬鹿だから結局満洲事変を惹き起してしまったのである。
満洲事変のことは、僕が北京より帰って参謀本部の第二部長になる。第二部長の管掌範囲は欧洲だが、欧洲だけの欧洲はあり得ないと自分は思っていたので、欧米部長だったが、支那課には良い人をやらねばならぬと考えていた。当時田代が支那課長だったが、人物を採る手腕がなかったので、自分が世話してやった。大木戸や、根本や影佐などは僕が世話したのだ。それ以前は支那課には人物が少かった。
軍務局長の小磯と色々話し合ったが、国内は政党が堕落し、軍が兵備改正の予算を組んでも通さない。
小磯は国内問題、僕は満洲問題を話し合った。
国内を何んとかせねばならぬと小磯が力を入れた。しかし国内改革をやろうとして失敗した。これが三月事件た。僕が罷めるようになったのもこの事件だ。(これをやったので、若いものが摸ねをして二・二六事件を起したということで、「君罷めて呉れないか。」「それでは罷めよう。」となったのである。)
昭和六年三月議会で、若槻内閣に政友会が唆ってかかり、議会も開けぬ有様たった二月紀元節に三月事件の計画につき話をはじめ、三月二十日頃にやる手答だった。爆薬は人を痛めてはいかぬので、空砲用のものにした。これを手に入れるには僕が色々苦心した。歩兵学校の幹事筒井(少将)に橋本を紹介した。はじめ僕らは軍隊をもって行って、議会を取り巻けば、わけはないと考えた。山下奉文が三聯隊にいる。彼の連中なら大丈夫やる。また大学校長の岡部は世田谷工兵隊だが、これならきつとやると思ったが、話して見たら駄目だつた。
軍隊を用いることには、宇垣は初めから不賛成だった。
この計画は東京を混乱状態に陥れ、現政府にこれを収拾する能力なしとして、宇垣に大命降下するように事を運ぶということであった。
三月十七、八日頃だったろう。河本は自分の所にやって来て、本当の爆弾を呉れといったが、二、三日中には駄目だといったら、それでは止めようということになり、集まった者に旅費を二十万円(これは徳川義親が出した。)を分けて各地方に帰らせた。
その前年十二月、花谷が奉天特務機関よりやって来て、突然何もいわず、僕に「一つ奉天を取ることが出来る。但し中央が妨害さえしなければ」という。「何で取るか」といったら、「軍隊で取れる」という。
「やれるなら計画して見よ。上の方のことは僕が何んとかするから。そのことは橋本にもいえ」といっておいた。
二十四サンチ砲の方は、公けに関東軍が貰って行った。
橋本・重藤が何かやっていた。余り役所にも出て来なかった。
中村震太郎が行くとき、彼ははじめてだったので、色々注意してやった。余り適任者ではなかった。真面目過ぎた。長勇は一緒に行ったが、いい加減で帰って来て、中村だけがあんな目にあった。
満洲事変は九月二十七日の予定だった。それは国際聯盟総会が九月はじめに開かれ、二十二日頃に終り、各委員が本国に帰り着いた頃合いをねらってやることにした。
その前年情勢判断を作り、その年の十一月に出来上った。
その要旨は、満洲問題を解決しなければ、日本は哀れむべきものになる。勿論これには各国の干渉があるであろうが、国民が一致したならば、切り抜けることが出来るであろうというのであって、これが基とになった。またそれには聯盟が一番厄介だということも、はじめからわかっていた。
僕はその用意をするために、国内をあちこち宣伝ばかりして歩いた。行かなかったのは姫路だけだ。
いよいよ情勢判断が出来、参謀総長も、これでよしということになり、これを陸軍省に廻した。小磯もこれに同意したが、宇垣は何んともいわぬ。その情勢判断の終りには「かるが故に軍備拡張の必要あり。」とあったので、宇垣は政党に気がねして反対だった。故によいとも悪いとも返事をせずに、五月頃になつてしまつた。
五月に南が陸軍大臣になると、早速僕を呼び出した。僕が行って見たら、情勢判断を読んでおり、「これは仲々良い。自分は全然同意だ。一つやろうではないか」といっておった。間もなく師団長を集めて訓示した。僕もまた大阪(四日間)をはじめ、師団司令部を皆まわって宣伝して歩いた。
九月十日は金沢、十二日は京都、十三日は名古屋、十四日に帰り、十五日の朝役所へ出た。自分は八月第一部長に替った。第二部長には橋本が来たが、自分の方が仕事に馴れているので、殆ど自分が兼任の形だった。すると総長に呼ばれた。奉天総領事林久治郎より十四日付陸軍省に電報が来、軍が奉天で大陰謀を企てており、近々何かやる形勢なりというのであった。前々陸軍省の奴等に話したら駄目だというので小磯にも教えなかったので、小磯がびっくりして総長のところへやって来たのだ。総長から君は知っているかといわれたので、多少知っていると答えたら、総長は不愉快な顔をして「困まるではないか」といった。
しばらくして陸軍大臣もやって来て同席した。参課総長は「第二部はこんなことばかりして、一向何も仕事をしない」と叱責した。(総長は前以て承認していた筈なのだが)僕も癪に触って、金谷総長に「閣下はそういわれるが、謀略謀略といっても、三遍に一度当れば上々でしよう」といってやった。南陸相は側で笑っていた。金谷総長は僕の先生で、信用は何時も満点だった。(よく用事で総長の室にゆくと、机の中からそっと酒ビンを取り出して、「どうだ一杯飲め」などといわれたものだ。南さんも騎兵科の先輩で信用があった。ところが総長はこの問題では冠を抂げられた。「直ぐ止めさせろ」というので、「何とかします」といって自分の室に引き退って考え、二宮(参謀次長)に向って、「止めさせるには自分が出かけて行った方がよいと思うが、総長には君から僕をやれということをいって呉れないか」といったら、「うんよしいってやろう」と二宮がいって総長に話したら、総長は直ぐに同意した。
僕は十五日の晚に立った。下関の埠頭で中島信一を見かけた。向うは隠れるようにしていたが、一面識があるので、「お前どこへ行くのか」と聞いたら、「奉天へ行く」といっていた。京城への汽車の中で、中島が自分のところにやって来たが、その意味がよくわからなかった。
南陸軍大臣は本庄宛ての封書を持って行けと書いて寄越した。
十八日午後一時奉天駅着、花谷が出迎えに来た。その日、本庄は遼陽を巡っていた。午後四時頃板垣が遼陽から引き返して来た。三人で話し、「こういうわけで君らの事が半分曝れた。中央は止めよという。自分の意見は、うまくやれるならやれ、駄目なら止めた方がよかろう。」といった。
陸軍大臣の本庄宛ての封書を悪いとは思ったが、開封して見たら、「慎重にやれ」とあった。
自分は挙事は二十七日だと思って来た。変更されたのは知らなかった。夕食後三人で飲んだ。そのとき鉄道守備隊長の島本がやるか、やらぬか、若しやらねば、その場で斬って捨てるなどといっていた。
いつもなら何時までも飲む連中が、その晚に限り、八時頃、「閣下はお疲れでしょうから」といって引き揚げて行った。
九時過ぎに寝た。十時過ぎに爆音がした。菊文の上を弾道が通った。はじまってしまえば、最早や関東軍の責任だから、夜明けまで黙っていた。後で板垣は僕を「ずるい」といったが、いう方が無理だ。どうなったかと電話をかけて聞いたら「取れました(北大営)」という返事だった。大砲は、半分以上不発だった。翌日陣地へ行って、砲兵中尉にそのことを云ったら、「古いせいですかね」と頭を搔いていた。全く国辱ものだ。
朝花谷が迎いに来た。菊文は附属地と商埠地の間に在り、自分は花谷の自動車で学良の家へ行ったが皆逃げた後だった。部屋にも兵工廠にもー人もおらず、その隣の航空廠には二十幾機かの飛行機があり、一人も見張りがいない。私が心配していたら、園井大隊長が来たので話してこれを守備させた。そこへ第二師団司令部が来た。そして東大営に向って行った。
二十二日に此方に帰って来た。十九日の晚片倉(未だ参謀ではなかった)が来て、これから参謀の会議をやるというので、行って見たら、未だ三宅参謀長は来ておらず、板垣・石原らがいた。その会議で、これからハルビンへ行こうと思うという。そこで僕は「それは駄目だ。それだけの兵力がない。ソ聯と事を起すには、まず南満を取り、吉林と鄭州の線、それに長春を取れ」といった。石原は頻りに何かいっていた。板垣は黙っていた。(石原の意見が中心だ)僕は「何遍繰り返しても意見は同じだ。君達はやりたければ勝手にやれ」といって席を去って帰ってしまったら、私の意見通りになってしまった。
本庄は僕が何んのために満洲に来ているのか知らなかった。若し本庄に聞かれたら、「中村震太郎の報復のため、奉海線を引き剝いでやろうと思って来たのだ」と答えてやろうと答弁を用意していたが、本庄は何にも聞かなかった。事実、事変の勃発した十八日には、中村事件の責任者関聯隊長が奉天に連れて来られていた。
東京に帰ってからの一番の問題は、幣原は止めようということばかり考えていた。そこでクーデターということになり、十月十五日にやることにした。
十月事件の処置に就いて協議したが、教育総監部本部長荒木も会議に出席して、他かのことをしゃべるので、協議が遅くなった。僕は「やれないようにすれば、彼らの面目も立つし、よいではないか」といったが、荒木は「自分が行けば止めるだろう。縛るのは良くない」という。夜中になって、憲兵をやって縛ることにした。
陸軍大臣は困った立場になった。安達謙蔵が内務大臣だったので、皆知っていた。若い連中が酒を飲んで大きな声でしゃべっていることなどは皆筒抜けだった。
安達は「この事件は決して穏当ではないが、我々政党の方でも考えなければならぬ。故にこのことは何もなかったということにしようではないか」と申し込んで来たので、この問題に就いては、議会も無事通過し、表面に出ずに済んでしまった。
この年十二月、安達が内閣を打破ったのだ。南さんに「こんな内閣は漬ぶせ」といったが、南はとにかく泣き泣きながらもついて来ているのだから、マアマア、そんなにせずとも」といっていた。しかし幣原(外相)は物の認識は誤まっている。
田中は確固たる定見がなく、ぐらぐら変わる。河本(大佐)の処分も、初めは水に流すことにして、熊本の大演習の時、総理と白川と鈴木との間に話し合いが出来ていた。しかるに御大礼のとき、田中が矢張り陛下に申し上げねばならぬといい出して奏上したところ、陛下より汝の言うことは、前にいったことと後でいったこととは違うではないかと御叱りを蒙った。そこで処分することになったのだ。
彼の時の峰憲兵司令官も馬鹿な奴だった。調査に行ったのは、そんな事実なしということを調べにやった筈なのだ。現地へ行って河本らを呼び出し、「帝国軍人はそんなことはせぬ。お前ら何を馬鹿げたことをいうか、そんなことは捏造だろう」と叱り飛ばして帰って来ればよいのに、態〃調べ上げて来て、あの結果になった。
松岡を国際聯盟に引張って行ったのは僕だ。松岡は外務省では嫌われていた。唯内田外相は理解していた。松岡を支持したのは軍だけだ。僕は松岡が来ねば、日本は辱しめられるとまで電報を打った。
佐藤(ソ聯大使)に何故強硬に出ぬか、自衛権の発動といったらよいではないか、それにせよと勧めたが、佐藤は「自分には信念がないからやれぬ。自衛とは思われぬという。杉村(陽太郎)等も駄目だった。「そんなら罷めろ」といってやった。
僕は事変後十二月に聯盟へ軍縮会議委員で行った。小林順一郎(軍)は強硬で、杉村と喧嘩までやった。昭和七年一月十九日、巴里で大・公使を集めて態度を決めたが、「脱退は危険だからやるな」というので、会議が仲々決まらない。長岡大使から、前以て話があったので、「そんなら自分の方(軍)でやるか」と、イタリーその他の駐在武官を出来るだけ集めたが、此方は十五分位いでもう腹が決まってしまった。
十九日の晚に笠井らも会議に出た。佐藤(尚武)らは、脱退すれば、経済的に日本は立ってゆかぬと、色々説明したが、僕は「その意味は一向わからない」といってやった。佐藤は三十分程も説明した。
八月二十四日、内地では、内田外相が有名な「焼土演説」をやり、大・公使たちが意見を具申して来たが、内田外相に叱り飛ばされた。こんな具合で、外交畑に骨のあるのがいないので、松岡君を招いた。僕が余り松岡を呼ぶことに熱心なので、部下の一人など心配したほどだ。
到頭松岡が来る事になった。そこで僕は松岡と二人で相談した。どうしても聯盟を忌避しなければならぬ。まかり間違うと聯盟を脱退しなければならないということを申し合わせた。当時政友会その他の国民から牽制の電報が来た。松岡が政友会を脱退したのもこれが原因だ。
石原莞爾は聯盟では何もしなかった。また会議に出席する資格もなかった。尤も彼はドイツ語以外の外国語はわからぬので、仮りに出席しても何もわからない。石原はそこで写真ばかり撮っていた。
脱退せざるを得なくなったとき、委任統治領のことが問題となって来た。.僕は「そんなことは構わない」といったが、外交官の一人は「海軍のためには重要な問題だ」という。僕は「何も返すというのではない。返さないのだ。若し聯盟で欲しければ、取りに来いといってやるがよいではないか。あんな岩の滓など取りに来はしないではないか」といってやった。
その当時、国内では朝日(新聞)などの新聞の軟論が外国訳されて、聯盟のホールに貼り出されたりした。
脱退した以上、聯盟に用はないと、外務大臣に辞表を出して帰朝した。佐藤大使なども同意して、罷めた。海車の永野(修)は後まで残った。
三月日本に帰って来たが、誰一人として、御苦労さまというものがなかった。松岡も同様な目に遭った。
一体上層部が怪しからん。上層部の人が英国大使リンドレーに、「日本は脱退などといっても、所詮脱退はせんよ」といったので、このことが事務総長ドラモンドに通ぜられ、英国側は強硬だった。
イーデン(英国外相)がその後議会で、「何故聯盟は日本に対して、経済封鎖しないのか」と質問されて、「出来なかったから、やらなかったのだ」と卒直に答えている。そのことが日本ではわからなかったのだ。
僕は支那のために血を流そうなどとは毛頭思ってはいない。要領よくやったらよかろうといった。
僕は満洲を保護国にした方がよい。合併するのにその方が都合がよいと思っている。
川島正大佐談
昭和十九年四月二十八日午後七時~十一時、同二十九日
於東安省密山県馬家子官舎
私は昭和四年八月独立第二大隊第三中隊長となり虎石台に駐屯した。河本大作大佐殿との関係は、私が小倉の聯隊に居った時、河本大佐殿は聯隊付中佐だったが、聯隊長が病気のため、聯隊長代理をされた。張作霖爆死事件には東宮さんが独立守備隊の奉天中隊長で、その分遣隊が事件の現場の地点に出てゐた。実際東宮さんの兵がやったか、或工兵がやったのかわからない。
満洲事変の際に用ひた二十四サンチ砲は倉庫を作ってその中に入れて置いた。砲床は雨が降ったりなどして固らず、固め了らないうちに事変が始まってしまった。この砲は七八発発射した。飛行場に落ちず、附近の官舍に落ちた。北大営にも三発程落ちた。これは兵舎と兵舎との間の営庭に落ちた。我が軍の兵士の頭に落ちはせぬかとさへ思はれた。
挙事に関し、話があったのは花谷少佐からである。それは何時頃のことか覚えてるないが九月より以前の事だった。日記を見ればわかるだらう。何か起きた時にはやらなければならぬといふ漠然とした話があった。あやふやな者は除いて飽までやる人だけで決行することになつた。今田(張学良顧問補佐官今田新太即大尉)が石原の所へ行きやることになり、帰って来たか、その辺のことは明らかには覚えてゐない。日もはっきりしない。日記には記して置いた筈だが、今手許に日記はない。今田が小野正雄大尉を連れて私の官舍へやって来て、なるべく早くやらうといふ話があり、直ぐ出来るかといふ話になったが直ぐには出来ない。中隊の勤務の関係などにより、已に命令を出してあることは一寸中止するわけには行かないし、また部下にわからないやうに準備しなければならない。命令、勤務隊の行事などの関係で急いでやると反って事を破る恐れがある。そこで十八日となった。同日午後十時四十分奉天に着く上り列車が来る一寸前だから、恐らく十時二十分頃ではなかったかと思ふ。爆破の直後に列車が通つた。一体あの辺の線はカーブになってゐるが、大きなカーブだから一寸見ると一直線のやうに見える。だから爆破で線路の片側の一本だけが一米五〇位吹っ飛んだが下り坂ではあるし、ガタンガタンと通つてしまった。
若しも彼の時車が顚覆すれば、鉄道警備の任務上負傷者を救ひ出すことから先きにしなければならない義務があるから、情勢が変る、敵兵営は突擊するどころではなくなってしまふ。顚覆しなかったのは天祐だった。爆薬は今田が持って来た。恐らく石原さんの所から出たものらしい。余り多くなかった。爆破と共に出て来た支那側は武装して来た。北大営の敵兵は殆ど毎晩、その時間は違ったけれど非常呼集の演習をやってゐたので、私の部隊では毎晚北大営に対し潜伏斥候を出してゐた。その報告によれば、殆ど毎日(時には休むこともあったが)非常呼集の演習を行った。敵の方の北大営で非常呼集があるので此方側でも私の部下も準備をした。事変発生後支那側の書類を調べて見たら、その晚(十八日)二時頃非常呼集をやることの命令書が出た。そのためか武装したり、馬に鞍を付けたり、大砲に馬さへつければ出せるやうに準備してあった。
爆発の時現場近くに敵は三四名はゐた。多少は一寸その死体の格好を直したりしたかも知れぬが、遠くから運んで来たりしたのではない。それは或は敵の巡察かも知れないし、又音を聞いて兵営から駈け付けて来た奴かも知れない。此方では予期しないことだった。柳条湖の傍の墓地の附近に守備隊分遣隊が在ったが、平常敵は演習の際、この分遣隊を目標として突撃して来ては分遣隊目がけてヤアヤアとやる。
此方は癪に触はるが手出しを禁じられてゐるので、唯屋上から睨み返すに過ぎなかった。またその頃から支那軍は盛んに夜間演習をやってゐた。王以哲の指揮するこの北大営の兵力は一万といはれてゐたが、翌日北大営の兵舎に這入って見たところ、懸けてある洗面器の数やその他の器物の数を数へたり、建物の工合その他から推測すると少くも八千を下らない。大体一万と見てもよい。
我が方は其時の演習に出た兵員が百三十五六名、そのうちの一部を横に廻したから、私が率ゐて最初に北大営に這入ったのは百五名であった。
河本中尉が火薬の装顚をやった。小杉曹長を伴ったが、小杉には何も話さず、全然知らせなかった。この小杉は十一月錦州方面で戦死した。河本中尉はその後病気のため大尉で罷め、奉天の税関に入り、警備員(守衛)の訓練所長をやり、今年の正月死んだ。死んだ時の地位は参事になってゐた。
土肥原大将談
昭和十八年十二月二十七日午後四時
於東部防衛司令部
私は昭和六年、天津特務機関に在り、石友三の乱を利用し、張学良の勢力を覆し、北支と同時に満洲の問題をも一挙に解決しようと企てた。それには閻錫山等をも此方側に付け、天津まで来たら日本側で武器を提供することに手筈した。
そこで石友三が起ち上ったのであるが、閻錫山が裏切りをしたりしたために、石友三は石家荘の宇陀江の処で敗れ、遂に此の計画は失敗に帰してしまった。丁度此の計画が駄目になった頃奉天の特務機関長に転任を命ぜられ、昭和六年八月十八日に着任した。
従って私は満洲事変の計画には途中から関係したのである。それまで花谷等が何かやってをることを知った。私も満洲の状態はこのままではいかぬ。日本人が非常な圧迫を受けてゐる。故に中央の意志に反するのは悪いが、しかしそんなことは構ってはゐられないと思った。花谷等が二十四サンチの大砲二門を奉天に持って来、その上を板を以て囲って、お宮か何かのやうな形にして蔽ひ隠してゐた。これは遂に支那側には気付かれなかった。
事変の起る前、私は中村震太郎大尉事件の報告のため(実は奉天の方の計画をも報告を命ぜられ、叱られるため)中央から呼ばれて上京した。尚ほ中村事件は片倉衷参謀等をして取調べさせた。
東京から帰任の時は建川さんが現地の連中を引き止めのため一足先に奉天へ出かけ、私は一列車遅れて帰任の途に就いた。
事変が勃発したのは安東県に着いた頃であった。電報で至急着任すべしとの命令が来て居ったので、先を急いで翌朝奉天に着いた。着くと直ぐに第二課に属した。当時奉天は無政府状態に陥ってゐて非常に危ないので、二十日私は市長に任命された。そこで先づ労働者を確保し、不逞の徒を抑へて治安を維持しなければならぬ。食糧衛生のことも考へなければならぬ。此等のことは鶴岡永太郎から聞いたらう。袁金鎧に治安維持会を作らせた。これには趙欣伯が大いに働いてゐる。趙欣伯は個人的には阿片のことや何かで悪い事をしたかも知れないが、それは市長になってからのことで、事変勃発直後には随分働いた。彼は事変前には不遇であった。張学良に反抗して何かやらねばならぬといふ考へを持ってゐた。私は革新的なことをやるならメンバーを集めよと云ってやった。事変が起ると親日的支那人を集めることに働いた。親日支那人中には別に張学良に対する計画は、事変前にはなかったやうだ。
溥儀氏を迎へることは、板垣、石原等の間に話が起った。
私は一ヶ月半程で市長を罷め、天津へやられた。これは天津で一騒ぎ起すためだった。この騒動は潘燕七、李際春等がやった。私は彼等が石友三の失敗の後を受けて一騒ぎしようとしてゐたのを知ってゐたから、彼等を利用して北支を一挙にひっくり返し、そのどさくさ紛れに、溥儀氏を天津から連れ出すといふ計画をした。聯盟を憚った幣原外相は溥儀氏の脱出を好まず、桑島領事も厳重に警戒してゐた。
私は長勲の革命の時代より皇帝と知り合ってゐたので、出かけて行って皇帝に会ひ、満洲に赴かれることに就いて話し合った。皇帝は色々条件を出されたが、私はいくら条件を容れてもその時になって情勢によっては如何なるかもわからない問題だ。要は腹の問題であるから御決意次第だと申上げた。鄭孝胥の長男の鄭謙と会って話し合ったが、鄭謙は脱出に就いての計画を話したので、そんなことでは駄目だといふので、私は工藤鉄太郎(後に皇帝より忠といふ名前を貰った)と大谷猛といふ二人の浪人を伴って、少佐参謀三浦忠次郎と打合はせ、機会を見てやることにした。
かうして起したのが第一次天津事件で、確か十一日のことだったと思ふ。その翌日淡路丸に溥儀氏を乗せて営口に赴いた。当時天津には駐屯軍が一個大隊位いしか居らず、人数が足りないので巡査まで動員して繰り出した。従って溥儀氏の邸宅を警備してゐた巡査が皆事件の方へ出かけて手薄となったその隙を窺って溥儀氏を脱出させたのである。
当時幣原外相は外国を憚かり、若し溥儀氏が逃げ出したなら、殺しても構はないといふ訓令を出してをった有様であった。従ってこんなどさくさにでも乗じないことには脱出することは出来なかった。この事件には陳覚済等支那側の人々が功労があった。彼等に報ってやらなければならぬ。第二次天津事件は、第一次天津事件の続きだ。私は表面は出張といふことで天津へ行った。事件後関東軍に呼び戻され、南大将に叱られた。
その後ハルビンの特務機関長になった。ソ聯は表面は不干渉だったが、裏面では邪魔をした。第二師団を長春よりハルビンに進めるに就いては、私と大橋総領事と二人でソ聯側に交渉した。今外交部大臣をしてゐる李庚紹とも交渉した。鮑鑑清はよく働いて呉れた。彼は後にハルビン市長になった。日本人が一人も殺されなかったのは、彼が先方を裏面切り此方に附いたからである。王瑞佳が警察署長をしてゐたのを裏切らせたりした。かういふ工合に籠城中に工作した。鮑鑑セイは学良のために投獄されてゐたのだが、獄から出してハルビンにやり、これを利用したのである。彼はその功により市長となった。