資料
日本の支那撹乱
北村敬直 編「夢の七十余年―西原亀三自伝」(平凡社) > 第五章「対支活動発端」 > 五「日本の支那撹乱」
1949年4月(「実情調査書」原本は1916年に西原亀三等により作製されたもの。資料「満洲ニ於ケル宗社党及其他ノ挙事動静ニ関スル件」にも一部掲載。)
五、日本の支那撹乱
秘密出版問題 大隈内閣倒る
日本の一部の者によって巻き起こされた大規模の中国攪乱は、まだわたしが朝鮮にいる時から始まり、八方に飛火して猖獗を極めたものである。それから約半年後、わたしの第一回渡支の頃は、はや大分下火になりかけていた。それでも行く途中、大連から旅順へ分かれるところでは、日本の将校が苦力などを集めた一隊に教練をやっているのを見た。満州方面では例のパブチャプ引張り出し計画が行なわれていた時で、これもパブチャブの兵隊にするつもりでやっているものと読めた。わたしはこれらの実情をもっと細かく調ベて見たいと思い、北京からの帰りがけを済南に寄り、山東鉄道を経由して道々状況を視察した。沿線至るところ物情穏かならず日本人に対ずる中国人の反感はひどいものだった。当時の日記を見ると、
七月十二日、済南着、渡瀬氏の案内にて見物し、山東に於ける革命軍の実状を調査す
七月十三日済南発、青島着、山東鉄道管理部長藤田虎力君と同車し、同夜は晩餐に招待され、同郷の竹内軍政長官陪席し実情を聴く
七月十七日東京帰着、帰東後「時局に応ずる対支経済施設要綱」を起草し配布せり。大隈内閣が袁世凱氏の帝制反対に職由して目論見られたる革命騒ぎの実情に関し、左の題目に依り騰写刷をなせり
一 山東省に於ける革命党と日本人
此原本は日置公使の交付によれり
二 山東に於ける革命軍並に青銭買の既往及現状
此原本は坂西大佐の輩下にして済南駐在の渡瀬某の報告に依れり
三 満蒙に於ける革命軍並宗社党と日本軍及日本人の関係、付鄭家屯事件の真相
此原本は中野二郎君の実地視祭報告に基けり
八月七日、後藤男の紹介に依り、華族会館に於て、貴族院議員約七、八十名集会の席に於て、前項の革命軍と日本との関係、其他時事談をなせり
右の革命騒ぎの実情調査書の内容にあるようなことは、日本の識者間に少しは分かっていたが、くわしいことは一般には知られていなかった。それが曝露されていまさらのごとく驚いた貴族院の人たちが、重ねてわたしの講演によって大いに動き、その夜直ちに各派懇談会を開き、議員の実地視察となりその結果大隈内閣の中国に対する暴戻な無軌道振が問題となり、宮中への運動も起こり、ついに大隈内閤の死命を制し、退陣の止むなきに至ったのである。内閣授受につき、大隈首相は始め加藤高明伯(当峙外相) に譲ろうとして山県公に峻拒され、公との交渉に基づいて寺司伯を朝鮮から呼びよせておきながら、なおも加藤伯との連立工作などを策して容易に退却しようとしないので、後藤男はこの大隈内閣の対支失攻をもって内閣倒壊を策し、この爆弾を投じたのである。
かくして大正五年十月九日寺内内閣は成った。寺内内閣はいわゆる超然内閣で、政党に基礎を持たず、政友会を与党としていた。わたしのまとめた支那革命騒ぎの実情調査書は大正六年七月の二十九議会で、秘密出版物問題として、尾崎行雄氏が後藤内相を攻撃した材料となったもので、おそらくいわゆる秘密出版物の元祖ともいうべきものであろう。尾崎氏は「本秘密出版物は一、山東省に於ける日本及日本人、二、満蒙日本軍隊及人民の挙勤に関する件を記述せるものにて、其内容は支那新聞其他に掲載せられしものを捏造したるものなり」といったが、けっして捏造したものでも、誇張して針小棒大に伝えたものでもなく、その第一項は駐支公使の調査したものであり、第二項、第三項とも最も確かなる筋のまじめな現地調査であって、当時としてこれ以上正確な情報は得られなかったはずである。 次にその全文を掲げる。
山東省ニ於ケル革命党ト日本人
在青島一邦人ヨリ船津書記官へ宛テタル書信中ノ一節
御来示ノ当山東革命党ハ実際言語道断ニ御座侯。此見聞ハ各方面ヨリ探知一々当局ヘ直言的報告致置侯。或ハ貴方へ回送ニナリ居ラズヤ。而シテ此終局ハ如何ニナルモノカ現今当地当局ノ為ス事ガ一向ニ徹底不致、小生モ亦聞カント欲セズ、彼亦言フヲ憚ルモノヽ如シ。貴示ニ言フ革命党ニ付合ノ日人云々是ハ其実ヲ言へバ日本人ガ革命ヲ働キタルモノニ御座侯。済南攻撃ノ如キハ何レモ日本人耳ニテ白洋服ノモノアリ、白シャツニ日本袴ヲ穿ツアリ、又ハ浴衣掛ケノ先生アリ、何レモ左ニ日本刀ヲブラ下ゲ、右ニ銃ヲ持チ向鉢巻勇マシク乗込ム故、彼等ハ皆革命ハ日本人ト思居侯。故ニ山東内地人ハ日本人ト見レバ皆悪党ト心得、村中連合シテ敵対行為ヲ執ルナリ近来山東内地ニ於テ不断日人ノ被害アルハ為之耳ニ御座侯。済南攻撃ハ一例ニ過ギ不申、尤モ今ハ支那苦力ニテ一定ノ軍衣ヲ着シ兵隊ラシキモノモ有之ヤニ聞及申侯。
右革命騒勤ハ其結果、山東人ガ尽ク日本人ニ対シ非常ナル怨ヲ懐クト同時ニ、正当業務ヲ為シツヽアル日本人ノ非常ノ迷惑ヲ感ジツヽアルニ過ギ不申、是誰ノ責任乎。
第一 済南ニ於ケル革命党ノ行動
済南ノ革軍人ノ行動ハ牽制運動ヲ目的トセルモノヽ如ク、五月三日(?)午後十一時過ギ爆声一発現ハルヽト共ニ、商埠ノ巡警等ハ逃ゲ出シ局内ニ集合セリ。其後城内外各所ニテ八九発ノ爆声ヲ聞ケリ。翌朝各所ヲ見ルニ城内ノ巡按使行署付近ノ小商舗及街上又将軍府付近ノ橋上等ハ、小破壊サレ尤モ烈シキハ貴志公館付近ニテ、此ハ貴志大佐住宅前ナル支那銭舗ヲ破壊セントシ強力ナル爆発薬ヲ用ヒタルモ、其家屋下部石造ノ為メ、却ツテ反響貴志公館及渡橋洋行及陶器商(邦人)等破壊サレ、貴志公館ハ唯硝子窓ノミ破壌サレ、渡橋洋行ハ扉ヲ破ラレ店ノ陳列品ヲ破損サレ、剰サへ何者カニ金員ヲ掠奪サレタリ。又陶器商モ尠カラザル損害ヲ受ケタリ此行為ニツキ貴志大佐ハ当時急激派ノ革命党員ガ日支両国ノ事端ヲ醸サント我輩ノ宅ニ加害セルニアラント唱へ居レリ。然ルニ同公館ノ使用人宮本某ハ巡警ガ爆弾ヲ投ジタルナゾ申シ立テ、巡警ヲ引致シタリ。サレド一般ハ革命党ノ行為ナルコトヲ認メ居ルモノヽ如シ。
翌日夜ハ同ジク各所ニ爆弾ヲ投ジ市場付近ノ民家三戸ヲ焼キ一人ノ小児ヲ焼死セシメタリ。此ハ邦人ノ行為ナリトノ説アリ。尚昇平街ノ交通銀行ヲ破壊シ、掠奪セントシ爆発薬装置不完全ノ為メ、却ツテ対面ノ邦人家屋門扉ヲ破壊シ熟眠中ノ邦人菊地夫婦ヲ傷ケ、通行邦人一名負傷セリ。其他東亜公司ノ倉庫(大馬路付属地ニ在ル)ヲ焼キ、支那商舗数戸ヲ破壊シ、徒ラニ日支商民ヲ苦メ之レガ為メ、商埠支那商民ハ全部戸ヲ鎖シ、窓ヲ煉瓦ニテ塗リツブシ、城内ニ避難シ、又十余年間根底ヲ植ヱタル城内貿易商邦人等ハ、商埠ニ避難シ全ク商埠城内ノ交通遮断サレ、邦人中家族ヲ携へ内地ニ引揚ルアリ。支那ノ対日悪感遽ニ起リ、支那学堂教師トシテ傭聘サレ居タル秋田、福山ノ両名直チニ解雇サレテ、不得已内地ニ帰ルコトヽナリ、使用支那人ハ殆ンド逃亡シ、飲料水ノ供給マデ一時困窮スルニ至レリ。革命戦争ハ日本ガ全然援助スル如ク思惟スルニヨリ、山鉄ニテ運送スル貨物モ掠奪サルヽコトナキヤヲ憂へ、直チニ引戻シ、小清河ノ水速ニ依リ送ル等、殆ンド革命ハ日本人ガ為ス如ク確信スルモノヽ如クナリシ。尤モ当時多クノ革兵続々山鉄列車ニテ済南ニ送リ来リ、付属地内ノ新築停車場内ニ潜ミ大馬路ヲ通行スル支那巡警ヲ白昼捕へ、付属地内ニ引入レ停車場地下室、或ハ階上ニ押入レ、強問スルコト両三日ニ及ビタルコトアリ。我民会議員ハ屡々会ヲ開キ、林領事ニ生命財産ノ保護ト、革兵ノ行動ニツキ、其意見ヲ尋ネタルモ、不得要領ニテ安心スルコトヲ得ズ。遂ニ領事ノ手ヲ経テ外務大臣ニ陳述書ヲ送リタルコトアリ。尤モ軍人側ニテハ、革軍ノ行動ハ能ク知リ居ルモ、一切領事ニ通知セズ。領事館ハ寧ロ邦人消防隊ガ憲兵等ヨリ聞キタル情報ヲ得テ、漸ク知ル有様ナレバ、殆ンド革命党ノ情報ヲ前知シタルコトナキモノヽ如シ。
十五日夜ハ周村ノ革兵濰県ノ革命兵ト聯合シ、一隊ハ南大塊樹ニ向ヒ、一隊ハ商埠公園ノ裏手ヲ通過シ、将軍府三軍堡兵営ニ迫リ、一隊ハ東門外ニ迫リ、午後十一時頃ヨリ翌午前六時頃マデ、交戦セシガ革命兵敗走シ、将軍府及南大塊樹方面ニテハ七、八名ノ死傷者ヲ出シ、東門外ニテハ二十余名退路ヲ断タレ、全部銃殺サレ、コノ内ニ邦人新田某アリシト云フ。又大塊樹方面ニテ邦人革党松浦、稲葉ノ両名捕虜トナリ、松浦ハ負傷シ居タルモ稲葉ハ健全ナリシ故、将軍府ニテ取調ヲ受ケ、松浦ハ自白セザリシモ、稲葉ハ革兵ガ鉄道付属地ニアリタルコト、停車場内ニ潜ミ居ルコト、邦人ノ関係セルコト、其他沿線ニ於ケル革軍ノ実状ヲ全部目白セルヨリ、支那側ハ此調書ニ捺印ヲトリ、二名共ニ領事館ニ押送シ来レリ。
敗戦革兵ハ全部元トノ付属地停車場ニ逃ゲ込ミタルタメ支那側ヨリ停車場内ニアルコトヲ指摘セラレ、日本ハ厳正中立ト云フ義名ニテ、該革兵ヲ汽車ニ積ミ、押収シタル武器ハ貨車ニ積ミ周村濰県方面ニ送還セリ。サレド山鉄ハ其後相変ラズ旅客トシテ革兵ヲ輪送シ、武器モ自在ニ車中ニ積ミ、送リツヽアリ唯身ニ直接武装ヲ纏ヒ居ラザルノミナリ。
斯ノ如クニシテ時局ハ益混沌トナリ、支那商民愈窮迫シ、支那人ノ最モ恐ルヽ経済上ノ困難ハ変ジテ強烈ナル排日思想トナリ、加フルニ穏健ナル邦商モ、同ジク大打撃ヲ受ケ、徒食スル外ナキノ状態ニ陥リ、唯不正ノ奸商ノミ跋扈シ居レリ。故ニ民会議員ハ今、善後策ニ付キ再三、林領事ヲ訪問シテ陳情スル処アリシニ、領事ハ青島ニ至リ、守備軍ト協議ノ結果、山鉄ニテハ今後一切革兵ヲ運送セズ、邦人ノ居住区域ハ安全ノ方法ヲ講ズルコトトナリシ旨、答へラレタリ。然ルニ両日ナラズシテ再ビ爆声、或ハ小銃ノ音ヲ耳ニシテ、時々日本軍隊ヨリ、商埠ノ警備トシテ出シアル哨兵ト、支那兵ト警戒線出入事件ニテ、両国ノ事端ヲ醸サントシ、二十五日夜ノ如キハ、商埠西端、或ハ我無線電信所付近ニテ、何者カ発射スルモノアリ。又官兵驚愕ノ結果、乱射シ夜中便所ニ通フ日本婦人ヲ傷ケ、領事館ニ数個ノ銃弾飛来シ、商埠西端ニアル多クノ邦人住家ハ硝子窓ヲ破壊サレ、大ニ危険ニ陥リタルコトアリ。
其後将軍府付近ノ警戒線ヲ我兵通過セントシ、支那哨兵ト争論中、我将校来リ、将軍府ニ至リ、談判中其由ヲ守備隊ノ平野大隊長ハ貴志公館ニテ、須藤憲兵大尉ト協議シ、守備軍二個中隊ヲ繰出シ、一個中隊ヲ営内ニ止メ、出勤セル一個中隊ヲ四列縦隊トナシ、貴志、平野、須藤等及憲兵多数乗馬ニテ行列ヲ作リ、将軍府ニ至(残ル一カ中隊ヲ商埠義利洋行付近ニ機関銃二台持タセ止メ置キアリ)ラントセシニ、将軍府王参謀長及馬議長出デ来リ大ニ陳謝セシヲ以テ、貴志大佐ハ左ノ条項ヲ差シ出セリ。
一 将軍府付近ノ警戒ヲ解クコト
二 暴行支那兵ノ中隊長ハ中隊兵全部ヲ引率シ来リ捧銃シテ謝罪スルコト
三 今後斯ルコトアルトキハ軍隊ハ自由行動ヲ取ルベシ
第二項ハ直チニ行ヒ、第一項ハ四、五日ノ延期ヲ乞ヒ、第三ハ追テ回答スルコトヽナリ、其後直チニ靳将軍逃出シ、段芝貴及張懐芝来リ、将軍城内ニ移リタル為メ、従テ将軍府付近ノ警兵ヲ撒シタリ。又大塊樹モ撤退不撤退ニテ、種々ノ論議中、遂ニ一部ノ看視共ヲ残シテ撤退セリ。
又商埠大馬路東端ニ立テル、我歩哨十四日夜十一時頃、後方三十米突ノ所ヨリ何者カニ狙撃サレ、左足ニ貫通銃瘡ヲ受ケタル為メ、其晩一小隊ヲ出シ付近ヲ捜索セシモ、犯人不明ノ為メ、翌日午前十時多数ノ兵士ヲ出シ主要路タル普利門外ニ馬路ヨリ大馬路ニカケ、軍隊ヲ以テ包囲シ交通ヲ禁ジ、支那巡警ト共ニ我兵ヲ派シ、土民家屋ヲ一々搜索セルモ、犯人不明ナリ。然ルニ領事館ハ此事件発生後約十二時間、之ヲ知ラザリシ由ナリ。其後交渉ノ結果支那側ニテ千円ノ懸賞ニテ、犯人ヲ搜索シ引渡スト称シ居ルモ、楊道尹ハ貴志大佐ニ向ツテ、或ハ両国ノ事端ヲ醸サンタメ革兵等故意ニナシタル行為ニアラズヤ、ト云へリト。然ルニ邦人側ノ臆説ニヨレバ軍隊側ニテ警察権ヲ取ランガ為メ、此ノ如キ芝居ヲ為シ居ルモノナリト云ヘリ。尚ホ大塊樹ノ支那兵ヲ撤退セシメントスルノ目的ハ、革命兵ガ此地ヲ根拠トシテ辛荘第五師ノ本営ニ迫リ、其時ハ背後ニ商埠ヲ負ヒ進マバ、必ズ銃弾商埠ニ入ルヲ以テ、再ビ商埠ヲ危険ニ陥レルモノナリトシ、我軍隊出テ干渉スルコトヽナリ、一面三里荘方面ヨリ、城内攻撃ヲ安全ニ行フノ計画ナラント称シ居レリ。
第二 周村及博山方面ニ於ケル革軍ノ行動
周村攻撃軍(護国軍)ハ五月四日(?)午前八時、第一列車ニテ青島ヲ発シ、午後四時十八分、周村ニ着ス(人員三百余名内邦人十名)。直ニ巡警局ヲ襲ヒ巡警三名ヲ斃シテ之ヲ占領シ、武器ヲ分捕シ、翌朝直チニ城内ヲ占領シ、同地中国銀行、交通銀行、実業銀行ノ現金ヲ掠奪シ、外ニ商民ヨリ十五万元ヲ徴発シ、尚革兵中各個ニテ掠奪セルモノアリ。或ハ不正邦商華兵ニ扮シ掠奪ヲ逞ウセル等アリテ、全ク土匪ノ行為ト異ナラザリシ。最モ不都合ナルハ革兵モ各自掠奪ヲ擅ニシ、商舗ヨリ綿布類ヲ運搬シ居ル所ヲ英人宣教師ニ見付ケラレ、汝等ハ「金ガ要ルノダラウ。金ガ欲シケレバ自分ニ於テ与フベシ」ト云ヒシ。革兵等ハ其掠奪品ヲ商人ニ返シタル由ニテ、此等乱暴ナル状態ヲ遺憾ナク英人ノ前ニ暴露シタル由ナリ。或ハ英米トラストノ看板広告ヲ打壊シタル由ナリ。甚シキハ煙草ヲ掠奪シ之ヲ販売シ、或ハ掠奪ノ品ヲ競売シ、又ハ個人掠奪シテ懐中ノ暖カトナリタル革兵二十余名ハ、武器ヲ棄テ逃去シ、中ニハ一万元ヲ持逃ゲセルモノアリト云フ。蒲子明モ怪シキコトアリシガ、我兵看視ノタメ目的ヲ達セザリシ由ナリ。一時革軍ハ我軍隊ニ請ウテ、逃亡革兵ノ看守ヲ依頼セシ為メ、張店ヨリ軍隊ヲ出シタルコトアリ。斯クシテ多少ノ金ヲ得、直チニ小銃、三十年式騎銃ト十八年式短発トヲ合シ、五、六百挺三井(?)ノ手ヲ経テ買込ミタリ。
其後直テニ長山県ヲ占領シ軍用電話ヲ架設シ居ルモ、第十二師ノ一混成ノ為メ奪回サレ、周村ノ根拠危険ニ迫ルヤ、付属地内ニ在ル糧秣庫ノ歩哨ニ対シ、夜中何者カ二名来リテ狙撃シ、負傷セルヲ口実トシテ、小川中隊一小隊ヲ牽ヰ、長山県ニ至リ、沿線十支里以内ニテハ、交戦セザル様厳談セルタメ、周村ノ革党ハ安全トナレリ。其理由トスル所ハ、官兵ノ斥侯二名窃ニ停車場方面ニ来リ、我兵ヲ傷ケ又周村城ニテ交戦スル時ハ、付属地内ニ銃弾飛来シ危険ナリト、頑強ニ主張セル為メ、其後済南ヨリ三十二名青島ヨリ六十余名ノ邦人ヲ募集シ、一日一元ヲ与へ、成功ノ暁ハ二、三百元宛与へルト称シ、決死隊ト名ヅクルモ給料不渡ト食事不完全ノ為メ、退隊スルモノ多シ。但シ何レモ真ノ目的ハ掠奪ニアルナラントノコトナリ。聞ク邦人幹部一人ニテ、二、三万元ヲ着服シクルモノアリト云フ。又博山交線ハ淄川炭坑ノ関係上、武力ヲ以テ解決ヲ許サザル事トナレリ。ソハ坑夫ガ支那人ナルヲ以テ、若シ逃亡センカ排水其他炭坑ハ数カ月間中止セザルヲ得ズ。其及ス所ノ影響多大ナレバナリ。又博山城モ礦脈等ノ関係上、武力解決ヲ差止メ居タル為メ、革命側ハ屡々人ヲ派シ口頭ニテ談判ナシ居レリ、サレド此談判中、尤モ不埒ナルハ護国軍ヨリ来レル穴水、中井其他三名ノ邦人革党ナリ。彼等ハ二名ノ支那革兵ト共ニ博山ニ来リ、日本人旅館ニ入リ博山知事ヲ日本旅館ニ呼寄セ、談判セントセシモ在留邦人七、八名ハ彼等ニ迫リ、此処ハサナキダニ排日思想アリ、昨今漸ク円滑トナレルニ、君等ノ如ク日本旅館ニ知事ヲ呼寄スル時ハ、君等ノ帰リタル後、我等ハ大ニ迷惑ヲ蒙ル恐アルニ付、君等知事衙門ニ行クべシト云フヤ、彼等ハ知事衙門ニ至リ、日本人ノ革党ト称シ、軍資金ヲ要求シタルモ拒絶サレタリ。其後居正一派ノ支那人来リ窃ニ支那学堂ニ潜ミ、支那教師ヲ介シ知事ニ独立ヲ迫リ結果独立ヲナサシメタルモ、彼等ガ一旦引揚グルヤ、又博山知事ハ独立ヲ取消シタル由ナリ。是ニ於テ百余名ノ革軍(護国軍)内邦人三十余名、博山ニ向ヒ列車ヲ下ルヤ、否ヤ、直チニ武装ヲシ十余名ノ巡警ヲ斃シ、博山ヲ占領セリ。知事逃亡セルヲ以テ、千円ノ懸賞ヲ付シ、知事ヲ捉へタリ。一説ニヨレバ数万元ノ軍資ヲ要求シ居レリト云フ。尚淄川ニ入レル革兵ハ二千余元ノ銅元ヲ得タル由ナリ。
第三 濰県攻撃状況
山東ニテ動乱ヲ醸シ居ル革軍ハ二派ニシテ、一ハ山東革命軍ト称シ、一ハ山東護国軍ト称ス。前者ハ比較的政治的色彩アレド、後者ハ全ク土匪ニ類スルモノナリ。山東革命車ハ孫文一派ヨリ居正ヲ出シ、大連方面石本氏等ニ資金ヲ仰ギ、李村ニテ組織サレ、青島ニ来リ、亜細亜ホテル三階ヲ借受ケ、幹部詰所トナシ埠頭苦力車夫等ヲ募集セシモノナリ。護国軍ハ元ヨリ山東ニテ組織シ、呉佐州、蒲子明ノ名ヲ以テ部下ヲ集メ、武器叩ハ最初居正ヨリ借入レタルモノナリ。
両者共最初ハ青島ニテ我軍ガ分捕セル独逸式モーゼル及ビブロウニングヲ買受ケ、之ヲ使用セルモノニシテ、支那人ノ革兵ハ一日、日給一円、日本人ハ戦闘中一週間五十元、休戦中一カ月五十円ノ約束ニテ雇入レ、一々誓約書ヲトレリ。募集セル日本人ハ、日本旅館ニ宿泊セシメ、支那人ハ多ク青島守備軍付属宗屋(苦力収容所)ニ収容シアリ。沿線ニ出動ノ前日迄、苦力収容所ニテ伝染病患者出タリト称シ、交通ヲ遮断シテ外間ノ注目ヲ避ケタルモノナリト云フ。濰県攻撃始マルヤ、別動隊タル五、六十名ノ一隊ハ青島ヨリ第一列車ニテ其日ノ十二時前坊子ニ着シ軍隊ノ応接ヲ依頼シ置キ、三名ノ邦人中一名ハ同地支那巡警局ニ至リ、牢獄ノ看守ヲ脅迫シ、看守等ガ局内ニ逃ゲ込ムヤ、彼等ハ局内ニ乱入シ六十余名ノ巡警ヲ降服セシメ、小銃百挺余及実弾数箱ヲ分捕シ、囚徒ヲ出シテ白布ヲ纏ハシメ、之ヲ革兵トナセリ。本隊ハ青島ヲ午前十一時二十分発(月日不詳)、即チ第十一列車ニテ濰県ニ来リ、坊子ノ一隊ト合シ、約三、四百濰県停車場ニ下車シ、二隊ニ分ケ、一隊ハ城ノ東門ニ向ヒ、一隊ハ線路ノ南方ニ出テ、第五師ノ兵営ニ向へリ。然ルニ両方トモ撃退サレ、付属地ニ逃ゲ込ミタリ。当日革兵同志打ヲナシ十数名ノ負傷ヲ出セリ。交戦ト両事ニテ支那人革兵四十三名ノ死傷者アリ。内々毒瓦斯ヲ使用セントシテ、其毒瓦斯ニ触レ、中毒セル日本人一名アリタリ。五日午前六時、坊子駅ヲ発シ済南ニ向へル列車ニ対シ、濰県支那兵之ヲ発射シ、十六発実弾命中セリト云フモ、或説ニハ五日午前ノ攻撃ニ退却シ、狼狙セル革兵等列車内ニ逃ゲ込ミタル為メ、射撃セラレタリトモ云フ。
其当時歩哨交代兵プラットホーム内ニ入レルヤ、一上等兵ハ流弾ニテ額面ヲ射貫カレ即死シ、又城内邦人一名惨殺サレタリト、斯クテ野中大尉我軍人ノ資格ニテ、張樹元第五師長ニ面会ヲ求メタルモ、之ニ応ゼザル為メ、六日石浦第四十聯隊長、坊子ヨリ来リ、漸ク張師長ニ会見シ、一 付属地ヲ危険ニ陥レタルコト。二 邦人避難ノコト。三 列車ニ発砲ノコト。四 我兵即死等ニ付談判セルニ張師長ハ相当謝罪シ且ツ弁明シ付属地方面ニ在ル土匪(革軍ヲ指ス)ノ退却ヲ要求シ其退却シタル後独立セント述ベタルニ、石浦聯隊長ハ独立スルナレバ居正ト交渉シ、居正ノ指揮ヲ待ツベシト暗ニ述ベタルモ、張ハ大ニ怒リ居正ハ政治上ノ革命者ニ非ズ寧ロ土匪ニ類スルモノナリ、彼ト交渉スルノ要ナシト答へタリトノ説アリ。
其後十六日、両者交渉纏マリ二十三日城内ヲ引渡スコトヽナリ、夫ヨリ城内ノ治安ハ張第五師ニテ維持シ、二十四日後ハ革軍ニ委ヌルコトヽナリヌ。革軍ハ城内ニ入ルモ、軍資ヲ強請スべカラズ、第五師ハ武装ノマヽ退城スべシトカ、濰県入城後革軍城外ニ行動スベカラズ、トカノ色々ノ交渉アリタル後、漸ク解決セリ。尤モ張第五師長ハ革軍ト称スル土匪ノ為メニハ開城セザルモ、商民ノ苦ミヲ見ルニ忍ビズシテ、撤退スルモノナリト称シ居タリト云フ。然ルニ十三日午前一時頃、革軍ノ歩哨ト官兵ノ巡邏兵ト門外ニテ衝突シ、小交戦セシガ同日中井大隊長ハ一小隊ノ衛兵ヲ付シ日章旗ヲ翻シ城内ニ至リ、又流弾付属地ニ入リ危険ナリトノ交渉ヲ始メ、張ハ愈困リタルモノカ同日代表者ヲ大和旅館ニ派シ居正、陳中孚等ト会見シ、二十四日前記条項ニ依テ引渡シヲ締結シ、二十四日兵営ヲ焼キ撒退シ、後方二十五支里ノ地点流亭鎮ニ隊ヲ合集セシメタリ。此時退路偵察トシテ向ヘル革軍中ノ邦人鶴見、秋本ノ両名ハ、官兵ノ捕虜トナリ、北門外ニテ裸体トナサレ、樹木ニ縛ラレ、首ヲ斬ラレタリト云フ。然シ一面靳将軍ヨリ使者トシテ副官某、貴志大佐ノ証明ヲ受ケ濰県ニ赴ク途中革軍ノ為メニ促ラへラレ「スタンダード」ノ家屋ニ押込メラレ、或ハ濰南張知事ガ山鉄列車ニ乗リ込ミ、済南ニ向へル途中青州駅ニテ革兵(邦人)ノ為メニ引下サレテ、濰県ニ逆送サレタル等、甚敷ハ革兵(支那人)ハ白狼河付近ニテ、革軍ノ酒保ヲ営ム邦人ノ宅ニ入リ、商品掠奪スル等ノ事アリシ由ナリ。聞ク処ニヨレバ革党ハ濰県入城後、十四、五万元ノ軍資ヲ得タル由ナルモ、右十四、五万元ハ大部分制銭ナル為メ、此品払下ニ付キ日本商人運動セルモノ勘ナカラザリシ趣キナリ。
第四 高密攻撃状況
高密ニ向へル革兵ハ最初百名以内ナリシガ、漸クニシテ付属地ニ接近セル巡警局ヲ占領シテ根拠トナシ、更ニ濰県方面ヨリ応援隊来リ、高密城ノ攻撃ヲ始メタルモ、一時営兵城壁ニ拠リ、頑固ニ抵抗シ、革兵側ハ武器不完全(即チ「モーゼル」ト「ピストル」)ト訓練ノ足ラザルタメ、約四十名ノ死傷ヲ生ジ根拠地ニ引揚ゲタリ。其後城内ヨリ「講和解決」ト書ケル白布ノ旗ヲ城壁上ニ樹テ、商務総会員来リ、城内ノ官兵(二百名)ヲ撒兵サセ、城内ノ治安ヲ革兵ニ委ヌルコトヲ申出タルニ、革命側ハ官兵ニ於テ武装ヲ解除シテ立退キ、且ツ其武器ヲ全部引渡スベシト提言セシ処、商務総会員ハ一応帰城ノ上回答スベシトテ、帰城シ回答時間(十三日午前十時?―原文のまま―)ニ至ラザル内、膠州ヨリ馬隊(官兵)約百名高密応援ニ向ヘルノ報ヲ憲兵隊ヨリ得タル革兵ハ、付属地付近ノ防戦準備ヲナシ居ル内、案ノ如ク馬隊来リシヨリ、直チニ開戦シタル処、僅カニ銃火ヲ交へ間モナク退却シタリ。革命軍ハ不審ニ思ヒツツ、其夜城内ニ迫リタル処、城門ハ開放シアリ、依テ先ヅ支那人ノ革兵ノミヲ進入セシメシニ、何等抵抗ヲ見ズシテ入城スルヲ得タリ。翌日、同地日本人(革軍中ノ―原注)支那幹部等入城シ、軍資数万元ヲ得、其上商人ヨリ金員ヲ徴発シタリ。此際我兵及憲兵ハ多大ナル援助ヲ与ヘタリ。其後多少ノ武器ヲ備ヘ、諸城ヲ占領シ、尚南下シ只構村ニテ官兵ト衝突シ、十余名ノ死傷者ヲ出シ、其際革軍中ノ邦人一名肩ヨリ腹部ニカケ貫通瘡ヲ負ヒ即死セリ。又即墨方面ニ活動セントセルモ、途中ニシテ青島守備軍ヨリ租借地付近ノ各城各村ハ日本軍ノ戒権ヲ保ツ為メ、一切革軍ノ行動ヲ許サヾルコトヽナリテ、膠州即墨地方ハ中止シ濰県以西ニ於テ積極ニ運動ヲナスコトニ決セリ。此方面ノ司令支那人呂子伊、邦人主脳三島某総兵力(革―原文のまま)約三百、内邦人二十名内外ト注セラル。
第五 昌楽攻撃状況
昌楽ハ濰県ヨリ百余名ノ革兵ヲ派シテ攻撃シ、同時ニ我軍隊ヨリモ大ニ援助セシガ、容易ニ開城セズ、果テハ我軍隊員ノ勧告ニテ講和ヲナス事トシ、同城知事ヲ其儘任命シ、軍資ハ強請セザルコトニテ、革命軍ヲ入城セシメシニ、入城後不当ノ軍資ヲ要求セシ為メ、知事ハ同地商人ニ申訳ナシトテ、遂ニ逃走シタルモ、其後安邱官軍ノ為メ、奪回サレタルト。沿線出動ノ官兵襲来スルナラントノ説アリ、革気大ニ恐怖シ、目下増兵計画中ナリト云フ。
先日此付近ニテ邦人八名虐殺サレタルガ、其邦人ハ制銭業者ト称シ居ルモ、其実革軍ニ閾係アリシモノナラントノ風説アリ。
第六 革兵雇ノ邦人
革兵ノ雇へル邦人ハ殆ンド下層界ノ人物ニテ、多ク徒食連ナレバ革命ノ意義等ヲ解セズ、只管我利主義ニシテ、国家関係ヲ顧慮スルモノナク、又南方ノ如キ政治的ノ学識アルニアラズ。猥リニ我軍隊ノ威ヲ藉リ、官民ヲ威嚇シ、若シ革党ヲ非難スルモノアルトキハ、何人タリトモ打チ懲スゾト傲語シ、中ニハ我等革命ニハ実業上ニハ何モ顧慮スルニ及バズト、愚言ヲ弄シ、果テハ言論機関ニ迄、干渉セントシ、脅迫ヲ試ミルモ、領事ハ何等是ヲ制スル事ナク、為メニ健全ナル在留民中憤慨スルモノ多キモ、生命財産ニ迫害ヲ受ケンコトヲ顧慮シ、怒ヲ沈メ時期ノ来ルヲ観望シツヽアリ。又革党ノ付属スル支那人等ハ人夫、車夫、及囚徒ノ類ナレバ、其劣等ナルコト推シテ知ラルベシ。彼等ノ乱暴ナル一例ヲ拳グレバ、山鉄列車ニ入リ旅客トシテ乗リ居レル支那官吏ヲ引キ卸シ、汝ハ袁探ナリト罵リ、遂ニ之ヲ銃殺セルコトアリ。斯ク不秩序ニシテ支那地方官トノ交渉ノ如キハ、往々軍人ニテ直接之ヲ行ヒ、沿線ノ警察権モ全ク憲兵ニ於テ自在ニ行ヒ、犯罪者ハ殆ンド青島軍政署ニ送リ、領事ニハ僅カニ事後ニ至リテ書類ヲ送リ居ルノミナリト云フ。
第七 武器ノ購入方法
武器弾薬ノ購入ハ、殆ンド三井ノ手ヲ経タルモノニシテ、内地ヲ発送スル際ハ露国行ト称シ居ルモノノ如シ。
是迄山東ノ革軍ガ購入セル武器(小銃)ハ約千四、五百挺ト察セラル。其内過半ハ三十年式騎銃、一部ハ十八年頭発、又二十二年連発モアリト云フモ不肖ハ実見シタルコトナシ。
第八 革党暴動ノ影響又日本人ニ対スル土民感想
山鉄ハ一時使用人逃亡シ(濰県ノ如キハ全部)、苦痛ヲ感ジ貨客一時ニ減ジ、一日平均総収入約一万元程ナリシニ、動乱勃発後ハ一日平均僅カニ千円ヲ出デザル有様トナリ、尚排日思想昂リタル為メ、将来ニツキ大ニ憂ヒ居ルモ、部長ヲ始メ各課長駅長等守備軍トノ関係上、余リ口ヲ聞カズ、左レド内心大ニ善後策ニツキ懸念シ、同時ニ守備軍ニ対シ不平ヲ抱キ居レリ。現ニ吾人ガ訪問セル駅長中、何レモ同様ノ口吻ヲ漏シ居レリ。故ニ山鉄従業員ハ革兵ノ輸送ヲ好マザルモ、守備軍ノ管理ノ下ニアルタメ、巳ムナク命ニ従ヒ居ルモノナルコト明カナリ。目下沿線ノ支那良民ガ苦痛ヲ感ジ居ル、済南市場ノ取引中止サレ、輪送杜絶セルタメ、日用品及糧食類ノ欠乏甚シキガ故ナリ。而シテ此状況、今尚継続セルニ因リ、人民益々窮境ニ陥リ、最近ニ至リテハ官、軍ヲ問ハズ何レモ熱心ニ一日モ早ク平穏ニ帰センコトヲ望ミ居レリ。又土民共ハ日本人ガ支那人ヲ使用シテ、革命ヲ起セルカノ如ク感ジ、其為メ今日幾多ノ人民ガ流離顛沛ノ災難ニ苦ムニ至リタルモノナリト信ジ、一部土民ノ日本ニ対スル怨恨ハ、骨髄ニ徹スルノ感アルガ如ク見受ケラル。而シテ右識者ハ、是ガ為メ今後日支ノ国交上非常ナル支障ヲ来スコトナキカヲ憂慮スルモノ勘カラズ。
〇山東省ニ於ケル革命軍並ニ青銭買ノ既往及現状
山東省ニ於ケル革命軍ノ蜂起ハ、四月中旬以降ノコトナリ。一方ニ於テ孫逸仙ノ児分ナル居正、首領トナリテ、日本人萱野某ヲ参謀トシ、又一方ニハ馬賊呉大州、首領トナリ日本人中西正樹ヲ参謀トシテ、四月以来之レガ計画ヲナシ、同月中旬以後ソノ党人ヲ募集シ、青島ニ於テ兵ヲ練リ、之レガ準備ヲナセリ。ソノ練兵ハ日本人之レヲ指揮シ(或ハ日本現役軍人ガ指揮セリトモ称ス)、其ノ現状ヲ米国人某ノ撮影スル所トナリ、米国官憲及ソノ他ニ通信セラレタリトノ説アリ。超エテ五月ニ至リ、居正軍ト呉大州軍トハ自ラソノ進路ヲ別ニシ、居正軍ハ四月末銃器約五、六百挺ノ供給ヲ受ケタルニヨリ、五月四日(?―原文のまま)濰県ヲ攻略スル目的ヲ以テ、前記萱野某及日本陸軍現役将校野中大尉指揮官トナリ、兵約五、六百ヲ率ヰ(内日本人約百五十名乃至二百名ニシテ、予後備役軍人並ニ日本浮浪人ノ外、現役ニ非ラザル日本将校モ参加セリト謂フ)、山東鉄道ニ拠リ、坊子ノ巡警局ヲ襲ヒ銃器ヲ掠奪シ、同日午後六時濰県ニ着シ、日本ノ守備区城ナル停車場ニ集合シ、同夜二時ヲ期シテ進撃ヲ開始シ、濰県城ニ迫リ、城門ニ肉迫シテ東部橋頭堡ヲ占領セリ。然レドモ支那官兵ハ払暁ニ乗ジテ、逆襲ヲナシ革命軍ヲ撃退セリ。タメニ革命軍ハ再ビ退路ヲ山東鉄道ノ停車場ニトリ、之レニ収容セラレ夕リ。其際日本兵一名停車場付近ニ於テ流弾ニ中リ、死亡セシヲ以テ、日本守備隊長石浦聯隊長ハ、支那官軍ニ談判セシガ為、同日午前六時頃濰県城ニ至リシニ、支那官兵ハ初メ城門ヲ開カザリシモ、遂ニソノ一部ヲ開キテ聯隊長ヲ入レ、談判ニ応ジタリ。而シテ一方革命軍ハ支那官軍ニ対シテ、開城ヲ迫リテ止マズ。殊ニ其ノ背後ニ日本軍アルノ故ヲ以テ、支那官兵守備隊長張樹元ハ、少数ナル革命軍ヲ撃破スルコト敢テ難事ニ非ラザルモ、ソノ結果日本ト兵ヲ構フニ至ランヲ怖レ、石浦聯隊長ノ要求ヲ入レ、遂ニ開城ヲ約シ、五月二十三日濰県ヲ去ル日本里約三里ノ地ニ引上グルニ至リ、カクテ居正ノ革命軍ハ濰県城ニ入城シ、之レヲ占領セリ。爾来濰県ノ革命軍ハ、高密・昌楽等ノ地ヲ占領シ、付近ニ於テ掠奪ヲ恣ニスルト共ニ、党員モ亦多数トナリ、一時ハ支那人二千名、日本人三百余名ニ達シタルモ、現今ハ多少日本人ヲ解放シタル模様ナリ。
呉大州軍ハ居正軍ト共ニソノ行動ヲ開始シ、前記中西某ニ加フルニ、日本陸軍現役将校江副大尉指揮官トナリ、約四百名ノ兵ヲ率ヰ(日本人約百余名参加セリト云フ)、山東省ニ於テ富豪ノ多キヲ以テ有名ナル周村(山東鉄道ノ沿線ニテ現今多数ノ日本守備兵駐屯セリ)ヲ攻略シタリ。 同地ニハ支那軍隊駐在セルヲ以テ、直ニ占領スルニ至リ、同時ニ軍用金ヲ課シ、五十万元ヲ納付セヨト命ジテ、遂ニ十七万元ヲ収得セシガ、之レニ加フルニ掠奪ヲ恣ニシ、現在ノ周村ハ到底恢復ノ余地ナキ迄ニ惨状甚シキモノアリ。同軍ハ又山東鉄道ノ支線タル博山ヲ占領シ、爾来此軍モ亦満州ヨリ多数ノ馬賊ヲ引入レ、現在約三千名駐屯セリト称セラル。日本人ハ一時三、四百名参加セリトノ事ナリシモ、現在ハ多少解放セラレタルモノヽ如シ。
済南府ニ於テハ、五月三日以来済南ノ駐在支那官兵ヲ濰県周村方面ニ派遣セシメザルタメ、革命軍ハ(但日本人)青島ニ於テ独乙軍ヨリ分捕シタル爆弾ヲ、毎夜八個宛商埠地(日本人ノ多ク居住セル即チ通商地ナリ)ノ成ル可ク人通リ尠キ地ヲ選ビテ投弾シ、以テ五月十四日迄牽制運動ヲ継続セルタメニ、商埠地ノ家屋ハ入口及窓口ヲ全部煉瓦ヲ以テ閉塞シ、支那人ハ皆城内ニ引上ゲ、支那当局ハ戒厳令ヲ施行シ、人心恟々タル有様ナリキ。其間革命党員約三百名(内日本人百余名)ハ周村濰県ヨリ山東鉄道ニヨリ済南ニ入リ込ミ、山東鉄道済南停車場ノ新築家屋地下室ニ潜ミ、十五日夜午前一時、支那兵営ヲ襲撃シタルモ、瞬時ニシテ逆襲セラレ、再ビ停車場ノ地下室ニ逃ゲ込ミタリ。此際日本人新田貞次ナルモノ生死不明トナリ、橋本某負傷シ稲葉、松浦ノ両名ハ支那官軍ニ捕虜トナレリ(元来済南ニハ一師ノ兵駐屯シ、此時更ニ一旅ノ兵増派サレ、其数約五、六千ヲ算シタルヲ以テ、到底此浮浪ノ徒ニ勝味ナキコト明カナリシガ、革命軍ハ官軍ヨリノ内応アルモノト思惟シテ、此挙ニ出デタルモノヽ如ク、而シテ此内応ナルモノハ全ク貴志大佐ノ臆側ニシテ何等ノ形跡ナカリシモノト謂フ)。
前記済南ニ於ケル革命軍ノ無謀ナル挙ニ対シ、日本領事林某ハ此儘放置セバ、益日本ノ失態ヲ暴露スルニ至ルベキヲ考量シ、中立規定ノ名目ニヨリ、十六日遂ニ革命党ノ武装ヲ解除シ(ソノ内日本人ハ日本家屋ニ潜マシメタリ)、支那官兵ノ立会ノ下ニ之レヲ東方ニ送致スルノ処置ヲ取レリ(但周村ト濰県トニ分チテ革命党ニ引上ゲシメタル模様ナリ)。尚前ニ捕へラレタル稲葉、松浦ノ両人ハ革命党ト日本人トノ関係ニ就キ、逐一支那官憲ニ白状シ、ソノ一部ハ林領事ニ示サレタリトノコトナリ。
革命軍行動ノ概要ハ上記ノ如クニシテ、伝フル所ニヨレバ、革命以来満州方面ヨリ軍用金トシテ、当初五万円、ソノ後又十万円程供給サレ、此外銃器ハ両軍ニ対シ、約三千挺程亦満州方面ヨリ供給サレタリト謂フ。
革命軍ハ両者トモ山東鉄道ヲ中心トシテ各方面ニ手ヲ延バシ得ル限リ掠奪ヲ行ヒ、物品ハ山東鉄道ニヨリ輸送シ、多クハ青島及済南ニ於テ販売シ、公然強盗ヲ行へリ。甚シキニ至リテハ、日本衣服ニ日本刀ヲ帯ビタルモノ少カラズトノ説アリ。尚革命軍ハ「カーキー」色ノ洋服ヲ着シ赤色ノ肩章ニ中華革命軍ト書シ(日支共)日本人ノ革命軍ニ雇ハレタルモノハ、通常ノ日ハ一弗、革命ノ日ハ四弗ノ給料ヲ受タリト言フ。更ニ掠奪セル物品ハ概ネ青島ニ輸送シ、日本人某、其販売ヲ引受ツヽアリ。 且周村ノ山東銀行ニテ多額ノ馬蹄銀ヲ掠奪シタルガ、アル日本商人ニソノ馬蹄銀ノ一部ヲ半額以下ノ価格ニテ約五千円程売却シ、ソノ残額ヲ青島、済南ニ輸送シテ売却セントシタルニ全部錫ナルコトヲ発見セリ。彼ノ日本商人ハ之レガタメ発狂シテ目下其筋ノ保護ヲ受ケヲレリ。
〇青銭買ノ状態
青銭トハ支那ノ制銭ニシテ山東ニハ小銀貨通用セズ、馬蹄銀、弗銀及青銭ノ三種通貨トシテ流通セリ。而カシテ勿論之レガ輪出ハ国法ノ禁ズル所ナリ。然ルニ欧州動乱ノ為、銅貨ノ騰貴著シク、恰モ青島陥落後日本人ハ続々同地ニ入込ミタルモ、何等ノ職ナキニ苦シメル時ニ際シ、同地税関ハ日本ノ手ニ帰シ、之レ等商人ニ対シ青銭ノ輪出ヲ許可シタルヨリ、茲ニ青銭買ナルモノヲ生ズルニ至レリ。爾後此レガ輸出益々旺盛トナリ、此買入ニ従事セル日本人ハ三千名乃至四千名ニ達セリ。ソノ後青島税関ヲ支那ニ引渡シタル後ハ、之レヲ現品ニテ輸出スルコトヲ得ザルヨリ、国禁ヲ犯シテ輸出ヲ計ル手段トシテ、青銭ノ一部ヲ溶カシテ、丁銅形トナシ、外面ノミヲ鋳潰シ、中味ハ現状ノ儘ニテ古銅トシテ輸出スルニ至リ、税関吏ハ日本人ナルヨリ、国禁ヲ無視シテ之レニ便宜ヲ与ヘタリ。然レドモ時ニ外面剥脱シテ、中味露出セルタメ、往々没収セラレタリト謂フ。
然ルニ革命軍蜂起以来、支那人ノ日本ニ対スル恐怖ト反感ノタメ、青銭ハ通常ノ手段ヲ以テ買入ルヽコトヲ得ザルニ至リ、青銭買ニ従事シタル多数ノ商人ハ、革命軍ニ投ジ、又ハ革命掠奪ニ見習ヒ、党ヲ組ミテ青銭ノ掠奪ヲ開始セリ。此掠奪モ亦山東鉄道ヲ中心トシテ付近三、四十里ニ及ベリ。最近山東省ノ地方ニ於テ日本人十数名支那人ノタメニ殺サレタルハ、主トシテ此青銭買、即チ隊ヲ組ミタル青銭掠奪者ナリ。又六月初旬日照県ノ某村ニ日本人ノ青銭掠奪者十名計リ、隊ヲ組ミテ進ミシガ、支那人ノタメ内三、四名ハ殺サレ、余ノ日本人ハ逃ゲ帰レリ。而シテ日本官憲及軍隊ハ犯人搜索ノ為メ同地ニ赴キタルモ、支那人トノ間ニ意思ノ疎通ヲ欠キ、遂ニソノ全村ヲ焼キ払ヒテ引キ上ゲタリ。
革命軍及青銭買ト称スル掠奪者ノ状態ハ概要上記ノ如クニシテ、支那人ハ革命軍及青銭掠奪者ノタメニ苦シメラレ、殆ンド其堵ニ安ズルコト能ハズ。又支那官憲ハ之ガ訴願ノタノニ忙殺サレ、ソノ困却ノ状寔ニ同情ニ堪へザルモノアリ。
尚袁世凱ノ没後、山東将軍ハ革命軍ノ掠奪頻々ニシテ、人民ノ愁訴ニヨリ革命党首領ト妥協シ、革命軍ガ掠奪ヲナサヾルベキヲ条件トシテ、山東ノ商務総会ヲシテ、月々三万元ヲ支出セシメ(ソノ実済南府将軍ヨリ支出スルコトヽセリ)之レヲ革命軍ニ支給スルコトヲ約シ、双方調印済トナレリ。然ルニ革命軍ニ関与セル日本人貴志大佐ヲ始メ一同ヨリ抗議ヲ申込ミ、遂ニソノ条約ヲ破棄セシメタリ。然ルニ革命軍ノ首領連モ、袁世凱ノ死後ハ、ソノ主張ノ目的ヲ失ヒタルタメニ、現状ヲ維持シ得ザルコトヲ知覚セルト共ニ、日本人ノ横暴ヲ見テ、内心安カラザルモノアリ。前項平和条約ハ表面之レヲ破棄セリト雖モ、内容ニハ支那官憲ト共ニ之ヲ行フコトニ尽力シツヽアル模様ナリ。
又革命ノ際、破壊セル支那電線ニ対シ、革命軍ヨリ済南将軍府ニ交渉シテ、現在ノ如ク日本電信ニヨルトキハ充分ニ意見ヲ通ズルコトヲ得ザルニヨリ、至急支那電線ヲ復旧サレタシト要求シ、目下支那側ニ於テハソノ復旧ヲ急ギ居レリ。
要スルニ山東省ハ日本ノ勢力範囲ナリ。従テ同地ニ於テ支那ノ純然タル、即チ日本人ノ参加セザル革命軍ノ峰起ニ際シテモ、支那人民ヲ保護シ、以テカヽル窮地ニ陥ラシメザルハ日本ノ大義ナリ。然ルニ日本人殊ニ現役将校迄革命軍ニ参加シテ、前記ノ如キ横暴ヲ恣ニセルタメ、支那人ノ日本ニ対スル怨瑳ハ実ニ言語ニ絶セリ。日本ハ到底山東省ヲカヽル無謀ナル革命軍ノ攻略ニ委シ、之ヲ放置スルコトヲ得ザルベシ。速カニ革命軍ニ参加セル貴志大佐ヲ始メ、ソノ他ノ現役将校ハ勿論、予後備役軍人並ニ日本浮浪人ニ対シ相当ノ制裁ヲ加へ、殊ニ満州地方ヨリ輸入セル馬賊及現ニ集合セル浮浪人ヲ瞬時モ早ク駆遂セザルべカラズ。然ラザレバ日本ノ対支関係ハ益大ナル危険ニ瀕スルニ至ラン。又青銭買即チ青銭掠奪者ニ対シテモ、亦適当ノ処分ヲ加へテ山東ヨリ退去セシメ、或ハ相当ノ制裁ヲ加ヘザルべカラズ。元来日本政府当局者ニ於テ窃カニ国法違反者ヲ慫慂シ、又ハ保護セントスルガ如キ、或ハ日本人自ラヲシテカヽル無謀ノ行為ヲ為サシムルガ如キコトヲ敢テシ、安ンゾヨク自国ノ国法ヲ遵守セシムルコトヲ得ンヤ。殊ニ通貨ヲ不法ナル方法ヲ以テ買収、又ハ掠奪シ、畢竟通貨ノ縮少ヲ来サシムルガ如キ、ソノ経済上ニ及ボス害毒ハ甚大ニシテ、日本ガ支那ニ於テ経済上ノ地歩ヲ占ムル趣旨ニ反スルハ勿論、実ニ経済状態ノ惑乱ヲナスモノナリ。日本政府ハ宜シク適当ナル手段方法ニ依リ、日本商人ヲシテカヽル不法ノ行為ニ関与スルコトナカラシメ、輸出禁止ノ途ヲ講ジ、殊ニ日本官吏自ラ之ニ関与スルガ如キハ絶対ニ禁止セザルベカラズ。
要ハ山東ニ於ケル革命軍ト称スル支那人約五、六千名ト、是ニ参与セル日本人約五、六百名、並ニ青銭買ト称スル青銭掠奪者約三千名ハ何等ノ収入アルニ非ス。其ノ糊口ノ途ハ一ニ掠奪ヲ以テ其日ヲ糊塗シツヽアル実状ナルヲ以テ、此根元ヲ掃蕩スルニ非レバ、山東ノ民ハ彼等ノ迫害ヲ免ルヽ能ハズ。 亦秩序ヲ回復スル能ハザルノ現状ニ陥リツヽアルモノトス。実ニ山東ニ於ケル吾当局官憲ハ、陛下ノ軍隊ヲ扶翼ニシテ革命党ト称スル土匪馬賊ヲ煽動幇助シテ、掠奪ヲ恣ニセシメ、帝国ノ威信ヲ失墜セシメツツアルモノ、唯々言語道断トノ一言ヨリ外ナキナリ。
囚ニ現在濰県周村及張店等ノ市中ノ賑ヒハ我国ノ静岡以上ニシテ、是レ皆革命軍及青銭買即チ掠奪者ノ多数入リ込メルニ由レリ。
満蒙ニ於ケル蒙古軍並宗社党ト日本軍及日本人ノ関係
附 鄭家屯事件ノ真相
一、宗社党
清朝ノ覆滅後、支那ニハ頽老腐儒ニヨリ復辟論ナルモノ主張セラレタリト雖モ、未ダ宗社党ナル団体ヲ為スニ至ラザリキ。時恰モ袁政府ガ清朝宗親所領ニ属スル満蒙ノ土地ヲ没収セントスルノ令ヲ下セシニヨリ、粛親王ハ其所領ヲ私有財産トシテ保有セント欲シ(但シ大清会典ニヨレバ各親王所領ハ私有財産ニハ非ズ)、コレヲ日本ノ力ニ籍リテ実現スルヲ可トシ、川島浪速等ヲ手足トシテ謀ル処アリシガ、更ニ日本陸軍ノ要路ニ是レヲ援助スルモノアリテ茲ニ初メテ宗社党ナル団体ヲ生ズルニ至リシ也。而シテ其目的ハ清朝ヲ復興シテ満洲、蒙古ヲ独立セシメコレヲ日本ノ保護ノ下ニオクニアリトノ口実ノ下ニ、着々歩ヲ進メタリ。偶々帝国政府ハ袁世凱ニ対シ、帝政延期ノ警告ヲ発シ、次デ南支方面漸ク騒擾ノ巷トナルヤ、我政府ノ要路ハ支離滅裂ナル対支方針ヲ画策スルニ至レリ。即チ
(一) 上海ニ於テ支那軍艦ヲ分捕シ日本予備海軍水兵ヲ乗組マシメ、革命ノ声援ヲ為サントセルノ策
(二) 山東省ニ於ケル土匪ヲ煽動シテ革命軍ヲ起シ騒擾セントセルノ策
(三) 満洲ニ於ケル宗社党ヲ煽動シテ満蒙ノ独立ヲ企図セントセルノ策
コレ等ノ策ヲ実行セントスルヤ、満洲ニ於ケル宗社党ハ奇貨オクベカラズトナシ、軍務当局某氏ノ斡旋ニヨリ、大倉喜八郎氏ヲ説キ、満蒙ニ於ケル粛親王ノ所領地(但シ所有権ハ不確実ノモノナリ)ヲ抵当トシテ金百万円ヲ軍資金トシテ出資セシメ、内二十万円ヲ粛親王ニ与ヘ、以テ騒擾ノ準備ニ着手セシメ、残余ノ八十万円ハ陸軍参謀本部ノ某々氏是ヲ保管シ、主計ヲシテ掌理セシメタリ。而シテ此ノ騒擾醸成首謀者トシテ陸軍大佐土井市之進氏(青森聯隊長)ヲ天津守備隊付トナシ、コレニ池上大尉ヲ附随セシメ、外ニ晴気、津久井、両予備陸軍少佐等三十余名ノ予備将校ヲ各所ニ配置シ、加之八十余名ノ浪人及ビ予備下士等ヲ集メテ徒党トナシ、其本拠ヲ奉天、旅順ニ置キ、本年四月中旬ヨリ勤王軍ト称シ、支那馬賊、苦力約千五百名ヲ順次募集シテ関東州租借地営城子附近ニ宿営セシメ、連日練兵ヲナシ騒擾ノ機会ヲ窺ヒツツアリキ。然ルニ袁世凱ノ死没ニヨリ、其機会ヲ失スルト共ニ、帝国ノ対支方針ノ変更ニヨリ内外ノ物議ヲ招キ、適当ノ方法ニヨリコレヲ解散セシメントスルノ議起レリ。即チ此解散ヲ実行スルガ為ニ、外努省参政官柴四郎、参謀本部支那課長浜面大佐ハ浪人組ヲ代表スル海軍予備中将上村徳弥及五百木良三ト相前後シテ、八月十一日旅順ニ到着シ、関東都督府関係者ト共ニコレガ解決ノ方法ヲ協議セリ。八月十九日愈々解散ノ協定整ヒ、宗社党幹部ニ対シテハ、二カ月以内ニ全部解散スルノ約束ノ下ニ、巨万ノ手当ヲ給与シテ、其手続ヲ了セリ、従テ予備将校連ハ一人千円乃至二千円宛ノ帰国手当ノ支給ヲ受ケテ、八月二十八日以来続々内地ニ帰還スルニ至レリ。而シテ曩ニ募集セル支那兵中約七百名ハ八月二十二日蒙古軍応援ノ為メ、郭家店ニ向ケ二回ニ輸送セラレ、残余ノ八百名ハ今尚営城子ニ駐屯シシシアリ。将来更ニ一層ノ面倒ヲ生ズルニ至ル可キナリ。
近時関東租借地内ニ於テ、強盗ノ被害頻々タルハ著名ノ事実トナレリ。コレ上述セル宗社党ノ雇兵ノ行為ニシテ、白昼公然強盗ヲ敢行シ、住民ハ堵ニ安セザル状況ナリ、満鉄某理事ハ「都督府ハ其租借地内ニ盗賊ヲ保護繁殖セシメツツアルモノナリ」ト憤慨シテ訪問者ヲ驚怖セシメツツアリ。
二、蒙古軍
蒙古軍トハ興安嶺ノ麓ニ居住セル彼ノ有名ナル馬賊ノ棟領巴布札布ヲ首領トシテ居住セル蒙古軍ノ集団ナリ。先是首謀者土井大佐ハ青柳予備陸軍大尉等六名ノ将校下士ヲ蒙古ニ派遣シ、巴布札布軍ヲ満洲ノ騒擾ニ加ハラシムルノ画策ヲ講ジ、青柳大尉ト巴布札布トノ間ニコレニ関スル協定ヲ成立セシメタリ。カクテ五月初旬、巴布札布ハ千五百名ノ馬賊ヲ率ヰテ、其居住地ヲ発足シタルモ、何等輜重ヲ用意セルニ非ズ、途上到処掠奪ニヨツテ其糧ヲ求メツツ、且ツ支那官軍ノ激撃ヲ避ケンガ為メ、迂回シテ通常一ヶ月ヲ以テ到着スヘキ道程ヲ約三ヶ月ヲ要シテ八月十三日満鉄沿線郭家店ニ到着セリ。其到着スルヤ満鉄附属地外ニ於ケル民家ヲ襲ヒ掠奪ヲ恣ニシ、殊ニ二日間ニ亘リテ其民家ヲ焼尽セルノ暴行ヲ敢テセリ。
然ルニ一方帝国官憲ハ、彼等ガ附属地外ニテ掠奪及焼尽ノ暴行ヲ演ジ、附属地ニ侵入シテ陣営セルニ対シ、唯ニ治安ノ維持ニ任ゼザル而已ナラズ、一ニコレガ無事退散セシメント欲スト雖、元ト其慫慂ニ基キテ殺到セルモノナルニヨリ、其処置ニツキテハ殆ンド当惑セリ。而シテ蒙古軍ハ青柳大尉トノ協定ヲ強要シテ止マズ、依テ帝国官憲ハ彼等ニ与フルニ金員ヲ以テシ、其解散帰還ヲ勧メシモ、彼等ハ武器ノ供与ヲ望ンデ一歩モ譲ラザリキ。茲ニ於テ万一不調ノ場合ハ帝国官憲ノ失態ヲ暴露スルコトトナルヲ慮リ、不止得、大砲六門(野砲)銃八百挺及弾薬一人宛五百発(蒙古軍ハ約半数即七百余ノ銃ヲ所有セリ)供与シ、百方説得シテ漸ク其ノ本拠ニ帰還スルコトヲ承諾セシメタリ。
先是蒙古軍ノ郭家店ニ来襲スルヤ、張作霖ハコレヲ撃破セントシ、其討伐支那官兵ノ満鉄乗車ヲ要求セルニ、帝国官憲ハ厳正中立ヲ声明シテコレヲ拒絶セシカバ、支那軍ハ止ムヲ得ズ長春ヨリ徒歩郭家店ニ軍ヲ進メ、蒙古軍ト砲火ヲ交へシモ、蒙古軍ハ満鉄附属地ヲ本拠トシテ対抗セルカ為メ、附属地ハ勢ヒ戦火ノ巷ナラントセリ。依テ我官憲ハ支那官軍ニ対シ附属地ヲ攻撃スルノ不法ヲ責メ、一面附属地ノ周囲ハ我日本兵ヲ以テコレヲ囲ヒ、恰モ蒙古軍ヲ包擁スルノ形ヲナシ、支那官軍ノ手ヲ下ス能ハザルニ至ラシメタリ。
併シナガラ、附属地内ニ蒙古軍ノ占拠スルヲ認容スルハ、当局トシテ亦コレヲ久ウスルコト能ハザルハ固ヨリナリ。サリトテ又蒙古軍ヲシテ見ス見ス死地ニ陥ラシムルコトモ其根原ニ顧ミテ能ハサル処ナリトス。茲ニ於テカ一方其兵力ヲ充実シテ虚勢ヲ張ラシムルガ為ニ、関東租借地営城子附近ニ練兵セル宗社党七百名ヲ二回ニ分ケ応援軍トシテ、八月二十二日コレヲ蒙古軍ニ合併セシメタリ(但シ満鉄ニテハ、宗社党ヲ輸送スルコトハ曩ニ支那官兵輸送ヲ拒絶セル関係上抗議セリト雖モ、都督府ノ強圧ニヨリ、武器一切コレヲ積マサルノ約束ニテ、通常ノ乗客トシテ其輸送ヲナセリ。而シテ武器ハ陸軍ニ於テ、郭家店ニ於テ彼宗社党ニ附与セリ)。而シテ他方帝国官憲ハ、百方張作霖ノ圧迫ニ努メ、休戦云々及居中調停ニ藉口シテ蒙古軍ノ退路ノ容易ナランコトニ努メ、殊ニ其監視二名ヲカリテ蒙古軍及宗社党ノ引上ゲニ際シ、帰路ノ安全ヲ期スル能ハザルヲ慮リ「朝陽坡ニ於テ支那官軍ハ蒙古軍ヲ激撃シ遂ニ我軍旗ヲ砲撃セリ」トノ虚構事実ヲ喧伝セシメ、内外ニ対スル口実ヲ設ケ、蒙軍援護兵ノ増発ヲ企図シ、今ヤ佐藤少将ノ率ヰル歩兵二個聯隊及騎兵二個聯隊、工兵一個大隊ニヨリ、蒙古軍ヲ援助シテ其帰路ヲ安全ナラシムルコトヲ計リツツアリ。
而シテ蒙軍ハ元来何等ノ輜重ヲ有セズ。到ル処掠奪ヲ逞フシテ其糧食ヲ求ムルガ為メ、其軍ノ通過スル処、民生色ナキノ有様ナリ。
三、鄭家屯事件ノ真相
同事件ハ実ニ些々タル事実ニ原因セルモノニシテ、始メ在住日本人ガ支那人魚商ノ三拾銭ト唱フル魚類ヲ拾銭ニセヨト称シ、半強奪セントセルニ胚胎シ(此手段ハ曩ニ朝鮮ニテ慣行シ、現時満洲ニテ邦人ノ慣行セル手段ナリ)、偶々傍観セル支那兵憤慨シ、遂ニ邦人ト支那兵トノ間ニ争論ヲ生ジ、延テ相互乱打セルニ至リ、邦人ハ擦過傷ヲ蒙リシニ依リ、直ニ之ヲ日本巡査川瀬某ニ訴ヘタルヲ以テ、川瀬巡査ハ直ニ兵営ニ至リ、犯人ヲ捕ヘントシ、茲ニ亦門衛トノ争論ヲ生ジ、川瀬巡査ハ其目的ノ達スル能ハザルヲ見ルヤ、日本守備隊ニ応援ヲ求ムルニ至リ、遂ニ松尾中尉ハ兵士十余名ヲ率ヰ、支那兵営ニ迫リ、隊長ト面談センコトヲ求メタルニヨリ、支那兵営ヨリ把長(曹長ニ相当ス)出デ来リ、其来意ヲ問ヒシニ、曩ノ事実ヲ以テセルニ依リ、支那把長ハ答へテ曰ク、茲処ハ陣営ニシテ恁ル事件ヲ尋問スル処ニ非ズ、宜シク事ヲ知県ニ依リ調査セラルルヲ正処ノ順序トス、従テ隊長面談ノ要ナシト、拒絶セルヨリ其間言語ノ不通行違ヨリセル乎、松尾中尉ハ突然ニ軍刀ヲ以テ該支那把長ノ右手ヲ切断セルニ至リ、茲ニ双方銃火ヲ交ユルニ至レルナリ。是レ所謂鄭家屯事件ノ原因ナリトス。其後日本守備隊ハ遼源知県事並ニ商務総会々頭ヲ拘置シテ、数日間帰宅セシメズ、一面其守備隊ヲ増置シ、更ニ支那兵ヲ三清里ノ地ニ退去セシムル等ノ手段ヲ講ジタル等是其真相ナリトス。
叙上ノ事実ヲ約論セバ啻ニ乱暴狼藉ノ一言ヲ以テスル外ナク、(1)関東租借地ノ治安ニ任ズ可キ関東都督ガ其域内ニ宗社党ガ兵殊ニ馬賊ヲ集合シテ其練兵ヲナシツツアルヲ黙認セル如キ、(2)宗社党ノ解散ヲ協定スルタメ帝国政府ノ高官タル外務省参政官及参謀本部支那課長ガ是ニ参与セル如キ、(3)亦治安保持ノ責任アル満鉄附属地ニ蒙古軍ヲ陣営セシメ、殊ニ附近民家ノ掠奪ヲ認容シ及焼棄ヲ傍観セル如キ、(4)陛下ノ軍隊ヲシテ土匪馬賊ノ集団タル蒙古軍ヲ護衛セシメ、更ニ其蒙古軍ノ到ル処掠奪ヲ幇助スルノ形ヲ造成シツツアル如キ、真ニ天下ノ一大怪事トシテ帝国ノ面目ヲ汚瀆スルモノトイフべク、如何ニ此善後策ヲ完フスルカハ応ニ憂国ノ識者顧慮ヲ要スベキ処ナリトス。
注
文中の句読点、濁点、ふりがなは編者が加えた。