資料

西園寺公と政局 第2巻

岩波書店「西園寺公と政局」第2巻
1950年、述:原田熊雄、筆記:近衛泰子、補訂:里見弴など

第二章 満洲事変の勃発より十月事件まで

奉天郊外の満鉄爆破事件(柳条溝事件)――建川、小磯等の策動――鉄道爆破事件の進展――若槻総理の態度――朝鮮軍出兵問題――総理の他力本願と側近の不満――総理への忠告――参謀総長の意見と公爵の意向

 九月十九日の朝、新聞で奉天郊外における鉄道爆破の事件を読んだ瞬間、自分は直覚的に、いよいよ、やつたな、と思つた。といふのは、五日前の十四日――つまり陸軍大臣が御殿場から帰つた日に、すぐ建川少将を以て、関東軍司令官に親展書を持たしてやつた。その内容は、十一日に陛下のお召があつて、陛下から軍紀に関して御注意があり、殊に満蒙における軍隊の行動については、更に一層慎重なるベきことを言はれたので、その聖旨を関東軍司令官に伝へて、満蒙における陸軍の種々の画策をやめさせたいと考へて、抑へる意味の手紙だつたのだ。その時相談に与つてゐた小磯軍務局長が、この使は建川を以てしなければ収まらん、と陸軍大臣に言つたさうだが、当時各種策動の糸を引いてゐたのは、やはり建川と軍務局長だつたからであらう。

 さういふ立場であるから、建川を以てしなければ到底若い連中は抑へきれないといふのを表面の理由として、その実は、今日の陸軍のすべての策動の中心である二宮、小磯、建川等の、日頃抱懐する目的を達成させようと図つたのではなからうか。――建川でなければ若い連中は収まらんと言ひながら、実は、建川を以て目的を遂行させるために、軍務局長が建川を使者に立てるやうに陸軍大臣に勧めたのではないかと思ふ。

 それで、建川が陸軍大臣の親展書を持つて奉天に着いた晩に事が起つたのであるが、要するに、関東軍司令官がその手紙を見ない内にかねての計画を実行させよう、といふことであつたらしい。何となれば、十四日の、陸軍最高幹部の――いはゆる軍事参議官の会議は、最初頗る強硬な議論であつたところ、陸軍大臣が陛下の思召を伝へてから、打つて変つて、今日の軍の画策をどうにかして未然に防ぎたいといふことになり、その結果が陸軍大臣の親展書となつて、関東軍司令官へ齎されるやうな手筈になつたらしい。

 そこで十九日の閣議において、総理は陸軍大臣に、

「果して原因は、支那兵がレールを破壊し、これを防禦せんとした守備兵に対して攻撃して来たから起つたのであるか、即ち正当防禦であるか。もし然らずして、日本軍の陰謀的行為としたならば、我が国の世界における立場をどうするか。かくの如き不幸なる出来事に対しては衷心遺憾の意を表する次第であるが、偶然に起つた事実であるならば已むを得ない。この上はどうかこれを拡大しないやう努力したい。即刻、関東軍司令官に対して、この事件を拡大せぬやうに訓令しようと思ふ。官庁及び城郭等の砲撃占領をしないやうに……。」

といふことを言つてゐると、既に関東軍は奉天を占領したとか、全市を日本軍の手中に収めたとかいふ報告が来てゐた。

 総理は陸軍大臣に対しては,よく国際的に面目を維持し得るやうに注意しておいて、更に海軍大臣に対しては、「支那の他の部分の居留民の危険を感ずる場合には、海軍において保護しなければならないが、その方面の準備は大丈夫か」と訊ねたところ、「佐世保に、陸戦隊五百人づつを三箇所に,都合千五百人の用意はしてある」といふことであつた。

 陛下に対しては、同日午前中、早速陸軍大臣が事実を上奏し、総理大臣は午後参内して、「不幸なる出来事に対してはまことに恐懼に堪へませんが、陸軍大臣の申上げた通りの事実でございます。閣僚と相談して、この事件はなるべく拡大させないやう、早く収めることに決めました」と申上げて、帰りに内大臣、侍従長にも会つて来た、といふ話であつた。

 その時、内大臣は、向ふからしかけたといふのは事実か、破壊した原因動機はどうか、といふことを、しきりに心配してゐたさうだ。自分はまた、外務省に行つてゐる時、奉天におけるアメリカ領事から、日本軍がアメリカ人の俱楽部に機関銃を打込んだといふので、抗議を申込んで来てゐる電信を見てゐたし、折からバンパシフィック会議に出席する連中が奉天に滞在中でもあるので、事態頗る面倒なことになりはしないかと思つてゐた。

 さうすると、その晩夕食頃に、級理から電話がかゝつて、「すぐ来てもらひたい」といふことであつたので、食後直ちに総理官邸に行つたところ、総理は非常に弱りきつてゐる様子で、まづ笫一に、「外務省の報告も陸軍省の報告も、自分の手許に来ない」といふことをしきりに言ひ、「しかし川崎書記官長を以ていま注意させておいた」とも言つてゐた。それから、

「自分はできるだけこの事件を拡大しないやうに、なんとかしてとめたいと思つていろいろ心配してゐるが、軍事当局が保障占領をしたらしい。元来この保障占領なるものは、政府の決定に待つべきものであつて、軍事当局の権能を以て濫りにできる性質のものではない。また満蒙における支那の現兵力は二十万以上もあるのに、日本軍は一万余りであるから、『現在の兵力であまりに傍若無人に振舞つて、もし万一のことが起つたらどうするか』といふことを陸軍大臣にきくと,『朝鮮から兵を出す』或は『既に出したらしい』との答なので、『政府の命令なしに、朝鮮から兵を出すとはけしからんぢやないか』となじつたところが、『田中内閣の時に、御裁可なしに出兵した事実があるとのことで、これは後に問題を残さないと思つたらしい。事実は、既に鴨緑江近くまで兵を出し、そこでとめてあるが、一部既に渡つてしまつたものは已むを得ない、といふやうな陸軍大臣の答であつた。かういふ情勢であつてみると,自分の力では軍部を抑へることはできない。苟くも陛下の軍隊が御裁可なしに出動するといふのは言語道断な話であるが、この場合ー体どうすればいゝのか。こんなことを、貴下に話す筋でないかもしらんけれども、なんとかならないか。貴下から元老に話してくれとか、どうしてくれとかいふのではないけれども、実に困つたものだ。」

と芯から弱つたやうな様子であつた。

 なほ、いろいろ話をきく内、これは側近に注意をしておく必要があると思つたので、「まあ陛下の御裁可なしに出兵云々については、侍従長あたりに含んでおいてもらひませう」と言つて自分は辞去した。

 ちやうど家に客を招いてゐたので、一旦帰つてすぐ宮内大臣に電話をかけて、「そちらの官邸に侍従長と木戸とに来てゐてもらつて、八時半から四人で話したいが、差支ないか」と都合をきいたところ、「待つてゐる」といふ返事だつたので、侍従長や木戸にも電話をかけて、宮内大臣の官邸に来てもらふやうに取決めた。

 で、その席上、侍従長も宮内大臣も同様に、「総理があまりに他力本願であることは面白くない」といふ感じを抱いたやうに思はれたから、自分は

「あながち総理も側近の方々にその話をしてくれと依頼されたのではない。たゞ現在の実情がかくの如く総理を弱らせてゐるといふことを、自分一個の考から申上げておくわけだ。且また、総理も言はれる如く、御裁可なしに軍隊を動かしたりするのは、一種のクーデターであつて、まことに容易ならん悪例を残すものであると自分も思ふから、侍従長の御参考までにお話したのである。」

と言つたところが、侍従長も、「田中内閣の前例があらうがあるまいが、御裁可なしに軍隊を動かすことはけしからん」と言つて怒つてゐた。

 なほまた、この間から話してゐた政党の両総裁をお召しになつて、陛下から御注意を賜はつてはどうだらうといふ、あの問題も出た。

 結局、侍従長や木戸は、「臨時閣議でも開いて、閣議をもつと熱心にやつたならば、なんとか軍部を抑へられないこともなからう。とにかく、もつと閣僚達の結束を固めなければいかんのぢやないか」といふ感じをもつたらしい。自分も至極同感であつたから,その点はなんとか努力してみようと思ひながら、十一時頃に帰つて来た。

 翌朝早く井上大蔵大臣を訪ねて、総理の非常に弱つてゐる話から、誰かしつかりした閣僚が惻から激励し、力をつけることが、この場合必要ではないか、それには閣下のやうな方が最も適当と思ふ、といふ意味を述べたところ、「無論自分もできるだけ力になつてやらう。それは当然のことだと思つてゐる」といふ話であつた。

 更に外務大臣の所に廻つて、同様の話をしたところが、これも同感で、たゞ政党出身の大臣が比較的冷淡であるといふことを不服に思つてゐる様子だつた。

 それから自分は総理の所に行つて、

「昨夕の話について、侍従長あたりには一応含んでおいてもらひました。側近の見るところ、――自分もまたそれに同感だけれども、かういふ重大時に閣僚の結束が鈍いやうに思はれます。たびたび閣議を開いて、閣議を以て事々に陸軍を抑へて行くより途はないかと思ひます。無論閣下が側近をあてにしてをられるといふことはないでせうが、なるべく内閣の責任で、内閣の全能力を発揮して事件の解決を図られることが、この際一番必要なことだと思ふから、甚だ差出がましいが、連日閣議を開くことにされたらどうですか。外務大臣もそれについては賛成らしい閣下の所に外務省から報告が来ないといふことは、自分も外務省に行つて話しておきました。書類で間に合はなければ、このことが済むまで亜細亜局の事務官でも毎日こちらによこしておくといふことも一案だ、とまで亜細亜局長は言つてゐました。しかしそれは、閣下と外務大臣との間で,直接御相談になつたら宜しいでせう。」

と言つて自分は帰つて来た。

 前の晩に、参謀総長から「明日十時に参謀本部まで来てくれ」といふ電話があつたので,自分は参謀本部に行つて総長に会つた。総長は

「満蒙の空気が今日まで長い間非常に悪かつた。日本人に対する侮辱を能ふ限り我慢して来たのが極度に達して、遂にあゝいふ事件が突発したのであつて、日本人の中にも色眼鏡をもつて見てゐる者があるやうだが、決してさういふことはない。謂はば日本打倒を鼓吹十る目的を以て書かれたやうな教科書で教育された支那の子供たちが、既に大人となつてゐるし、その他いろいろな事情が、今日かくの如くしたのであらう。」

といふことで、しきりに日本軍隊の陰謀でない、といふ点を強調してゐた。自分は

「張作霖の事件があつてまだ幾年も経たない今日、日本人が襲へば、外国人はまた日本の陸軍が陰謀をやつたな,と思ふのも当然のことで、あの時の張作霖爆破の張本人である参謀を軍律によつて処罰し得ず、今日なほ満洲にやつて働かせてゐるといふ事実を以て見ても、貴下の弁明は到底成立たんと思ふ。それで、今度のことは陸軍の策動ではないだらうとは自分も思ふけれど、しかし多くの人の、またやつたな、といふ感じは蔽ふべくもないのだから、陛下の幕僚長である貴下は、陛下の軍隊のためによほど厳格になつて、苟くも脱線などないやうに注意されなければいかん。」

と言つて、「公爵の御心配もそこにあるのです」と附け加へておいた。

 参謀総長は、「満洲における二十六万の支那兵が、いつ馬賊に変ずるか判らない虞もあるのだから、現在の一万何千の日本の軍隊では到底足りない」といふ風に言つて、しきりに軍隊を増派する必要があることを仄めかしてゐた。なほまた、「自分は陛下に対して『かくの如く満洲に事故の多い原因は、銀価の暴落や大豆の不作で、兵隊に報酬が渡らないといふ風なことから来てをり、従つて排日の根柢もそこにあるのです』といふことを申上げたところ、陛下も頷いてをられた」とか、「早晩、支那にも軍を出さなければならんことになるかもしれん」とか言つてゐた。

 同日、自分は午後一時発列車で京都に向ひ、十時頃着いたので、十一時頃取敢へず亜細亜局長と電話で話しておいた。翌朝九時半に総理、外務大臣、亜細亜局長と電話で話して、十時に公爵の所に行つて今までの経過、情報をすつかりお話したところ、公爵は

「自分もかうなりはしまいかと心配はしてゐたが、実にどうも困つたものだ。宮内大臣と侍従長は、『陛下は閑院宮に陸車の長老として、また陛下の嘗ての御輔導役として、軍紀に関して御相談になるかもしれん』といふこと、或はまた『公爵に東京に帰つて当分滞在して戴かなければならんかもしれん。御下問もあるかもしれん』といふことを言つてゐた。閑院宮に御下問があるならば、その前に閑院宮の頭をつくつておかなければならん。木戸でも内大臣でも閑院宮に拝謁して、よく今日の事情がお判りになるやうに申上げておく必要がある。それからもし陛下から御下問があるならば、自分は無論こちらから出る。」

といふ話もしてをられた。

 それからすぐ御所にゐる木戸に電話をかけて、閑院宮の話と、「万一そんたことはあるまいが、政府内に辞意があつても、今日の場合、陛下は絶対にこれをお許しになることはいけない。この事件がすべて片付くまでは、辞職を御聴許になることはよくない、といふことを侍従長と内大臣に言つておいてくれ」といふ公爵の伝言とを、木戸から取次いでもらふやうに頼んだ。同時に、「御裁可なしに軍隊を動かしたことについて、陸軍大臣或は参謀総長が上奏した時に、陛下はこれをお許しになることは断じてならん。また黙つておいでになることもいかん。一度考へておく、と保留しておかれて、後に何等かの処置をすることが必要だから、この点の注意もしておけ」といふ公爵のお言葉だつたので、これも木戸に話しておいた。

閣議の事件処理方針――朝鮮軍司令官の独断出兵――宋子文の共同調査提案とその撤回――首外蔵陸四相会談――国際聯盟竝に米国よりの警告――聯盟への回答遅延事情――宣統帝復辟運動

 九月二十二日の朝、自分は帰京した。同日、若槻総理は参内して、陛下に対し閣議の模様を上奏した。その内容は、危険防止以外の行為、即ち軍政を布くこと、税関や銀行を抑へることなどは断然差止めることにしたこと、それから朝鮮軍を満洲に出す件については、満洲の兵が手薄であるからといふ理由の下に陸軍大臣から発議し、関東軍司令官の参謀総長に対する要求を参謀総長からまた陸軍大臣に通告し、且さういふ希望を述べたが、国際職盟の問題にもなり、また満洲軍引揚の場合にも面倒を起すだらうからといふので,閣議はこれを容れなかつたことなどであり、その上総理は「吉林,長春にまで出兵したことについても陸軍大臣に対して難詰致しました。さうして外務大臣はこの際占拠を解いて外交談判に移すことを主張し、陸軍大臣は占拠のまゝ談判すべしといふことをそれぞれ主張致しました」といふ風なことを申上げて引下つた、といふことであつた。

 その後,陸軍大臣は朝鮮軍出兵について再び総長と議を練つて、二十二日の閣議に出すことに決したが、陸軍大臣は「朝鮮軍司令官が事態急を要すると見て、既に一個旅団を出してしまつた」といふことを総理に言つて来た。なほ参謀総長は同日参内して、奉勅命令はこれを願はず、たゞ独断専行を朝鮮軍司令官がしたことについてお話を申上げて、非常に恐懼して帰つた。

 陸軍大臣は、どうしても朝鮮軍出兵を閣議にかけて認めさせようと焦慮してゐた。夜になつて次官が総理の所に来て、

「とにかく、内閣総理大臣から陛下に対して、『朝鮮軍司令官が独断専行を以て一個旅団を出しました旨を、参謀総長から申して参りました。明日閣議を以て決した上、申上げます』といふことを今晩中に陛下に申上げてくれ。」

とのことであつたが、総理はこれを断つた。

 で、翌朝、即ち二十三日の午前九時半に、陛下は若槻総理をお召しになり、

「事態を拡大せぬといふ政府の決定した方針は、自分も至極妥当と思ふから、その趣旨を徹底するやうに努力せよ。」

といふお言葉があつた。総理が陛下の御前を退つて来ると、参謀総長が控室に待つてゐた。これは極秘に総長が総理に会ひに来たのであつた。で、総理はいきなり参謀総長に向つて、唯今陛下からかうかうのお言葉があつた、といふことを言つたところ、参謀総長もしきりに「朝鮮軍司令官の独断専行について貴下から上奏してくれ。閣議の決定を経なければ御裁可を仰げないから、どうしても閣議の決定を経たといふ形をとつてもらひたい」とのことだつたが、総理はこれを断つてそのまゝ官邸に帰つて来た。

 さうしてその日の閣議では、結局兵は出してしまつたのだから、政府は経費はこれを支弁する――大蔵大臣も正式に閣議決定事項として出兵を認めたわけではないけれども、既に出来てしまつたことだから、この際何等異議を述べず、経費は政府が支弁する――と決したのであつたが、参謀総長の言つた通りのことをどうしても陛下に上奏してくれ、といふので、総理は已むなくその晩その通りの話を陛下に申上げた。その後に陸軍大臣と参謀総長が出て、とうとう独断専行の出兵も事後の御裁可を仰いだ、といふことになつた。

 その日の閣議で、

「事態を拡大しないといふ政府の決定した方針は至極妥当と思ふから、その趣旨を徹底するやうに努力せよ。」

といふ陛下のお言葉を閣僚達に伝へた。外務大臣もそのつもりで、「日支共同調査委員を出してやらうぢやないか」との宋子文からの提案に対して、その申出通り日本も協力して行くことに態度を決定しようとした時に、更に宋子文から電報が来て、「事態を拡大されないことと思つてゐたが、全然結果は違つたことになつて来たから、委員会設置は中止しよう」と言つて来た。また支那側では、「軍部を統制することのできない政府と交渉することは、まつびらである」といふことを言つてゐるさうだ。

 それで前日の午後、外務大臣の所に新任支那公使が挨拶に来て、

「今日のかくの如き事態は永年の空気の悪いことが原因で、実は日支の間は親善でなければならんのに、或は日本は帝国主義だとか、種々悪宣伝をするので、平素からの不満が今日の原因をなしたのであるから、なんとかしてこれを調停して行きたいものである。即ち興奮する原因を除去して、両国間の空気をよくしたい。」

と言つてゐた。宋子文からの日支共同調査委員の話も支那公使にしたところ、公使も全然同感だ、と言つてゐたのに、更に二度目の電報で拒絶して来たわけだつた。

 かうなつては政府も手のつけやうがなく、たゞ条約範囲外には兵を出さぬ、既に出してしまつたものはこれを引揚げる、といふことに努力して、暫く様子を静観して行くよりしやうがない。

 一方、陸軍はかねての計画通り、或は満鉄の鉄道管理のために兵をよこせ、といふやうなことを言つて来るし、或は若い参謀達は、軍司令官など無視してゐるかのやうに勝手なことをしようとして、ハルピンにまで兵を出すつもりであつたらしい。

 さういふ情報が満鉄から入つたので、総理大臣は、ハルピンに兵を出すやうなことのないやうに、陸軍大臣、外務大臣、大蔵大臣を官邸に招致した。さうしてさういふ訓令は前以て出してある筈だが、ー体出してあるのかないのかといふ点を確かめるために、二宮中将を呼んできいたところが、電報は既に出してゐるといふ。しかしたゞ訓令が出てゐる、といふことだけでは覚束ないので、既にハルピンに出兵したかどうかを、すぐ電報で確かめさせた。で、「吉林の兵も引戻す。朝鮮から出した兵の費用は已むを得ないから支弁し、まあ議会は召集しないでも大体済むだらう」といふことであつた。とにかく、その会合では外務大臣も陸軍大臣も大蔵大臣もすベて意見が一致して、陸軍大臣はこれからは全く独断行為はしない、といふ約束をして別れた。

 それから自分は、岡田大将に久しく会はないから、二十三日に訪ねたところ、大将は

「どうも今度の陸軍の計画には、枢密院の平沼あたりがよほど働いてゐるやうだ。陸軍は予想以上にやり過ぎた。この際参謀総長の更迭といふことも非常に必要であり、またこれは、事件さへ片付けばわけなくできることと思ふ。」

と言つてゐた。

 二十四日に国際聯盟からも、アメリカからも警告があつた。さうして、アメリカのスティムソン(Henry L. Stimson)は出淵大使に、

「元来自分は幣原外務大臣の人格とその今日までの方針については、実に敬意を払ひ信頼を置いてゐる。また若槻総理ともロンドンで会ひ、その人格及び手腕についても、自分は少からず敬意と信頼とをもつてゐる。それで、この内閣の出来た時に、この総理の下に幣原外務大臣のある間、日本は世界の平和のために大いに努力される、といふ期待をもつてゐた。しかるに、今日のかくの如き事件は、恐らく政府も非常にお困りであらうと思ふ。ぜひなんとかして早く事態が元に復るやうにしたい。実は、或る国から満洲に武官を派遣して調査したい、といふ話もあつたが、アメリカはこの提議を拒絶した。」

といふことまで話してゐた、といふ報告がアメリカから来た。

 外務省では、その晩すぐ国際聯盟に対する回答を起草して、二十五日にこれを発表した。

 そこで、二十五日の午前に総理大臣は参内して、聯盟に対する回答が今日まで遅れた事情を申上げ、「詳細については外務大臣が後刻出ます」と申上げて引下つた。その時に、陛下は総理に対して、「もう鄭家屯の兵は引揚げたか」とか、「吉林はどうした」とか御下問があり、また今日閣議が決定して実行しようとすることについて諒とせられた、といふ話であつた。その時総理は

「今日まで国際聯盟への回答が遅れたのは、軍部において、閣議決定し陸軍大臣も承知して、兵を引揚げるといふことを約束しても、なほ引揚げなかつたやうた事実がありますので、もし声明書を出し、聯盟に対する回答も出した後に、それを裏切るやうな事実があつては、国家の面目上容易ならんと思つたために、軍部の様子を見てゐたからであります。」

と申上げたさうだ。

 その後外務大臣が御前に出て、一時間半にわたつて対支問題についてすべて申上げ、聯盟に対寸る回答を御説明申上げたところ、非常に御満足の御様子であつた。たまたま京都から自分が総理と外務大臣に電話をかけたら,いづれも陛下が御満足遊ばされたことについて大変喜んで報告してゐた。

 自分は九月二十六日の朝帰京していきなり外務省に行くと、拓務省から、陸軍はまた土肥原大佐等を主動者として宣統帝復辟運動をやつてゐる、といふ情報が谷亜細亜局長の許に来てゐて、非常に困つてゐる様子であつた。さうして、自分に参謀総長の所に行つてよく話してくれないか、といふことであつた、かねて参謀総長から公爵に伝言の依頼をうけた後の報告もしてゐなかつたので、かたがたすぐ出かけて打つて、公爵にお伝へしたことも報告し、同時に、

「公爵が、『陛下の幕僚長である閣下が、日本政府が中外に声明した後に、軍隊の統制に関しその声明を裏切るやうなことを、満洲においてさせるやうなことはないだらうな』と言つて、その点を心配して自分に話してをられた。」

といふことを話し、また「復辟運動云々の情報があるが、断じてさういふことはないと思ふけれども御注意願ひたい」と言つて帰つて来た。

満洲現地の状況――関東軍参謀と建川少将の行動――陸軍の上海封鎖計画――間島事件の内情――公正会の時局座談会――白鳥の意見

 その後拓務省には、「宣統帝を擁立しようとする復辟運動には、大本教の出口王仁三郎なんかも働いてゐるし、また土肥原大佐も力を添へてゐる」といふやうな報告が来てゐる。その他また、共和政体がいゝと言つて、共和党の組織を企てようとしてゐる連中もある、との噂もある。で、軍人は勿論、日本人が、かくの如く支那の内政にまで立入つて、かれこれするのは頗る面白くないので、陸軍大臣もひそかに憲兵を派して取締るやうにした。

 元来現地から、「警視庁が東京方面における暴力団の検挙に努めると、その手を逃れた連中が満洲に渡つて、極めて乱暴なことを働く結果になる」といふ報告が来てゐるので、政府も少からず心配して「なんとかならないものか」と言つてゐた。

 それから、奉天に使ひに行つた外務省の平島亜細亜局第一課長が帰つて来てからの話をきくと、守島が奉天に着いて第一に林総領事に会つて、「内閣ではこの事件を拡大しないやうに、といふことでありますから、万事そのつもりで願ひたい」と話したところ、総領事は「それは君、とてももう駄目だよ」と言つて、事件はますます拡大に赴くばかりの情勢にあることを語つた。それによると、総領事の身辺すら頓る危険で、――即ち陸軍の出先の連中は非常に総領事を邪魔にして、時にはその生命をも奪はうとした形跡さへあつたさうだ。

 なほ守島氏の話によると、関東軍司令官の如きも、全く座敷牢にでも入れられたやうな形であつて、参謀の石原、花谷、板垣の三人が活躍の中心を占め、参謀長の三宅の如きは到底部下を統率する力がないので、前記三名の思ふがまゝにやらしてあつたのである。彼等は酒を飲めば必ず、

「この計画は前からちやんと企ててあつたので、既に七月二十五日には奉天に砲列を布いておいた。我我はこの計画に成功したのだから、次には内地に帰つたらクーデターをやつて、政党政治をぶつ毀して、天皇を中心とする所謂国家社会主義の国を建て、資本家三井、三菱の如きをぶつ倒して、富の平等の分配を行はう。必ずやつてみせる。」

と言つてゐるので、満洲における知識階級の人々は彼等の行動を頗る注意してゐるやうである。

 さういふ風であるから、内地から――或は大臣なり、或は参謀総長なりから――訓令が行つても、到底その訓令通り従ふといふことはあり得ない。たゞ彼等の思ふまゝに振舞つてゐる。それで、前にも述べた如く、建川少将に関東軍司令官宛の親展書を持たしてやつた時などでも、陸軍大臣としては、出先の僭越な行為を抑へさせる意向であつたらしいけれども、事実はこれに反して、彼等を更に煽動しにやつた結果ともなつた形跡がある。

 建川少将が奉天に着く前に、そのことを知つてひそかに迎へに行つた者が、「貴下は建川閣下でせう」と言つて挨拶しかけると、建川は「そんな者は知らん。俺は建川ぢやない」としらをきつて逃げて歩いた。ところが奉天の「大和ホテル」で偶然伍堂満鉄理事に会つたため、とうとう隠しきれないで、建川の奉天来着の事実を公表せざるを得なくなつたのだ。

 また、たまたまパリから帰朝の途上にあつた自分の知人のある台湾人が、東京に帰る建川と同車したところ、建川は「奉天に一発日本の大砲を打てば、支那人は蜘蛛の子を散らすやうにばらぱら、逃げてしまふ。実に痛快だ」と言つて、しきりに戦争の話ばかりしてゐた、といふことも耳にした。

 その後、二十九日に政友会の森と外務省の白鳥と三人で「桑名」で食事をしてゐると、総理から電話で、「すぐ来てくれ」とのことであつたから、早速自分は総理の官邸に行つた。総理は

「これは公爵限りにお話を願ひたい。自分は非常に憂慮してゐる。今日午後参謀総長が来ていろいろ話をして、『まづ第一に、政府の訓令通りに出先が動かないのは、一つは通信機関の不便な関係及びその出先の事情によるのである。いかにも政府と軍部と仲が悪いやうに聞えるが、決してさういふ気持はないのである。それから陸軍軍人が満洲で復辟運動に関係してゐるといふのは、全然嘘である。さういふことはさせない』と言つてゐた。それで、『軍人ばかりでなく、軍属以外の者も、当然さういふことに関係することはよくない』と言つてゐる内に,参謀総長が、『今度はどうか前の統帥権問題のやうなものを起したくない』と言ふから、統帥権問題といふのは来年のジェネヴァの会議の時の話をするのかと思つて、自分がその話をしかけると、『いや、さうぢやない。或は長江沿岸に兵を出すかもしれないが、その時に政府の掣肘を受けないやうにしてもらひたい』と言ふので、自分は肚の中で非常に危険に思つた。といふのは、かねて陸軍部内に上海封鎖の計画があることを自分は知つてゐるから、これはその計画を邪魔されないやうにかう言ふのだと思つて、非常に心配になつたわけだ。そこで、自分は参謀総長に向つて一時間半にわたつて、今日の国際状況、日本の財政状態、すべてにわたつて憂慮すベき貼を説いて、『日本は今日戦争すべき場合でない。閣下も無論帷幄の幕僚長として御心配も多からうが、自分も今日内政外交ともに難局に当つて、頗る憂慮に堪へないことばかりである。どうか閣下の自重を願ふ』と言つて、参謀総長とは別れた。しかし、そんな情勢であつてみれば、何時参謀総長がぢかに陛下の御前に出て上奏をしないとも限らん。実に危険極まることであるから、この点をよく注意して戴きたい。」

といふ話をされた。なほ、「これは絶対に秘しておいて,公爵限りにお話してくれ」と重ねて念を押してゐた。

 それから自分は一且「桑名」に帰つて、再び森やら白鳥と話をして、深夜、木戸内大臣秘書官長を訪ねて先刻の総理の話をして、「侍従長に『かういふ事実があるから気をつけないといかん』といふことを言つておいてくれ」と頼んだところ、木戸は「とにかく明朝内大臣に一度その話をしておかう」と引受けたので、帰つて来た。

 翌日、ちやうどその晩自分が京都に発つことに決まつてゐたところ、十一時頃御所から電話がかゝつて、「すぐ来てくれ」といふことであつたから、出ると、内大臣、侍従長、宮内大臣の三人が待つてをり、木戸も同席して、その事情をすつかり話した結果、漸く内大臣も判つたやうだつた。

 その時内大臣達の肚の中に,なんでも困つたことが起ると総理は側近に頼んで来る、と思はれたらしい節が見えたから、自分は「これは総理に依頼された話ではない。『元老だけに話してくれ』といふのであつたけれども、しかし事柄は直接陛下にかゝるから、側近の注意が必要だと思つて、自分一個の考でお話するのである」といふことをくれぐれも諒解してもらつて帰つた。その時宮内大臣は

「きくところによれば、平沼枢密院副議長を二宮参謀次長が訪ねた時に、平沼は『今日満洲に日本が兵を出してもアメリカが来るでなし、ロシアが来る危険もないとすれば、なぜ陸軍はもつと進んで支那を撃たんのか』といふことを勧めたさうだ。」

と言つてをられた。

 自分は帰つてから再び他の用で総理に会つたところ、

「閣議で陸軍大臣がしきりに『間島に出兵したい』と言ふので、自分は『そんなことは絶対にならん。危険ならば日本人を引揚げさせればいゝ』といふことを言つたが、陸軍大臣は『しかしもし万一日本人居留民の生命財産に危害を加へられた場合には、閣下が責任を負ひますか」と言ふので、自分は『それは巳むを得ない』と答へた。その後間島に爆破事件があり、傷害事件があつて、その爆弾を投げた朝鮮人を捕へて取調べたところ、『日本の軍人に頼まれてやつたのだ』といふことを自白したさうだ。事情かくの如きであるから、実に危険千万で堪らない。」

と総理は言つてゐた。

 それから自分は「三時に貴族院の公正会で時局の座談会をやるから来てくれ」と言はれてゐたので、それへ出席したところが、「何か最近の時局について突込んだ話をしてくれ」といふ岩倉男爵の希望であつたから、自分は次のやうなことを話した。

「職務上秘すべきことは具体的に言ふことはできないが、しかし重大なことであるから、一つ抽象的に今度の満洲事件について話をしよう。単に外政的な問題だと思ふと、非常な間違であつて、実は陸軍のクーデターの序幕だと言つても宜しかろう。今年三月二十日、議会を襲撃しようとして事前に鎮圧された陸軍の或る一部の者達の計画が満洲に飛火して、そこで爆発したとも見られる。さうして政府は徹頭徹尾、陸軍になめられてしまつた。一部の軍人に、満洲で成功したから必ずまた内地でもうまく行く、との確信を固めさせたことが頗る危険なのである。これが遠因を求めれば、軍閥排斥の声が純真な当時の青年士官に非常な刺戟を与へ、且また軍縮といふやうなことも、平生国際事情に無理解である彼等からすれば、軍人に対するたゞやたらな圧迫とか、排斥とかのやうに聞えたに違ひなく、こゝに怨恨が根ざしてゐる。近因としては、軍部の功績によつて、即ち陸海軍の非常な犠牲によつて、満洲における条約上の権益を獲得したにも拘はらず、むざむざそれが侵害されてゐるかの如く伝へられ、それを盲信してゐる点にあるだらう。即ち彼等をして言はしむれば、明治天皇の洪謨と我等軍人の翼賛とによつて、満蒙の地に獲得した帝国の権益を、幣原外交の如き弱腰のやり方のために、みすみす侵害されて行くのは頗る不満に堪へない、とかういふ風に言ふ。また参謀本部伝来の一種病的な策動が合流して、将に何かしたい、なんとかしなければ、といふ気運が満ちてゐた折も折、政府が官吏の減俸を断行したといふ事実が軍人に非常た刺戟を与へて、所謂政党政治家なる連中は、或は茶屋酒に浸り、或は賄賂を取り、権謀術数を恣にして政治を漬し、議会の状態等でも到底見るに堪へない醜態を演じながら、我々軍人が政治に干与することのできないのを幸ひに、我々の生活を脅威する如き権謀を行つて、しかも強い資本家階級に対しては資本利子税も取らなければ収益税も増さず、何等の負担をも加へずして、弱い我々薄給の官吏達を虐めぬく、とこんな風に言っているのだ。とにかく、これらの考へ方が軍人の策動なり陰謀を促進してゐること争はれない事実である。さうして謂はばその陰謀の中心勢力ともいうべきものは、昭和二年に出来上つた『桜会』といふ秘密結社である。」

 その席上では、桜会の秘密までは話さなかつたけれども、大体以上のことを話して、注意を促して帰つて来た。

 自分は九月二十九日の九時に京都に行って、公爵に今までの状況をお話したところ、公爵も軍部のことについては頗る御憂慮の様子で、

「なんとか考へようぢやあないか。」

と言つておられた。

 三四日前、白烏や陸軍の鈴木中佐と会食した時に、鈴木中佐は白鳥と頗る共鳴する点あつたとみえて、その後一晩ゆつくり二人で話し合つたさうだ。

 一日に帰京して外務省で白鳥に会つたところ、

「だんだん鈴木と話してみると、彼等もやはり非常な決心でやつてゐる。彼等の言ふところにも多分に共鳴する点はあるけれども、彼等軍人のみにやらしておいてはどこに持つて行くか判らない。それで、自分達も中に入つてもう少し突込んで事情を知つてみようと思ふ。貴様も一緒にやつてみないか。」

と言ふから、「無論一緒になつて様子を見ようぢやないか」といふことで別れた。話の様子によると、十二月の議会中にはなんとかしなければ済まない、といふ気分が彼等の中に漲つてゐるやうに思はれた。

 事情頗る急を要するので、自分は一日の午後四時から木戸と近衛に家に来てもらひ、白烏をも加へて、ひそかに対策を練り、いろいろ相談した。その結果、「とにかく各方面の様子を持ち寄つて、絶えず連輅をとつておかうぢやないか」といふことで別れた。

[後略]